Angel Sugar

「暴力だって愛のうち」 第5章

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「帰ろうと思ってエレベーターに乗ろうとしたら戸浪ちゃんがエレベーター乗るの見えたんだ。何処まで行くか確認して、ついてきちゃったよ。で、又機嫌悪いのか?……いや、顔色悪いよ戸浪ちゃん。風邪でも引いたの?」
 何も知らない振りをする祐馬は、何処まで腹黒いのだ。
「……ああ、そうだな……」
 私を利用したのだろう?
 そのとぼけた姿も全部演技だったのだろう?
 さぞかし良い気分だろう、完全に私は騙されていたんだからな。
 その上……
「……っ」
 全てを吐き出しそうになったが戸浪はぐっとそれを堪えた。醜態を晒すことなど出来ないのだ。年下相手に本気で怒りをぶつけてどうなるというのだ?
 自分がもっと惨めになるだけだ。
「なあ、仕事忙しく無いんだったら、今日帰った方がいいよ。戸浪ちゃん元々白いけど、今すげえ青い顔してる。俺は帰られないけど、今日は早めに帰って戸浪ちゃんの面倒見てやるからさ。あ、夕飯もつくんなくていいから、今日はもう帰れよ……」
 心配そうに祐馬はそう言った。そんなことなど本当は、これっぽっちも思っていない癖に何処までも嘘の上塗りをする気なのだろうか?
 そんな祐馬を信じていた自分が本当に情けないと戸浪は思った。
「……そうするよ……」          
 何とか声を絞り出して戸浪はそう言った。
「あ、俺そろそろ行かなきゃ……。戸浪ちゃん、帰ったら暖かくして寝ろよ。薬欲しかったら俺んちそう言うの無いから悪いけど買って帰ってくれる?」
 本当に申し訳なさそうに祐馬は言った。
「ああ……」
 戸浪がそう言うと祐馬は来た道を戻っていった。
 バタバタと戸浪のスーツは風にたなびいた。もう一度周りの景色に視線を戻す。
「……」
 この立ち並ぶビルの一つ一つに人間が山のように詰まってる。みんな働き蟻のようにあくせくと働いているのだ。自分もその中の一匹だ。
 何も変わらない。
 何も考える必要など無い。
 終わったんだから…… 
 戸浪はそう思い、全てを切り離すことで、何とかその場に立つことが出来た。

 結局戸浪は昼から半休を取り、帰ることにした。祐馬のマンションに戻り、自分が持ち込んだ服などをバックに詰めた。何もかも知って祐馬のように戸浪は振る舞えないのだ。会社の屋上で話をしたのが限界だった。
 確かにあの手を折ったのは戸浪の責任であるのだが、今から思うとあれも嘘臭い。疑い出すと何もかもが怪しい。
 まだ祐馬の手は治っていないが、ギブスも短いものに変わった。普通の生活なら何とか出来るだろう。
 そんなことを考えて戸浪は笑いが漏れた。こんな目に合わされたのにまだ祐馬を心配しているのだ。
 だが、ここまで来たらもう笑うしかない。
 忘れ物はないかと各部屋を廻り、最後に寝室に入った。昨晩はこの場所で祐馬に抱かれて眠ったのだ。温かかった胸の温もりを思いだして戸浪はぐっと手を握った。
 何度も繰り返し耳元で囁かれた、好きだよという言葉は、まだはっきりと思い出せる。ずっと一緒にいて、戸浪に昔何があったことを推測でもしたのだろう。だからこちらを完全に手の内に入れるためにあんな事を言い出したのだ。
 傷心の男を慰めるにはいい方法だったよ……。だがあんな事だけでぐらつくのは過去をまだ引きずっている戸浪の心の弱さの為だ。
 何も忘れ物が無いのを戸浪は確認して寝室を後にした。
 戸浪は全部のものをバックに詰め終わると、合い鍵をどうしようかと思った。このままずっと持っているのは不味いだろう。封筒に入れて管理人にでも預ければいいか……戸浪はそう考え、マンションのキーをかけた後、封筒に鍵を入れた。
 管理人にそれを渡し、ようやく戸浪は全てを振り切れると安堵した。



「……浪……」
 誰かが遠くで呼んでる……
 うっすら目を開けると、ここにいるはずのない祐馬の顔がどアップで視界に入ってきた。
「うわあああっ……!」
 戸浪は思い切り目の前の祐馬を殴りつけた。
「いっでええええっ!なっ!なにすんだよ!起きて、いきなり何で殴るんだよ!」
 祐馬は床に尻餅をついて怒り出した。
「……何故……ここにいるんだ?」
 ここは戸浪の自宅で、しかも祐馬には住所は教えていない。更に、鍵は渡していないのだ。なのに何故、人の寝室にこの男はいるのだ?
