「誤解だって愛のうち」 第3章
戸浪が出ていって数日が経った。
祐馬はいつものようにパンを四枚焼いて、戸浪の分を用意してから席に着く。戸浪がいなくなってから毎朝そうやって戸浪の分も焼いているのだ。
何故かフッと帰ってきてくれそうな気がした。
出ていったのも突然であったから、帰ってくるのも突然のように思うのだ。
そんなことなど絶対無いのも理性では分かっている。
でも朝のパンはどうしても四枚焼いてしまうのだ。
好きだからもう会わない……
戸浪が玄関で最後に言った言葉……祐馬にはその意味が良く分からなかった。
好きだったら出ていく必要など無いからだ。
好きなのに出ていくって言うのは結局自分を選んでくれなかったと言うことだろう。
なのに、どうしてそんな風に言うのだ?
戸浪は自分より過去の男を選んだというのに……。
もう俺のことなんか好きでも何でもないのに……。
何度考えても祐馬には分からなかった。
溜息をつきながら祐馬は朝食を食べ終わった。あれから味覚が麻痺したように、口にするもの何もかもに味がない。
通勤列車では戸浪の姿は無かった。引っ越した先と通勤ルートが違うのだろう。いや、もしかしたら時間を変えているのかもしれない。
戸浪の携帯に何度電話しようかと思った。だが結局出来なかった。冷たく突き放されるのが恐かったのだ。
結局振られたのだ。そう言うことだ。だから忘れなければいけないのだろうが、それが祐馬にはなかなか出来なかった。
だが今なら戸浪の気持ちも分かるような気がした。
もしこれから先、祐馬が誰かを好きになっても、戸浪のことが忘れられないだろう。
そして、何年か先、戸浪が帰ってきたらきっと戸浪を選んでしまうだろう。
こういうことなのだ。
祐馬の気持ちがそうであるのだから、戸浪も今こういう気持ちなのかもしれない。
新しい相手を好きなのだが、過去の男も忘れられない。
「……会社行こう……」
祐馬は戸浪のパンを置いて、マンションを出た。
出社すると、課長の村中に呼ばれた。
「三崎くん、三崎くん、君朝から暇だろ……笹賀建設まで図面取りに行ってきてくれないか?そろそろ正式に動き出すからね。契約書の件、いつこっちに廻って来てくれるのかもあちらの営業に聞いてきてくれないかい」
「え……あ、はい」
あ、そう言えば笹賀が頭でJVを組んでいる物件があったのだ。その所為で戸浪と最初随分もめた。
ということはこれから始動する物件の打合せ等で戸浪の会社に行かなければいけない用事が頻繁にあるということだ。
会えるかもしれない。
祐馬はこのとき本当に東都建設を辞めなくて良かったと思った。
「じゃ、今から行ってきます」
そう言って祐馬は会社を飛び出した。
「澤村……アミューズメントパークの図面は?東都が取りに来てるんだけど」
そう言って営業の川田が図面を探してキョロキョロしている。
「ああ、じゃあ、私が持っていくよ」
足下に置いてあった図面を抱えて戸浪は言った。
「あそ、第三打合せ室な。俺契約書も持っていくから、先行ってて」
「分かった」
戸浪は図面を抱えて第三打合せ室に行ったのはいいが、そこに座っていたのは当分会いたくないと思っていた祐馬だった。
「やあ……」
そう言ってニッコリ微笑む祐馬は何時も通りだ。
「……」
返事をせずに机に図面を置いた。
「なあ、何処に住んでんの?」
こちらの顔色を窺うように祐馬が言った。
「……そんなことお前に何故言わなければいけないんだ?」
ジロッと睨んで戸浪は言った。
この男は一体私をどうしたいんだ?
