Angel Sugar

「誤解だって愛のうち」 第1章

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 戸浪の様子がおかしい……
 戸浪は暫く前から機嫌がずっと悪いのだ。理由を聞いても「お前には関係ないと」言うだけで、話してくれない。何より食い下がって聞くと必ず拳が飛んでくるので始末が悪い。
 恋人は空手の有段者だ。下手に怒らせるとこっちの命がなくなるような気がして仕方がない。時折、俺って愛されてないのかも……と思うことも多々ある位だ。
 だが、日々憔悴していく戸浪を心配するのは恋人として当然だと祐馬は思うのだが、そんな祐馬の気持ちなど戸浪はこれっぽっちも分かってくれない。
 仕方が無いので、祐馬は暫くの間、戸浪をそっとして置いたのだが、機嫌が傾いてから半月ほど経ったある日、今度は連絡もせずに一晩帰ってこなかった。このときばかりは祐馬も腹が立った。 
「ねえ、俺怒ってるんだけど……」
 朝早く帰ってきた戸浪に祐馬は腕組みして言った。だが戸浪は無言で靴を脱ぎ、寝室に向かった。
「あのさ、無断外泊してその態度なに?俺すげえ心配してたんだぞ」
「……今日は会社を休む……。暫く寝たら又出かけるから……」
 うざったそうに戸浪がそう言うので余計祐馬は切れた。
「俺そんなこと聞いてないだろ?昨日何処に行ってたんだよ!」
 怒鳴ってそう言うと、戸浪がくるりと振り返ってこちらを睨んだ。何時も白い肌だが今日の色は蒼白に近い。
「なんだよ。戸浪ちゃんが悪いのに、俺のこと殴るのか?」
 仁王立ちで祐馬が言うと、戸浪はぷいと向こうを向いて又歩き出した。
「う~っ……いい加減にしてくんないその態度!戸浪ちゃんが悪いんだろ!」
「そうだ私が悪いんだっ!」
 こちらを振り向かずに戸浪は吐き捨てるようにそう言って、寝室の扉をバタンと閉めた。
 なんだよあの態度わ!!
 祐馬はここで引き下がるつもりは無かった。閉められた寝室の扉を開けて、既にベットに横になっている戸浪を見下ろすように側に立った。
「戸浪ちゃん……本気で俺怒ってるんだけど…」
「……眠いんだ……」
 戸浪はそう言ってゴロンと横になった。何時もきっちりしている戸浪には珍しく、スーツを着たまま毛布に潜り込んだ。だが祐馬はその毛布をひっぺがした。
「いい加減にしろよ!説明も無しに勝手に寝るな!」
 怒鳴ると、戸浪は身体を起こして又睨んでくる。
「放って置いてくれっ!一人になりたいんだっ!」
「ちゃんと説明してくれたら、放って置いてやる!」
 祐馬がそう言うと、戸浪は何か言いたそうな顔をしたのだが、又ベットに丸くなった。しかもこちらに背を向けてだ。
「……俺……戸浪ちゃんの何?恋人だよな。そんでそういう戸浪ちゃんの事心配するの当然だよな。なのに、なんも言ってくれない……。それってどういう事?」
 身じろぎもしない戸浪の背中に向かって祐馬は言った。だが、戸浪の返事はなかった。
「……分かった。勝手にしたらいいよ……俺、仕事行く……」
 祐馬はもう何も言わずに寝室を出ると、スーツを羽織り、鞄をもってマンションを後にした。

 会社に出社し、仕事をしながらも祐馬は気になって仕方が無かった。何があったら戸浪があんな風になるのだろうと朝からずっと考えているのだ。外回りに出かけても、気がかりなのは戸浪のことだった。
 一度は会社に辞表を出したのだが、結局受け取って貰えなかったのと、戸浪が辞めるなと言い張ったので、結局、辞表を撤回した。だが祐馬にとって仕事は二次的なもので人生にかかる比重は軽い。今一番大切なのは戸浪であり、戸浪と送る生活だった。
 俺がこんなに想ってるのに……
 はあ~と溜息をついて祐馬は止まっていた手を動かして又見積書を手書きしだした。
 好きの度合いが違うのだろうか?
