「恋する王子様」 第3章
「そうだな……二人分面倒見る話ではなかった事だし……鳥人間など焼き鳥にしても美味くはなさそうだ……」
男はつまらなさそうに言った。
先程から鳥人間、鳥人間と言うのがルースには不思議であったが、それを問うことなど出来なかった。
「……で、王子様。私はとても優しい人間だ。だから君に選ばせてあげようと思っているんだよ……私は本当に人が良い……」
顔の表情をピクリとも動かさずに、男はそう言った。それが余計に恐いのだが、ルースは鳥を抱きしめながら必死に踏ん張った。
「選ぶって……?」
掠れたような声でルースが言うと、男は目だけで笑った。
「どういう死に方が良いかい?苦しまずにあっという間に死ねる方法と、苦しみながら暫く生きながらえて死ぬ方法と二つある。ああ、あっという間に死ねる方はあんまり奇麗には死ねないが……どうせ死んだ後のことだ、君が気にすることはないだろう……」
やはり男は表情を崩さずにそう淡々と言った。
「……僕は……」
もちろん痛くない方が良いけど……
苦しむのは嫌だけど……
すぐに死んでしまったら、とうさまにもお別れが言えない。
テイオーにだってお別れ言いたい……。
スペンサーにも……
僕……
会いたい……
「僕は……すぐに死ぬのは嫌だ……。苦しくても良いから……ゆっくり死にたい……」
スペンサーに僕は謝りたいんだ……
その時間が欲しい……
だから苦しくてもいい……
いいんだ……僕……
「ブラボー。いや、君は素晴らしい。弱々しく見えるがなかなか根性があるようだ。まあもし時間稼ぎと考えているのなら、無駄だと最初から忠告して置いてあげるよ。この呪いは、私だけしか解くことが出来ない代物でね……」
男は何故か私だけの部分を強調して言うと、こちらの額飾りを取り去り、白い指先を置いた。その指から魂まで凍えそうな冷たさが伝わり、ルースは身を震わせた。
「この呪いは君をゆっくりと死へ導いてくれる……。痛みと、苦しみを充分楽しんでくれたまえ……」
呪いはかけられた。
「王子様……」
血色なく草むらに倒れているルースに近寄ってレーヴァンは言った。だがレーヴァンの言葉はルースにはもちろん通じない。それでもレーヴァンは構わず声を掛けた。
「ごめんよ……おいらがいたから逃げられなかったんだよな……」
どっちにしろ、あの男から逃げられるとは思わなかったのだが、ルースは逃げることもせず、自分を助けようとしてくれたのだ。
おいらなんか……
おいらなんか王子様が庇うほど立派な人間じゃなかったんだぞ……
それに今は鳥なんだぞ……
それなのに……何で庇うんだよ……
ほっときゃよかったんだよっ!
あんたやっぱり馬鹿王子だっ!
でも……
スペンサーが言っていた通り……
王子様は優しい子だ……
長いくちばしで気を失っているルースの頬を、そっとつつくのだが意識が戻らない。
ルースは額を男に触れられた後そのまま気を失い、地面に倒れたのだ。レーヴァンがそれに気を取られている一瞬の間に男は消えていた。
「王子……王子様……」
つんつんと何度か頬をつついているとようやくルースの目が、細く開いた。
「……あ……れ?」
ルースは目を擦りながら、ハッと気が付いたように額に手を延ばして、男に触れられた部分を撫でている。そこにはうっすらと赤い色で円が描かれ、その真ん中には見たこともない文字が、幾つか鬱血したような色で浮かび上がっていた。
身体を起こすのが辛いのか、横になったままこちらに手を伸ばし、頭を撫でる。
「ねえ、翼、折れてるんだよね……大丈夫?」
ルースがそう心配そうに言った言葉で、レーヴァンはウッと胸が詰まった。あの男が言ったとおり、呪いがかけられたのだとすると、今ルースは苦しいに違いない。それなのに、真っ先にレーヴァンのことを心配しているのだ。
自分がルースの盾になったのは、さっさとトンズラすればそれがスペンサーにばれた時が怖かったからだ。そう言う理由で必死に立ちはだかった。本当に、ただそれだけの理由であった。