「そうだけど……」
言って祐馬はちょっと視線が俯く。
「私の用事は済んだ。営業が後から来るからもう暫く待ってろ」
そう言って戸浪がきびすを返そうとすると、祐馬が手を掴んだ。
「なあ、その……たまにはさ、映画とか……食事とか……あ、戸浪ちゃんの都合のいい日でいいんだ。俺合わせるから、行かない?」
「お前は私を馬鹿にしてるのか?」
そう言って戸浪は掴まれた手を振り払った。
言うに事欠いて、今度は友達になってくれとでも言うのかこの男は!
「馬鹿になんかしてないよ。そりゃもう、恋人同士じゃないのかもしれないけど……それんで終わるの悲しいだろ……。友達関係くらい……」
と、祐馬が言ったところで戸浪は頭を殴った。
「い、いってえ!何だよ、何するんだよ!」
「誰が友達になれるんだっ!お前は気でも狂ったのか?」
こっちはまだ恋愛感情があるというのに、友達になれるとでも思ってるのか?それともこの男は、別れた女とでも友達になろう~なんて、今まで言ってきたのだろうか?
多分そうなのだろう。それが普通だと思っているのだ。
だが、こっちはそんなもの願い下げだった。
「あ~何、澤村口説かれてんの?」
川田がそう言って入ってきた。
「あ、いや、そんなんじゃない……」
「はいはい、東都の新人さん。これ契約書ね。ピンクの付箋付いてるところに角丸社印押してくれたら良いから。黄色は丸印のみの印鑑。で、四冊同じもので、こいつだけはゴム印のみ。それ済んだら、次の下に持っていってくれる?」
川田はそう言って机に契約書を五冊載せた。
「あ、はい……」
祐馬はそう言いながらもこちらを見ている。その表情はなんだか今にも泣きそうな程情けない顔だった。それを見ると胸がギュッと傷んだ。
「……」
「それでね、うちの澤村、美人なのはよ~っく分かってるけど、社内で口説かれると困るんだよねえ。何より、こいつは俺様にぞっこんなんだから、君みたいなペーペーになびくわけ無いでしょ」
言い聞かせるように川田はそう言って、不敵な笑みを祐馬に向けた。
「川田っ!」
「澤村はもう戻って良いよ。ここに居たら、不愉快だろうから……」
こちらを向いた川田は片目を閉じてウインクを投げかけた。こちらは川田流の冗談なのは分かっているが、祐馬にはそんな事は分からないだろう。
だが、弁解するのも変な話だった。戸浪は結局何も言わずに打合せ室を後にした。
席に戻り暫くすると、川田が笑いながらやってきた。
「あのガキ、契約書の説明する俺のこと最後まですげー睨んでやがったぜ。澤村みたいな美人だと、男にまで口説かれて大変だな……」
「……あれ以上、余計なことは言わなかっただろうな……」
戸浪は机に腰をかける川田に言った。
「あ?そうだなあ……。他にも色々言ったなあ~」
考えるように視線を泳がせて川田は又笑った。
「な~に~お~言ったんだっ!貴様、くだらないこと言ったんじゃないだろうな!」
「いや、別に大したこと言ってないぞ。お前が床上手とか、クールに見えるけど俺にはすんげーべた甘とか……他には……」
この男は一体何をほざいたのだ……。
「……何が床上手だっ!私がいつお前とそう言う仲になったんだっ!」
「おーい。声でかいよ。冗談に決まってるじゃないか。でも面白かったぞ。俺って役者になれば良かったなあ……」
真面目に川田がそう言った。
「はあ……お前は何処までおちゃらけてるんだ……」
戸浪は溜息しかでない。
「ま、これでお前も、ああいうガキんちょに付きまとわれないで良いだろうよ。で、今晩暇?」
「なんだ?」
「俺も忘れてたけど、飲みに行くって約束してただろ。お前が、土壇場で忘れてた、約束だよ」
そう言えばこの物件を取れたら飲みに行こうと約束していたのを、当日に戸浪は忘れて祐馬の家に行っていたのだ。