 戸浪にとって俺は本当に恋人なのだろうか?
 どうも戸浪には過去つき合った男が居て、その男に手酷く振られたようだ。それは時折出る言葉で分かった。だが、詳しいことは何も話さない。それは不満には思うが、戸浪が言いたくないと思っているのなら仕方ないと思ってきた。
 だが、それだけではなくて今も何か隠している。それほど頼りにならないと思われているのだろうか?
 年下だから?
 確かに戸浪より三つ下なのは何処までいっても縮まらない。だがそれだけの理由で何も話してくれないのだろうか?
 もしかして……昔の男が又何か言ってきたとか?
「三崎……なんだその鳩が豆鉄砲食らったような顔は……」
 前に座って同じように見積を手書きしている同期の吉見が言った。
「……えっ……あ、いや……はは……」
「こいつさっさとやらないと、まった~あのハゲに文句言われるんだからさっさとやってしまおうぜ」
 吉見がそう言ってボールペンで、ハゲなる課長を指した。
「だな……」
 クスッと笑って祐馬は手を機械的に動かした。
「なあ……そいや吉見は彼女居るんだよな……」
「え、まあなあ……」
 へへと吉見は笑った。
「その彼女ってお前以外に昔誰かとつき合ってたことある?」
「……な、何だよ。何でそんなこと聞くんだよ」
 急におどおどして吉見が慌てた。
「いや……俺のさ……恋人って昔つき合ってた男に酷く振られたみたいでさ~。そっちとは切れてるみたいなんだけど、その詳しいこと話してくれねえし……。なんか最近おかしいんだよ」
「話してくれないのか?」
「うん。そんで、昨日なんか連絡も無しで朝帰りだぜ……参っちゃったよ……」
「……お前、同棲してんだ……すげえな」
 吉見はそう言って羨ましそうな顔を向けた。
「あ、はは……ま、そうかな……」
 ばらしちゃったよ~と思いながら、祐馬は笑って誤魔化した。
「あーあ~でもさ、何も言わずに朝帰りって、前の男とより戻ってるんじゃねえの?」
「え?」
 昔の男が何か言ってきたのではなくて、より戻ってるのか?
「だって、朝帰りだろ。ホテルでやって帰ってきたに決まってるよ。可哀相な祐馬ちゃん。暫くしたらいつの間にか出ってるぞ……気をつけろよ~」
 人の不幸を何故笑う!
 祐馬はムッとしたが、考えるとその方がなんだか戸浪の状態にピッタリ当てはまる様な気がして仕方がない。
「……そ、そんなこと無いよ。だって、俺のこと好きってちゃんと言ってくれたし、前の男と較べたことも無いって言ってくれたからさ」
 乾いた笑いを浮かべて祐馬は言った。
「俺経験あるけど……いや今の彼女じゃないけどさ、そいつさ、やっぱり昔好きな人に振られて、次に俺とつき合ったんだけど、一年つき合ったのに昔の男が、忘れられないって彼女にちょっかい出してきて、いくら何でも大丈夫だと思ったのに、結局振られたの俺だもん。あん時はマジ殺意抱いたぞ」
 祐馬は言葉が出なかった。
「やっぱさ、初めてつき合った相手ってなんかこう、思い入れがあるんだろうな。俺にはその女心ってわかんねえけど……」
 相手は女じゃないのだが、戸浪が未だにその過去の男を引きずっているのは祐馬にも分かっている。そんな相手がよりを戻そうと言ってきたら、戸浪はどうするだろう……。
 そんじゃ俺とは終わりにするって事か?
