Angel Sugar

「煩悩だって愛のうち」 第5章

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 朝のキッチンテーブルには、何とも不穏な雰囲気を漂わせて、四人が座った。鈴香の方は自分の料理を振る舞う相手が増えた分、何故か機嫌が良い。その為、妙な三人に対して全く気が付いていないようだった。
「……えーっと、もしかして、彼、東都の営業マンか?」
 川田の朝の第一声は驚きの声だった。もちろん入札や談合の折りに会っているのだから知らないわけは無いだろう。川田も祐馬も会社は違うが同じ営業だからだ。
「そうだよ」
 目の前に置かれたご飯には手を付けず、戸浪はみそ汁だけをすすっていた。
「……へえ……」
 と、一人川田が話しているのだが、祐馬の方は全く無言でこちらを見ない。
「ま、昨日は申し訳なかった。突然泊めて貰って感謝しているよ」
 川田がそう祐馬に向かって言ったのだが、こちらをちらりと見ただけで、何も言おうとはしなかった。そんな祐馬のフォローを何故か鈴香がする。
「済みません。祐ちゃん朝は低血圧でいつもこんな感じなんです。別にここいつでも来て貰ってもいいんです。気にしないでください」
 祐馬は低血圧じゃないっ!
 お前は祐馬の嫁か!
 と、戸浪は思ったが、そんな事は口が裂けても言えなかった。
 あの祐馬の態度は昨日の晩の出来事を、そのまま引きずっているからだろう。それが分かるので何も言えない。
「何、君、彼の恋人かなんかなの?」
 川田はこちらがみそ汁を吹きそうなことを鈴香に言った。
「ええ~そんな風に見えます?嬉しいなあ~」
「川田、行くぞ。そろそろ出ないと会議に遅れる……」
 戸浪はそう言って立ち上がった。
「え、ほんとだな。じゃ、旨い朝飯だったよ。そこの彼、無愛想にしてるとしらねえぞ」
「川田っ!」
「へーへー。んじゃま、行くか澤村」
 二人は立ち上がって玄関に急いだ。
「おい、余計なことばかり言うな」
 靴を履きながら戸浪は言った。
「はは、そう言うなよ~。ああいうおこちゃまはちょっとくらい牽制してやりゃいいんだよ。あの態度、ガキそのままじゃないか」
 靴をさっさと履いた川田は昨日の酔いは全く引きずっていない。こちらの方が二日酔いしている顔だった。
「……これ以上、状況を悪くしないでくれ……」
 いや、もう事態は最悪なのだが……
「澤村……そういやお前、あんま朝飯食ってなかったな。いつもああか?食わないと倒れるぞ……」
 玄関の扉を開けた戸浪に川田が言った。この男は朝から茶碗二杯もご飯を食べていたのだ。
 羨ましい健康体だ。
「大丈夫だ。いつもこんなものだ……」
「朝から、くそめんどくさい会議だぞ。ただでさえ頭の痛い内容なんだから、お前倒れるなよ」
 川田は冗談で言ったのだろうが、その会議で本当に戸浪は倒れた。
 
 何か意見を言おうとして立った事までは覚えていた。その後が全く記憶にない。
 社内にある医務室のベットに横になりながら戸浪はぼんやりその時のことを思い出そうとしたのだが駄目だった。
 ああ……もう……何をやってるんだ私は……
 抱えている仕事を分担して貰ったとはいえ、仕事は山のようにあるのだ。だが、医務室に来てくれている通い医者は、又倒れるといけないからと言って点滴を戸浪の腕に突き刺すと、さっさと自分の席に戻ってしまった。
 この本社には医務室があるのだ。二十階建てのビルは医務室も整備され、そこに定期的に通い医者が来るのだ。簡単な検査もしてくれる。社員の健康診断も、現場の定期健康診断もここの部署が担当しているようだ。医者がいないときは勝手にみんなここのベットで休憩したりしているのだが、間の悪いことに今日は医者がいたのだ。
 こんなところがあるから倒れた原因が分かってしまった。
 くそ……恥ずかしいぞ……これは……
 ベットの毛布に潜り込んで戸浪はごちた。
「おーー澤村~聞いたぞ病名!」
 会議が終わったのか、ガラッと扉を開けて川田が入ってきた。手には山のように袋を抱えている。そんな奴はもう何人も来た。
 うんざりしていると、川田が椅子を勝手に引っ張ってきて、ベット脇に座った。