「そうだな。別に用事も無いし、今晩行くか……」
久々に酒を飲みたい気分だったのだ。
「じゃあ、お前、今度こそ先に終わった方が声かけるだぞ。全くお前ってどっか抜けてるんだからなあ」
川田はそう言って机から降りた。
「川田、次の営業打合せは何時だ?」
今度いつ会うかもしれないという心の準備をしておきたかったのだ。
「え、ああ、今日の物件ね、明後日だよ。設計は出なくて良いらしいから安心しろよ」
「そうか……じゃあ、夕方な……」
戸浪は椅子に座り直して、はあと又溜息をついた。次も祐馬が来ることになるのだろうと思うと憂鬱になる。同業同士仕方ないとはいえ、当分会いたくないと思っている相手にこれからも会うかもしれないと思うと、気分がどんどん落ち込んでいく。
友達……か……
何が友達だ。そんなものこっちから願い下げだ。
戸浪はそう思い、何度目か分からない溜息をついた。
久しぶりに定時に終わると、戸浪は川田を誘いに営業部に向かった。営業でも今日は暇なのか、早速帰り支度をしている人間もいる。
その中で川田も鞄を持って席を立とうとしているところだった。
「お~今日は忘れず誘いに来たな」
嬉しそうに川田がそう言って駆け寄ってきた。
「で、何処に飲みに行くんだ?私は何処でも良いが……」
「……だなあ。とりあえず会社出るか……」
川田はそう言って歩き出した。戸浪はその後を付いていく。
「あの物件取れて嬉しいだろう。お前の夢だって言っていたからな」
エレベータの中、戸浪はそう言った。
「ああ、嬉しかったよ……取れたときはさ。でもその所為で失ったものもあったんだ」
何時もふざけた口調から想像付かないような口調で川田は言った。
「なんかあったのか?」
「酒の席で話すよ。同期のよしみで聞いてくれるよな」
川田には珍しく、人にお願いしている。
「私でいいんなら……」
「……俺も誰かに聞いて貰いたかったから……」
言って視線を上げた川田は珍しくマジな顔をしていた。
居酒屋に着くと、とりあえずビールを頼んだ。川田はメニューとにらめっこしている。
「何か食いたいものがあるのか?」
あまりにもメニューとにらめっこしている川田に戸浪が思わず聞いた。
「いや、もずく無いかなって思ってな」
捜し物が無かったのか、川田がメニューをパタンと閉じた。
「じゃあ、とりあえず乾杯するか~」
嬉しそうに川田がジョッキを持ち上げるのでこちらも持ち上げ乾杯した。
「……で、何を悩んでいるんだ?」
「……澤村っていきなりだな……」
苦笑いしながら川田は焼き鳥を口にくわえた。
「ああ、お前のような、年中躁病みたいな男が一体何を悩むんだろうと思ってな」
クスッと笑って戸浪は言った。
「澤村って誰かつき合ってる人いるか?」
突然川田にそう言われ戸浪の方が驚いた。
「えっ?」
「俺、ついこの間までいたんだよ。でもなあ……俺この物件取るのに、マジで毎日遅かったわけ。ハッと気が付いたら、彼女浮気してやがって……で、俺が落ち着いたのを見計らって、あいつ、さよならって言ってきやがった」
ケッと吐き捨てるように川田は言った。
「そうか……」
「なあ、そんなものか?俺仕事だったんだぜ。浮気したのは寂しかったからって言うんだけどさ、んなもん理由になるのか?」
まだ酔っていないはずなのに、川田は既に酔ったようにそう言った。
「女心は微妙だからな。仕方ないさ」
何度も自分にそう言い聞かせてきた。
仕方ない……と。
「微妙って……俺仕事だぜ。別にずっとって訳じゃいってちゃんと言って置いたんだぞ。それなのに、浮気だってよ。マジ参ったよ」
「……そうか……」
「で、お前は上手くいってるのか?」
どうしてこちらに振ってくるんだ?