「あ、戸浪ちゃんの免許証見たことあったもんね~鍵はスペアキー作ったもん」
 と言っていつの間にか作ったキーをポケットから出して祐馬はこちらに振って見せた。
「……そ、それは犯罪と言わないか?」
「なんで?俺は戸浪ちゃんにスペアキー渡してたんだぜ。俺だって戸浪ちゃんちの貰っても変じゃないだろ?お願いしても、くれそうに無いから勝手に作ったんだよ」
 戸浪が殴った顎をさすりながら祐馬は当然とばかりに言った。
「……」
「それよりさ、なんで何も言わずに出てっちゃうんだ?管理人に勝手にキー返してるしさ!どういう事なんだよ!」
 この男は理由を全部言わなければ分からないのだろうか?もう全てばれていると言うことを突きつけないと、戸浪が今どう思っているのか理解出来ないのか?
「……」
「分かってるよ」
 急に祐馬がそう言った。
「え……」
「戸浪ちゃん身体しんどかったから、自分ちに帰ってきたんだよな。俺、こんなだから面倒見させるの悪いと思ったんだろ?やだなあ~俺に気使うこと無いのに~。でもそう思ってくれたのはすげえ嬉しい」
 祐馬はそう言って、いつものように照れた笑いをこちらに向けた。だが戸浪はその顔に唖然としてしまった。
「……私がそんな馬鹿だと思っていたか?」
 戸浪は静かにそう言った。心は冷えているのに逆に熱っぽい身体が、怒りの所為で余計熱く感じる。もう頭の中もグチャグチャだった。
「……え?突然どうしたんだよ……」
 祐馬は不思議そうにそう言った。
「お前が東都建設の営業だったとはな……」
「あ、そうだよ。戸浪ちゃんと同業!同じ職種で話が合いそうだってずっと思ってたんだ。でもさあ家の中まで俺、仕事のこと持ち込むの嫌だったから戸浪ちゃんに言わなかったんだ。だって戸浪ちゃんって仕事の話し、しだしたらとまらないんじゃないかと思ってさあ。戸浪ちゃん仕事人間だもん。まあ、今日ばれちゃったけど……」
 祐馬は営業だ。口はこちらより遙かに饒舌なはずだ。何を言っても納得出来るような嘘を上手く付くのだ。戸浪はそれに対抗できるタイプではない。
 溜息が細く長く吐き出された。
「戸浪ちゃん、熱あるんだからさ、もう横になってた方が良いよ。話しあるんだったら元気になってからでいいじゃんか。今度は俺がちゃんと面倒みてやるからさ」
 祐馬はそう言ってニコニコと笑っている。
 その笑顔が戸浪をぞっとさせた。
「……私は……お前を身代わりにしていた。もう何となく分かっているんだろう?私が昔男とつき合っていて手ひどく振られたとな。私は馬鹿だから、まだその相手を忘れられずにいる。だから似ているお前を身代わりにしていた……」
 そう言うと祐馬の笑顔が顔から引いた。
「いいよ別に最初はそれでも……。分かってたけど……仕方ないことだから」
 祐馬はただそう言った。
「私はお前を身代わりにした。お前はそれにつけ込んで私を利用した。お互い様だからな。だから、お前がその事に付いて怒るわけにはいかない訳だ……」
 身代わりなどと思ったことなど一度もない。これっぽっちも似てやしない。だが何もかもこちらが騙されていたというのはあまりにも辛いのだ。
「何の話しだよそれ……」
「もう全部ばれているんだっ!いい加減その何も知らない振りをするのは止めろ!吐き気がしそうだ!」
 戸浪は怒鳴るように言った。
「ちょ、ちょっと待った!何?俺わかんねえよ……知らない振りって何だよ……」
 何処までも、何処までも嘘を突き通そうとする祐馬に戸浪は切れた。
