「誤解だって愛のうち」 第5章
遠くで電話が鳴っていた。
ゆるゆる身体を起こして戸浪が取ると、相手は弟の大地だった。
「居ないかと思った~」
大地の声は何時も元気一杯だ。その声を聞くと何故かこっちまで元気になってくる。本当に今は元気を分けて欲しい気分だった戸浪は、大地からの電話がとてもありがたかった。
「……ああ、うとうとしていたんだよ……」
言って会社から帰ったままの格好で、うとうとしていた事にようやく戸浪は気が付いた。
「あ、ごめん、寝てたんだ?」
「いや、どうした?何かあったのか?」
「あのさ、兄ちゃん……」
言いながら大地の声が小さくなる。あのホストと何かあったのだろうか?
「何だ、隣の男がくだらんことでも言ってきたのか?」
「え、違うよ。博貴はずっと寝てるよ。そんな悪態つけるほど元気じゃ無いからさ。って俺のことじゃないんだって……」
自分で言って、自分で照れている大地に呆れながらも戸浪は言った。
「じゃあ何だ?」
「俺さ、今、警備の仕事、東都に行ってるんだけどさあ、ほら、兄ちゃんと御飯食べに行った日、三崎さんって会っただろ?今日その人に会ったよ」
受話器を落としそうなことを大地が言った。
「……だからなんだ……あの男には関わらない方が良いぞ……」
「それでさ、俺、屋上巡回してたんだけど、三崎さん変な女に付きまとわれててさ~、ほら、こないだあったとき隣に居た変な女、兄ちゃんも覚えてるよな。それ断るのに、俺、間に入れられちゃったよ~」
といって大地は笑うが、戸浪は状況が良く分からない。
「どういう意味なんだ?大……」
「だからさあ、三崎さん、あの女に迫られて、苦し紛れに俺の方指さしてさ~あの子が好きなんだって言ったんだよ。俺びっくりしたって!だって俺男だもん」
電話向こうで大地は相変わらず笑っている。
「大!笑い事じゃないだろう!」
「え、笑い事じゃんか。でもさ、それで女の方諦めたみたいだし……って、俺男だもんな、それも警備員のかっこした男目の前にして、この子に片思いしてるんだ~なんて言われたら女の立場ねえもんな。その女さ、怒って三崎さんのほっぺた平手打ちしていきやがったぞ。なんか面白かった」
何が何処が可笑しいのか戸浪には全く分からない。言うに事欠いて何故うちの弟が祐馬の窮地を救わなければならないのだ?
よりにもよって、片思いしてるだと?
冗談にも程がある!
「大、お前本気にしたわけじゃないだろうな」
「ん~でもあいつ、俺と兄ちゃん似てるって言ってたぞ。それに俺のこと戸浪ちゃんとか言って抱きつきに来たの殴ってやった。俺、そんな兄ちゃんと似てるか?」
だ、抱きついてきただと?
それも私と間違って?
何処をどう見れば自分と大地が似ているんだ?
戸浪は無茶苦茶腹が立っていた。
「あの……節操無しめ!」
今度何処かで会ったら殴ってやると戸浪は真剣に思った。
「ねえ……兄ちゃん……」
「なんだっ!お前も相手がいるんだから、あいつに乗せられるんじゃないぞ!あいつは営業で口が上手いんだからなっ!」
「……あはははははは」
大地が急に笑い出した。
「大……何が可笑しいんだっ!お前さっきから笑ってばっかりだぞ!こっちは心配しているというのに……」
はあと溜息をついて戸浪は言った。
「兄ちゃんちょっと俺に嫉妬しただろ?やっぱ兄ちゃんまだ三崎さんのこと好きなんだろうなあ~。この間だってそう言ってたもんな。あ、そうそう、というわけで、兄ちゃんの合い鍵は三崎さんにあげたから。で、そこの住所書いた紙も一緒に渡したから」
というわけで、というのはどういう、というわけなのだ?
「はあ?」
「一緒に住んでたんだろ?んじゃ別に今更だよな。俺、兄ちゃんちの合い鍵持ってたって使うことねえもん。だからあげたんだ」
大地は一体何を言ってるんだ?