「なんだその上手くいってるっていうのは?」
戸浪はバター芋をつついて言った。
「いや、お前がここ最近随分丸くなったからさ。恋人でも出来たんだろうと思ってたんだよ。違うのか?」
こう言うところ、川田は鋭いのだ。
「……お前と同じさ……」
別に忙しくて行き違いになったわけでは無いが……
「え、振られたのか?」
驚いた川田がそう言って信じられないという表情をする。
「そう言う事になるな……」
もう既に中ジョッキのビールは空になっている。今度は川田がそれを追加注文した。
「……どんな女?」
興味しんしんという顔で川田がこちらを凝視した。
「ああ、ガキだったね。ガキなんだがそこが可愛かった」
素直にそういう言葉が出ること自体戸浪には信じられなかったが、一度口にした言葉は引っ込めることは出来ない。
「年下か……何処のOLだよ……」
「……あのなあ、お前の相談を受けるつもりに来た私が、どうして自分の話をしなくてはならないんだ?」
戸浪はまるで誘導尋問に引っかかったような気分だった。
「そうだったな……はは」
「で、仲直り出来そうに無いのか?」
「仲直りって言っても、俺、浮気自体を許せねえから、よりは戻らないだろうな。あっちも俺より新しい男の方が良いみたいだ」
言って新しく来たビールを川田は一気に飲む。
「……なら諦めるしか無いな……」
そう、結果を受け入れることしか出来ないことだってある。
「……たださ、俺、もうあの女にはこれっぽっちも未練が無いんだ。今はもうむかついてるんだ」
「未練が無いか……」
そんな風に割り切れて羨ましいと戸浪は思った。
「無いね。なんで裏切られてたのに、うじうじ思わなきゃならないんだ?こっちはこんなに誠実な男だったのによ。ふざけんなって」
だんっとビールジョッキを置いて、川田は言った。
だが、こうやって話していること自体、まだ未練があるからだ。戸浪にはそれが分かる。
「もし、彼女が戻ってきたらどうするんだ?」
そう言うと川田はじっとこちらを見て言った。
「もう新しい彼女が出来たって嘘付くね」
言いながら寂しそうだった。
「……嘘なんかついたって、仕方ないだろう。そのときまだ好きだったら受け入れてやればいいんだ。その方が後悔しなくていいぞ」
「……澤村って……なんか大人だな……」
感心したように川田がこちらを見る。
「まあ、結局はお前次第だ。許してやるか、許さないか……」
こちらもビールを飲んでそう言った。
「分からないな……そのときにならなきゃ……。そういうもんだろ?」
「確かにな……」
思わず戸浪は口元に笑みが漏れた。
何だってその時にならなければ分からないことが多い。
祐馬との付き合いがまさにそれだった。
「お前は何で別れたんだ?」
「え?」
「俺の方は、女の浮気だけど、おまえんところは何でだったんだ?」
「……向こうに愛情が無いというのが分かったから、こちらから別れたんだ……」
戸浪は静かにそう言った。
「……それは辛いな……。そう言う場合、まださ、向こうが切ってくれたらいいけど、こう、なんか情がわいたりしてて、向こうが動いてくれなかったら、こっちが嫌な役目を負わなきゃならないんだもんな……」
「ああ……そうだな……」
あれは情だったのだろうか……。
「後悔してるか?」
「いいや……これで良かったと思っている」
そう思わなければあまりにも辛いのだ。
「……俺達なんか似たもの同士だな……。そだ、今度合コンするか?」
何故か嬉しそうに川田が言った。
「……いや、いい。今そんな気分になれない……」
やはりもう二度と誰かを好きになどならなければ良かったのだ。
祐馬を想うと胸が痛い……。
「悪かった……」
「なあ、立場が逆転していないか?何度も言うようだが私の話ではなくてお前の話だろうが……」
気が付くと川田の話から戸浪の話へ何時の間にかすり替わっているのだ。
心の何処かで自分の話を誰かにしたいとそう思っているのだろうか?
