Angel Sugar

「暴力だって愛のうち」 第2章

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「俺マジだぜ……」
「マジって……いい加減にしろ!」
 祐馬の背中を思いっきり戸浪は叩いた。先程から叩いているので祐馬の背は真っ赤だ。
「いてえっ!戸浪ちゃんさっきから叩きすぎだよ!」
「貴様が訳の分からないことを言うからだ!どうしてそう右手にこだわるんだ!」
「その理由言ったらちゃんとやってくれる?」
「事と次第によるな」
 またくだらないことでも言ってみろ!平手では済まさないぞと戸浪は思いながらそう言った。 
「……笑うなよ」
「笑うような事なのか?」
「……俺初めて……その、こういうこと覚えたときの話なんだけどさ……」
 がりがりと頭をかいて祐馬は言った。言いにくそうだ。
「それで?」
「俺んち千葉なんだけど、裏が林になっててさ、そんで家の中でそう言うことすると、俺んち姉貴いるしさ、何となく家の中で出来なくて……そいで、その林でやろうって裏に回ったんだけど」
「で?」
「……別にそんとき、たまたま右手でエロ写真持って……その……左手で俺の息子を持ってだな~いそいそやろうとしたんだよ」
「なんだ、出来るんじゃないか」
 戸浪は呆れた風にそう言った。
「だからっ……最後まで聞けよ」
 苛々と祐馬は言った。
「分かった。分かった。それで?」
「……それでよ、こ~左手で扱いたは良いんだけど……その……」
「その何だ?」
「そこ林だったんだ……」
「だから?」
「夏だったんだ」
「ああもう、だから何なんだ!」
「カエル……」
「カエル?」
「カエルが跳んできて俺のアレに噛みついたんだよ!それも……む……剥けた先っぽに、パクって!そりゃカエルは小さかったけど……でもっ!」
 と、そこまで祐馬が言ったところで戸浪は、ぶはっと吹き出してしまった。
「わはははははっ……はっ……ははははははは」
 戸浪はそのときの姿を想像してお腹がよじれるくらい可笑しかった。
「わ、笑うなっていったじゃんかよ!」
 逆に祐馬は怒っていた。が、そんな話を聞かされて笑うなというほうが、無理な話であった。
「か……カエルがそいつに噛みついたか……ははっ……いや、駄目だ……笑いが止まらない。カエル……ははははっ」
 バスの壁に手を置いて戸浪は笑い続けた。
「がーーーーっ!もういいよっ!出てけよ!畜生!笑うなんて失礼だろうが!」
 祐馬は茹で蛸のように真っ赤な顔をして戸浪をグイグイと外に押しやった。
「すっ……済まない……悪いとは思うんだが……ははははははっ……」
 本当に悪いと思うのだが、可笑しくて仕方ないのだ。
「もういい!戸浪ちゃんってさいってー!」
 そう言ってバスから追いだされた。
「……何だ……もう良いのか……」
 ある意味、妙なことを言い出した祐馬から上手く逃げられたのだ。
 それにしても……カエルとは…
 ぷっ……
 戸浪は風呂場から外に出てからも笑いが止まらなかった。
 まあ、確かにそんなことがあったら、トラウマになるだろうな。とも思った。
「っんだよ。まだ笑ってやがるのか?」
 不機嫌を顔に描いた祐馬が素っ裸で出てきた。
「……いや……悪かった……」
 言いつつ戸浪の視線は下に降りる。
「悪いって顔してねえじゃんか!くっそ~!むかつく!」
「萎んだじゃないか。良かったな」
「みんな!」
 祐馬はそう言ってタオルを掴むと腰に巻き付けた。
 ぶすったれた顔で祐馬はそう言ってどかどかとバス室を出ていった。
「全く……ガキめ……」
 戸浪はそう呟くと本日の洗濯物を片づけることにした。
 