「そんなにあの物件が欲しかったのか?欲しかったんだろう?だから私に近づいたんだ!お前に取って仕事は結局人生そのものだったのだろうが!お前もあの男と一緒だっ!だがあいつよりお前は酷い奴だっ!あの男は、はっきり私に告げたからな、仕事を選ぶ。将来を選ぶと……。だがお前は何だっ!私が何も知らないことを良い事に、こそこそ人の持ち帰った書類を見ていたんだからなっ!ここまで言わなければお前は分からないのかっ!」
「……戸浪ちゃん……」
「これから先、お前を身代わりにして……その代わりお前に情報を差し出す。それほど馬鹿なことはしない……。悪いな……お前の思惑通りに進まなくて……これで終わりだ。あの物件は餞別代わりにお前にくれてやる。だからキーを置いて出ていってくれ」
「あの物件って……今日の会議の物件のことか?」
「お前はまだそんなとぼけたこと言ってるのか?はは……おめでたい奴だ……」
「……俺、確かにこの件に戸浪ちゃんが関わっていたこと知ってた。一度、一度だけ持って帰ってきた書類を見たのは戸浪ちゃんだって覚えてるはずだけど……あのとき、書類の物件名みてやばいと思ったら、あれ以来触ることもしなかった。誤解されたくなかったからだよ」
「……良いから帰れ……」
 戸浪はベットに沈み込んでそう言った。
「なんっで信じてくれないんだよっ!俺、そんな小汚い真似しねえよっ!それにもし、そう言うつもりで戸浪ちゃんの書類を見たとしても、俺みたいな一介の新人営業マンの意見が社内で通るとおもってんのか?」  
 怒鳴るように祐馬は言った。
「は、何が一介の新人営業マンだ。お前の何処が新人だ?社長かなんかの偉いさんの孫の癖に……」
「戸浪ちゃん!」
「五月蠅い!いい加減こっちもお前が鬱陶しくなっていた所だったんだ!だからもう止めだ!身代わりにするのも飽きた。お前はお前の人生を勝手に歩めばいいんだっ!私にはあの物件なんてどうでもいいことだったんだ。私の知らないところで勝手にやってくれ!だがもう……巻き込まないでくれ……。私はこれからも一人で生きていくから……」
 戸浪がそう言うと祐馬は暫く沈黙し暫くしてから口を開いた。  
「……俺、今の会社に入ったその日、朝の通勤電車で戸浪ちゃんを見つけたんだ。そのとき一目惚れした。それから毎朝会うのが楽しみになったよ。って言っても俺が見てるだけだったから、戸浪ちゃんはそんなこと知らないと思うけどさ。でも毎日毎日見てるだけが嫌になって、玉砕覚悟でいつもより近くに寄っていって……、どうしようと思っていたら痴漢に間違われてさ……。はは、痴漢だって……何か笑えたけど、いや、手を折られて笑い事じゃ無かったんだけど、これできっかけが出来るって思ったら痛いのなんかどうでも良くて……。駄目だと言われると思ったけど、同居することオッケー貰って……。朝は同じ電車に乗って、今度は帰るのが楽しみになった」
 そこまで祐馬は言って、小さく溜息をついた。
「俺一緒に暮らして、もし自分の気持ちがただの憧れとか、そういうのだったら手出さないって誓ってたんだけど、なんでかな……逆にどんどん好きになっちゃって……。ボカボカ殴られて痛いんだけど、それも戸浪ちゃんの感情表現の一つだって思ったら逆に嬉しくて……。毎日見てた戸浪ちゃんは、奇麗な人形って感じだったんだけど、全然違うんだもんな。そんな戸浪ちゃんが余計好きになった。でも俺が好きな人には、なんか話せないような過去あるみたいな感じで…。でも別にそんなことはどうでも良かったよ。最初身代わりから始まっても、いつか戸浪ちゃんが俺の事好きになってくれたら話してくれるだろうって思ってたし、逆に話して貰えなくてもいいやって思ってた。俺のこと今見ててくれてるんだったら……良いって。それで俺は幸せだって……」
