Angel Sugar

「苦悩だって愛のうち」 第5章

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「ゆっ……祐馬っ!」
 そう叫んだのだが、既に寝室の入り口には祐馬の姿は無かった。
 これは違うのだ。きちんと話せば分かってくれるに違いない。
 そう思った。
 思ったから祐馬を戸浪は呼んだのだ。足が不自由でなければ、走って追いかけたに違いない。だがそれは出来なかった。
「祐馬あっ!」
 戸浪がそれでも無理矢理ベットから降りようとしたのを如月によって引き戻された。
「……っ……如月っ!お前っ!お前がっ!」
 如月に振り返るとその襟首を掴んで戸浪は言った。その手は怒りで震えていた。
「ああ、私が連絡した。こういう場面を見せてやろうと思ってな。意外に早く来たな……慌てて来たんだろう。信じていただろうに、可哀相だなあ、思うだろ戸浪……」
「可哀相?可哀相だと?お前が連絡しておきながら……そんなことを言うのか?私はお前を信用してこのうちに入れたんだっ。なのに、なんだっ!こんな事を……考えていたなんて……」
 自分の情けなさに戸浪は涙が出そうだった。
「……これでお前が大事にしたかった祐馬は失ったぞ……もう私しかいない……戸浪……一緒にアメリカに来ないか?」
 如月はそう言って戸浪の掴む手を取った。
「……まだ……まだそんなことを言っているのか?私は何もかも失っても、決してお前と昔のように戻りたいとは思わない。私達は昔に終わったんだ……。それを何度言えば分かるんだっ!」
 ばしいっと如月の頬を殴ると、意外に大人しく身体を離した。
「……ここに滞在している……。連絡を待ってるから……」
 言いながら、メモをベットの上に置くと立ち上がり、振り返らずに出ていった。
「……何が……何が連絡だっ!こんな物っ!」
 戸浪は如月が置いていったメモを破り捨てると、乱れた衣服を急いで整え何とか立ち上がると、祐馬を捜した。
 きちんと事情を話せば祐馬は分かってくれると思ったのだ。
 壁に手を掛けて歩くと、膝が痛んだ。だが戸浪は必死に祐馬を捜した。
 出ていったのだろうかと思ったが、祐馬はベランダにいた。こちらに背を向けて、景色を眺めているような感じに縁にもたれかかっていた。
「……祐馬……」
 恐る恐る戸浪は声をかけた。
「なに……まだいたんだ……」
 こちらを振り返らずに祐馬は言った。その声は酷く冷たく聞こえた。
「……実は……」
「ここのスペアキー……置いて行けよ」
「祐馬……」
「俺……すげえ馬鹿だったよな……。あんたを信じてたのも全部……。なんかもう、自分にもあんたにも呆れた……。俺んちで、あのベットで……俺達が一緒に眠っていたあそこでっ!あんたらそやって寝てやがったんだっ!俺がいない時にっ!俺がいないのを良いことにっ!よくも……よくもそんなことが出来るもんだよなっ!」
 そう叫ぶように言って祐馬はこちらを振り返った。その表情は怒りに満ちている。こんな祐馬を見たことは今まで無かった。
 それほど傷つけたのか?