合い鍵を祐馬にあげただと?
どういう話があってそうなったんだ?
というわけで合い鍵をあげるものなのか?
戸浪は頭が混乱して、大地が何を言ってるのか理解できないでいた。
「あげたって……お前……」
絶句している戸浪に大地は言った。
「だから~今日兄ちゃんちに尋ねていくと思うよ。三崎さん」
「なっ……なんだってええ?」
怒鳴るように戸浪はそう言った。
「み、耳痛いよ兄ちゃん……そんな喜ばなくても……」
「だっ!誰が喜んでるんだっ!ひ、人の家の鍵をお前は何故他人にポンと渡すんだっ!あれはお前にあげた鍵だろうがっ!どうしてそんなことするんだ!」
「だって兄ちゃん……まだ三崎さんのこと好きなんだろ。三崎さんも好きって言ってたぞ。んじゃ、仲直りしたらいいじゃんか。何、喧嘩してるんだかしんねーけどさ、さっさと仲直りしてよね。聞くと一緒に住んでたんだしさ……。あ、俺びっくりしちゃったよ。兄ちゃんの方がすすんでるなあってさ」
祐馬は弟に一体何を話したんだ?
もう頭がぐらぐらして真っ白だった。
「大……」
「俺の用事こんだけな。これから博貴の飯つくんなきゃならないからもう切るな~」
と大地はさっさと電話を切った。
こっちはまだ聞きたいことが山のようにあるのだ。
なのに何故、言いたいことだけ言って切るんだあの弟はっ!
頭がガンガンしてきた……
フッと視線を上げると時間は七時になるところであった。
今日来る?
まさか……
鍵を渡されてすぐに来るものか?
いや、あの祐馬ならすぐに来そうだ……
戸浪はスーツの上着を掴むと玄関に向かって走り出した。
今はまだ……
会いたくなかったのだ。
祐馬はその日、仕事が終わると家には帰らず、昼間大地に貰った紙に書かれた住所に向かった。
戸浪に会ってまず謝ろうと祐馬は思った。自分が勝手に誤解したのだ。戸浪の方は露程も昔の男の事など話題にしなかったのにだ。
俺……すんげー事、言っちゃったんだよな……
思い出しては祐馬は落ち込んできた。
記念に犯してやればよかったとか、強姦しても釣りがくるなんてとんでもないことを言ったのだ。
うう……最低……
山手線に揺られながら、祐馬は項垂れた。
過去の男なんか気にしないと戸浪に言った筈なのに、本当は無茶苦茶気にしている自分が居る。それを認めたくなくて、必死に優しい男を演じていたような気がする。
優しくなんか無いのに……。
自分の中にはどろどろとした嫉妬もある。
手に入らないのなら、無理矢理犯してやりたいと思う醜い自分がいる。
それら全て戸浪を失いたくないために押さえつけてきた。
そしてそんな自分を気取られないようにしていたのにも関わらず、今戸浪は自分の側にはいない。
それは俺が誤解した所為だ……。
だけど取り戻したいと心底思っていた。
パンを四枚焼いて二人で半分ずつ食べる朝食も、通勤列車に一緒に乗ることも、同じベットで寝る夜も、全部取り戻したいと思っていた。
大地が言ったように、まだ好きだと、本当に戸浪が思ってくれているのなら、もう一度一緒に暮らしたいと思った。
そうして考えているうちに戸浪が住んでいるであろうマンションに着いた。
見上げると戸浪の部屋だと思われる所に電気が付いている。戸浪は帰っているのだろう。
「……っしゃ!行くぞ!」
祐馬は両手で頬を叩いて気合いを入れ、エレベーターに乗り込み、紙に書かれている八階を押した。そうして軽い重圧を感じながら上の階へと上がり、戸浪が住む階で降りる。