「栄養失調だあ?だっから俺が朝飯ちゃんと食えって言っただろう。ってことでこれは見舞いな」
 言って川田は枕の横に紙袋を置いた。
「もう食い物はいらん。そこに一杯積んである。みんな入れ替わり立ち替わり色々持ってきてくれるのは良いが、一人では食えないだろう!全く……」
 嬉しいのだが、どうやって持って帰って良いのか分からないくらいの食べ物が、隣の誰もいないベットに積んである。
「一人で食わなくても良いだろうが……」
 意味ありげに川田が言った。
「……あのな……」
「ま、俺はお前の事を、あっちこっちで言いふらすようなことはしないから安心しろよ。それ言っておくの忘れてたから気にしてたのか?」
 この男がそんな事をするなど考えもしなかった。だが川田はその事で戸浪が悩んで倒れたと思ったのだろう。
「……いや。お前がそんな男でないことは分かってるよ……。でもありがとう。感謝してる……」
 戸浪はそう言って微笑した。
「まあ、俺は何でもいいからな。本人の問題だしなあ。お前が良いって言うんだったらそれで良いんだろう……。可哀想に、こんな事ばれたら何人の女が泣くか……」
 ふうーっと溜息を付いて川田が言った。
「私はそんなにもてないぞ」
「そうしておくか」
 笑いながら川田が言った。
「でもな……」
 急に真剣な顔で川田がこちらを見た。
「余りにも辛い恋愛は、例え本当に好きでも時には諦めた方がいい場合もある。好きだけではどうにもならない事もあるんだ。それを決めるのはお前だが、ちったー考えろよ。言ってる意味分かるよな」
「……ああ……」
 分かってる……
 分かっているんだ……
 でも私から諦めるなど、そんな事は出来ないんだ……
「そういえば、あの女なんだ?あの家はどういう家族構成で成り立ってるんだ?」
「ああ、あの子は、三崎の従姉妹なんだ。就職活動するのに居候しているって言う訳なんだが……」
 違うが、本当の事を話すと益々ややこしくなるので戸浪は川田にそう言った。
「ふうん。お前達を見ていて、それでも居座るのはものすごい根性がある女だな……」
「あの子は知らないよ……」
「お前、本気でそんな事言ってるのか?分からない訳無いだろう。俺だって気が付いたっていうのに……毎日一緒にいたら、どんな馬鹿でも気が付くぞ。特に女は男よりボディランゲージに敏感だからな……。ただの会話をしているだけでもピンと来るらしい。女ってこええな」
 え……
 そうなのか?
 鈴香は気づいていると言うのか?
 まさか……
「分かっていてあそこに居座ってると考えると、気を付けた方がいいぞ。ああいうタイプは自分のことしか頭に無いから、お前みたいに人のことを考える優しい気持ちは無い。だから周りをどんなに傷付けても、自分の思ったとおりに行動するタイプだ。それが無意識だから怖いんだよ」
 知った風に川田が言うので戸浪は不思議だった。
「……お前、そう言うタイプとつき合ったことあるのか?」
「んまあねえ~俺も色々つき合っては別れを繰り返してるからよ。俺はいつだって、俺だけを見てくれる一途で気の優しいタイプを求めてるんだけどさあ~駄目だなあ~上手くそう言うのとあたらないのは何故なんだろうなあ……」
 腕組みをして川田は唸った。
「気が付くと振られてる」
 顔を上げて真剣に言うのだが、それが何故か可笑しくて、思わず戸浪は笑ってしまった。
「お前なあ、人が真剣に話しているのに笑うか?」
「いや、なんていうか……お前も悩むんだなあと思ったら可笑しくて……」
「俺だって悩むよ~。ああ、あのスッチーはどういうタイプなんだろうなあ~今度こそ俺も幸せになりてえ」
「お前は良い奴だから、きっと素敵な彼女が出来るさ……」
「そうかな?」
 嬉しそうだ。
「ああ……」
「はは、褒められるのは、スッチーと上手く行ってからにしてくれよ~」
 へらへらと川田が言った。
「……川田……」
「何だ?」
「どうしてこんなに私に良くしてくれるんだ?」
「お前が良い奴だからだよ。そりゃ見た目はお綺麗なだけで、きつそうな印象があるからな。でもなあ、よくよく見てたら、お前が無言できつい顔をしているときは、考えているっていうより、ぼーっとしてることが多いんだよ。それに人の仕事を何気なしに肩代わりしてやってたり、なんかこう、見た目と中身が違うんだよなあ。入社式の時は、なんでえこいつすかしやがってって思ったんだけどな、実際はすげえ、気を使う奴だって分かった。それで損するタイプだって言うのも見ていてわかった。こういう奴とお友達でいると、気を使わないで良いだろうって思って俺はお前とお友達してるって訳だ」 