あの氷のような男よりレーヴァンはスペンサーの方が怖いからだ。レーヴァンはそんな風に思っていたことを恥じた。この事がばれたらきっとルースにも軽蔑されるはずだ。もちろんスペンサーからも何を言われるか、どんな風に責任を取らされるかもわからない。
だがその、スペンサーなら何とかしてくれる……
そう思ったレーヴァンは、ルースが城の人間に助けられるのを待ってから、すぐに帰ろうと思った。しかし、翼は折れて飛ぶことは出来ない。だからといって、ルースをこのままにしておけないのだ。
すると、向こうから衛兵らしき人間が馬に乗って駆けてきた。
とりあえず……
良かった……
後は……
「あ、誰か……来たみたい……君も一緒に連れて帰って貰うように言うね……翼……治療して貰わないと……」
語尾が小さく掠れ、こちらの頭を撫でていた手がズルッと落ちた。ルースの様子を伺うと、又気を失ったようだ。
「おいら……すぐスペンサーを呼んでくるよ……。ごめん……おいら行くけど……お城の人達も来たみたいだし大丈夫だよね……」
オロオロと言いながらレーヴァンは折れた翼を引きずり、そこから離れた。
何度も何度も後ろを振り返りながら……。
目が覚めると、父親の心配そうな顔が見えた。隣には医者が二人付いていたが、難しそうな顔をしている。その後ろに義理の母もいるが、何故か口元を歪め、どう見ても嬉しいのを押し隠しているようであった。
……
やっぱりおばさんだったんだ……
精一杯開けた目で、それを確認し、ルースは又視線をレンドルに戻した。レンドルは泣きそうな顔をしている。
自分の父親とは思えないほど、レンドルは恰幅が良く、背幅も広い。やや張った頬骨は男らしい輪郭を浮き彫りにしていた。
僕はとうさまの子供だから……
大きくなったらこんな風になれるんだ……
ずっとそう思ってたけど……
駄目みたい……
雨が降っているのか、遠くの方でサラサラと雨音が聞こえる。
雨……
いつの間にか雨が降ってる……
何となくその音がルースには優しい音楽のように聞こえた。
「とうさま……」
ようやく笑みを浮かべてルースはそう言ったが、レンドルはニコリとも笑わず、差し出した手を取り、温めるように手の中に包み込んだ。
「一体何があったんだ?誰にこんな事をされたんだ……」
レンドルはこちらの額に付けられた跡をちらりと見、そう言った。
「……わかんない……ごめん……」
その言葉を出すのも実はルースにとって、とても辛かったのだ。今は身体の力が抜けたように動かないからだった。
間接のあちこちが痛く、熱を帯びている。その感じは酷い風邪を引いたときに、似ていたが、風邪ではないことをルースは知っていた。
苦しい……
息が止まりそうで止まらない。少ししか空気を吸うことが出来ず、必死に喘いでいるが、充分な空気が肺に送り込まれないのだ。
耳もなんだか遠くなったようだった。レンドルが医者に怒鳴りつけている声が酷く遠くから聞こえるのでそれが分かった。なによりレンドルは真横にいるのにだ。
手足を動かすのも辛い……
このまま……
耳も聞こえなくなって……
目も見えなくなっちゃうのかな……
あ……声も出せなくなるかもしれない……
それまでにスペンサーに会わなきゃ……
ちゃんとスペンサーを見て……
スペンサーの声を聞いて……
僕自身の声で謝らないと……
「と……さま……」
喉から絞り出すようにルースがそう言うと、レンドルは医者に怒鳴るのを止め、ベット脇に戻ってきた。
「どうした?苦しいのか?」
「スペンサー……に……僕言わなきゃ……ならないこと……あるんだ……だから……」
「あの男には先程使いを出した。明日には帰ってきてくれるはずだ。だから心配するな。スペンサーならお前を治してくれる。それが出来る男だからな……」
そのレンドルの言葉を何とか聞き取り、ルースは頷いた。
明日まで……
もつかな……