 又暫く沈黙がおりた。
「でもさ、戸浪ちゃんに取って俺は何処までも身代わりなんだよな……」
 次に聞こえてきた祐馬の声は酷く悲しそうだった。どんな顔で言っているのか見る勇気は戸浪には無かった。ずっと祐馬に背を向けたまま、部屋の壁をじっと見ていることしか、できなかった。
「……」
「戸浪ちゃんがあの物件のこと、すごく誤解してるけど、俺そんな気全然無かった。取りたいと思った事も無いし、利用するなんてこれっぽっちも考えたこと無かった。逆にそんな事で腹を立ててるんだったら、いくらでも弁解するし、俺が謝って済むことだったら何度だって謝るけど……。身代わりっていうのはどうにもならないことだよな。俺が頼んだって、いくら好きだの愛してるだの言っても、俺の気持ちは全部過去の男の言葉にすり替わっていくんだ。そんなの……辛いよ……。俺がいくら頑張ってもどうにもならないんだったら……希望も無いんだったら……このまま……誤解されて終わった方が良いんだよな。それだったら……俺の事すげえ酷い奴だったってことで戸浪ちゃんにずっと覚えていてもらえる」
 ちゃりんという金属音が聞こえた。
「キー……置いて帰るよ。俺出ていったら鍵……閉めといて。もう来ないし、朝の電車でも会わないように時間変えるよ……ごめん……」
 そう言うと祐馬が寝室を出ていく扉の音が聞こえ、暫くするとマンションの扉が閉まる音が聞こえた。
 祐馬は帰ったのだ……。
 戸浪は、ぼんやりと身体を起こして、先程目に入らなかったものを見つけた。床に新聞紙を引いて、大きめのボールに水が張られていた。そこには氷が浮かび、絞られたタオルがあった。
 もしかして……これで頭を冷やしていてくれたのだろうか?
 新聞紙の周りはタオルを絞ったときに飛び散った水滴で波打っていた。氷は既に小さくなっている。
 ずっと付いていてくれたのだろうか? 
 戸浪はそのボールとタオルを掴んでキッチンに向かった。それを流しに捨ててタオルを投げつけた。
「最後まであいつは……くそっ……」
 そう小さくごちて、又目に入ったものが信じられなかった。
 鍋にお粥が入っていたのだ。まだ湯気が出ている。その上、キッチンテーブルにはお盆の上に皿とレンゲが置かれていた。
「……なんであいつは……こんな事するんだ……どうして……」
 ズルズルと床に座り込んで戸浪は両足を抱えた。



 今日も休めば良かった……
 戸浪は結局半休を取った次の日も熱が酷かったため休んだのだ。だがようやく出社出来た日は例の物件の入札日だった。
 川田が落ち込んで帰ってくるのを見てしまうかもしれない。
 朝から仕事をしながらその事ばかり戸浪は考えているのだった。仕方ない……今晩は私が川田を飲みに連れ出せば良いのだ。それがせめてもの償いだ。
「澤村~!」
 大声で設計部に入ってきた川田は一目散にこちらの机に走ってきた。
「か、川田っ……」
「今日は祝杯だっ!今晩、空けとけよ」
「は?と、取れたのか?」
 この笑顔は取れたと言うことだろう。どういうことなんだ?
「取れたのかって……取れる金額で行ったんだぜ。お前、これで取れなきゃ終わってるだろう?」
 怪訝な顔をして川田が言った。
「東都はいくらで来たんだ?」
「危なかったぜ、あっちは四千五百万下げた金額で来てた。五百万の差でうちの勝ち!いやあ、帰りに向こうの部長が腐ってたよ。はは。やったって所だな」
「……そ、そうなのか……」
 こちらの金額を知っていたはずだ。なのに何故東都が負けるんだ?
