「暴力だって愛のうち」 最終章
戸浪は今歩いていた道を戻りだした。祐馬に何も言えなかった事が悔しくて堪らなかった。だがその理由も分かっていた。
恐いのだ。何もかも投げ出して祐馬に飛び込むことが恐かったのだ。
昔、つき合っていた相手をまだ好きだと、そう言うことを言うつもりはない。祐馬を代わりになどしたことも無い。ただ、昔、受けた痛みが、今だ癒えずに戸浪の全てに渡ってのし掛かっているのだ。
またあんな別れがあったら、二つ分の痛みを抱えることになるのだ。それは戸浪にとって耐えられない恐怖なのだ。
フッと視線を上げると先程まで祐馬と一緒にいた屋台が見えた。戸浪はこのまま帰ることが出来ずにまたそこへ向かった。
「おじさん。一杯ついでくれないか?」
戸浪は椅子に座ってそう言った。
「あれ、祐馬ちゃんは帰ったのかい?」
「ええ……私はまだ帰る気になれなくて……」
そう言って戸浪は何とか笑みを浮かべた。
「そうかい。じゃあ一杯おごるよ」
おやじは嬉しそうにそう言って戸浪の前に酒の入ったコップを置いた。
「おごる……って」
「いやね、祐馬ちゃん、今日を入れて三連ちゃんでここに来てたんだけどねえ、最初の一日目と昨日はそこに座って泣いてたんだよ。大の大人が子供みたいにねえ……。何度も理由を聞いて、ようやく少しだけ口を開いたんだが、どうも好きな人を傷つけたらしいんだよ。それでもう駄目だって言ってね。大丈夫だ、ちょっとした喧嘩だろ?って言って慰めたんだけど、首を左右に振って全然聞いてくれなくて……。だがまあ、今日はうって代わって機嫌が良くなっていたから、友達に相談に乗って貰って元気になったんだなあってね。澤村さんが話を聞いてくれたんでしょ?それでね、おごり」
泣いていた……祐馬が?
戸浪はそれを聞いて信じられなかった。
「泣いて……いたんですか?」
「情けないだろ、男のくせにねえ。だけどまあ、行くとこ無くて、ここでしか泣けなかったんだろうと思ったら、嬉しいやら可哀相やらでね……」
おやじは複雑そうな顔でそう言った。
「……彼とは長い付き合いですか?」
「四月にふらりと来てからの付き合いかな。良い子だよ彼は……そう思うだろ?」
おやじはまるで自分の子供を自慢するようにそう言った。
「……ええそうですね」
祐馬は本当に良い奴だった。それは戸浪も良く分かっている。
「で、ちょっと会話を聞いてしまったんだけど、祐馬ちゃん会社辞めたのかい?」
「いえ、それは大丈夫だと思います」
「そうか……良かった」
言っておやじは笑った。
「あ、じゃあ祐馬ちゃんの彼女がどんな子が澤村さんは知ってるのかい?」
「……えっ?いえそこまでは……」
「わしはね、あの様子じゃ、どうも相手は年上と見たな。なんか立場的に祐馬ちゃんの方が弱い雰囲気だったからね。だから強気で行けないのかねえ……。何を言ってあの祐馬ちゃんが傷つけて、相手が許してくれないのか分からないんだが……」
おやじは、おでんをかき混ぜてそう言った。
傷つけたのは戸浪だ。祐馬ではなかった。
「でも祐馬ちゃんが選んだ人なんだから、きっとすてきな相手だろう。今きっとむこうも後悔してると思うんだよ。こういう場合年下から何も言えないから、年上の方から謝ってくれるといいんだけど……。まあ、年下の男とつき合うってことは、逆に年上から言えないんだろうけど……。こういう年の差はどっちもそうおもっちまうから、ややこしくなることが多いんだよなあ。でも、このまま好き同士で駄目になるのもなんだかおじさん辛いねえ。わしが知ってる相手なら、ここに座らせて、説教してやるんだが……」
いや、ここに原因になった人間はいるんだが……と、戸浪は思ったが、そんなこと口が裂けても言えやしない。
「そうですね……」
「なにより、祐馬ちゃんの様な良い子、本当、これから先いないと思うよ。勿体ないって言ってやりたいよ。失って気が付いても遅いって分からないのかね……」
本当になあ、と何度も言いながら、おやじはひたすらおでんをかき混ぜている。
そんなこと分かってる。分かっているのだが、動けない。そんな自分が苦しい。
「例えば……もし、三崎さんの彼女が……昔辛い目に合った所為で、その……三崎さんに自分を上手く伝えられないとしたら、どう言ってあげれば良いんでしょうか?」