別に助からなくても良いんだ……
最後にスペンサーに会えるだけでいいや……
もう言葉を出すのも辛いんだもん……
ルースは目を開けるのも辛くなり、ようやく開けていた目を閉じた。するともう瞼がひっついたように閉じ、もう自力では開けられなくなった。
「ルース……大丈夫だ……」
固い大きな手が何度も額を撫で、髪を撫でるのが分かる。この大きな手に触れられるとルースは嬉しくなる。
暖かく大きな手は、保護されている気になるのだ。自分の手とレンドルの手は、男と女ほどの違いがある。その手を見るたび羨ましいと何度思っただろう。
とうさまの子供なのに、僕どうしてこんな痩せっぽっちで、男らしくないのかな……小さい頃からそんな風にルースは思ってきたのだ。
もっと大きくなったら……
とうさまみたいになれるって……言ってたけど……
全然駄目みたい……
どうしてかなあ……
勉強も出来ない……
取り得だって何も無い……
本当に、なんにも僕には良いところがないよね……
生まれてこなかった方が良かったんだよ……
スペンサー……
会いたいよ……
会いたいんだ……
違う……
大好きなんだ……
ずっとずっと好きだったんだ……
そう言いたかったんだ……
それを受け止めて欲しかったんだ……
駄目だな……僕……
何時だって無い物ねだりばっかりしてる……
僕には……
もともと何もないんだもんね……
だって……
生まれてこなかった方が良かったんだもん……
誰にも望まれなかったんだ……
そんな僕が……
何かをねだる事なんて……しちゃ駄目だったんだ……
忘れてた……
ごめんね……スペンサー……
忙しいと思うから……来なくて良いよ……
僕は元々独りぼっちだったんだから……
寂しくない……よ
ルースが床に伏せていた頃、一匹の鳥が雨の降りしきる中、山道を走っていた。
「はーはーは……っくっそーー」
山の斜面を駆け上りながらレーヴァンは一人悪態を付いた。
二本脚で走るには鳥の身体は非常に不便だ。何より片翼を引きずっているため、木や草に引っかかり、気付かず走ると引っかかった反動で後ろに転ぶのだ。
「なんであの野郎は、山奥に住んでるんだよっ!これじゃあ、たどりつかねえじゃねえかあっ!」
あちこち傷だらけにしながらレーヴァンはひたすら、駆け足で走った。雨を吸い込んでいる大地はぬかるみ、一歩踏み出す事に細い鳥の足はずぶずぶと土に沈む。その所為で情けないほど速度が出ない。
「おいらは鳥だっ!元人間だけど今は鳥だっ!鳥が二本脚で走るのはおかしいと思わないか?あいつがおいらをこんな姿にしたから、王子様を助けられなかったんじゃないかっ!」
と、鳥であったから助けられた場面があったことなど、すっかり忘れたレーヴァンはそう怒鳴りながらも走っている。
そりゃあ……
おいら悪いことばっかりしてた。
リンチにあい、のたれ死にしそうだった自分を助けてくれたのはスペンサーだった。だが悪行がスペンサーの耳にまで入るほど、レーヴァンは人間だった頃、聞くと人々が眉をひそめるほど悪いことばかりしていたのだ。
その所為か助けては貰ったが、こんな姿にされてしまった。
善行を積め……
そうしたら元に戻してやる……
スペンサーはそう言ってチャンスをくれたのだ。
その事に付いて恨んだりはしていない。意外に鳥の自分も最近では気に入っていた。
大空を飛べることの快感は人間では味わえないだろう。元々人間不信から、悪いことばかりしていたのだから、人間と関わることが出来ないこの姿はレーヴァンに取ってとてもありがたかったのだ。
だが今日は人間であればと本当に思った。
人間としての姿をしていた頃に、ルースと会っていたら、きっと自分は今、鳥にはされていないはずだ。あんなに優しい人間をレーヴァンは見たことが無かったのだ。
多分、ルースはレーヴァンが鳥であっても、人間であっても、自分の前に立ち、庇ってくれたに違いない。