「何だお前、嬉しそうじゃないな……」
「え、う、嬉しいに決まってる……。じゃあ、入札は部長と担当営業マンがみんな来てたのか?あの、東都の若い男も落ち込んでたか?」
「珍しいな。お前がそう言うこと聞くの……」
 不思議そうに川田が言った。
「いや、東都がどうしても取りたかった理由の男がちょっと気になってな……」
 戸浪は慌ててそう言った。
「そか、来てなかったよ。あの若いの、辞めたらしいし……」
「辞めたぁ!」
 戸浪が思いの外でかい声でそう言ったので、川田が目をまん丸にして驚いている。
「あ、済まない……大声出して……いや驚いたんだ……」
「俺はお前の声にびっくりしたけどな。ま、はっきり聞いてないけど、そう言うことらしい。で、夕方の話だけど、仕事、先に終わった方が声掛けるって事でいいか?」
「何が?」
「何がって……戸浪、お前大丈夫か?今日飲みに行く話だよ」
「あ、ああ、そうだったな」
 戸浪はあまりにも突然の事に頭がまともに働かないのだ。
「じゃ、俺、細々したことまだあるから行くわ~」
 川田はそう言って自分の部署に帰っていく。帰りながらも知った人間に今日取れた物件の話をしながらだった。余程嬉しかったのだろう。
 いやそんなことはどうでもいいのだ。
 祐馬は知っていたはずだ。今日の入札金額を知っていた。
 だが、物件を取ったのはうちの会社だった。
 もしかして本当に……知らなかったのか?
 それに会社を辞めたって……どういうことなんだ?
 戸浪は机で組んだ手をじっと見つめて考えた。本当はどうだったのかを必死に考えた。今更どうにもならないのに、考えることを止められなかった。
「……」
 もし、あの時、祐馬が言ったことが真実だったとしたら、本当に入札金額など知らなかったとしたら……戸浪はそんな祐馬に対して酷い言葉を叩きつけたのだ。祐馬の一切の弁解を聞かずに切り捨てた。
 その上、祐馬の気持ちを充分分かっていながら、身代わりだと言ったのだ。戸浪自身そんなことなどこれっぽっちも思ったことがないのにだ。
 辞めた……
 祐馬は会社を辞めたのだ。理由は何だ?一体何なんだ?私の所為で辞めた訳じゃないだろう?それは無いはずだ。どうせおぼっちゃまの気まぐれで、遊び回っているのかもしれない。それが出来るだけの家に祐馬は生まれたからだ。仕事は人生のほんの一部だと言ったじゃないか、だから別に祐馬にとってどうでもいいことだったのだ。
 そう、どうでもいいことだったのだから、戸浪が思い悩んだ事も筋違いだったのかもしれない。もしこれが全て自分が考えすぎの為に祐馬を疑っただけだったら……。
 だったらどうなんだ?
 忘れると決めただろう。
 なのに何故、今、これほど戸浪は祐馬の事を考えているのだ?
 答えはすぐそこに見えているのに、戸浪はそれに目を瞑った。
 それとこれとは違うのだ。
 ただ、あんな風に疑ってしまったことを戸浪は謝りたかった。入札を終えてから……うちが負けたことが確実になってから祐馬に言っても遅くなかったのだ。
 騙されていたと思った。あの優しさ全てが偽物だと思った戸浪は、その勢いで祐馬を責めた。疑い、酷い言葉で傷つけた。
「……私は……どうしたらいい?」
 握りしめた両手がギリギリと音を立てた。
 祐馬はまだあそこに住んでいるのだろうか?そこも引き払ってしまっているのだろうか?いや、それは無いはずだ。姉夫婦の留守を預かっていると言っていたからだ。それなら簡単に引き払うことなど出来ない。
 祐馬は沢山の誠意を見せてくれた。それを全て疑ったことを、今度は自分が謝らなければならないだろう。
 戸浪はそう思い立つと、定時に会社を終え祐馬のマンションに向かった。
 川田との約束など完全に忘れていた。

 戸浪はマンションに着いたは良かったが、問題の扉の前で戸浪は立ちつくしてしまった。勢いで来た。しかし指をベルに伸ばすその度に躊躇われ、その指を引っ込める。繰り返しそんなことをして、結局扉の前に座り込んでしまった。
 会って何を言うつもりなんだ?疑ってごめんなさいとでも言うのか?