だが、川田にも本当の事などはなせやしないのだ。戸浪の相手は男だったのだから。
「そろそろ二軒目に行こうか?いい、ショットパー知ってるんだ」
川田がそう言って伝票を持って立ち上がった。
「ああ、今日はとことんつき合うよ」
つき合って欲しいのは戸浪の方だったが、川田にそう言った。
浴びるほど飲めば酔えるのかもしれない。
今は自分自身が分から無くなるほど戸浪は酔いたい気分だった。
何軒廻る気なんだよ~
と、祐馬は柱の影に隠れてそう思った。
図面と契約書を持って一旦会社に戻り、祐馬は外回りと称して直帰にし、戸浪の会社の玄関で張り込んでいたのだ。
せめて今何処に住んでいるのかだけで良いから確認しておきたかった。だが、戸浪の姿を捕まえたのはいいが、一緒にいたのはあのむかつく川田という営業マンだった。
くっそ~あいつ……むかつく~
川田の姿を見るたびに祐馬は昼間散々からかわれたことを思いだした。
もしかしてあれが戸浪の過去の男か?とふと思ったが、それは無いだろうと思い直した。その理由は、川田が戸浪と同期だと言ったからだ。もし戸浪があの川田と昔そう言う関係であったとしたら、戸浪の性格上、あれ程気にしている相手と同じ会社で働けるわけ等無いからだ。
だからすぐに戸浪と関係のない相手だと分かった。
それにしても、今入った店で三軒目だ。
だが……
俺ってなんかストーカーみたい……
溜息をついて祐馬はそう思った。
いや、俺は戸浪ちゃんの住むとこだけ確認できたらいいんだ。
そう思うことで自分が今、戸浪の後をこそこそつけていることの理由にした。
一時すぎ、ようやく二人が出てくると、戸浪の方は川田をタクシーに乗せ、二言三言運転手に何かいい、送り出した。戸浪はそのタクシーが行ってしまうのを見送って、歩き出した。
その後を祐馬は追いかけた。今度こそ戸浪が家に帰ると思ったのだ。だが戸浪はさっさかと歩いていく。こっちはそんな戸浪を追いかけるので必死だった。急に角を曲がったので、見失ったら駄目だと駆け足でその後を追いかけると、角を曲がったところで戸浪がムッとした顔で腕組みして立っていた。
そこは人気のない行き止まりの道だった。
「ずっとつけていたのはお前かっ!」
「……なんだ気が付いてたんだ……さすが武道の達人!」
祐馬は褒めたつもりなのだが、戸浪の方は眉間にしわが寄った。
「何を考えているんだっ!お前はストーカーかっ!」
「だから……戸浪ちゃんが……その……何処に住んでるのか教えてくれないからさ。俺仕方無しにこういうことしてるんじゃないか……」
チラチラと戸浪の表情を伺いながら祐馬はそう言った。
「別に住むところが何処だろうとお前にはもう関係無いだろう……全く……」
はあっと大きな溜息をつきつつ戸浪は言った。
「だって……さ……」
「だってとか、だからとか言うのは止めろ!もう関係の無い相手にお前は何を一体やってるんだっ!」
「関係ない関係ない言うなっ!戸浪ちゃんそればっかじゃねえか!何だってそうだっ!何時だってその言葉しか言わない!」
祐馬は叫ぶようにそう言った。だが、戸浪の表情は相変わらず何の感情もなく冷えている。
「今のお前に、私の何が関係あるというんだ?もう私達はつき合ってもいない。恋人同士でも無い。お互い他人な筈だ」
一緒に暮らしてたときには絶対見られない表情で戸浪が言った。本当に同一人物と一緒に暮らしていたんだろうかと思うくらい、祐馬にはそれが戸浪には思えなかった。
「…他人……」
呟くように祐馬は言った。
終わっているのに、終わらせたくないのは祐馬だけなのだ。
「……もう私の後は追うな。終わったんだ私達は……。私はもうお前には何の感情も今は無い。だから……」
何の感情も無い……
出ていくとき言ったあの言葉は、もう今は聞けないのだ。
好きだからもう会わない……。
あの時の言葉が今まで祐馬を引き留めていた。