 全部の家事を終えて、戸浪もパジャマを着ると寝室へ向かった。祐馬の方はさっさと布団に潜り込んでいた。ベットに設置された小さな明かりだけが、ぼんやりと付いている。戸浪も眼鏡を外し、それを脇机に置くと目と目の間を暫く揉んで、布団に潜り込んだ。
「電気消すぞ」
 戸浪は一応そう言って断ったが、祐馬からの返事が無いので眠ったのだろう。もう何も言わずに戸浪は手を伸ばして電気を消した。
 正直言って、ここのベットは快適だった。柔らかいフカフカの羽布団は、気持ち良かった。それに今日は妙に気分が良かった。多分久しぶりに笑ったからだろう。
 随分笑った覚えが無かった。思い出す限り最近笑った記憶が無い。
 ちらりと向こうの端で眠っている祐馬の方を見る。
 この男といるとどうも調子が狂うのだ。クールであろうとするのに、どうも感情がの制御が上手くいかない。
 何となく理由は分かっている。祐馬が子供じみた感情をむき出しに、こちらにぶつけてくるからだ。その上、年下と言うことで、どうも弟のように思ってしまうのだろう。だから弟に対する様に接してしまうのだ。
 それにしても……カエルの話は思い出すと思わず笑みが口元に浮かぶ。確かに当事者にとっては笑い事では無いだろう。
 又思いだしてクスクスと笑っているといきなり先程消した電気が灯された。
「なんだよっ!戸浪ちゃんしつけーんだよ!」
「なんだ、寝たんじゃなかったのか?」
 むくっと起きあがって祐馬の方を見ると、上半身を起こしてあぐらをかいていた。
「寝れる訳ねえだろっ!俺すっげー恥ずかしい思いして白状したのによ!まだ笑ってやがるんだからな!いい加減にしろよ!」
「……うん。まあ……悪かったよ。で、痛かったのか?」
 多分そう言った自分の顔も笑っているのだと戸浪は思った。
「……う~っ」
「何を唸っているんだ」
 祐馬はこちらを見て初めて会った日のように犬歯をむき出しにして唸っている。
「……眼鏡外した顔初めて見た」
「寝てるときも眼鏡外さない奴がいたら見てみたいものだ」
 戸浪は前髪を掻き上げて言った。
「そんなに目が悪いのか?戸浪ちゃん……」
 実は伊達なのだが言う必要など無いだろう。
「少しな……」
 そう戸浪が言うと暫くお互い言葉がとぎれた。
「おい、もう寝るぞ」
 布団にもう一度潜り込もうとすると祐馬が戸浪の腕を掴んだ。
「なあ……戸浪ちゃん……」
「何だ?痛いぞ」
 心なしか祐馬の目がすわっている。
「うわああああっ!戸浪ちゃん!すきだあああああっ!」
 ガバッといきなりのし掛かられて戸浪は驚いた。
「ゲッ!」  
 ドカッ!
 思いっきり蹴り上げた祐馬の身体はベットから転げ落ち、更に転がって壁にぶつかった。その上、壁にぶつかった反動でまたこちらへ戻ってきた。
「……ううう……」
「お前がくだらないことをするからだぞ。全く冗談にも程がある。おい、生きてるか?」
 蹲った祐馬の背中をポンポンと叩いた。
「……いてええ……いてえんだよ!」
 と言って、祐馬はガバッと身体を起こした。
「俺は蹴鞠じゃねえぞ!」
 蹴り上げた腹の部分をさすって祐馬はそう叫んだ。
「貴様が訳の分からん事を言うからだ」
「真剣だったらいいのか?」
 からかう風も無し、先程見た真剣な祐馬の目だった。
「いい加減にしろ!」
「好きなんだよおおおおっ」
 今度は左手でこちらの胸ぐらを掴んで、そう祐馬は言った。その激しさにパジャマのボタンが幾つか弾けとんだ。
「っ……お前酒でも飲んだのか?それとも妙な薬でもやったのか?」
 これ以上蹴ることも出来ずに戸浪は祐馬の頬を両手で掴んで引っ張った。
「……」
 急に祐馬は手を止めてこちら……いや、どちらかというと視線は下の方だったが……をじっと見つめた。
 次の瞬間祐馬は鼻血を吹き出した。