 はあと溜息をついていると、隣のマンションの住民が買い物から帰ってきたのか、扉を開けながら訝しげにこちらを見た。
 戸浪は慌てて、笑いを浮かべて立ち上がった。そのとき携帯が鳴った。
「もしもし……あ、川田……」
 川田の事をすっかり忘れていた。電話向こうで当人はえらく怒っていた。
「済まない……用事があったのを忘れていたんだ。今度埋め合わせするから……。あ、いや、今何処だ?渋谷?お前一人か?」
 ガチャンと言う音が聞こえて振り返ると、扉を開けた祐馬が驚いた顔をしてこちらを見ていた。  
「あ、済まない。やっぱり今日は駄目だ。今度必ず埋め合わせするから……」
 そう言って無理矢理携帯を切った。
「そこでさ、何やってんの?」
 祐馬はこちらが携帯を終えたのを確認してそう言った。
「あ、いや……ちょっと話があって……」
 戸浪は祐馬の視線を外すようにしてそう言った。
「も~、隣の人から変な人が座り込んでるって電話貰ったから、誰だと思ったら戸浪ちゃんだったんだ」
 いつもの笑顔で祐馬は言った。
「会社……辞めたのか?」
「情報早いなあ……そうだよ。昨日ね。辞表出して終わり。別にあそこで何かやりたくて東都に入った訳じゃ無いし……色々あったから俺も、もういいやって……」
 ははっと祐馬は笑った。
「もう良いって……そう言う問題か?」
「あのさ、そんなこと戸浪ちゃんに関係ないだろ。そんな話ししに来たのか?」
 ムッとした顔で祐馬は言った。
「……」
「まあ、良いけど……入る?御茶でも入れるけど……」
「いや、ここで良い。この間のこと……済まなかった」
「……あ、入札今日だった。誤解ちゃんと解けたみたいだなあ。良かった。俺それだけ気になってたから……。実際、もし東都が取ったらどうしようって思ってたんだ。ホントに俺、戸浪ちゃんちがいくらで入札するか知らなかったし……知らなかったのに東都が取ったらどうしようってさ。もうあそこの営業マンじゃ無いからどうでもいいんだけど、誤解されたままっていうのヤだったから……」  
 祐馬は自分も通路に出て手すりにもたれかかってそう言った。
「私はお前に酷いことを言った……済まなかった……」
 何故もっと良い言葉が出てこないのだろう。素直にどうして言えないのだ?
 戸浪はそんな自分に歯がみした。
「状況が状況だったから疑われても仕方ないって俺あれから考えてさ。要するに最初から同業だって俺言っておけば良かったんだよな……ま、もう済んだことだし……いいよ」
「……そうか……良かった……」
 これで終わった。用事は済んだ。
「そだ、戸浪ちゃんもう夕飯食べた?俺今から例のラーメン屋に行こうと思ってたんだけど、一緒に行く?」
 良いながら祐馬は自分のマンションの扉にキーをかけた。
「え……」
「ほら、ぼーっと突っ立ってないで、行くよ」
 祐馬は戸浪の背中をグイグイ押した。
「そうだな……」
 戸浪は促されるまま祐馬に付いてラーメン屋へ向かった。
    
 屋台のラーメン屋に着くと、祐馬はやっぱり醤油ラーメンとおでんを頼んだ。
「なんだ、ここ二、三日無茶苦茶機嫌が悪かったのに、今日は又えらい機嫌が良いんだな」
 屋台のおやじはそう言って笑った。
「そ、そんなこと言うなっ!」
 祐馬は慌ててそう言った。
「何言ってるんだ、昨日は酷かったじゃないか。飲んでくだまくわ……」 
 なおもおやじはそう言って笑った。
「だからっ……そう言うこと言わないでくれよ!」
「くだまいたのか?」
 戸浪は思わずそう聞いていた。
「……別に……大したことじゃないよ……おっちゃんが大げさなんだ」
 祐馬はそう言って箸を割ろうとしたのを戸浪は取り上げた。
「……何?」
「まだ辛いだろう?仕方ないから割ってやる」
「えへへ……サンキュ」
 嬉しそうに祐馬はそう言った。
 割った箸を返すとやはり左で箸を持った。
「……」
「あれ、戸浪ちゃんも食べろよ。あ、でも、どうせ味分かんないもんな~」