「……なんだ、あんた祐馬ちゃんの相手知ってるんだ」
「済みません。知ってると言うほどでも無いんですけど……少し……」
うわ、馬鹿なことを聞いてしまったと戸浪は後悔した。
「辛い目にあったか……。そうだな、それじゃあなかなか素直になれんか……。でもな恋愛の辛い思い出っていうのは、結局好きな相手にしか消してもらえないもんだよ。友達でも無理だ。まあ人から言われなくてもきっと相手も分かってると思うがね……」
うんうんと何度も頷いておやじは言った。
「ま、こう言うのは結局他人が何を言っても駄目なんだよ。あんたもこればっかりは犬も食わないっていうことだし、放っておくことだな。ま、祐馬ちゃんがこれで駄目になったらわしがいい女の子を捜してきてやってもいいさ……」
意外に嬉しそうにおやじがそう言った。戸浪は逆に不愉快になった。この男は何も知らないのだから仕方ない。分かっているのだが妙に気分が悪くなったのだ。
「……じゃ、そろそろ……私は……」
戸浪はそう言って立ち上がった。
「また祐馬ちゃんとおいで」
おやじはそう言って笑顔を見せた。戸浪はそれに引きつったような笑顔で応えた。
戸浪は電車に乗ろうと又公園を抜けるために歩きだした。
先程どんな気持ちで祐馬が自分を抱きしめたのかを考えると、胸が苦しい。このまま帰ったらもう二度と祐馬とは会えないだろう。いや、次に会ったとき、祐馬の隣には誰か可愛らしい女性がいるかもしれない。
恋愛の辛い思い出っていうのは、結局好きな相手にしか消してもらえないもんだ。と先程おやじは言った。
戸浪はずっとあの事を引きずってきた。思い出すと痛みしか感じないから、忘れようとした。だがいつまで経っても傷口は、ことあるごとに開き、戸浪を苦しめていた。ずっと本当に忘れたいと思ってきた。それは自分一人ではどうにもならないことなのだ。
いくら戸浪が何もかもをシャットダウンして、自分の殻に閉じこもっても、傷口は酷くなるばかりで、時間すら戸浪の助けにならなかった。それはこの何年間、一人で生きてきて痛いほど良く分かっている。
だが祐馬と一緒に過ごした間、戸浪は痛みを忘れられていた。祐馬の気持ちを知って嫌な気はしなかった。逆に頼っていたのかもしれない。
私はあの時確かに癒されていた……
必要なんだ……祐馬が……
例えこの先傷ついても、祐馬と一緒にいたいと願っている。
失いたくないと本当に思っている。
確かに飛び込むことはまだ恐い。だが祐馬を失うのはもっと恐い……
戸浪はいつの間にか、祐馬の住むマンションのエレベーターに乗り込んでいた。そしてエレベーターが十階に着くとそのまま駆け出す。
あの時は追いかけることが出来なかった。
それも後悔していた痛みの一つだった。
今度はそんな後悔だけはしたくない。例え駄目だったとしても、それで二つ分の痛みを抱える結果になっても、後悔の痛みだけはもう二度と味わいたくなかった。
そう思うと戸浪は少しだけ心が軽くなったような気がした。
扉の前に立ち、ベルを鳴らす。
自分の心臓がバクバクと耳に伝わってくる。
いなかったらどうする?と思ったのは一瞬で、扉はすぐ開けられた。
「……何?もしかして忘れ物あったかな……」
祐馬が先程とは違う沈んだ声でそう言った。明るく言ってくれるとばかり思っていた戸浪はそれで急に奮い立てた気持ちが砕けそうな気がした。
「……済まない……まだ話があったんだ……」
「……そう……」
それだけ言うと祐馬は俯いたようだ。何故か玄関の電気が灯されていないので、こちらの影になって祐馬の表情が見えないのだ。
「入っていいか?」
「玄関までだよ……」
どうしたんだろうか?全く祐馬の事が分からない。さっきは御茶でもと言っていたのが嘘のようだ。たった一瞬で何が変わったのだろう?戸浪は混乱しながらも必死に平静を保った。
「……分かった……それでいい」
玄関に入り、扉が閉まると、先程より暗くなった。いや、部屋も電気が付いていないために、真っ暗だ。
「何故電気を点けてないんだ?もしかして何処か出かける用事でもあったのか?」
「……話しって?」
祐馬はこちらの質問に答えずそう言った。祐馬の態度が理解できないまま、言葉に詰まった。この状態で言っても良いのだろうか?