「わっ……な、何だ!それほどさっき強くぶつかったのか?」
 いや、蹴り上げすぎたのだ。
「……か……格好……わりい……」
 こちらを掴んでいた手を離して、祐馬は鼻を押さえるのだが、その手の隙間からボタボタと血が床に落ちた。
 戸浪は慌ててティッシュを持ってきてその鼻にあてがってやった。すると情けない顔の祐馬が何故か恨めしそうな顔をこちらに向けた。
「面白い顔になったな……」
 笑いを堪えてそう言うと、祐馬はキッとこちらを睨んで言った。
「だってな……」
「だって何だ?」
「戸浪ちゃんの……乳首美味そうだったんだもんな……」
 言うに事欠いて、男の乳首を見てこの男は興奮したとのたまうのだ。戸浪はさっとはだけたパジャマを整え、か~っと頭に血が昇った勢いで叫んだ。
「こんの~色ぼけがあっ!」
 バキッと祐馬の頭を殴って、首根っこを捕まえると廊下に引きずり出した。次に寝室の扉に鍵をかけ、戸浪はそのままベットに戻ると布団に潜った。外に放り出された祐馬は扉をドンドンと叩いて叫んでいたが、完全にそれを無視し、そのまま睡魔に身を任せた。



 朝目が覚めると戸浪は、まだぼんやりしていた。カーテンから漏れる光から身を避けるように、少し身体を移動させた。
「……何時だ……」
 視線を巡らせて時計を確認すると七時を過ぎていた。
「まずい!寝過ごした」
 ガバッと身体を起こして戸浪がベットから離れると慌てて寝室から出ようとしたが、扉が開かないのだ。どうも扉の向こうに何かつっかえるものがあるのだ。
 あのガキ!今度は私を外に出さないつもりだな!
 戸浪は猫足のポーズを取ると、息を吸い吐き出して、次に思いっきり扉に蹴りを入れた。
「ぎゃーーーーーっ!」
 扉は開いたのだが、同時に祐馬の叫び声が上がった。
 外に出てみると、空いた扉に押される形で祐馬が壁に挟まれている。
「なんちゅう荒っぽい起こし方すんだよ!」
 朝っぱらから五月蠅い男だ。
「出られなかったからな……あ……あーーーー!」
 祐馬は怒りながらも手に持っている物を離そうとしなかった。
「それは私のスーツだろうが!何て事してくれるんだっ!」
 祐馬の手の中で皺だらけになったスーツは戸浪が昨日、今日着るためにきちんとプレスしてハンガーに掛けたものだった。 
「戸浪ちゃんから追いだされて寒かったんだもんな」
 へへへと言って人のスーツに頬ずりをする。
「ええい!返せ!貴様っ!いい加減にしろ!」
 スーツの端を持って引っ張るのだが、祐馬はまるで猫がじゃれるようにそのスーツにしがみついたまま離さない。廊下を行ったり来たり引きずりながらようやく祐馬はその端を手放した。
 ゼーゼーと息を切らせている戸浪に祐馬はあっけらかんと言った。
「朝ご飯は?」
「抜きに決まってるだろうがあ!」
 戸浪は一ヶ月残業が続いたような疲れを朝からドッとその身に感じていた。

 会社に着いてからも戸浪は気分が悪かった。仕事ははかどらず、問題ばかりが山積みになってくる。
 はあ……
 図面を横にやり眼鏡をずらして目薬を注す。それでも目の乾きが治まらなかった。
「よう、どんなもんだ?」
 営業の川田がそう言ってやってきた。
「ああ、あの件ね。昼から会議だよ」
「なあ、お前無茶苦茶疲れてないか?いや、違うな。くたびれてる。金額下げるのそんな難しいか?」
 くたびれてるのはスーツなのだ。祐馬が一晩握りしめてくれたお陰で、せっかっくのプレスも無駄になった。朝からアイロンで応急処置的に伸ばしたのだが完全には皺は取れなかった。
「金の件は昼からの会議でどれだけ下請けが無理を聞いてくれるかどうかだよ。私がくたびれて見えるのはスーツの所為だ」
 ムカムカとそう戸浪が言うと川田が笑った。