 クスクス笑って祐馬は言った。
「悪かったなっ」 
 相変わらずの祐馬の言動にムッとしながらも、ある意味ホッとして戸浪は自分もラーメンを食べ始めた。
「ところで、会社辞めてどうするんだ?」
「……じじいが五月蠅いんだよな……実はまだ退職届受理はされてないらしいんだよ。ったくも~。俺の悪いところは何でもすぐに止めちゃう事だってさ。三年は同じところで働けって言ってさ。足がけ三年とか、石の上にも三年って説教しやがんの。おやじなんかは好きにしろって言ってくれてるんだけど……。あ、じじいは俺の母親のお父さんなんだけどね。東都の会長なんだ」
 親族関係とは川田から戸浪は聞いていたが、これほど近いことは知らなかった。
「そうだな。私もそう思うよ。三年はやはり頑張らないと……」
 戸浪はついそう言ってしまった。祐馬が辞めたのは自分に責任があるのをすっかり忘れていたのだ。
「……だってよ。それが一番の原因じゃんか。俺、そんなとこで働く気なんてサラサラないよ。嫌なことばっか思い出すじゃん」
 祐馬はこちらを見ずに、ラーメン鉢をじっと見て言った。
「もっとも、会社に行かずに、このままず~っと休んでたら嫌でも受理して貰えるだろうから、会社に行かないって決めたんだ。これからのことは、これから考える。俺、結構そう言うの得意だから」
 ははっと笑いながら祐馬は今度、こちらを見て言った。
「そうだったな……済まない……」
「あ、違うよ。言い方悪かったよな。戸浪ちゃんの事全然関係ないよ。あれだけが問題だった訳じゃ無いんだ。ほら、俺、じじいの孫じゃんか、そんで嫌なこと一杯あったんだ。だから戸浪ちゃんのことでどうとかじゃないんだ」
 そのあと小さな声で笑いながら「んでも、確かにそれもあるよ」と祐馬は言った。
「会社……行くんだな……」
「……嫌だ」
「駄々をこねるガキじゃないだろう?問題は解決したんだから……おじいさんを困らせるんじゃない」
 そんな風に言える立場では無いのだが、折角入った大手なのだ。今就職難の時代にこんな風に仕事を辞めさせるわけにはいかない。
 それも自分のことで……だ。
「考えとく……」
 祐馬はようやくそう言った。
 ラーメンとおでんを食べ終わって、精算を済ませると公園を二人で歩いた。互いに会話は無いのだが、こうやって二人で歩いているだけで、何故か戸浪は心が温かくなった。
 それだけ祐馬に気を許しているのだろう。
「なあ……戸浪ちゃん……」
 祐馬が沈黙を破った。
「なんだ?」
「ごめん……」
 そう言って祐馬は急に戸浪を抱きしめた。水銀灯の明かりだけが弱々しく辺りを照らし、誰もいない公園は既に暗かった。
「最後に一度だけこうさせて……」
 ギュッと祐馬は戸浪を抱きしめて言った。その力強さは、今までに無かったほどのものだった。
「……」
「もう一つ良い?祐馬って呼んでよ……」
 そう言えば一度も祐馬と名前で呼んだことは無かった。
「……祐馬……」
 そう言うと胸が何かに掴まれたように苦しい。なのに、温かい抱擁が心に染みて涙が出そうだった。
 ああ、どんなに否定しても私は祐馬が好きなんだ……。
 そうようやく戸浪が自分の気持ちを認めた時、祐馬が戸浪を離した。
「ごめん。俺、馬鹿ばっかやってるよな。これで諦められる。自分の気持ちにけりを付けられなかったんだ。誤解されたままっていうのも理由だけど……。でも、最後にこうやって戸浪ちゃんに会えて誤解も解けて……そんで大好きな人を抱きしめて……ようやく何とかなりそう……」
 苦笑した顔で祐馬が言った。
「……私は……」
 言え!言ってしまえ!ここで素直にならなかったら何時素直になるんだ?
「さよなら……」
 こちらの言葉を待たずに祐馬は駆けだした。
 結局、戸浪は何も言えず追うことも出来なかった。
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