「っと……810……あ、ここ……」
戸浪が住む部屋を見つけたと思って喜ぼうとした瞬間に扉が勢い良く開けられ、祐馬の顔面にブチ当たった。
「いてっ!!」
「あ、す、済みませんっ……」
思わず戸浪の方がそう言ったが、こちらが誰かを見ると、くるりときびすを返して、又うちに入り、思いっきり玄関は閉められた。
その後チェーンが下ろされるおまけ付きだ。持ってきた合い鍵はチェーンまで外すことは出来ない。
だが、もうここまで来たら引き下がれないと祐馬は思った。
「戸浪ちゃん!俺、話しあるんだっ!」
閉じられた玄関の戸を祐馬はバンバンと叩いた。
「帰ってくれ……いやその前にキーを置いていけ……」
苦しそうに戸浪はそれだけ言った。
「いやだっ!俺かえんないからなっ!戸浪ちゃんと話するまで帰らないっ!」
祐馬がそう言うのだが、戸浪からの返事はない。仕方無しに祐馬は又扉を叩いた。
「入れてくれよっ!俺戸浪ちゃんが好きなんだっ!もうどうしようも無いくらい好きなんだっ!冷たくしないでくれよ!」
暫くそうやって叫びながらバンバンと扉を叩いていると、チェーンが外され扉が開けられた。
「扉を叩くんじゃない!それに、そ、そんなでかい声で叫ぶな!誰かに聞かれたらどうするんだっ!」
戸浪は言いながら祐馬を玄関に引きずり込んで、扉を閉めた。
「……戸浪ちゃん……」
「大体お前はっ……!」
「ごめんっ戸浪ちゃんっ!」
祐馬は玄関に手を付いて謝った。
「お、おいっ……」
戸浪の方は突然の祐馬の行動に驚いているようだ。
「俺っ……戸浪ちゃんが、病院に入院している弟さんの看病するために、病院に泊まり込んで朝帰りになってたのも、そんで帰りが遅くなってたのも知らなかった。だから俺、戸浪ちゃんが前つき合ってた男とより戻ったと勘違いしてたんだっ!」
「はあ?」
戸浪の方はびっくりしたのか先程怒鳴っていた様な迫力は無い。
「言い訳かもしんないけど、俺、戸浪ちゃんが何も言ってくれないから……てっきりよりが戻って、俺の事なんかもう好きでも何でもないって誤解してたんだ。だから戸浪ちゃんが出ていくって言ったとき、俺その人と暮らすんだとばっかり思った」
「……よりが戻る訳など無いだろう……」
ため息にも似た吐息をフッと吐き出して戸浪が言った。
そう、戸浪にしたらそうなのだろうが、こちらはその見えない男が気になって仕方ないのだ。それを知らないのは戸浪だけだと祐馬は思った。
「何だよその言い方ッ!戸浪ちゃんがはっきり言ってくれないから俺、こんなしなくても良い誤解したんじゃないかっ!そんでこんな結果になっちゃったじゃないか!」
ガッと立ち上がって祐馬は戸浪に言った。
「こんな結果……って……」
祐馬の勢いに戸浪が押されているようだった。
そうだ、あの弟も、押すしかないと言った。だったら、ぼこぼこに殴られたって構うもんか!ガンガン押してやる!
とにかく祐馬は必死だった。
戸浪を取り戻したくて仕方ないのだ。
一緒に暮らした日を取り戻したかった。
「戸浪ちゃんが出て行った!一緒に暮らせなくなったっ!そう言う結果だよ!俺、あれから馬鹿みたいに毎朝のパン、戸浪ちゃんの分も未だに焼いてるんだからなっ!どうしてくれんだよっ!勿体ないこと俺してんだぜ!」
「……祐馬……」
戸浪の視線がこちらを外れて下に移る。