 不吉なことを考えて祐馬は首を振った。
「いや……それは無いと思う……」
「まあ、そうなったら、合コンでも企画してやるよ」
 吉見は気軽にそう言った。だが、こちらはそんな冗談につき合える心理状態ではなかった。
 戸浪は本当に過去の男から何か言われているのだろうか?それより朝帰りもその男と一晩過ごしたとでも言うのか?だから問いかけても答えてくれなかったのか?
 何より戸浪とはキスはしたことはある。抱き合ったこともある。だがその先には進んでいない。戸浪が嫌がっているからだ。
 実際は嫌がると言うより、こちらが触れると戸浪は身体を硬化させるために、強引に先を進めることが出来ないといった方が良い。
 実はそれも昔の男に操を立てているからか?
 だから俺とは嫌なのか?
 俺は……戸浪ちゃんのこと大事にしたいから強引なことはしなかった……
 だけど……
 考えても考えても祐馬は不吉なことしか思い浮かばない。やっぱりとことん問いつめた方が良いのだろうか?それとももう暫くそっとしておく方が良いのだろうか?
 祐馬には答えが出なかった。

 結局残業をし、マンションに戻ったのは十時を過ぎていた。玄関には戸浪の靴があったので帰っているのだろう。
 祐馬がキッチンにまず向かうと戸浪が座っていた。キッチンテーブルにはビールの空き缶がごっそり乗っており、もう一本を空けようとしているのを祐馬が止めた。
「飲み過ぎ……」
「ああ、祐馬お帰り……」
 戸浪は酒が強く、今もかなり飲んだのであろうが、全く顔には出ていない。
「お帰りって……そんなことより、何これ……ずっと飲んでたのか?」
 呆れたように祐馬がそう言うと、戸浪は「まあな……」と言った。そんな戸浪の前の席に座ると祐馬は戸浪の手を取り自分の両手で温めるように包み込んだ。
「なあ……ほんと、どうかしてるよ……。言いたく無いのも分かるけど、どうしちゃったんだよ……」
「……うん……」
 視線を下に落として戸浪はこちらを見ない。
「……俺……どうして良いか分からないよ……」
 本音だった。
「……私もだ……」
 そんなこと言われても……と祐馬は思うのだが、戸浪自身もどうして良いのか分からないというのだけは分かる。
 やっぱり昔別れた男と……そうなのか?
 そう聞きたいのだが祐馬は恐くて聞けなかった。
「……そう……」
 暫く二人で沈黙したのだが、先に根を上げたのはやはり祐馬だった。
「俺……風呂入る……」
 手を離すと、戸浪はスッと手を引っ込めた。実は触れられるのも嫌だったのかもしれない。そんなことを考えて気分が憂鬱になった。
「も、飲むなよ……」
「ああ……」
 祐馬は戸浪を置いてバスルームに向かった。服を脱ぎながら溜息をつく。
 俺じゃ……駄目なのかな……
 今日ずっと考えていたことだ。戸浪はまだ昔の男を好きなのかもしれない。でなければあれ程引きずるのもおかしい。
 だからといって今更戸浪を返せと言われても祐馬にはそんな気など無い。だが選ぶのは戸浪であって祐馬ではないのだ。
 どうしたら良いんだろう……
 いくら考えても答えは出ない。祐馬が「じゃあ出ていけ」とでも言えば戸浪は嬉しそうに出ていってしまうのだろうか?そんなこと考えるだけでもぞっとした。 
 風呂から上がると既に戸浪はキッチンには居なかった。祐馬はお茶漬けを軽く食べて自分も寝室に向かった。
 寝室はいつもなら小さな白熱灯を点けているのだが、今日は真っ暗だった。既に戸浪は寝込んでいるのかもしれないと思い、そっとベットに上がって毛布に潜り込んだ。
「祐馬……」