 お前にこんな顔をさせてしまうほど……
 だが違う……
「あれは……」
「五月蠅いっ!あんたの話なんかもう聞きたくないんだよっ!顔だって見るの嫌なんだ!ぞっとする……出てってくれ!」
「祐馬っ……話を……」
 泣きそうだ……
 祐馬からこんな言葉を聞かされるとは夢にも思わなかった。
「俺はもうあんたとは何も話したくねえんだよっ!」
 祐馬はそう言って戸浪の腕を掴むと、グイグイと外へと引っ張られた。こちらは立てずに床を引きずれるような形で玄関まで連れ出された。
「祐馬ッ……痛いっ……」
 膝を押さえて戸浪はそう言った。本当に痛かった。
「はっ!あの男と愉しめる癖に痛いって?ふざけんなっ!」
 祐馬は玄関の戸を開けると、こちらの身体を外へと突き飛ばし、玄関を閉めた。
「祐馬……」
 身体を起こし、マンションの廊下の縁に捕まってようやく立ち上がった。すると閉じられた扉が再度開いた。
「これ、あんたの靴と松葉杖、それと携帯。あいつに連絡して連れに来て貰えばいいさ……。で、俺のうちのキーはもういらない。鍵はそのまま変える。あんたの荷物は全部捨ててやる。その位したって俺は良いはずだよな……」
 靴と松葉杖を廊下にゴロンと投げて祐馬は言った。携帯はさすがに投げずに下に置いた。
「少しで良い……話を聞いてくれ……」
 戸浪が必死にそう言ったが、祐馬から返ってきたのは無言の拒否だった。 
 扉は閉められ鍵をかけられた。
「……祐馬……」
 少しで良い……話を聞いて欲しいんだ……
 言い訳になるだろう
 それでも許せないと言われるかもしれない。
 だけど……
「……っ……」
 明日になったら少しは話を聞いてくれるかもしれない。
 聞いて欲しいんだ……
 私はお前を裏切るつもりなんか無かった。
 それだけでも……
 戸浪は何処にも行けずにその場で一晩過ごした。
 
 眩しくて目が開くともう朝だった。
 身体が……痛いな……
 一晩中、通路の壁を背に座り込んでいたため、身体がギシギシといっていた。時間を確認すると朝の八時前だった。
 そろそろ祐馬が出てくる頃だと、松葉杖を持って立ち上がると、扉の鍵が外される音がした。
「……なんだ、あんたまだいたの?」
 祐馬は目を真っ赤に腫らしていた。
 昨晩泣いたのであろうか?きっと泣いたのだ。
 そう思うと胸が締め付けられて痛みを覚えた。
 こんな風にしたのは他ならぬ戸浪自身だったからだ。
「本当に……少しで良いんだ……話を聞いてくれないか?」
 戸浪が言うと、祐馬は小さく溜息をついた。
「俺、帰ってきて又いたら、今度は警察に連絡するからな。嫌ならこっからさっさと消えてくれよ。あんた見て、朝から嫌な気分になった……」
 そう言って、こちらが引き留める声も無視し、祐馬は行ってしまった。
「……そうだな……」
 誰もいない通路で戸浪は呟くように言った。
 今までも失ったものが返ってきた試しはないのだ。
 今更どうあがいても、無駄だ。それを今まで嫌と言うほど経験してきたはずだ。
 戸浪は松葉杖をついて歩き出した。
 そしてようやくマンションを後にすると、公園に入ってベンチに座った。
 周囲はいつものように時間が流れている。
「……ああ……又失うのか……いや失ったんだな……私は……」
 何時だってそうだ。
 沢山を望んだことは一度もない。
 だが本当に必要だと……失いたくないと思ったものはいつの間にか指の隙間からこぼれ落ちていく。
 私は前世余程悪いことをしたに違いない……。
 何度も何度もそう思って来た。
 そして失った時に取り戻したいと思った如月は、忘れようとけりが着いた頃戻ってきた。
「……祐馬……」
 戸浪は目を瞑った。
 このまま消えて無くなりたいと本当に思った。



 大地が兄の戸浪から電話を貰ったのは、博貴と出かけようと思っていた頃だった。
「え、あ、うん。迎えにいくけど……なんかあった?」
 そう大地が聞くのだが戸浪は何も言わない。
 仕方無しに、携帯を切ると、隣に住む博貴に車を出して貰うように頼んで、戸浪が言った公園へ向かった。