「珍しいな。お前がこう、きちっとしていないなんてな」
「たまには……それより金を下げるより、同業同士の折衝で何とかならないのか?」
 戸浪がそう言うと川田が困ったような顔をした。
「他は今の金額でも圧勝なんだけどな。東都建設がごねてるんだよ」
「ちょっとまて、どうしてうちと同格の大手が順番を守らないんだ?」
「ほら、うちの新人がついこの間、入札の時にミスしただろ?ほら、こないだ入った櫻川だよ。あいつ寝坊かましやがって……ってまあうちが取る物件じゃ無かったから良かったんだけど、そんときのこと引き合いに出してきたんだよ。あれをちゃらにするからってな。向こうの営業部長が無茶苦茶強引でさ。うちの部長も困ってるんだよ。で、結局金額のたたき合いになってるんだ」
 はあ~と川田はこちらにも聞こえるほどの大きさの溜息をついて言った。
「……おい、それは営業で仕切って貰わないとうちじゃどうにもならないぞ」
「だ~か~ら~今回は正当に金額で張り合おうっていうんだよ」
 ちっちっと指を左右に振って川田はニッコリ笑った。
 どうしてこう自分の周りにはこうお気楽な人間ばかりいるんだと戸浪はげんなりした。
「でもよ。むかつくのがあっちの担当の営業マンだ。確かに担当は営業部長なんだけど、一緒にくっついてるルーキーがまったむかつく奴でさ。偉いさんの息子だかなんだか知らないけど……」
 と、放っておけばだらだらと話しそうなので戸浪はそれを止めた。
「もういい。頭が痛いことばかり言わないでくれ」
 ただでさえ機関銃男に毎日つき合わされているのだ。会社でもそう言うタイプにつき合わされると、冗談抜きに病気になってしまう。
「あっと、俺もそろそろ行かなきゃな。じゃ……」
 ようやく川田がそう言って去っていった。
 ホッとするのもつかの間、ばさりと自分の机に書類が置かれた。
「澤村君。これも頼むよ」
 それだけ言って佐野部長は自分の席へ戻った。
 仕事に埋もれて私は何て幸せなんだ……と戸浪は自嘲気味に呟いて、新しい仕事に目を通し始めた。

 結局仕事が終わらずに仕方無しに戸浪は祐馬の家に持ち帰ることにした。帰りに肉や野菜を少し買い込んで、気疲れてして帰ると、キッチンに祐馬が手足を伸ばして倒れていた。
「うわっ……何だ!今度は一体何なんだ!」
 慌てて持ってい書類や買い物してきた袋をキッチンテーブルに置き、戸浪は祐馬を抱き起こした。
「お腹……空いた……」
 眠そうな顔で祐馬はそう言った。
「はあ?」
「お腹空いちゃったよ……戸浪ちゃん……。俺、今日一日なんも食ってねえ……」
 言って擦り寄ってくる祐馬の頭を戸浪は殴りつけた。
「擦り寄るな!」
「もう~なんで、こんなに暴力ばっかふるうんだよ~」
 頭を殴りけたにもかかわらず、そんなものはお構いなしと言う風に祐馬は戸浪の背に腕を廻してくる。
「ええい!ひっつくな!」
 グイグイと頭を押しやるのだが、ひっつき虫のようにくっついて離れない。
「……腹減ったよ~」
 祐馬はお腹を鳴らせてそう言う。
「何か作ってやるから離せっ!」
 そう言うとようやく祐馬はこちらに廻す腕を解いた。
「……戸浪ちゃんって何でこんなに仕事熱心なんだよ。ったく。さっさと帰って来いよな。俺、もう死にそう……」
「では腕をよりにかけて作ってやるから、死んでみるか?」 
 まな板の上に買ってきた肉と野菜を置いてそう言った。
「うええ……それは勘弁してくれよ」
 本当に嫌そうに祐馬が言うので、よっぽど最初作ったシチューが不味かったのだろう。だが、ここまで来るともう腹も立たない。
「それにしても、昼も食ってないのか?良くそれで我慢できたものだな」