「なんでっ……何で言ってくれなかったんだよっ!弟さんが病院に入院してるんだったらそう言ってくれたら、そんで良かったんじゃないかっ!別に隠すような事じゃ無いだろっ!何で黙ってたんだよ!そんなこと戸浪ちゃんがするから俺馬鹿みたいな想像巡らせて、無いこと誤解してさっ!今、思い出すのも恥ずかしいくらいなんだよっ!」
「……」
「何か言えよ!俺みたいに言い訳しろよ!言いたいこと言えよ!」
戸浪の肩を掴んで祐馬はそう怒鳴った。すると戸浪の視線がようやくこちらを向いた。
「……私は……」
なんだか泣きそうな戸浪の表情が、祐馬の胸をギュッと掴んだ。そんな顔を見たくなくて祐馬は戸浪を抱きしめていた。
「……ごめん……俺、謝りに来たのに……。何、怒鳴ってんだよな……」
自分に呆れながら祐馬はそう言った。
「祐馬……済まない……」
殴られるか、もしくは突き飛ばされるかを覚悟していたのだが、戸浪の方は祐馬に身体を素直に預けている。何故かその戸浪の姿に祐馬はホッと胸を撫で下ろした。
「弟さんが言ってた……黙ってた理由、兄ちゃん言えなかったんだろうって……」
言うと腕の中にいる戸浪の身体が強ばるのが分かった。
「何で言えなかったの?ただの事故だったんだろ?」
「ああ……そうなんだが……」
何か逡巡しながら戸浪はそう言った。
「戸浪ちゃん……」
言ってよ……という意味を含ませて祐馬は戸浪に言った。ここまで来たら聞くまで帰ることなど出来ない。
いや、今日は絶対このまま戸浪を連れて帰るんだと祐馬は決めた。
「……弟とは何処まで話したんだ?」
こちらを見上げて戸浪は言った。
「俺言わないよ。戸浪ちゃんってすぐそれだもんな。弟さんが何話したかなんて関係ないんだよ。俺は戸浪ちゃんの話が聞きたいんだ」
「……そうか……」
言って又視線が落ちる。
「……何で言えなかったんだよ……」
祐馬が言うと戸浪は小さく息を吐いた。
「弟はね……私と同じく……その、男とつき合ってるんだ。私は自分もそうであるのに、認めてやらずに酷い事を弟にしたんだ……」
「え……」
あの大地もそうだったのか。
なんだ、理解あるなあと思っていたがそう言うことだったのだ。
「弟はそのつき合っている男とちょっともめていてね。その事と私の事でショックを受けてフラフラしているところを車に跳ねられたんだ……だから言えなかった」
そう言った戸浪の瞳は閉じられたままだった。
「それって……隠すほどの事?」
気の抜けたように祐馬が言うと、戸浪の目がバチッと開いた。
「お前はっ!その話を隠す私の気持ちが分からないのか?私は自分の事は棚に上げて、弟に酷いことをしたんだぞっ」
その酷い事の内容は話してくれていないんだけど……と祐馬は思ったが、それを聞く必要は無いと思った。昼間会った大地はそんなことこれっぽっちも怒って等無かったからだ。本当に兄の戸浪が酷いことをして怒っているのなら、大地はその話を祐馬に言ったはずだ。それが無いと言うことは兄弟間ではもう話がついているのだろう。
何より大地は兄の戸浪を不器用だが優しいと言ったのだ。そんな兄思いの弟が、今も怒っている訳無いだろう。
「だって、弟さんはさ、そんなことこれっぽっちも怒ってなかったよ。ということは、戸浪ちゃんは弟さんとその事、もう和解したんだろう?んじゃ俺は何も言えないって……」
と、祐馬は思うのだが戸浪の方はまだ辛そうだ。
「確かに、弟は許してくれた。だが私はっ……酷い男だと自分で思う……。自分がそんな男だと分かっているのに、お前にはそんな風に思われたくなかった…」
「え?」
戸浪はそんな風に自分のことを思ってくれていたのか?