「あ、まだ寝てなかったのか?」
 戸浪がいる方向を向いて祐馬は言った。だが、暗闇の中、目はまだ慣れておらず、戸浪の姿は闇の中に溶けている。
「ああ……」
「眠れないの?」
「……ずっと……」
 戸浪から小さな吐息が聞こえる。
 いいかなあ……と思いながら、祐馬は戸浪の方へ近づくと、戸浪の方から腕が廻されてきた。
「……お前は温かいな……」
 胸元に戸浪の頬が当たっているのが祐馬にも分かった。戸浪からこんな風に擦り寄ってくるのは珍しい。滅多にない事をされると逆に不安になる。だがそんなことを口に出す勇気も祐馬には無かった。
「今風呂入ったばっかりだから……俺、湯たんぽみたいだろ」
 そうおどけて言うと戸浪が暗闇でクスッと笑ったのが分かった。久しぶりに笑う戸浪だ。顔が見えないのが勿体ないと祐馬は思った。
「ああ……何時もお前は暖かい……風呂上がりでなくても……」
 戸浪はそう言ってこちらに廻している手に力を入れてきた。祐馬も思わず抱きしめていた。戸浪が急にいなくなってしまいそうな気がしたのだ。
「……祐馬……苦しいぞ……」
「……戸浪ちゃん……好きだよ……」
 言って額に唇を寄せた。そのまま口元へ移動させ戸浪の口元を軽く舌でなぞった。
「くすぐったいな……」
 戸浪は身体を竦めてそう言った。
「好きだ……」
 柔らかな戸浪の唇を味わってから舌を口内に侵入させると、戸浪の方からも舌を絡ませてきた。口の中にまだ残るビールの苦みがこちらにも感じられた。
 こんな風に戸浪が酒を浴びるように飲むことは無かった。酔うことなど出来ない癖に酔いたかったのだろうか?
 見たことも無い。聞いたことも無い戸浪の昔の相手を勝手に想像しては今まで何度となく嫉妬してきた。いつまでたっても戸浪がその事をことある事に引きずるからだ。
 戸浪は何も言わない。話さない。聞いても答えない。だからそっとしておくことにした。だが、決して祐馬がそれを良しとしてきたわけではなかった。
 気にしない振りをするのが戸浪の為だとそう思ったから我慢してきた。いつか本当に自分のことだけを見てくれると思ったからだ。過去の事など忘れるくらい、自分の事を愛してくれると思ったから、その事をあえてそっとしておいたのだ。
 なのに戸浪は朝帰りをしたのだ。
 過去酷い目に合わされた相手と会っていたのかもしれない。
 いや会っていたのだろう……。
 その男には今も抱かれる癖に、自分は一度だって受け入れてくれたことなど無い。
 こんなに大事にしているのに……
 こんなに愛しているのに伝わらない。
 こんなに……
「祐馬……?」
「戸浪ちゃん……俺……」
 だが次の言葉がどうしても言えない。
 言いたいのに……何故言えないんだろう……。
「……俺……」
「……なんだ?」
 警戒したような戸浪の声が余計に本当の事を聞けなくする。
「好きだ……」
 馬鹿だ俺……。
「ああ……私もだ……」
 嘘ばっかり……。
 そんなこともう思ってないんだろう……。
 いや最初から思ってなかったんだろう?
 ただ寂しかったから俺の側にいた。
 それだけなんだろう?
 だが、そのことを聞けない自分が情けなくて可哀相に思う。
 思わず祐馬は手を戸浪のシャツに伸ばした。
「……祐馬?」
「俺……戸浪ちゃんが欲しい……」
 全部欲しい……
 一度だって全部貰ったことなんか無いから……
 戸浪のことだ何も言わずにきっと居なくなる。そう思うと何故か、チャンスは今しか無いと祐馬は思った。
「ああ……」
 ああって……良いと言うことなのだろうか?