無茶苦茶拒否されていないか?
「今更……と、思われても仕方ないんだろうけど……これだけは言って置こうと思って……来たんだ。これを逃したら多分もう言えないだろうと思ったから……」
ああ、そうか。祐馬はもう思い切ったのだ。先程のあの一瞬で終わったんだ。あの時素直に言えば何とかなったことが、今ではもう遅いのだろう。だからこちらの顔などもう見たくないのだ。
馬鹿だな……私は……
少しだけ期待した。自分が素直になったらまた一緒にいられるのだと思った。
だが、現実はそんなに甘いものじゃないのだ。
それでも、言い出したことを止めることを戸浪はしなかった。全て言ってしまえば何故か楽になるような気がしたのだ。
「祐馬の事を……私は身代わりだと言った……。あれは嘘だ。そんなことこれっぽっちも思ったことなど無かったんだ。あいつとお前は何処も似ていない。私は過去の相手に対する想いをまだ引きずっているじゃないんだ。あの時の痛みをまだ覚えているから……それが繰り返されたらと思うと恐かった……。だから素直に……なれなかった……」
少し闇になれた目は、祐馬がこちらを向いているのを視界に映した。だが表情まで分からなかった。それがいいのだろうと戸浪は思った。このまま闇の中で告白すればいいのだ。そして話し終わったら帰る。
今まで暗闇の中で喘いでいた自分には似合いだと戸浪は思った。
「なんで今頃そんなこと言うんだよ……」
祐馬は憮然とそう言った。当然の事だろう。自分自身今更だと思う。だが……
「後悔したくなかったからだ……」
「弁解したかったのか?」
「違う……祐馬が好きだと言いたかっただけだ。じゃあ……」
これで帰ると言おうとした戸浪は祐馬に抱きすくめられた。
「嘘だ……」
祐馬は震えるような声でそう言った。
「嘘じゃない。嘘を付いていたのは、おまえにじゃない。自分に嘘を付いていたんだ……」
そう、好きなのにそれを認めることが出来なかった自分自身に嘘を付いていた。
「……」
「お前を失いたくない……」
ぎゅっと目をつぶって戸浪は祐馬の肩に頬を寄せた。
「もう……駄目か?それを望むことは出来ないんだろうか?」
戸浪は絞り出すようにそう言った。
「戸浪ちゃん……ホントに?本当にそう思ってるのか?」
「……思っているから……自分でも驚くような行動をしている……。こんな自分が今信じられないんだ……」
誰かに向かって失いたくないなどという言葉を自分が言うなど考えられなかった。いつも現状を受け止めて、逆らうことも、何かをしようとも思わなかった自分がだ。
そんな自分が、抱きしめてくれているこの腕を失いたくないと心底願ってる。その為に何もかも犠牲にしても良いとさえ思っているのだ。
「俺のこと……好き?」
祐馬が問うようにそう聞いた。
「ああ……こんなに誰かを好きになれると思わなかった」
自分の想いはもっと深いのに、どうしてこんな風にしか言えないのだろう……こんな言い方で祐馬は分かってくれるのだろうか?戸浪は不安になりながらも、背に回された祐馬の腕が緩まないことに安堵した。
「じゃあ、ここに一緒に暮らしてくれる?」
「お前がまだそれを望んでくれるなら……私はお前と一緒にいたい……」
戸浪は自分からも自然に祐馬に腕を伸ばして抱きついた。
もう二度と誰かを好きになどなれないと思っていた自分がとても可哀想な人間だったとようやく気が付いた。
「……俺……」
「祐馬……こんな私で良いのか?」
抱きしめている祐馬の身体が小刻みに震えているのが分かった。
「好きだ……祐馬……。こんな言い方しか出来ない私を許してくれ……」
「戸浪ちゃん……このままベットに行って良い?」
