Angel Sugar

「誤解だって愛のうち」 第4章

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 弟の大地が退院した日、戸浪は電話をかけた。ちゃんと話し合って、誤解をときたかったのだ。自分が何を思って大地に嘘を付いたのか、それだけはきちんと話しておきたかった。例え記憶が失われていても、自分が話すことによって少しは戻ってくるのではないかと期待したのだ。
 確かに戸浪自身が何をしたのかを思い出させるのはこちらも辛い。忘れてくれたらいいとも思う。だがそれでは駄目だと戸浪は思ったのだ。
 大地が指定してきたのは、彼が住んでいるコーポからすぐの喫茶店だった。戸浪は会社が終わると一旦家に戻り車を出してそこへ向かった。そして大地と合流すると車を出して一緒に都内で食事をすることにした。
「え、記憶は元々無くなってなかっただと?」
 先に驚かされたのは戸浪の方だった。
「……あ……うん。色々あって……俺、ちょっと博貴ともめてたんだ……」
 言って大地はいつものように照れくさそうに頭をかいた。
「だからさ、兄ちゃんだけの所為じゃないし……俺……入院中に考えることしか出来なかったから、色々考えたんだ。そしたらあの時はショックだったけど……兄ちゃんの気持ちも分かるなあって……だからもういいよ。気にしないでよ」
「……そうか……」
 そして大地は何故博貴がホストという職業に就いたか、今回こんな事にどうしてなったのかを簡単に説明してくれた。
「……なんだ……私もその妙な男にのせられたのか……」
 事情を知ると戸浪はムッとした。
「まあ、そうなるけど……でもまあ、ほら、上手く収まったし……俺、今はもう誰に対しても腹立ててないよ」
 大地はこちらがあれ程悩んでいたものを全て吹き飛ばすようなそんな笑みを浮かべた。
「……大地……私はね……お前に黙っていた事があの時あった……」
「何……?」
 大地は不思議そうな顔をこちらに向けてくる。
「……私もね……その、お前と同じようにつき合っていたんだ……」
「……?」
「だから……お前が男とつき合っているように私もつき合っていたんだ」
「えーーーーーっ!」
 大地は大声でそう言った。大きな瞳は見開かれ、これでもかという位の大きさになっている。
「……大、どうしてそんなに驚くんだ……」
「だ、だって……兄ちゃんそんな感じ全然なかったじゃんか……俺まだしんじらんない」
 そりゃそうだろう。
 こっちだって大地が男と、それもホストとつき合っているなど、今も信じられないのだ。とりあえず認めてやると決めたのだが、そこは兄としてかなり複雑だ。
「……言うつもりは無かったんだが……。お前も正直に話してくれたことだし、私もきちんと話しておきたかったんだ。だから大とあの男がつき合っていると知ったとき、味方になってやれば良かったと、後から本当に後悔した。自分のことは棚に上げて、お前の事を邪魔する権利など私には無かったんだ。本当に済まなかった」
 戸浪は心の底からそう思った。
 最初からそうしておれば、色々失わずに済んだと思うからだ。
「……あ~でもなんか分かる……」
 大地が意味ありげにそう言った。
「なにが?」
「……俺、自分が博貴とつき合ってるけど……兄ちゃんが男とつき合うの何かヤだ」
 子供が拗ねたような顔で大地は言った。
「はあ?同じ事だろうが……」
 と、戸浪は自分が先に棚に上げたことも忘れてそう言った。
「だって……さ……そりゃ俺だって博貴とつき合ってるけど……。兄ちゃんは別」
「……あのなあ大……」
「う~ん……俺に嘘付いた兄ちゃんの気持ち、今までより分かった」
 大地は一人で納得している。
「自分は良いんだけど、兄弟でそういうのヤだよなあ……なんか複雑で上手く説明できないけど……」
 言って大地は困ったような顔で笑った。