「俺だって忙しいんだよな。そりゃ新人だけどさ。早く帰ろうと思って昼休みも削って仕事してんだもんなあ。なのに、いつ帰って来ても戸浪ちゃんの方が後なんだから……。お帰り~って笑ってくれる戸浪ちゃんを今日か今日かと待ってるのに、結局俺が一番先なんだ~」
 チェッと口を鳴らして不服そうにそう言った。
「お前より嬉しいことに仕事があるんだ。全く……何が笑顔でお帰りなさいだ……」
 馬鹿馬鹿しいと思いながらも、どうも自分がこの状況を楽しんでいる様な気がした。確かに祐馬は五月蠅くて、訳の分からない行動もする。だが心底嫌とは思っていないのだ。
 私も焼きが廻ったか?と戸浪は苦笑した。
「……ふうん。こんな仕事してんだ~」
 パラパラと持ち帰ったこちらの仕事を見ているようだ。
「おい、勝手に見るな」
 包丁を持って振り返ると、祐馬は持っていた書類を落として両手を上げた。
「うわっ!殴られるのは良いけど、それは勘弁な!」
「あのな、こんなもので殴ったらこっちは本当に警察行きだ。いいからその書類をちゃんと袋に戻せ」
「はい……」
 意外に素直に祐馬は、書類を袋に直した。 
「でさ~今日は何作ってくれるんだよ」
 既にキッチンテーブルの椅子に座って足をバタバタさせている。 
「焼き肉だ。これも野菜は切るだけ。後は焼くだけ」
「肉だ~肉だ肉だ~」
 嬉しそうだ。
「ホットプレートは何処にあるんだ?」
 野菜やタマネギを切り終えて戸浪がそう言って振り返ると祐馬は頬杖付いてこちらをじっと見つめていた。
「何だ?」
「いやあ、誰かがキッチンに立って、御飯作ってくれる姿って良いなあと思ってさ」
 えへへと笑って祐馬が言った。
「そう言うのは彼女にでも言うんだな」
 呆れて戸浪は言った。
「俺、そんなのいねえよ」
「誰も今の話などしていない。これからの事だ。だがお前の彼女になった女性は大変だろうな。五月蠅いわ、わがままだわ……」
 皿に切った野菜を並べながら言った。
「けっ……んだよそれ。五月蠅いんじゃなくて話好きなの。普通だと思うぜ。わがままって言うけど、俺別に家事とかしたくなくて、戸浪ちゃんに頼んでる訳じゃねえじゃんか。右手がこんなんだから仕方無しだろ?」
「……それは言うな。もう良いからホットプレートは何処だ?」
 ムッとして戸浪は言った。
「上の棚」
「上の棚ね」
 棚を開けてると、確かにそれらしきものが目に入った。戸浪は手を目一杯伸ばしてそれを掴んだ。
「戸浪ちゃん!」
 え?と思った瞬間にホットプレートが落ちた。うわっと思ったときには遅かった。
 ゴンっという鈍い音の後、祐馬の声が聞こえた。
「いってえ……。戸浪ちゃん大丈夫?」
 いつの間にか自分は祐馬の下になっていた。
「何をしてる?」
「何って……俺、戸浪ちゃんを身体張って助けたの。お礼は?」
「あのな、そう言うのは女の子に言うものだ。ったく、余計なことを……」
「……戸浪ちゃんにはそう言う女の子いるの?」
 こちらを組み伏せたまま祐馬は言った。
「はあ、私のプライベートなどお前に関係ないだろう?さっさとでかい身体をどけてくれないか?腹が減っているんだろう?」
 年下のくせに祐馬はこちらより背が高く、身体も一回り大きい。
「なあ、いるのか?」
 祐馬は真剣で、それでいて何故か請うような瞳だった。
「いたら、毎日こんな所に帰ってこれるか!いいからどけ。まあ、お前が懲りてないのならまた蹴り上げても良いんだがな」
 そう戸浪が言うと、祐馬は飛び退いた。余程、昨日の蹴りが堪えたのだろう。
「こええ……。戸浪ちゃん顔に似合わず、すっげー暴力男だもんな」 
「さすがに昨日のは痛かったと見えるな……」
 ククッと笑って戸浪は身体を起こした。
「痛いってもんじゃ無かったぜ!俺何べん回転したと思ってるんだよ。こっちは樽じゃねえっての!痛いわ目が回るわ壁にはぶつかるわ最低だった!」