「……え……」
「駄目か?」
「そう言うこといちいち聞かないでくれっ……」
嫌ではないのだが、まだそこまでの決心が付きかねているのだ。なのにそんなことを言われると余計躊躇してしまう。
「そか……うん。そうだね」
祐馬はそう言って戸浪を離すとこちらの手を取って歩き出した。
「なあ……電気をどうして点けていないんだ?」
真っ暗な中を歩きながら戸浪は聞いた。その頃には目が慣れ、何かにつまずくと言うことは無かったのだが、やはり暗い。
「……え、ちょっと……」
電気を点けない理由が分からなかったのだが、寝室だけはベットに据え付けてある小さな白熱灯が灯っていた。蛍光灯とは違う柔らかな光が戸浪をホッとさせた。
「なあ……ゆう……」
「黙ってよ……」
言って祐馬はこちらの頬に手をかけて輪郭に沿って指を動かした。じいっとこちらの顔を見て、急にニコリと笑った。
「俺を見てる?」
祐馬の指は頬をから降りて首元を撫で、ネクタイのところで止まった。何故か首元が熱く、更に苦しく感じる。
「ああ……」
この男はこんなに男前だっただろうかと戸浪はふと思った。もっと子供顔じゃなかったか?だが今目の前にいる祐馬は立派な大人の男だった。
何より祐馬の顔はいつものふざけた感じがしない。真剣で、それでいて瞳が優しい。
「俺のこと……好き?」
言いながら祐馬はするっとネクタイをほどいた。
「ああ……好きだ……」
高まった自分の心音が聞こえるんではないかというくらいの音が戸浪には聞こえた。とにかく無性に恥ずかしくて仕方ない。こちらの方が子供になった気分だった。
「何時くらいから?」
ネクタイの次はスーツの上着を脱がされ、薄いシャツの上から祐馬は戸浪の胸元を撫でた。そのピタリと密着した祐馬の手が胸元を撫でるたびに、ドキッと心臓が跳ねて戸浪は立っているのが辛かった。
「ちょ……ちょっと待て……」
グイッと身体を引き寄せられて戸浪は慌ててそう言った。が、祐馬はこちらのことなど全く聞いていない。
「ね……何時から?」
胸元を這っていた手は、シャツの裾から戸浪の背中へと廻っている。
「……っ……気が……気が付いたらだ……」
「自然に?」
こちらの下唇をハムハムと軽く噛みながら祐馬はじっとこちらを見つめている。その刺激だけでも堪らない。
「……っ……あ……そうだ……」
「ね、全部脱がしちゃっていい?」
半分シャツを脱がされている格好なのに今更そんなことを言うなと戸浪は思ったのだが上手く声が出ない。
「……聞くなっ……」
視線を下に向けて戸浪は言った。恥ずかしくてもうどうにかなってしまいそうだった。どうしてこう祐馬はいちいち聞いてくるのか分からない。
「下もいいの?」
既にベルトが外されているにも関わらず、祐馬はそう言った。
「貴様ッ……」
戸浪がそう怒鳴ると同時に、ズボンと下着が一緒に下ろされた。祐馬の方は足首で団子になっているそれらの衣服を両手で持ったまま、床に座り、上を見上げてニヤリと笑った。
「いい眺め……」
言って祐馬は右足の太股を抱え込んで、舌を這わせてくる。
「……っば、馬鹿!止せっ……」
こ、こんなやり方ってあるのか?戸浪はパニックになりながらそう思った。以前と比べているわけではないが、どうしてもやり方を較べてしまうのは仕方ないだろう。
「戸浪ちゃんの肌ってすげえ奇麗……」
「止め……っ……あっ……」
両足に衣服が絡まっているのに動こうとしたために戸浪は祐馬の方に倒れ込んだ。祐馬はそんな戸浪を両手でがっちりと抱き留めた。
「危なかった……」
祐馬がそう言ってホッと息を吐いた。
「お、お前がっ……こ、こんな恥ずかしいことをするからっ……」