 戸浪は夕闇の中一人でベンチに座っていた。よく見ると靴も履いていない。
 今は何も聞いちゃ駄目だな……
 大地はそう思い、何時も通りに兄に接した。
 戸浪は平静を装ってはいたが、やはり様子がおかしい。だが何も聞かずにうちに連れ帰った。
「兄ちゃん俺、これから博貴と出かける用事があって、夕飯作れないんだけど……どうしようか……」
「いや、いいよ。気にしないで行ってくれ。何か食べたくなったら勝手に食べる」
 戸浪はそう言って精一杯笑顔を作っている。
「分かった、勝手に冷蔵庫漁ってくれていいよ。じゃあ俺行くね。あ、遅くなったら勝手に寝てくれて良いからさ。俺、博貴のうちから入れるし、そういう心配いらないからね」
 そう言うと戸浪はホッとした顔をした。
「じゃあ俺、行ってくる。あ、誰も来ないと思うけど、来たら放って置いて良いから……」
「ああ、気をつけてな……」
 大地は戸浪に手を振って家を出た。すると、博貴も心配そうに外に立っていた。
「お兄さん……いいのかい?一人にして……」
「いいの……もし俺お前と約束無かったとしても外に出てたから……」
「え?」
「兄ちゃん、こういう時は一人にならないと泣けないんだ……」
 大地はそう言ってコーポの階段を降りた。その後を博貴が続く。
「そう……良い子だねえ大地は……」
 博貴はそう言って肩に手を回してきた。
「五月蠅いな。お前も余計なこと聞くなよ」
 帰りに何か美味しい物でも買って帰ってやろうと大地は思った。

 大地達がコーポの階段を降りていくのを聞き、戸浪はようやくホッと身体を伸ばすことが出来た。
 あの子は良い子だ……
 戸浪が今一人になりたい事を良く分かっているのだ。だから外に出てくれたのだろう
 兄弟には恵まれた……
「それで良しとするしかないんだろうな……」
 誰もいない部屋で一人そう言った。
「それにこれだけは残った……」
 言いながら戸浪は膝に巻かれたウサギのサポートに手を伸ばした。
 これは祐馬が戸浪を心配して買ってくれたものだった。これだけでも手に残ったことが戸浪にはありがたかった。
 それは珍しいものだった。戸浪はこんなサポートを見たことは無かった。ウサギのサポートなどその辺りに売っているものではない。きっと祐馬が戸浪を思って探してくれたのだと思うと、心が温まってくる。
 もう祐馬は戻っては来てくれないだろう。
 話しも出来ない。会うことも出来ない。
 だが、たった一つ、愛されていた頃の思い出がこうやって形になって残っている。
 良かった……
 今までは全部失ってきたのだ。
 だが今回はウサギのサポートが残った。
 これは進歩したのだろうか?
 そこまで考えて、昨日から我慢してきた涙がボロボロと零れだした。
 ずっと二人の生活が続くと思っていたのに……
 楽しく過ごせると思っていたのに……
 祐馬と出会った時からこの結末に向かって運命は走っていたのかもしれない。如月と親戚だという事実がある限り、どうにもならなかったのだろう。
 いずれこうなったのだ……
 いずれ全てを失った筈……
 戸浪は延々と泣き続けた。涙が止まらなかったのだ。
 ようやく泣きやんだとき、戸浪は思った。
 もう二度と誰も好きになどならない……
 大切なものを作るから、こんな事になるのだ……と。

 会社を終えた後、祐馬は散々飲んで日付が変わる頃帰宅した。ふと、まだいるのだろうかと思ったが、玄関の前に戸浪の姿はもう無かった。
「は……最初っから如月のとこへ行ってりゃ良かったんだよ……っ」
 キーを開けて祐馬は玄関に倒れ込んだ。足元がフラフラして真っ直ぐ歩けないのだ。何とか身体を起こして、玄関に座り込む。
 もう、泣くのも馬鹿らしくなっていた。昨日はさすがにショックが大きすぎて、これでもかと言うくらい泣いたのだが、今日は涙も涸れたのか一滴も出なかった。
 逆にあんな仕打ちを受けて、こっちが泣くのが馬鹿らしく思った。
 俺のいない間に……会っていた……
 会ってないって言った癖に……
 本当は如月とこっそり会って、抱き合ってたなんて……
 それも……ひとんちで……馬鹿にしやがって!