 ホットプレートを机に置き、その電源を入れて祐馬は言った。
「まあ、確かに昨日は良く転がっていたな。見物だった」
 油を引いて戸浪は言った。
「……」
「そうだ、言って置くぞ。今度昨日の晩の様なことをやらかしていみろ!二度とここには来ないからな。全く女の代わりにされるのはごめんだからな」
「……別に代わりなんかじゃないのにな」
 ぼそっとそう言った祐馬の言葉を戸浪は聞かない振りをした。
「さあ、肉が焼けるぞ。さっさと食え」
「そうだ、肉だった!肉、肉~」
 急に破顔して祐馬はフォークを左手に持った。
「あ、ビールビール……戸浪ちゃんは飲めるの?」
 フォークを持ったまま祐馬は冷蔵庫を開け、缶ビールを取り出した。
「いや、今日は良い。この後片づけないといけない仕事があるんだ」
「ふうん。じゃ俺だけのもっと。にしてもさ~家にまで仕事持って帰るなよな。仕事なんて人生のほんの一部だぜ。そんなものにプライベートまで引きずられるなよ。夏はサーフィン、冬はスキーとか……他にはそうそう恋人とラブラブするとかさ~」
 ビールを開けて祐馬は言った。
「私にはそんな趣味など無いんでね。毎日無事に過ごせればそれで良いんだ。お前のように色々人生を楽しんでる奴にはそうかもしれんがな……」
 肉を裏返して戸浪は言った。
 別に人生を楽しみたいとか、何かをしたいとか戸浪には無いのだ。平穏無事に過ごすことが出来ればいい。一度だけ期待をしたことがあった。だがそれも遠い昔の事だった。
「なあ、戸浪ちゃん。戸浪ちゃんってなんでそう人生諦めた爺みたいに言うのかな。そんな年じゃねえだろう?それとも昔なんかあった?」
「別に……」
 焼けた肉を自分の皿に入れて戸浪はそう言った。
「なあって、俺で良かったら相談に乗るよ」
「黙れ!思い出させるな!」
 激しい声で戸浪が言うと、祐馬はびっくりしたような顔をした。
「ご、ごめんって。そんなに怒るとは思わなかったんだよ。な、機嫌直してくれよ」
「……勝手に……食ってろ……」
 戸浪はそう言って立ち上がった。気分が悪く食欲など一気に無くなってしまった。元々きっちり食事を摂る方じゃないのだ。食べるという行為もとりあえず死なない程度にしか食べない。それもまるで身体に対する義務のようなものだった。
「戸浪ちゃん……御飯は?」
「もういい。お前だけで食え。私は仕事をする。勝手に食って勝手に寝ろ!」
 持ち帰った書類を掴んで戸浪は言った。 
「戸浪ちゃんって……」
 後ろから呼び止める祐馬の声を無視し、戸浪は書斎らしき部屋へ入ると鍵を閉めた。
 祐馬は追ってこなかった。
 戸浪は持って帰った書類を開いて仕事をし始めた。
 
 戸浪……ずっと一緒にいような……

 優しい男だった。
 だが、あの男が選んだのは戸浪ではなく、自分の将来を選んだ。
 優しい男だったから、こちらを傷つけないように言葉を選んで、事もあろうに最後に「またな」と言った。
 あれから戸浪の心は冷えた鉛のようになった。
 引き留める言葉も、泣き叫ぶこともなかった。別れたくないと駄々をこねることも無かった。失いたくなかったのは確かだ。それでも受け入れるしかなかったのだ。
「くそっ」
 嫌なことを思い出した……。
 伊達眼鏡をし出したのはそれからだ。あの男が戸浪の顔を可愛いと言ったからだ。だから顔の感じが変わるように眼鏡をかけるようになった。
 笑うともっと可愛いと言ったから、笑わなくなった。
 戸浪は頭を左右に振って、今考えたことを振り払った。
 もう遠い昔の事なのだ……と。
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