それが信じられなかったのだ。
ええ??という字を顔に描いた祐馬の表情を見た戸浪は今度は怒りながら言った。
「だからっ……自分のことは棚に上げて、弟の味方になってやれない自分勝手な男だと……お前に嫌われたくなかったんだっ!ここまで言わないと分からないのか?お前はどうしてこう鈍感なんだっ!」
ドンッと戸浪に胸元を叩かれて祐馬は苦笑した。
「はは……逆ギレしないでよ……」
「だっ……誰が逆ギレなんだっ」
「戸浪ちゃん……」
「何だと!」
悲壮な顔で言う戸浪がなんだか可笑しくて祐馬は声を上げて笑ってしまった。
「だってさ、俺達無茶苦茶馬鹿だなあって思ったら可笑しくて……」
「私は全然笑えないぞっ!」
「んじゃさ、戸浪ちゃん……俺に嫌われたくないって思ってくれてたんだ……」
それが嬉しくて嬉しくて仕方ないのだ。
戸浪が好きだと言ってくれた言葉を信用しなかった訳ではない。だが好きの比重が違うのではないかと祐馬はずっと悩んでいたからだ。
「……あ、当たり前だっ……。でなければこんなに悩むものかっ……」
顔を赤くして戸浪はそう言った。
祐馬は自分と同じように悩んでくれていた戸浪が愛しくて仕方なかった。
「もっと早く言ってくれたら良かったのに……俺に嫌われたくないって、だから言えなかったんだって……そしたら俺、戸浪ちゃんにどんな極悪なことされても絶対許しちゃうよ……」
「だれが極悪なんだっ!」
睨んでくる戸浪を無視して祐馬は戸浪の伊達めがねを外し、目の脇に唇を滑らせた。
「戸浪ちゃん……」
「……止せ……」
そう言って戸浪は制止するのだが、逆に睨んでいた筈の瞳が細くなる。
「だって俺の気持ち知ってる癖に……俺から逃げようとする。そのくせ追いかけたら、俺に嫌われたくなかったなんて可愛いこと言ってくれる……これってすげえ極悪だよな~。俺の気持ち弄んでるじゃんか。これ極悪以外なにものでもないよ……」
戸浪を腕の中で拘束したまま、舌を首元へ走らせる。抱きしめている身体が心なしか熱くなってきた。
「……祐馬……っ……」
「戸浪ちゃん……好きだよ。俺……ほんと信じられないくらい戸浪ちゃんに参ってるんだぞ……」
耳元で囁くように祐馬が言うと、戸浪はいきなり両手を突っぱねてこちらを突き放した。
「……嘘を付くなっ……」
戸浪は涙目だ。
こんな戸浪は見たことが無い。
「お前は好きだの何だの言うが、何時だって口ばかりじゃないかっ」
言って握りしめる拳が震えている。
「……え?」
「大体なっ……っ……」
戸浪は何か言いかけて、口を閉ざした。
「何だよ?」
何を戸浪が言いたいのか祐馬には全く分からなかった。
「帰れ……っ!」
背を向けて戸浪は言った。
「キーを置いて帰ってくれっ!もうここへは来るなっ!」
こちらに向けた背は震えている。
「ああ、もう来ないよ」
祐馬はサラリとそう言った。
「……」
「そんかわり、戸浪ちゃん、こんまま連れて帰るから……」
「……っ……」
「だから、この合い鍵もいらない。この家もいらないんだっ」
持っていた合い鍵を床に放り投げて祐馬は言った。チャリンとキーは戸浪の足下を通り抜けて床に転がった。
「……言いたいことは済んだのか?じゃあさっさと帰れ……」
床に手を伸ばして戸浪はキーを拾い上げた。
「ちゃんと聞いてんのか?俺、戸浪ちゃんを連れて帰るっていってんだぞ」
ムッとして祐馬は言った。
どうして戸浪がこんな風に言うのか分からないのだ。
「五月蠅いっ!どうせお前は一人で暮らすのが寂しいだけなんだっ!だから私じゃなくても良いはずだ……そうだろう……」
こちらに向けた背は相変わらず震えている。
「何言ってるんだよ!誰でも良かったら、こんなに戸浪ちゃんを追っかけ廻さないだろ!自分だって呆れてるんだよ!戸浪ちゃんのこと忘れられずにストーカーみたいな事してるってさっ!でも戸浪ちゃんしか駄目だから……戸浪ちゃんと一緒に居たいから……俺、馬鹿みたいなこと平気でやってんじゃん!それなのに、この俺の何処をどう見たら誰でも良いって事になるんだよっ!」
「嘘ばっかり付くなっ!」
怒鳴って振り返った戸浪は、もう少しで涙が零れそうなほど目が潤んでいる。その理由も祐馬には全く分からない。
ここまで来てどうしてこんな事になるんだろう?