 バンッと壁を拳で叩きつけて祐馬は息を吐き出した。
「はいはい俺は馬鹿ですよ~」
 言ってよろよろと立ち上がる。
 もう眠くて仕方ないのだが、あんな事のあった寝室には入ることなど出来なかった。
 二人が抱き合っていたベットで何故寝られる?
 祐馬はキッチンに行って、冷蔵庫からミネラルウオーターを取り出すと、椅子に座って一気に飲んだ。
 はあ……
 アメリカにいっちまうんだ……
 やっぱり男はああいうタイプが良いんだろうな……
 仕事も出来て、何事にもスマートで……
 いくら過去だと言っても、再会して、そのときより立派になった相手を見たらグラッと来るかもしれない。
 俺と並べてどっちか選べと言われたらやはり如月を選ぶに違いない。
 悔しいが、仕方ないのかも……。
 祐馬はテーブルに突っ伏してそう考えた。 
 ただ、抱き合うのなら、他でやって欲しかったと祐馬は本当に思うのだ。どうしてここでそんなことが出来るのだ?
 戸浪の足が悪いからか?
 何度考えてもそれだけは許せなかった。
 嘘を付かれた事より……
 会っていた事実より……
 それが許せなかったのだ。
 あのベットで毎日祐馬と戸浪は一緒に眠った。
 お互いの温もりを感じて眠ったことも沢山あった。それなのに……。
「やめやめ……もう寝よ……」
 考えるのも今更馬鹿らしくなった祐馬は立ち上がってリビングに向かうと、そこにあるソファーに身体を横たえた。
 薄闇の中で祐馬は戸浪を思った。
 ずっと思い続けていた相手は如月だった。
 今は無理でもいつか再会する頃には、笑って会えるようになろう。戸浪は幸せなのだ。ようやく本当に望んでいた相手と一緒にいられるのだ。
 俺は馬鹿だと思う……。
 こんな目に合っても、やはり戸浪を憎んだりする事など出来ない。
 それでもこれが俺なのだ。
 いつか……きっと
 親戚の恋人として会うときが来るだろう。
 そのときは笑うのだ……
 笑って喜んでやるのだ。
 いつか……は
 でも……
 今は泥のように眠りたかった。


■   ■   ■



「そいや兄ちゃん何時から仕事だったっけ?」
 大地は御飯をよそいながらそう言った。
「後一週間ほどあるよ。そろそろ退屈になってきた……」
 戸浪はそう言って手をぶんぶんと回して見せた。
「……う~んでも兄ちゃん足悪いから外連れ廻すわけにもいかないしな……」
「そうだ、大地。ずっと聞きたかったんだが……私の料理の腕は最悪らしいな。自分では分からなかったんだが、かなりまずいと言う話だ」
 戸浪が言うと大地は驚いた顔をした。
「兄ちゃんにそれを言った奴は命知らずだと俺は思う」
「……そうか?逆に食わされた方が命が無いような感じだったがな」
 そう言って戸浪は笑った。
「俺でも言えなかったよ。だって兄ちゃん一生懸命作ってくれたもん。あれ、匂いだけはいい匂いするんだよな。俺不思議で仕方ないよ」
「私が不思議なのはどうして朝食までこの男が一緒にいるんだ?」
 ちらりと隣に座った博貴を見て戸浪は言った。
 この男、うちに大地がいるときは、いつもここに座るのだ。不愉快で仕方がない。
「まあまあお兄さん、そう堅いことは言わずに……」
 そう言ってニコニコと大地からご飯を盛った茶碗を受け取って笑っている。
 全くこのにやけた顔は一体なんだろうと戸浪はいつも博貴を見て思うのだ。どうみても営業用の顔だ。
「……だから言ってるだろ、お前はあっちで食えって。兄弟水入らずなんだから二人にしてくれよ」
 と、大地が言うと「えー仲間はずれは嫌だ」とガキ臭く博貴が言うのだから戸浪にすれば呆れてものも言えない。
 これで戸浪と同じ年だとは思えない。
「いい大人が、全く……」
「お兄さんと仲良くなろうと思ってるんですよ」
 お茶を吹き出すようなことを博貴が言った。