「……はあ……もう、お前って奴は……」
 大地につられるように戸浪も笑った。本当に久しぶりに笑った。
「……でもさ、つき合ってたって過去形じゃん。今は?」
 興味しんしんで大地が聞いてきた。
「ああ、今はもうつき合ってはいないよ」
「……ご、ごめん……俺余計なこと聞いちゃった」
 慌てて大地はそう言った。
「……いやいいんだ。さ、そろそろ出ようか。お前もまだ身体が本調子じゃないんだろう?それにおもりをしなければならない男が居るだろうからな」
 戸浪が話を逸らせるように大地にそう言うと「そうなんだよな……あいつほっとけないんだ……」と嬉しそうにそう言った。
 店の外に出ると、まだ沢山の人が歩いていた。恋人同士もあれば、友達同士でつるんでいるのもいる。
「兄ちゃんおごって貰って良かったのか?」
 横について歩いている大地がそう言った。
「気にするな。私はお前に酷いことをしたんだから……まあこの位で許して貰おうとは思ってないがね。何か他にして欲しいことがあったら言ってくれていいぞ。今なら何でも聞いてやる」
 弟にしか向けない笑みを戸浪は浮かべて言った。
「だからさ~俺もう何とも思ってねえって……。別にもう済んだことだし……。兄ちゃんもそのことずっとひきずんなよ。俺が車に跳ねられたのは俺の所為なんだからな。兄ちゃんがしたことで跳ねられた訳じゃないだろ。なのにそやって、兄ちゃんが私の所為だ~って眉間に皺寄せてるのって俺やだもん。こっちが悪いのかなって思っちゃうだろ」
 も~っと言いながら大地は戸浪の腕を掴んで歩き出した。
「そうか…」
 心に乗っかっていた重みが少し軽くなった。
「そうなんだよ……」
 えへへへと笑いながら大地は言った。
 大地は本当に素直で可愛い。こんな風に自然に自分らしく生きることが出来たら良いと、下の弟を見てはそう思ってきた。
 単純で騙されやすい弟を上の兄の早樹と小さい頃から見守ってきた。見た目は女の子のような容貌なのだが、こうと言ったら梃子でも動かない頑固さを持ち合わせ、喧嘩っ早く負け知らずだ。
 そんな弟をずっと大事にしてきたのだが、そろそろ手を離してやる時期かもしれない。以前会ったもう一人居る兄の早樹はその事に戸浪より先に気が付いていたようだった。
 大地も大きくなったんだなあ……
「……ちゃん……」
 感慨深げに浸っていると大地がこちらを呼んでいることに気が付かなかった。
「え、あ、どうした?」
「あの人知ってる人?」
 大地がそう言って視線を向けている方向を見ると、祐馬が立っていた。しかも可愛らしい女の子がその腕を掴んでいる。
 それを見た戸浪は腹が立つよりホッとした。
 祐馬の隣にはやはり可愛い女性の方が似合うと思ったのだ。
「同業者の知り合いだよ……」
 戸浪は大地にそう言った。
「そっか……」
 疑いもせずに大地は納得している。
「んでもさ、何か俺……睨まれてるような気がすんだけど……」
 困惑したように大地は言った。
 戸浪は仕方無しに、祐馬に声をかけた。
「三崎……妙なところで会うもんだな……」
「え、あ……」
 声をかけられるとは思わなかったのか、祐馬の方はしどろもどろだ。
「彼女を連れてデートか?」
 戸浪は普通にそう言ったのだが、祐馬の方はその言葉が気に入らなかったのか、こちらをジロッと睨み付けた。
「戸浪ちゃんだって……」
「ああ、この子は私の弟だよ。歳が七つも離れているんだが……今日は兄弟水入らずで食事をしていたんだ」 
 そう言うと大地は「今晩は……」といって、ぺこりとお辞儀をした。
「じゃあ……」
 戸浪はそれだけの会話で切り上げ、大地を連れてその場から離れた。
「兄ちゃん……」
「なんだ?」
「あいつ何?まだこっち見てる……」
 ちらりと後ろを振り返った大地がそう言った。
「……私はね……彼とつき合ってたんだ」
 戸浪が前を向いたままそう言うと、隣で大地が絶句しているようであった。