 うんうんと頷きながら川田は言った。
「……そ、そうなのか?」
 照れくさいことをこうはっきり言われると、どう返して良いか戸浪には分からない。
「ああ、お前の彼氏もそう言うお前を知っているから、好きなんだろう。分かる奴には分かるんだよ。そう言う意味で言えば、お前の彼氏はちゃんとお前を見てるって事だ。ただなあ……若いからなア……」
「……彼氏って言うな」
「はいはい。この話はここまでだ。あ、お前、相手同業だろ。しないと思うけど、絶対社内情報だけは漏らしてくれるなよ。ベットの上の睦言禁止って奴だ」
「おまえっ!」
 かあっと顔を赤らめて、戸浪は言った。が、川田は既に椅子から飛び退いていた。
「うへ、こええ。ああ、帰りは送っていくからな。今日は俺もちょっと遅くなるが、一人で帰すの心配だからさ。柿本部長に頼まれてるんだ。勝手に帰るなよ」
 医務室の扉の前でそれだけ言うと、川田は出ていった。
「……あいつは……全く……」
 と、思うのだが腹は立たなかった。
 同期に恵まれて良かったなあと本当に思う。実は今まで自分が気づかなかっただけで、回りには戸浪を心配してくれる人が沢山いるのだ。
 それは隣のベットに置かれた、見舞いと称する食べ物の入った紙袋の山を見ても分かる。 
 私は結構幸せな男なのだろう……
 だが……
 川田が言っていた事を思い出して戸浪は考え込んでしまった。
 鈴香は気が付いているのだろうか?
 気が付いていて、あの家に居れるのは確かにすごいことだろう。なにより鈴香は戸浪に、自分と祐馬が上手く行くように協力してくれ等と言ったのだ。
 普通知っていてそんな事が言えるのだろうか?
 もし自分がその立場なら、潔く身を引くだろう。
 だが鈴香は違うのだろうか? 
 女心は分からない……
 心配事は山のように増えていく。もうどうして良いか分からない。今日も帰ったら又不機嫌な祐馬と顔を合わせなくてはならないのだろう。どう説明すれば分かってくれるのか、もともと口べたなタイプの戸浪には上手い言葉が出てこない。
 祐馬の気持ちは充分分かっている。
 それはそのまま戸浪の気持ちでもあるからだ。
 だからと言って二人ともあの場で流されていたらどうなっていた?
 どうせ後で後悔することになるのだ。
 時にはその場の感情で突き進むのも良いだろう。だが、昨日あのまま突き進むことはどうしても出来なかった。
 身体一つで済むのなら、今からだってホテルに誘ってやる。だがそれで本当に祐馬の気持ちが納得できるのか?
 淡白……か
 冷たいとも言われた……
 その二つは戸浪にとって一番辛い言葉なのだ。
 如月に一度言われずっと引きずってきた言葉と、毎日自分が鏡をみて思う言葉だ。そんな自分が嫌だった。だからずっと変わりたい、変えたいと思ってきた。
 私は進歩が無いのだろう……
 自分では努力してきたつもりだった。だが全くそれが実際に繋がっていなかったのだ。
 如月と別れたあの時からの自分は、全く変わっていないことを祐馬から思い知らされた。変われないと言うことは、変えられないと言うことなのだろうか?人間は何処まで自分の性格をコントロールできるのだろう。
 溜息を付いて戸浪は寝返りを打った。
 性格などコントロール出来ないのかもしれない。何年も努力してきたことは、戸浪自身を変えるまで至っていなかった。
 祐馬と出会って、もっと変わったと思っていたのだ。
 だが全然進歩などしていなかったのだ。
 こんな風に事実が分かると言うことは、とても辛いことだ。
 このまま本当に一緒にいていいのだろうか?どうあっても変わることの出来ない自分がここにいる。その自分が無意識に祐馬を傷付けているのなら、川田の言うように好きでもどうにもならないことに入るのだろう。
 私は鈴香のようにはなれない……
 もし鈴香が他人を傷付けることに何の感慨も持つタイプで無いとしたら、本当に羨ましい性格だと思う。自分の思うまま、相手に対して感情を見せることが出来、それを悪いとも思わないあの性格は幸せだろう。