「博貴っ!お前いちいち五月蠅いんだよっ!食ったらお前はさっさとあっちに帰れ!」
 そんな気がないのに、大地はそう言って博貴を追っ払おうとする。微笑ましいのか何だかよく分からない二人だ。
「まあ、仲が良いのは良いことだよ……」
 そう言うと、何故か大地はお玉で博貴の頭を殴った。
「大地……お前ダンベル持ってたな?」
「あるよ。俺、最近鈍ってるからずっと使ってるのあるけど……軽いのもあるよ。使う?」
 言って押入からダンベルを持ってきた。
「二キロのと五キロのがあるけど、どっち使う?」
 五キロの方の持つ部分が汚れているのを見ると、大地がそれを日常使っているのだろう。
「二キロで良い」
 戸浪は二キロの方を借りることにした。最近ずっと座りっぱなしで筋力が落ちてきているが分かる。それで上半身だけでも運動しようと思ったのだ。
「嘘、大ちゃんこんなので運動してるのかい?」
 博貴が恐ろしげにそう言った。
「うん。そうだよ。俺、空手もこっちで習おうかと思ってるんだ。会社に入ってから全然組み手とかしてねえしな。父ちゃんにこっちの知り合い紹介して貰うことになってるんだ」
「ええーーっ!筋肉質の大ちゃんなんて嫌だよ」
「なるかっ!」
 といって、毎日五キロのダンベルを上げている拳で博貴は殴られている。実はこの男、ものすごく頭の骨が丈夫なのかもしれないと戸浪は本当に思った。
「漫才みたいだな……」
 戸浪がふとそういうと、大地が慌てて座り直した。
「えーっと俺、じゃあ仕事に行くから……」
 折角座り直したのだが、大地はそう言って立ち上がった。
「気を付けてな」
「うん。兄ちゃん、あんまりうろうろするなよ。あ、博貴、お前も部屋で身体休めろよ!全くまだ病み上がりなんだから大人しくしとけっての」
「はいはい」 
 博貴はそう言って何故か玄関まで大地を見送りに出ていった。
 面白いカップルだな……あれも……
 思わず戸浪は笑いが漏れた。
 ここもとても温かい場所だった。大地はいつも通り接してくれる。その上何も聞こうとはしない。気にくわないが、あの博貴も大地が出ていくと、自分からこの部屋へは入っては来ない。
 まあ来たら説教くらいしてやろうかとは思っていた戸浪であったが、博貴は後で大地に怒られるのが怖いのか、顔を見せることもなかった。
 時間がとても緩やかに流れているのが分かる。狭いが、窓の外から入る日光は温かく、外の景色は戸浪を退屈させなかった。
 後一週間か……
 戸浪はずっと悩んでいた。このままいつも通りの生活に戻るか、秋田の実家に帰るかどうするか……。
 帰ってもいいか……。
 戸浪は大地が買ってきてくれた座椅子に座り、膝にタオルケットを引き身体をもたれさせた。
「さて~洗い物は私がしますね」
 博貴が我が家のように入ってきて机のものを片づけだした。こちらは手伝いたくてもこんな足であったので、博貴に任せるのが当たり前のようになっていた。もともと、大地が日勤の時はどうもこの男が洗っているようだ。
「済まないな……」
 戸浪はそう言って、先ほど大地に貸して貰ったダンベルを持ち上げた。
「あの~お兄さん……」
「なんだ……」
「ちょっと聞いて良いですか?」
「……だからなんだ?」
「空手って……ずっとやると筋肉ついてマッチョな体型になったりしませんよねえ」
 と、真剣に博貴が言うので、戸浪は思わずマッチョな大地を想像して笑いが漏れた。
「いやその……笑い事じゃないんですけど……」
 手を泡だらけにして博貴が言った。
「あの子も私も元々筋肉がつく方じゃなかったから、大丈夫だろう。君が心配することは無いはずだよ。でもまあ、多少身体が締まるかもしれないな」
「良かった……やっぱり、大ちゃんにマッチョは似合わないでしょう……」