「……どう見ても兄ちゃんより年下だけど……」
「ああ。年下だよ……」
「…今は?つき合ってないの?なんか変な女連れてたけど……」
「……別れた……だが……多分私はまだ好きなんだろう……」
 そう戸浪が言うと大地は黙り込んでしまった。
「別に気にするな……。あの男の横にはやはり女性がよく似合う……これで良かったんだろう……」
 女性を連れた祐馬を見ても、別に嫉妬心は起こらなかった。
「あいつ……全然兄ちゃんに、にあわねえっ!」
 大地はそう言って何故か怒っていた。
「お前が怒ることでは無いだろう……」
 戸浪は大地の剣幕に腹が立つより逆に笑いが漏れた。
「……だってさ……」
 ぶすったれた顔で大地はこちらを見る。
「大は面白いなあ……私から見たら、あのホストこそお前に全然似合わないと思ってるんだがね」
「あいつは違うぞっ!」
 と、根拠のない事を大地は言う。それが又可笑しい。
 こう言うことなのだ。
 自分は誰とつき合おうと、文句を言われたくないのだが、血が繋がっているとどうしても、自分の中にある基準に当てはめ、良いのか悪いのかを判断してしまうのだ。
「面白いな……大は……」
「面白くなんか何ともねえっ!」
 本当に大地は頭に来ているようだった。
「まあ、こっちは駄目だったが、お前の所は何時までも仲良くやるんだぞ。折角私が認めてやったんだから……」
 戸浪がそう言うと大地は真剣な顔で頷いた。
 


「三崎~んで、合コンでいい女いたのか?」
「別に……」
 それより今は話しかけて欲しくないのだ。二日酔いで頭がガンガンして声を発せられるだけでも、頭の芯が疼く。
「でもほら、お前途中で村中さんと二人で出ていっただろ。上手くやったんだとばかり思ってたけど……」
「違うよ。俺が帰ろうとしたのを、村中さんが追いかけてきて勝手に腕にしがみついてきたんだよ。俺は迷惑だったんだっ」
 祐馬は人目もあることなので、無下には出来なかったのだが、本当に鬱陶しかったのだ。その上、そういうときに限って戸浪に会ってしまう。
 こっちは大迷惑の村中であったが、戸浪から見るとそれは仲の良いカップルに見えたのかもしれない。それが腹立たしい。
 別に弁解しなければならないという仲ではない。だが戸浪にそんな風に思われたと、考えると本当に嫌なのだ。
 戸浪は今頃どう思っているのだろう。
 はあ……
 祐馬は溜息をついて机に手を伸ばした。
 終わったんだ……
 何度も戸浪を思いだしては、その言葉を繰り返し、祐馬は呟くようにしていた。
 終わったんだ……と。
 いつか本当に忘れられる日が来るだろう。
 それまで繰り返しそう言い続けていれば良いのだ。
 時間がきっと解決してくれるはずだ……



 ずっと無視していた相手からあまりにもアタックを受けるので、祐馬はげんなりしていた。一週間前、合コンに無理矢理参加させられたのだが、村中という総務の女性にどうも気に入られてしまったようだ。
 最初はやんわりと断っていたのだが、今日は屋上に呼び出されてしまった。
「……三崎さん……あのう……今日は済みません」
 村中はそう言ってこちらの顔色を窺っている。祐馬が不機嫌な顔をしているためにそう言うのだろうが、こちらはほとほと困っていたのだ。特に社内メールでああだこうだと言われると本当にうんざりする。
「悪いんだけど……俺、好きな人いるからさ、君とつき合えないんだ」
 はっきりと祐馬がそう言う。もうはっきり言うしかないのだ。
「……それ片思いですか?」
 そんなことあんたに言われたくないっ!と思うのだがそれは言えない。
「村中さんにそんなこと俺、言われる筋合い無いと思うんだけど……」
「ごめんなさい。でも、とりあえず今つき合ってらっしゃらないんですよね」
「……そうだけど……」
「じゃあ、つき合ってください」
 っておい、俺の気持ちは何処へ行ってるんだ?