あの時、庇うように立ちはだかったルースは手を広げながらも、その小さな身体を震わせていたのだ。ルースも恐かったのだ。なのに精一杯の勇気を振り絞って自分の前に立った。
それに感動しながらも、逃げて欲しかった。
王子様なのに……
おいらを盾にしてもおかしくないのに……
何で……
何でだよ……
ごめんよ~ごめんよ~
王子様は馬鹿なんかじゃないよ……
よわっちくもない……
強そうに見えて肝心な時に役に立てない人間を沢山見てきた。何時も立派なことを言う癖に、ここと言うときに、こそこそ逃げ出す奴も沢山見てきた。
本当に強い人間は見かけじゃないのだ。
逃げ出したいときでも、精一杯の勇気を振り絞ることが出来る人間が一番強く、そして優しいのだ。
それがルースだった。
馬鹿にしたことを後悔しながらレーヴァンは必死に走った。時間が経つにつれ、あちこち怪我をし、降りしきる雨の為に重くなった羽は鉛を担いでいるようであった。だが、そんな事など構わずレーヴァンは走った。その後に羽毛を飛び散らせながらも、泣きながら走った。
だがスペンサーの住む庵はあまりにも遠かった。
途中でレーヴァンは転倒した拍子に意識を失った。
翌日の昼頃、ルースは又意識が戻った。揺り起こされたような気がしたが、レンドルがベット脇の椅子に座り、腕を組んで眠っているのが見えただけで、誰も自分には触れてはいなかった。
はあ……
なんだか少しましなような気がする……
昨日の苦しさより、今は少しましな気がルースにはしたのだ。身体中が痛いのは相変わらずなのだが、昨日より息が出来ているようだ。
ゆっくり苦しんで死ぬんだ……
あの黒い男はそう言った。
今、少しだけ楽になったとしても、又苦しくなるのだろう。
ルースはそう思って、身体をベットに横たえたまま、レンドルを眺めた。
お前は私の跡を必ず継ぐんだぞ……
あの女の息子にはこの国は渡せないんだからな……
レンドルは何度そうルースに言ったか分からない。ルースの母親が死に、その後、回りの国々で争いが起こった。レンドルはこのそれほど大きくない国を守るために、政略結婚で、大国の姫を後妻に娶ったのだ。
それは知っている。だから息子のルースに何を企んでいるか分かっていて、追い出せないのだ……。
ふうっと息を吐き出して、ルースは目を閉じた。
でもねとうさま……
僕本当に跡を継ぐなんて嫌なんだ……
だって全然似合ってないし、資格も無いの分かってるだろ……
いいか……
僕もう死んじゃうんだから……
微睡むように眠りに落ちようとすると、急に心臓を掴まれたような痛みが身体を走った。その痛みでルースの小枝のような身体が仰け反った。
「……あっ……ああっ……いた……痛いっ……」
声をいきなり上げたルースに、目を覚ませたレンドルが駆け寄った。
「ルースっ……どうしたっ!痛いのかっ?ダンケン!ダンケンを呼べっ!」
医者の名を呼びながらレンドルは小枝のようなルースの身体をしっかり抱きしめた。
「あっ……痛い……っ……とう……とうさま……っ!」
急に襲ってきた痛みは、身体中を駆けめぐった。痛みで涙がボロボロと頬を落ちる。どうして良いか分からないのだが、振り上げた手で何かを掴もうと必死にばたつかせた。
無我夢中で痛みを振り払うように暴れていたのだが、急にベットに押さえ込まれ、口元から生ぬるい液体が喉を通った。
その所為か暫くすると、痛みが引いた。
「……は……っ……はっ……あ……」
涙の跡を残して、ルースはようやく落ち着いた。
「役立たずばかり……だ……」
レンドルはそう言い、腕の中で丸くなるルースの痩せた背を撫でた。
「どうしてうちの術者は何もできんのだ?何のために雇っているんだっ!」
そう言ったレンドルの身体が小さく震えているのがルースにも伝わった。
とうさまだけは僕の事……大事にしてくれる……
それがとてもルースには嬉しかった。
何時だってそれは分かっていた。
だがレンドルの望むような自分になれないことが悲しかった。