 父親が聞いたら嘆くようなことを博貴は言った。父親は大地をマッチョではないが、がっしりとした体型にしたがっていたのだ。
「これで終わり、じゃあお兄さん又夕食に来ますね」
 と、当然のように言って、部屋にある扉から自分の部屋へと博貴は戻っていった。それを見送って戸浪は先ほど持ち上げたダンベルを手に持って上下に動かし始めた。
 それを一時間ほど続けて戸浪はダンベルを置くと又ごろりと布団に横になった。
 そうだ……服とか買わないと……
 一切合切の荷物を祐馬の家に置いたままここに来た。その上、祐馬は戸浪の荷物は全部捨てると言っていたのだ。
 そのくらいされても仕方ないと思っていたから荷物に未練はない。だが当面の服が無かったので博貴に貰ったのだが、またどれも派手で戸浪は閉口した。
 今着ている、パジャマも博貴が貰ったものらしいが、これも真紫でとにかく恥ずかしい。だが、着たことのないものはこれしか無いというので、外に出ることも無いだろうからと言うことで仕方なく派手なパジャマを着ていたのだ。
 大地とはサイズが合わないから最初に却下したのだ。
 だがそろそろ自分のものを買いに行かなくては……と戸浪は思っていた。週末又大地に無理を言うしかないと戸浪は考えた。
 あと一週間ほどでギブスは取れるはずだった。それまでにはひとそろい生活用品をそろえておかなければならない。膝は痛みも無くなり、今のところ順調に回復しているようだ。
 ウサギのサポートは相変わらず膝に巻いている。そろそろ汚れて黒くなってきたが、大地が洗おうか?と言うのを断った。
 今はこれを一瞬でも外したくなかったのだ。
「お兄さん!」
 と、いきなり呼ばれて振り返ると、珍しいことに博貴が扉から顔を出していた。
「なんだ?」
「お兄さんにお客さんなんですけど……日本人なんでしょうが目の青い人なんですよ。どうします?追い返しましょうか?」
 如月か……
「いいよ。入って貰っても……」
 そう言うと、博貴はこちらの部屋に入って、大地のうちの玄関を開けた。
「あ、どうぞ」
「済みません」
 如月はそう言って入ってきた。
「お兄さん、お茶でも入れますか?」
「いい、君は自分の部屋に行ってくれないか?」
「ええ、何かあったら呼んで下さい。それにここ壁薄いですから、何かあったら飛んできますよ」
 と、余計なことを言って博貴は部屋に戻った。
「如月……なんだ。まだ用があったのか?」
「……ここ、弟さんの家なんだな」
 如月はそう言って戸浪の横に腰を下ろした。
「ああ。どうしてここが分かった?」
「弟さんはうちの系列会社の人間だ。調べれば簡単に何処に住んでいるか分かる。そう言うことくらい調べられる立場にいるんでね」
「……そうだったか……知らなかったよ。系列だったのか……」
 全くそんな事など気がつかなかった。
「私の所にも来ない。祐馬の所も出た。後はここしかないと踏んだんだ」
「で、まだ何か文句があるのか?」
「いや……」
「じゃあ何しに来た?」
「戸浪……本当に私たちはやり直し出来ないのか?」
 如月は真剣にそう言った。
「ああ。出来ない……」
「どうしてもか?」
「私がもうお前に対して何の感情も無いから……」
 言って戸浪は目を瞑った。
「……」
「あれから考えた。手紙が届いていたら私はどうしていたか……」
「どうしていた?」
「多分行かなかっただろう……。私とお前は違いすぎるんだ。お前は自分で自覚しているかどうか分からないが、上を見て歩く男なんだ。前へ前へ行きたがる男だ。私には出世欲もないし、お前のように世渡りが上手い訳じゃない。その違いが、私自身を引き留めるのだと思う……。お前を好きだった。だがいつもそんなお前に私は不安を覚えていた。時々私を忘れているお前がいた。縛るのが怖くて何も言えなかった。離れて暮らして追えなかったのはそんなお前の足かせになるのが怖かったからだ……。私らしくもなく、お前が時々来てくれるだけで良いとまで思った……苦しかった……」