「あのさ、俺、好きな人居るわけ。んで、なんで村中さんとつき合えるの?っていうか、そういうのとつき合うの村中さんも嫌じゃないの?」
「つき合っているうちに私の事もしかしたら好きになってくれるかもしれないでしょ?」
 村中はそう言ってニッコリ笑った。
「……ならないよ」
 呆れた風に祐馬が言った。なんかこのままでは堂々巡りになりそうだった。
 あ……あれ……
 視線を逸らせると、見知った人物が目に入った。警備員らしき格好をしていたが、どう見てもこの間戸浪から弟だと紹介された男の子だ。その辺にいる女の子より可愛い顔をしていたので良く覚えていた。
 その子が何故かこちらを訝しげな目で見ている。
「俺っ!あの子に片思いしてるんだっ!」
 といって大地に向かって指を差した。大地の方は突然のことにきょとんとした顔をする。逆に村中は指を差した相手が男だと見て、青くなった。
 祐馬はすかさず走って、大地を捕まえると、引きずって村中の所まで連れてきた。
「この子っ!ほらっ!可愛いだろ!俺、すげー好きなんだよっ!」
 そう祐馬が言うといきなり連れてこられた大地は目を白黒させている。
「……し、信じられない……三崎さんって……」
 村中は手を握りしめて震えている。
「だってほら、女の子よか可愛いと思わない?俺、こんな顔が好きなんだ」
 祐馬が更にそう言うと、村中が祐馬に平手を食らわせ、走り去った。
「何で俺がビンタくらうんだ?」
 理不尽だとむかついていると、次に拳が顎に飛んできた。
「ぐはっ!いってええええ!」
「あんたっ!何すんだよ!誰が女の子よか可愛いだっ!」
 大地は仁王立ちになってそう言った。だが背が低いせいか、余り迫力はない。
 それにしてもやはり戸浪の弟だ。手の早さは兄と競争できると真剣に思った。 
「ごめん……なんかさっきの女の子にずっと付きまとわれててさ。追っ払う良い方法が無かったんだ。でもほんと、君、女の子より可愛いと俺思うぞ」
「……俺は男だっ!そんな風に褒められても嬉しくとも何ともねえよっ!」
 大地は怒鳴りながらそう言った。
「ええっと……俺、三崎祐馬っていうんだけど、君は?」
 お伺いたてるように下手に祐馬は聞いた。この兄弟は怒らせるとどちらも拳が飛んでくることが分かったからだ。
「澤村大地っ!」
 拗ねたような顔で大地はそう言った。
 確かにこの顔は間近で見ても可愛い。兄弟似ていることは似ているのだが、大地の顔は卵形で、目が本当に大きいのだ。その上睫毛が長くて肌もきめが細かく白い。
 戸浪は大人びた美人だが、大地は幼い顔をした女の子のようだ。
「そ、そんなに怒らないでよ。悪気があったわけじゃないんだ……でも助かったよ。ありがとう」 
「……ま、理由が理由だから……仕方ないけどさ……」
 大地はそう言って、帽子を被り直した。そこからはみ出す薄茶の髪の毛も、戸浪と同じだ。サラサラッとして、まるで絹を触っているような気にさせる髪だった。
 戸浪が子供の頃はこんな感じだったのだろうか?
「戸浪ちゃんっ!」
 ばきっ!