とうさまごめんね……
僕の所為で、色々言われてたの知ってるよ……
小さい頃から周囲で囁かれていたことを、残酷にもルースは耳にしていた。だがレンドルはそんなことなどこれっぽっちもルースには言わなかった。
何時も頑張れと励ましてくれていた。
本当にお前はお馬鹿だなあ……とも言われたが、それは愛情からの言葉で、周囲で囁かれる同じ意味の言葉と違い優しさがあった。
ああもう……
ここまで来たら……
早く死にたいな……
こんな僕を見るの……
とうさま辛いだけだもん……
選択……
間違ったんだね……
スペンサーに会いたいなんて思ったからだ……
もう会えないのに……
一気に死んでいた方が迷惑かけなかったのに……
ふうっと息を薄く吐き、ルースはレンドルの腕の中でまた意識を失った。
「何だ……何時まで遊んでいるんだ……」
スペンサーは、ようやく一段落付いた部屋で御茶を飲みながら一人呟いた。昨夜雨が降ったので、それをしのぐために一晩おいて、今朝にでも帰ってくると思ったのだ。
だが、いつまで経ってもレーヴァンは帰ってこない。
その上、そろそろと思いながら、もう昼を過ぎた。
レーヴァンは雨だろうが何だろうが、すぐに帰れと言ったら本当に帰ってくるのだ。人間だった頃、レーヴァンは人間不審が高じて人を傷つけたり、悪いことばかりをしていた。その為彼をあんな姿にし、反省させようとしたが、どうも最近鳥であることを気に入っているようであった。
そうであるから人間の多い所であまりうろつかないのだ。
と言うわけで、レーヴァンはスペンサーの目の届く範囲で、何時もうろうろとし、悪態をついているのだ。
「全く……」
口ではそう言いながら、心配になったスペンサーは、木のボールを取り、中に水を入れて、人差し指を額に当て何やらぶつぶつと口の中で詠唱すると、指先を水に浸けて円をかいた。すると、その水面が波打ちユラユラとレーヴァンの姿を映しだした。
そこに映ったレーヴァンの姿を見た瞬間、スペンサーは最初ゴミかと思った。
「久しぶりで腕が鈍ったのか……」
だがよく見ると、ゴミが動いていた。
「えっ……!」
ゴミのように見えたのは、どろどろに汚れ、傷だらけになったレーヴァンだった。羽毛は逆立ち、あちこち抜け、それでも、もぞもぞと地面を這っている。目を見開いて見ると、どうも片翼を引きずっていた。
もしかして……人間に酷い目に遭わされたのか?
スペンサーは大急ぎで外へ飛び出し、ファルコを呼んだ。そのファルコは庭でぐっすりとお休み中であった。その間抜けな寝顔をひっぱたき、目を覚まさせると、スペンサーは怒鳴った。
「ファルコっ!レーヴァンが大変だっ!ここからすぐの所だっさっさと起きろっ!」
ファルコは渋々身体を起こし、ブルブルッと身震いすると、立ち上がった。その背にまたがり、スペンサーはレーヴァンの居る場所へと急いで向かった。
そしてようやくレーヴァンを見つけると、水面で確認したよりも酷い怪我をし、岩と岩の間に挟まれて動けなくなっていた。
「スペンサー……」
こちらを確認したレーヴァンは目を潤ませながらそう言って、弱々しく長い首を持ち上げた。その黒い体躯には小さな切り傷を一杯身体に作り、羽毛が沢山抜け落ちている。そんなレーヴァンを抱き上げてスペンサーは言った。
「なんだ……どうしたんだ?こんな姿になって……」
「おいら……おいらは良いんだ。おいらよりも王子様がっ!王子様がっ!」
ボロボロと涙を落としてレーヴァンは言った。興奮している所為か、何を言いたいのかスペンサーには分からなかった。
「ルース様がどうしたんだ?ほら、ゆっくり、ちゃんと話しなさい」
そう言うと、レーヴァンは、泣きながら何があったのかを話した。スペンサーは途中から誰が犯人かを知った。
あいつ……
「分かった。良く頑張ったな。褒めてあげるよ。ただ、お前の傷の手当ては後になるが……いいかい?」
ファルコの背にまたがり、その両腕の間にレーヴァンを乗せたスペンサーはそう言った。