だから戸浪が出ていった後も好きだという気持ちを精算できずにいた。
それなのに……
「畜生っ!」
祐馬はそう叫んで戸浪の胸ぐらを掴んだ。だが戸浪の方は逆らうこともせずにこちらをじっと見ているだけだ。その瞳がこちらを非難しているように見えた。
「……殴りたいのか?なら殴ればいい……」
「俺……もしかして……当て馬にされたのか?」
そうとしか考えられない。でなければ、この間までのあの生活は一体何だったのかと思うくらいの戸浪の豹変ぶりが理解できないのだ。
「何のことだ?」
だが戸浪はとぼけている。
「戸浪ちゃんは……昔の男が忘れられなかったもんな。俺が何も聞かないのをいいことに、俺のこと利用したんだ……俺が……」
こんなに大事にしていたのに、という言葉を言おうとしたが、戸浪の平手打ちが続きを言えなくした。
「そんな風に思っていたのかお前はっ!最低なのはお前だっ!さっさと帰れ!二度と私の前に姿を見せるなっ!」
「言われなくても二度とみせるもんか!良く分かったよ。ああ、よーくわかりましたとも!戸浪ちゃんがどんなに酷くて冷たい男か良く分かった!俺が馬鹿だったって事だ!」
「お前っ!」
戸浪が振り上げた手を祐馬が掴んだ。
「考えるとさ……好きな相手をぼこぼこ殴るような奴も居ないよな……俺……あんたのストレス解消機じゃないぜ。俺って、あんたにとっていい玩具だったんだろうよ……」
悲しくて……もうどうにかなってしまいそうだった。
本当の事など何も知らずに別れてしまえば良かったのだ。
だが、知ってしまった今となっては何もかもが遅すぎる。
「まだそんな事をっ……っつ……」
戸浪の抵抗する手を掴んで祐馬は唇をかすめ取った。久しぶりのキスは苦く、とても気持ちの良いものでは無かった。
こんな目に合ってもまだ祐馬は戸浪が好きだと思った。俺って本当にそこぬけの馬鹿だとも思った。だがどうにもならないくらい、戸浪が好きだった。
「ゆ……ま……っ……」
口元を離して祐馬は戸浪を押しのけた。
「……最後に嫌がっても……記念に犯してやれば良かった……そんくらいしても俺良かったんだよな……強姦したって……つりが来たはずだっ!」
そう言って祐馬は駆けだした。
自分の馬鹿さかげんに、呆れながらも、これで本当に終わりだと思った。
だがもう良い……
追いかけても追いかけても……
戸浪は自分のものにはならない……
好きだ、愛してると言っても、戸浪の心に届かない。
どんなに大事にしてもそれを分かって貰えない。
はなっから無理だったのだ……
戸浪の心は誰か別な男が占めていた
それを俺は分かっていた。
知っていた。
だから……
俺が文句を言うのも筋違いなんだ……
「祐馬……」
誰もいない道の端で戸浪は座り込んだまま立ち上がれなかった。
その気力が無いのだ。どうして良いかもう分からない。何故あんな風に祐馬が怒っているのか全く分からない。
お前が私のことをもう何とも思っていないのだろうが……
なのに何故こんな事になる?
これでは私が祐馬の気持ちを踏みにじっているようにしか見えない。
私は祐馬にとっていい道を選んだはずだった。だが、何故かその想いは空回りしている。お前は私という存在が消えて、ホッとしたのではないのか?私が出て行ってせいせいしているのでは無かったのか?
そんな風に考えて戸浪は項垂れた。本当にどうして良いのか分からないのだ。
戸浪は祐馬が触れた唇を人差し指でなぞった。久しぶりのキスはとても辛いものだった。だが、戸浪は何故か嬉しかった。
強姦でも何でもしてくれていいと、あの一瞬戸浪は本気で思った。
ふっと息を吐き出して、戸浪はゆるゆる立ち上がった。なんだかもう、神経がすり切れて疲労している。何かを考えようと思っても、怠くて頭が回らない。
こんな日は寝るしかないと戸浪は思った。
もう逃げ込める先は睡眠しかなかった。