 そう思う反面、戸浪にはそんな事は出来ない。相手を、そして回りを傷付けてまで自分が優位に立ちたいと思わないのだ。
 所詮これは性格の差であって、個の問題だ。生まれた瞬間から持ち得る性格なのだから、戸浪がいくらこうありたいと思っても、それをどこかで否定する部分が性格として根付いている限り、どうにもならないのだ。
 無駄な努力だったのだ。
 それを思い知ると、今までの自分が情けなくなってくる。
 祐馬に愛されたいと必死に思ってきたが、相手を求める部分と、それを受け止める部分の差がこんなにもある。
 その差が相手を傷付け、更に自分も傷ついているのだ。
 どちらかというと、祐馬には鈴香のようなタイプの方が似合いのような気もする。鈴香なら昨晩のような場合でも、何も気にせず祐馬の求めるまま抱き合っているだろう。
 ただ自分にはそれが出来なかっただけだ。それが祐馬をいらだたせ、戸浪に対して不満に思う部分だろう。
 私はどうあっても、例えどんなに自分を変えたいと願っていても、昨晩の祐馬に応えることは無かっただろう。
 大人であるからではない。元々持った性格の問題だ。
 あれを淡白だというのなら、変えることは不可能だ。
 それを冷たいというのなら、私には無理な事だろう。
 一体どうすれば良いのだろう……
 戸浪には分からない。
 祐馬が不満に思う部分は、戸浪自身の性格を否定していることになるからだ。性格を否定されて、愛され続けることが出来るのか?
 それを否定されたら後に残るのは身体という入れ物だけでしかない。
 これ以上考えると、駄目になりそうだと思った戸浪はそこで考えるのを止めた。
 今戸浪が考えたことを祐馬も考えたとしたら……
 その先には別れしか無いからだった。

 今日は待っていよう……と祐馬は思った。
 八時に帰宅した祐馬は、鈴香が勧めるのを断わると、並んだ夕食に手を付けずに祐馬はキッチンでぼんやりと座っていた。
 昨日は酷いことを戸浪にしたと反省しているのだ。
 あれは確かにまずかった……
 俺ってもう本当に馬鹿だ……
 昨晩、戸浪がいくら関係のない同僚の世話をしていると分かっていても、酔った相手に腹が立っていたのだ。
 こっちは戸浪に触れることも出来ないのに、相手はベタベタと戸浪に触れていたから、本当に頭に来たのだ。
 酔った相手に怒鳴っても仕方のないことなのだが、それこそ戸浪の同僚で無かったらマンションを叩き出していたはずだ。
 そのくらい戸浪は同僚にかいがいしく世話をしていたのだ。
 あんな二人を見せられて、正常でいられるのならものすごく出来た人間に違いない。
 戸浪は俺のもの何だから触るな!と怒鳴ってやりたいくらいだったのだ。
 自分がこれほど嫉妬深いとは思わなかったが、戸浪に関してはそうなってしまうのを昨日ほど自覚したことはなかった。
 如月に対しても思ったのは事実だが、あれは別だった。昔の男だから嫉妬しているんだと思っていたらそれは違った。
 とにかく戸浪に触れる相手は誰だってそう思うことに昨日気が付いた。
 俺って心が狭い~
 頭を抱えて祐馬はそう心の中で思った。
 戸浪だって男友達も女友達もいるだろう。それにいちいち腹を立ててはいけないと思うのだが、今戸浪から触ることすら禁止されている状態では、とにかく不安で仕方ないのだ。
 触れて確認する訳ではないのだが、戸浪に触れていると何故か安心できる。抱きしめて、キスをして、それを受け入れて貰うことででようやく戸浪は自分のことを愛してくれているのだと思うのだ。
 なあにが、無愛想にしていたらしらねえぞ……だっ!
 お前がいるから無愛想になってたんだっ!
 くっそーーむかつくっ!
「ねえ、やっぱり戸浪ちゃん遅いと思うよ。食べようよ~」
 先ほどまで鈴香は居間でテレビを見ていた筈なのだが、しびれを切らして来たようだ。 
「今日は待ってるの。お前食いたかったら食えよ。それよりお前就職どうなったんだよ。さっさと決めて出ていけっての。もうこれ以上居座るなら、埼玉へ行け。ここはもうおれんちなの。姉さんから俺権利は譲って貰ったんだからな」
 俺が金を払ってるんだからここは俺んちだっ!