「おいらは……この程度じゃあ死なないけど……王子様は大変なんだ……。おいらはいいよ……後で充分だ……」
ホッとした顔をして、珍しく誰かを心配するレーヴァンに、満足げな笑みを向けたスペンサーは、ファルコの足を空へと向けた。
空から駆け下りながら城に着くと、スペンサーが到着したのを知ったレンドルが慌てて走ってきた。
「スペンサー息子が……ルースがっ!」
取り乱したレンドルはただの父親になっていた。
「遅くなりました……先程知ったところで……。ルース様は?」
見知った馬番にファルコとレーヴァンを預け、スペンサーは足早にルースの部屋へと向かいながらそう聞いた。
「もう……もう殆ど息をしておらん……あの子は……死んでしまうかもしれん……。助けてやってくれ……頼む……」
ルースの母親が事切れたときも、レンドルはそう言った。ゾッとするようなデジャブにスペンサーは襲われた。
「大丈夫です……」
そう言ってようやくルースの部屋に入り、天蓋付きのベットに駆け寄った。
「ルース様……聞こえますか?」
血色のない肌に沢山の汗を滴らせ、小さく呼吸するルースがそこにいた。こちらの声が聞こえていないかもしれないとスペンサーは思った。
そうして額にある印を確認し、思った通りだと溜息が漏れた。
「これは私では取り去ることが出来ない印です。かけた術者か、もしくは…。いえ、この術者を知っておりますので、交渉してきましょう……」
「だが……もう……息子にはそんな時間は……」
「それも大丈夫ですよ。暫く時間を稼ぎましょう……」
言ってスペンサーは真っ青になったルースの口元に自分の口を合わせ、ふっと息を吹き込んだ。すると小さな身体が、一瞬のけぞり、大きく息をした。
「顔色が……少し戻ってきた……」
レンドルは驚きながらも、やや様態の落ち着いたルースを確認して、ようやく椅子に腰をかけた。
「命の吐息です。今暫くは大丈夫でしょう。では私はルース様にこんな事をした不届きな相手に会ってきます……」
安心させるようにレンドルに笑みを向け、スペンサーはベットを離れた。
「息子をこんな目に会わすような男は殺してやれ……」
スペンサーがルースの部屋を出ようとすると、レンドルはそう呟くように言った。
馬番からファルコを連れてくるように言い、レーヴァンの事を頼むと、スペンサーはその男の元へとファルコを走らせた。
こちらの住まいとは違い、その男は今も住んでいるのなら、谷間の奥深くに居るはずだった。
切り立った崖をまるで天馬のようにかけ、流れる川を走り抜けたところにその男の住まいを見つけた。
やはりまだここに住んでいたのか……
ファルコから降り、暫くその辺りで遊んでいるように言いつけると、スペンサーは、草木で隠している洞窟に向かって声をかけた。
「フェンリルっ!居るんだろうがっ!貴様っ!何様のつもりだっ!嫌がらせもたいがいにしろっ!」
「呼んだか?」
いきなり真後ろから声をかけられたスペンサーは驚いて振り返った。
フェンリルは相変わらず表情のない顔で日を背に向けて立っていた。
「呼んだかとは何だっ!ルース様にあんな小細工をしたのは貴様だろうがっ!」
「そうだ……だから何だ」
真っ黒な目を細めてフェンリルは言った。
「お前が誰に頼まれたのは分かっている。そんな事はいい。呪いを解くキーワードは何だ」
「……おや、私が何の報酬も無しに教えるとでも思っているのか?」
青い光沢を放つ黒髪を風になびかせフェンリルは言った。
「お前が面白がって、あの女の依頼を聞いたと私は思って居るんだが……?」
スペンサーはそう言ってフェンリルを睨み付けた。
「面白がっているわけでもない。嫌がらせでもない……」
言ってフェンリルはこちらの首に手を回してきた。
「……じゃあ何だ……」
「一晩、一緒に居てくれたら……ただで教えてやるよ……」
フェンリルはそう言って、ようやく口元に笑みを浮かべた。