「戸浪……違う……」
 如月は苦しそうにそう言った。
「違わないよ如月……。では何故今帰ってきて、私を取り戻そうとする?もっと早くても良かっただろう?何年も経った今、どうしてだ?お前の仕事が一段落ついたからじゃないのか?ふっと立ち止まって私を思いだしたのだろう?それは余りにも身勝手すぎやしないか?」
 目を開けて如月を見ると、辛そうに顔をしかめていた。
「戸浪……私はずっとお前のことを忘れたことは無かった。ずっとだ。忘れようとした。だが出来なかったから帰ってきた……」
「お前の気持ちだけを押しつけるのか?私も苦しんだ……。それをどうして分かろうとしない?そんな過去を引きずって今まで来た。誰かを好きになるのが怖かった。そんな時祐馬に会った。祐馬は私が過去の相手を引きずっているのを知っていながら、私を好きだと言ってくれた……一緒に暮らそうと言ってくれた。祐馬に出会わなかったら……私はきっと過去の痛みをずっと引きずっていただろう。それを救ってくれたのはお前じゃない。祐馬なんだ……」
 祐馬に出会って、自分がようやく素直になれたのだ。
 祐馬に出会って痛みをようやく過去のものにできた。
 如月よりも大きな愛情と広い心を持っているののだ。
「……そうか……私だけではなかったのか……」
「ああ……」
「だが失ったぞ……」
「いいんだ……話しも聞いてくれなかったことだしな……それだけ祐馬を傷付けてしまったんだから……」
 そこまで言って言葉が詰まった。
「……私を恨んでいるか?」
「いいや……誰も恨むつもりなんか無い。一番悪いのは私だ。お前はずっと私を好きでいてくれた。だが私はその事を忘れて祐馬を好きになってしまった。きっとこうなる予定だったんだろう……だが……」
 躊躇いながら戸浪は次の言葉を言った。
「如月……嘘は駄目だと私は思う。だが一生かけてついても良い優しい嘘がこの世にはあると思う。それが今だった。そう思わないか?お前が私とのことを黙っていれば、良かったと思わないか?」
「そうだな、そうすればお前は祐馬を失わなかった」
 皮肉のように言われ、戸浪はムッとした。
「違う。そうじゃない。お前も可愛がっていた弟のような祐馬を失ったんだぞ!分かってるのか?後悔していないのか?私達は二人とも祐馬を失ったんだ。その事を言ってるんだっ!」
 戸浪はそう叫ぶように言った。
「……ああ」
「……でも、祐馬はいい子だ……。何年かしたら、きっと彼女でも出来るだろう。そのときはお前達は過去を綺麗に流して又仲良くしてくれ。私はいい……」
「戸浪……お前……」
「いいんだ……祐馬がお前と親戚であった事でいつかこうなったんだろう。私もじたばたして隠したのがいけなかったんだ。それだけだ……今更何を後悔しても元には戻らないんだから……」
 もう涙は出なかった。
「戸浪……」
 如月がいきなり戸浪を抱きしめた。
「……ああ、これでさようならだ……」
「ああ……分かってる……」
 絞り出すように如月は言った。
「がんばれよ……お前も……」
 戸浪も手を回して、如月に身体を任せた。昔に感じた温もりが伝わってくる。だが祐馬よりも一回り大きい胴回りは、手に余った。
「愛していたよ……戸浪……」
「だがもう終わったんだ……如月……」
「終わったんだな……」
「終わったんだ……」
 如月はこの先きっともっと出世するだろう。パートナーはそれをフォローできる人間だ。戸浪はそれについていけない。だからきっと如月には仕事も人生も共に出来る相手がいるはずだ。
 戸浪はそう思って目を閉じた。
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