「嘘、嘘言うなっ!俺腹立ってきたっ!何で嘘つき呼ばわりされんだ?俺一度だって戸浪ちゃんを騙したことなんかないだろ!」
「何が腹が立つだっ!腹が立っているのはこっちだろうがっ!好きだの何だの言う癖に、お前は一度だって私を抱いたことがないだろう!こっちは恥ずかしいのを我慢して、自分から服を脱いだことだってあったのにお前は、もういいとそんな私の事を一言で切り捨てただろうがっ!私だって、いくら男とつき合ったことがあるからと言っても、経験が豊富な訳じゃない!何時だってお前に触れられるとどうして良いか分からなくなるっ!だから身体が強ばるんだっ!どうしてそんな私の気持ちがわから……」
そこまで戸浪は一気に言って、自分が言った言葉が理解できたのか、かああっと顔を赤らめるとその場に座り込んでしまった。
「……今……私は……何を言った?」
戸浪が目を見開いて祐馬にそう言ったが、祐馬はその告白に鼻血が出そうな位ショックを受けており、言葉がすぐに出なかった。
「……あ、あわ……」
戸浪は腰を抜かしたまま、這いながら逃げようとするのを祐馬は捕まえた。
「戸浪ちゃん……」
「馬鹿っ離せっ!今のは忘れろっ!」
手足をばたつかせて戸浪はそう言った。が、こちらは逃がす気などもう無い。
「そんな風に思ってくれてたんだ……俺すげえ嬉しい……」
後ろから羽交い占め、祐馬は戸浪のサラサラッとした髪に鼻面を埋めた。
「違うっ!離せっ……」
「俺は……大事にしたかったから……逆に手が出せなかったんだよ……。そんな戸浪ちゃんの気持ち分からなかったから……。だって、戸浪ちゃんに触れたら何時だって身体ガチガチだし……それって拒否されてるって思ってたんだ……。だから自然に受け入れてくれるまで待とう。戸浪ちゃんの気持ちを大事にしようって……。無理しないでおこうって思ってたんだ……だって嫌われるの嫌だったから……」
「…………そうなのか?」
急に大人しくなった戸浪が小さくそう聞いてきた。
「うん。そうだよ」
「……」
「ほんと言うとすげーやりたかった……」
というと戸浪はひじ鉄を食らわせてきた。
「いてえっ!」
「そ、そんな言い方するなっ!」
「あのさあ、健康な男子が好きな相手目の前にして、そうそう我慢できるとおもってんの?何より一緒に暮らして、そんで一緒のベットに寝てたんだぞ。よくぞオオカミにならなかったって褒めてもらっても良いと思うんだけど……。そういう俺ってすっげー立派な奴だと思わない?」
腹をさすりながら祐馬が言うと、戸浪はまだ赤々とした顔でこちらを睨み付けた。が、全く迫力がない。
「お、お前は……っ……」
といって戸浪は溜息を付き、続けて思いも寄らぬ事を言った。
「それで……私の昔つき合っていた相手の話……お前は聞きたいのか?」
「え?」
「私はお前が気にするだろうと思って、その話は触れないで来たんだ。だが、そんな風に誤解すると言うことは、ものすごく気になっているということだな?」
祐馬はじっと戸浪を見てから頷いた。
聞きたかったがあえて聞かずにいた事だ。
「話したら……お前はもうそんな事考えたりしないのか?」
「そんな事って……」
「馬鹿者!私がよりを戻した云々だろうが!一番不愉快だったのはそういう誤解をされたことだっ!」
「話してくれるの?」
「お前が知りたいんならな……」
「言いたくなかったら別に……」
急に聞くのが怖くなった祐馬はそう言った。この辺りは微妙なのだ。
「ああ、言いたくなんか無い!思い出すのも腹が立つからな。だけど、話しておかなければお前が又くだらない誤解をするだろう?私はそっちの方が腹が立つから話してやる」
「戸浪ちゃん……」
「あれは高校一年の時だ……」
と、戸浪が話し始めて祐馬はふとあることを思った。
あれ?俺このままベットになだれ込めると思ったんだけど……。
実は話よりそっちの方を優先してくれた方が俺嬉しいんだけど……。
いや、まず、せっかっく戸浪が話す気になっているのだから、先にその話を聞こうということで祐馬は自分を納得させた。
時間はまだたっぷりあるはずだ。