支えられながら戸浪は、興奮している自分を知られたくないためにそう怒鳴った。
「戸浪ちゃんって、すぐ俺のこと、お前とか貴様だもんなあ……」
苦笑しながら祐馬は戸浪の足に絡まった衣服を全て剥ぎ取った。
「……」
「こういう時はさ……祐馬って呼んでよ……」
祐馬はそう言って、シャツ一枚だけを羽織った戸浪を抱き上げると、今度はベットに下ろした。
「祐馬って……いいだろ?」
組み敷かれた戸浪は、ただ頷いた。
このまま祐馬と抱き合うのだろうか……。
そう考えると妙に生々しく感じた。
初めてとは言わない。だが自分がこういう行為に対して淡白であるから、祐馬が、がっかりするのではないかと思うのだ。
相手は違う。だが一度言われた言葉はまだ戸浪の心の奥にしっかりと根を張っている。
お前は淡白だ……
昔自分を抱いていた男はそう言った。
それは満足させられなかったと言うことだろう。
祐馬もやはりそう思うのだろうか?
先程祐馬を制止せずに、したいようにさせた方が良かったのか?
嘘でも、気持ち良いと言えば良かったのだろうか?
一体どうしたらいいんだろう……。
「戸浪ちゃん……身体ガチガチ……」
ふと祐馬がそう言った。
「え、そうか?いや……そんなことはない……」
「……もしかしてこう言うの嫌か?」
そう言って祐馬はこちらから身体を離そうとするので戸浪はそれを引き留めた。
「違う……そうじゃない……ただ……」
抱いても自分相手では満足できないと言いたいのだが、戸浪は言えなかった。なら、どういう言い方が良いのだ?
ここまで来てまだあの男のことで苦しまなければならない自分が情けなかった。
「何?」
「……」
じっとこちらを見つめてくる祐馬に戸浪は言葉に詰まった。そんな戸浪に祐馬の方が言った。
「……うん。いいよ……」
そう言って祐馬はごろんとベットに横になった。
「あの……祐馬……違うんだ……」
戸浪がそう言うと、祐馬は両手を広げて、おいでおいでと言う風に片手を振った。戸浪はそれに引き寄せられるまま祐馬の所に身体をずらした。
「無理はしなくていいよ」
丁度祐馬の上に乗った形で抱きしめられた。
「無理とか……そう言うのではなくて……」
「だってさあ、戸浪ちゃん、すっげー身体ガチガチなんだぜ。自分でも分かるだろ?これじゃあ俺、手出せないよ」
呆れる風でも怒る風でもなく、祐馬はただそう言って、こちらの額にキスをしてきた。
「ゆっくり行こうよ……俺らこれからだしさ、戸浪ちゃんが本当に俺を望んでくれるまで待ってる」
望んでいる。だが……戸浪には拒む理由を言えなかった。
「祐馬……私は……お前が好きだ。これだけは信じてくれ……。だが……もう少し待ってくれるか?」
全ての過去を振り切れるまで……あと少しで振り切れる筈だ。
祐馬がいてくれるから……。
「もちろん。俺、じじいになっても待ってる」
そう言って祐馬は笑った。
「そ、それほど待たすつもりはない……」
じじいは行き過ぎだと戸浪は思わず笑った。
「戸浪ちゃん……そんかわり……俺のことずっと好きでいてくれる?俺以外見ないでくれる?俺、絶対戸浪ちゃん大事にするから……」
ちょっと不安げに祐馬は言った。
「ああ……ああ……もちろん……もちろんだ……」
ギュッと祐馬を逆に抱きしめて戸浪は言った。
ようやく自分の気持ちに素直になれた。
失いたくないと思える相手に出会えた。
その相手に、求められた同じだけを返したい。
だからもう少し時間が欲しかった。
まだ始まったばかりだから……。
目が覚めると、真横に祐馬の幼い顔が隣にあった。その顔を見てなるほど昨日は電気を点けたがらないはずだと戸浪は思わず笑いが漏れた。