 思わず祐馬は大地を抱きしめようとして、逆に鳩尾に一発食らわされた。
「あ~の~な~。俺は兄ちゃんじゃ無いぞ。似てないだろ……ったくも~」
 大地は呆れた風にそう言った。だが暴力的なのは似てるんだけどと祐馬は思ったのだが口には出さなかった。
「……ごめん……」
 ずっと戸浪のことを考えていたので、戸浪に似た大地を見て一瞬だけ自分を見失った。
 情けないなあと祐馬自身肩が落ちる。
「……何でこんなのと兄ちゃんつき合ってたんだろうなあ……わかんねえなあ……」
 大地がぼそっとそういうのが祐馬に聞こえた。
「知ってるんだ?」
「え、ん~ちょっとだけ聞いたよ」
 まずいという顔をして大地は言う。
「……あのさ……その……大地くん……」
 ニコニコとした顔で祐馬が言った。
「……なんだよその猫なで声……」
 そんな祐馬の表情に大地はちょっと後ずさった。
「戸浪ち……じゃなくて、君のお兄さん、誰が好きなのか知ってる?」
 戸浪がずっと忘れられなかった相手を、祐馬はどうしても知りたかった。
 本人には聞けなかったのだ。
「……は?何寝ぼけてんの?あんただろ?兄ちゃんの好きな相手ってさ。なんか別れたみたいなこと言ってたけど……。あんたが振ったんじゃねえのか?」
 何を今更という大地の表情に祐馬の方が驚いた。
「はあ?」
 振られたのは俺の筈なんだけど……どうなってるんだ?
「はあって……何その顔……」
 気味が悪いという表情で大地はこちらを見る。
「俺が振られたんだぞ……」
 出ていったのは戸浪ちゃんだ!
 俺は追いだしたリなんかしてない!
 俺は何時だって戸浪ちゃん一筋なんだっ!
「え?だって兄ちゃん言ってたよ。こないだ晩に会ったじゃんか、あんとき、あんたのこと、まだ好きなんだ……って言ってたし……。でも今もうつき合ってないってことは、あんたが振ったんじゃねえのか?」
 大地はそう言って、ジロリと睨む。
「俺はっ振ったリなんかしてないぞ。今だって好きだし、今までだって大事にしてきたんっだっ!それなのに、戸浪ちゃんが勝手に出ていった……あ……と、その……」
 思わず勢いに任せて祐馬は言ったが、一緒に暮らしていたことまでこの弟が知っているとは思わなかった。
 言い過ぎた……と後悔するのも遅く、大地は、はあっと溜息をついた。
「あそ、戸浪ちゃんってよんでんだ……そいやこないだもそんな風に言ってたよな。でもって一緒に暮らしてたわけ……何かむかつくな……人の兄ちゃんを戸浪ちゃん言うな!年下の癖に!!」
 大地も負けてはいない。
「……お、俺達がどう呼び合っても君には関係ないだろう……!」
「ま、そうなんだけどね……」
 大地は急に矛を収めて小さくそう言った。
「……ごめん……俺も……大人げなかったよな……。ほら、戸浪……じゃなくて、君の兄さんが何も言わずに出て行っちゃったもんだから……俺もさ、混乱してるんだ……」
 祐馬はそう言って、屋上の柵にもたれかかった。
「なあ……」
「何?」
「兄ちゃんのこと……好きなのか?」
 聞きにくそうに大地はそう聞いてきた。
「……うん……君の兄さんが好きだよ……ごめん……」
「謝る事じゃないけどな……」
 大地がそう言った。
「……まあね……」
「兄ちゃんさ……無茶苦茶不器用なんだ。でも、すげー優しいんだ。あんな顔してるから冷たい印象あるんだけどさ。例えば爺ちゃんからとか玩具貰うだろ。俺はどっちも欲しいの。でも片方は兄ちゃんに渡さないといけないんだけど、そう言うときは何も言わずに俺にどっちもくれるの……。そういう兄ちゃんなんだ。だからいっつも損してる……」
 遠くの方を見ながら大地は言った。
「でさ、戸浪にいの空手の組み手見たことないだろ?」
「え、ああ……」