 祐馬には分からなかったが、逆らう気が無いのならこのまま進めて良いのだろうと思った。
「……戸浪ちゃん……」
 戸浪の胸元に置いた手をゆっくりと動かす。だが、その触れている手から感じられるのは戸浪の身体の拒否だった。何時もと同じく固くガチガチの身体の感触が、動かし始めた手を止めた。
「……いいよ……もう……」
 何度となく触れては拒否されてきた。
 言葉の拒否はない。だが戸浪の身体が正直に祐馬を拒否するのだ。逆だったらまだ勢いに任せて突っ走ったかもしれない。だが、触れる先が拒否するのだ。そんな感触を味わいながら何故突っ走れると言うのだろう。
「祐馬……いいんだ……」
 そうやって何時も戸浪は期待を持たせる様な言葉をかけてくる。だが言葉だけだ。そんなものは何の合意にもならない。
「もう良いんだっ……」
 戸浪から離れて祐馬は言った。
 考えてみると真っ暗な中だ。もしこの戸浪の身体に違う誰かの跡が残されていても見えないだろう。見せたくないから暗闇なのだ。
 では、今、戸浪が良いというのは祐馬に対しての負い目だろうか?
 好きでも無いのに、自分を振りまわしたから……それに対しての償いか?
 だから一度くらい抱かせてやろうとでも思ったのか?
 それで終わりにするために……。
「祐馬……」
 その戸浪の声に祐馬はもう答えなかった。
 次に口を開くと自分が何もかも終わらせるような事を言ってしまいそうだったからだ。終わらせたくなかったから、祐馬は口を閉ざした。
 もう、戸浪からは何も発せられなかった。
 
 朝目を覚まして隣を窺うと、戸浪はもういなかった。祐馬はそれを見て一気に目が覚めた。次に飛び起きると寝室を飛び出してキッチンに走った。
 すると戸浪は既にスーツに着替えて、パンをかじっていた。
「何を慌てて居るんだ?」
「え、いや……。それよか何でこんなに早いんだよ……」
 戸浪が出て行ったと思ったのだ。
「ああ、今日は早出なんだ……」
 そう言って戸浪はいつものようにコーヒーを飲む。
「あそ……」
 ホッと肩を撫で下ろして祐馬は気が抜けたように自分も椅子に座った。
「祐馬……私は……その、暫く帰りが遅くなるから、夕食は先に食べてくれていいから。それと私の分は作らなくていい。外で済ませてくる」
 何となく言いにくそうに戸浪が言った。
「そんな忙しい物件今もってんの?」
 そんなことは無いはずだ。戸浪とは会社は違うが、同じ大手建設同士、大きな物件は同じ時期に同じように注文を受けるからだ。それに情報だって大体似たか寄ったかを追いかけている。だから今それほど大きな物件が無いことも祐馬は知っていた。
 だがそう言う以外にどう言えると言うのだ?
「……まあな……」
 言って戸浪の顔が、翳る。
「そう……頑張ってるんだ……」
 もしかして俺ってすんごく馬鹿馬鹿しいことしているんだろうか?
 そう思うのだが、そんな自分をどうしていいか分からない。
「ああ……じゃ……」
 戸浪はそう言ってそそくさと立ち上がると鞄をもって出ていった。
 机の上には戸浪が祐馬の為に焼いたパンが二つ並んでいる。それは毎朝同じ光景。戸浪がパンを焼いてくれて何時もそうやって置いてくれているのだ。そのパンを一つ手にとって何も付けずに祐馬は口に入れた。
「……」
 帰り……当分遅くなるのか……。
 会ってるんだろうか……ずっと……
 じゃあどうして何も俺に言わないんだろうか……
 準備が整うまで何も言わないつもりなのか?
 二人で部屋でも探しているのか?