「……あ……何、何笑ってんの?げっ……」
こちらの笑い声で起きた祐馬が言った。
「お前……くく……な、何だその顔は……」
祐馬の目は泣きすぎて腫れていたのだ。
「うわあっ……目、目があかねえ……っ!」
飛び起きて祐馬は目を擦るのだが、腫れてぼったりとした瞼は何かにぶつかったかのようだ。
「だからか……昨日真っ暗にしてたのは……」
笑いながら戸浪はそう言った。
「だっ……だって、すげえ俺辛かったんだぞ。そりゃ、これで諦められるって戸浪ちゃんには言ったけど……家に帰って……すげえ悲しくて……電気付けるのも嫌だった。そいで寝室にこもって、俺、泣いてたんだからなっ!泣き顔見られたくないの分かるだろ!そんなとき戸浪ちゃんが来たんだから……」
こう言うところはやっぱり子供なのだ。
「あははははは。変な顔だ……」
軽くなった心が余計笑いを加速させる。
「うがーーーっ!そんな言い方無いだろ!ちくしょ!」
どこから見てもチャウチャウ犬だ。
「仕方ないな。待ってろ、冷たい水で絞ったタオルを当てておけば、すぐに引く」
そう言って戸浪は立ち上がったが、自分が半裸であることに気が付いて、急に羞恥心が戻ってきた。
「うわあ~いい眺めだけど、見えにくい……」
祐馬は言って目をこじ開けようと必死だ。その祐馬の頭を殴りつけた。
「貴様の所為で、シャツもスーツも皺だらけだっ!また朝からアイロンがけか!」
「いってえ……叩くなよ~仮にも恋人の頭だろ!」
不服そうに祐馬がそう言った。それを後目にさっさと、昨日床に散らかしたズボンなどを拾って衣服を整えた。
「なあ~恋人だろ?」
祐馬が尋ねるように今度は言った。
「……ま、まあな……」
照れくさくて戸浪はそれだけ言ってキッチンへと向かった。
昨日の晩に見せた顔とは大違いだと、戸浪は思いながら氷水でタオルを絞った。でもあれがいいのかもしれない。多分祐馬相手だと深刻になりすぎないから楽なのだろう。
年下に参るとはな……
そう考えて戸浪は苦笑した。
だが後悔はしていなかった。
昨日まで祐馬のことで苦しんだのは一体何だったのだろうかというくらい、心が軽い。
あのラーメン屋のおやじが言ったとおりだった。
やはり恋愛の傷は恋愛でしか癒せないのだ。
寝室に戻り、戸浪は祐馬の目にタオルをあてがった。
「あ~気持ち良い……」
「全く……泣き虫だなお前は……」
「あっ!またお前って言う!戸浪ちゃん、ちゃんと名前で呼んでくれよ……」
祐馬はそう言ってブスくれた。
「……まあ、慣れたらな」
祐馬と呼び捨てするのはやはりまだ照れくさい部分が残るのだ。それを隠すためにお前と言ってしまう。だが徐々にきちんと名前で呼べるようにしようと戸浪は思った。
恋人同士だし……
そう考え急に気恥ずかしくなった。
「んじゃ~俺も今度から戸浪って呼ぶよ」
と、言われた瞬間に戸浪はなんだかムッとして祐馬の頭を又殴った。
「なっ……さっきのより痛いぞ!」
「呼び捨てするな」
「なんでだよ!恋人同士じゃんか!ちゃん付けより良いだろ?」
「なんだかむかつく……」
「……戸浪…」
と、又言おうとしたので戸浪は拳を振り上げた。
「ちゃん……」
言い終わらないうちに祐馬は付け加えた。
「まだその方がましだ」
「一緒じゃんか……」
ぼそっと祐馬が言うのでギロリと睨むと、祐馬は呆れたようにタオルを裏返してもう一度目に当てた。
「まあ……もっと大人になって、呼び捨てても似合う様になれば許してやる。目が腫れるほど泣くような子供には似合わないぞ」
そう言うと祐馬はこちらに聞こえるほどの溜息を吐いた。
―完―