 良く殴られてはいたが……見たことはない。
「俺達兄弟三人居るけど、一番化けるのは戸浪にいって言われてたんだ。早樹にいの試合の仕方は計算高いの。俺はがむしゃらで、上手い人と組み合ったら、先手読まれるタイプ。戸浪にいは、無心なんだよな……だから恐いんだってさ。にいちゃんにはそんな気ないらしいんだけど、勝ち負けなんかどうでもいいんだって。それがそのまま組み手に出るんだ。だから実際は戸浪にいが一番嫌な相手で、何考えてるのか分からないから攻撃のしようがないんだよなあ……。俺いっつも負けてたもん。でも父さんは兄ちゃんに勝てたよ。俺には良く分からないけど、ちょっかいかけて表情を出させるって言うんだけどね。俺にそんな余裕無かったよ。そんな隙見えなかったもん。でも父さんには分かるんだって。戸浪にいにも隙はあるって……でも化けたら無敵だって言ってた」
 言って大地は笑った。
「だから?何が言いたいわけ?」
 祐馬はムッとしてそう聞いた。
「だからさあ、ああいうタイプって、何考えてるか顔に出ないから、それが出るまで隙を見つけて押すしかないって事言いたいわけ。まあ、喧嘩になったら負けるのは仕方ないと諦めてほしいんだけど……」
 言いながら大地はポケットに手を突っ込んで、そこにあるものを引っ張り出した。
「これ兄ちゃんちの合い鍵。あんたにあげる。どうせ以前は一緒に暮らしてたみたいだから、別に構わないよな。住所はこれ……」
 大地は鍵と住所の書いた紙を祐馬に手渡した。
「どうしてこんな事してくれるんだい?俺……君からしたら見ず知らずの人間だろ?」
「……う~ん……兄ちゃんがまだ好きって言ってた相手だしさ、俺、兄ちゃんにも幸せになってもらいたいんだ。相手が男なのが気に入らないけどさ……」
 複雑そうな表情を浮かべて大地は言った。
「……た、確かに……」
 祐馬は苦笑するしかなかった。
「俺、ついこの間まで入院してたんだ。俺がぼーっとしてて、車に跳ねられちゃったんだけど、そんとき、兄ちゃんずっと俺に付いててくれた。俺が熱出したときも母さんと交替で泊まり込んでくれたんだ。俺ぼーっとした視界の先に何時も兄ちゃんが心配そうな顔があったの覚えてるんだ。そんで手握ってくれてた。で、大丈夫だよって一晩中声をかけてくれてたの覚えてる……。俺、だから兄ちゃんに借りがあるんだよなあ~。これでちゃらにしてもらおって事」
「ええっ!君、入院してたのか?」
「そうだけど……兄ちゃんに聞いてない?」
「あ、ああ……聞いても教えてくれなかったんだ……」
 じゃあ、戸浪の朝帰りの理由は、この弟の面倒を見るために病院に泊まり込んでいた所為だったのだ。ではどうしてその事を言ってくれなかったのだろうか?
 最初にそう聞かされておれば、よりが戻ったなどと誤解しなくても良かったのだ。
「……言えなかったんだろうな……兄ちゃん……」
 大地が含みのある言い方をしたのが祐馬には気になった。
「言ってくれなかった理由……君、知ってるんだ?」
「……俺のこと反対してたから……」
「反対って?」
「あーもう……これ以上は兄ちゃんに聞いてくれよ。俺から言えないよっ!」
 頭をブルブル振って大地はそう言った。
「え、あ、そうだね……」
 祐馬はそこでようやく顔に笑みが戻った。
「んじゃ、俺、仕事に戻るから……」
 大地はそう言って駆けだしていった。祐馬はそれを見送ってから、手の平にヒンヤリとした感触で乗っているキーを眺めた。
「俺……俺が誤解してたんだ……そんで……酷いこと言った……」
 ギュッとキーを握りしめて祐馬は暫くそこから動けなかった。
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