 そうして全部終わったら、突然消えるつもりなのだろう。
 何も言わずに……だ。
 祐馬はパンをかじりながら涙が零れた。

 

 宣言したとおり、戸浪の帰宅はいつも十一時過ぎだった。祐馬はその事に何も言えずに、戸浪が帰ってくると挨拶を交わすくらいしか出来なくなっていた。朝も早出だと言い、先に戸浪がさっさと出ていってしまうので、今までのように一緒に通勤電車に乗ってお互いの会社に出社するという日々も無くなった。何より日によっては帰ってこない日もあった。戸浪はそういうとき、残業で近くのホテルに泊まったというのだが、どこまで本当なのか分からない。
 その上、会話がどんどん無くなっているのが分かる。元々戸浪は話し好きのタイプではない。いつも祐馬の方から話しかけて、なにがしの会話になるのだ。だから祐馬が何も言わなくなると戸浪はとたんに無口になる。だが無言で拒否をされているような気がして祐馬から話しかけることも出来なくなってきた。
 最悪だった。
 俺からは絶対言わないぞと祐馬は決めていた。いなくなるなら勝手にいなくなればいいんだとも思った。そんな風に思っているからギスギスとした毎日になる。
 今までは休みの日は一緒に街に出たり、一日二人でぼんやりとしていた。だが最近の戸浪はさっさと出ていって帰ってくるのはやはり夜遅くだった。
 耐えられないと思うのだが、聞くと怖いので祐馬は何も言えなかった。その上、ずっと機嫌が傾いている戸浪は笑うことが無くなった。いや、それは祐馬に対してだけかもしれない。
 一度は誘いをかけてくれた夜もあった。だが、今ではもうそんな事も無くなった。触れると拒否されることが分かっているので祐馬から手を出すことも無くなった。
 そうなると戸浪と一緒に生活するのがだんだんと辛くなってくる。戸浪は何も言わない。何を考えているのかも無表情に不機嫌な顔はちょっとしたことを聞くことも躊躇われるのだ。
 こんな毎日を暮らして戸浪は楽しいと思っているのだろうか?これじゃあただの同居人だ。決して恋人同士の甘い生活ではない。
 だが三日続けて外泊をし、日曜の朝帰ってきた戸浪にとうとう祐馬が言った。
「……なあ……」
「なんだ?」
「何やってるんだよ……そろそろ白状しろよ」
「仕事だと言ってるだろう……」
 全くという表情で戸浪が言った。祐馬は何も知らないと思っているのだ。あまりの行動に祐馬は戸浪の会社の営業マンにそれとなく、忙しい物件でも入っているのかと聞いたのだ。だが、返ってきた答えは予想されたものだった。
 この不景気にそんな残業するような物件があるか……
 それを聞いて祐馬はもう黙っていられなくなったのだ。
「嘘ばっかり……知らないとおもってんのかよ」
 そう祐馬が言うと戸浪の顔色が変わった。
「なんだ、何のことを言ってるんだ?」
「……誤魔化す気?ずっと誤魔化せるとでも思ってたのか?」
「……お前には関係ないことだ……」
 そう言って玄関に上がろうとする戸浪の前に祐馬は立ちふさがった。
「どうして関係ない関係ないってそればっかなんだよ!いい加減にしろよ!」
 より戻ってるんだろ?言えよ!はっきり言えば良いんだっ!
 そしたら俺は、出ていけって言ってやる!
 あんたの望むように言ってやるよ!
 だが、戸浪は何も言わずにずかずかと部屋へと上がり込んだ。
「昼まで寝る……」
「何が昼まで寝るだ!俺そんな事聞いてるんじゃねーだろ!」
 食い下がって祐馬は戸浪に言った。だが返ってきたのは冷たい表情だった。これが恋人に対して見せる顔か?
「……戸浪ちゃん……」
「お前はいちいち五月蠅いんだ……ただでさえこっちは色々あって疲れているんだ。お前の面倒までみられない」
 何が五月蠅いんだ?
 俺は心配してるんだぞ。
 どうしてそんな台詞が言えるんだろう。
 祐馬はその戸浪の言葉に絶句してしまった。
「面倒って……なんだよ……。何がどう五月蠅いって?何だよっ!そんな言い方ないんじゃないのか?」
 そう言うと戸浪はこちらを振り返って溜息を付いた。
「分かった。そうだったな。心配してくれていると言ってたな。ではもうそんな心配できないようにしてやる」
「……え?」
「暫くしたら出ていくよ……」
 戸浪はそれだけ言うと寝室に向かった。
 祐馬はそれを追うことが出来なかった。
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