「ぶーー……」
「お前いちいちぶーぶー言うなッ!豚かお前はっ!」
「豚じゃないもん」
 と、言い合っていると玄関の扉が開く音がした。祐馬は立ち上がって玄関まで走っていった。が、戸浪と一緒にいるのは、またあの川田だった。その所為で一気に顔が引きつる。
「よう、また無愛想だなあ……。そんな事はいいか、お前、何でも良いけど、こいつにちゃんと飯食わせろよ。今日会社で倒れたんだ。医者が言うには栄養失調だと」
「川田っ!余計なことは言うなっ」
「本当の事だろうが……ちゃんと言っておかないと、お前また食わないだろうからな」
 倒れた?倒れたって……
「戸浪ちゃん……」
「気にするな。こいつが大げさなんだ……」
 そう言って笑う戸浪の顔色は青かった。気が付かなかったが、確かに痩せたような気がする。
「それでな、これみんなからの差し入れだ。まあ当分食には困らないくらい入ってるから、腹壊れるくらい食わせてやれ。全く、ここまで持ってくるの大変だったんだからな。俺はこいつが途中でへばらないように付いてきただけだ。もう帰る」
 玄関にドサドサと紙袋を置いて、川田は回れ右して帰っていった。それを戸浪が追いかけ、暫くすると戻ってきた。
「あいつの言うことは気にするな。大げさなんだよ。ちょっと貧血を起こしただけだ……」
 ちょっとの貧血で、こんなに差し入れされるものなのか?
 祐馬は玄関先に置かれた紙袋を確認してそう思った。
「戸浪ちゃん、そんな体調悪かったら言ってくれたら良かったのに……」
「本当に大丈夫だよ。点滴もしてもらったしな」
 言いながら足元に置かれた紙袋を持とうとした手を祐馬は遮った。
「俺持つから……戸浪ちゃんはキッチンで待っててよ。夕飯一緒に食べようと思って待ってたんだから……」
「……済まないな……」
 戸浪は言ってキッチンに向かった。祐馬は紙袋を全部持つとその後を追った。
「おっそい戸浪ちゃん」
 鈴は立腹してそんな事を言った。
「鈴、黙ってろっ!お前がそんな事言う資格は無いんだからな。サラリーマンの生活習慣にお前がうだうだ言うのは間違ってるんだぞ。家でだらだらしてるくせによ」
「何よそれっ!」
「良いから祐馬。悪いと思ってるよ。済まない」
 謝る必要のない戸浪が謝っているのが、祐馬には申し訳ないのだ。
 ここは二人の家だ。決して鈴香の住む所ではない。なのに最近見ていると、戸浪の方が気を使っているのが分かる。元々戸浪はそう言う性格なのだが……。
「戸浪ちゃんが謝ること無いんだって……」
「いいから……。ほら、夕食にしよう……」
「……分かった。鈴、これ、差し入れだって……片づけとけよ」
 持ってきた紙袋を冷蔵庫の前にどっさりと置く。 
「何で私がそんな事しなきゃならないのよっ!」
 鈴香も今日は機嫌が悪そうだった。だが我慢しているのは祐馬もなのだ。どうして鈴香のご機嫌取りをしなくてはならないのだ?
「お前が居座ってるからだろ。ここではお前が居候なんだからなっ」
「三崎、それは私が後で片づけるから……気にするな……」
「戸浪ちゃんっ!良いんだって。ここは戸浪ちゃんの家でもあるんだからっ!」
 と、祐馬が言うと鈴香が「差別だー」と叫ぶ。
 いい加減こいつをひっぱたいてやりたいと祐馬は本気で思った。
「とにかく夕食にしないか?鈴香ちゃんも待っていてくれたことだし……」
 戸浪はそう言って椅子に座った。祐馬も戸浪がそう言うなら仕方無いと思い「分かった」と言って座る。するとすかさず、鈴香がご飯を入れた茶碗を目の前に置いた。
 食事をし始めて、ようやく戸浪が余り食べていないことに気が付いた。人がどれだけ食べているかなど気にしたことは無かったが、確かに戸浪の食は今まで以上に細くなっている。
 これでは倒れるはずだ……
 元々戸浪はそれほど沢山食べる方ではない。だが、それにも限度がある。今の戸浪は小鳥並だ。少しつついては口元に運んでいるが、沢山食べてはいない。
 暫く一緒に夕食を摂っていなかった為、これほど戸浪の食欲が減退していることを祐馬は気が付かなかったのだ。
 もしかして、遅く帰った日は食べずに寝ていたのかもしれない……。
「戸浪ちゃん……もっと食べないと……」
 心配そうに祐馬が言うのだが、箸が進まない。
「食べているよ……」
「食べてないっ!」
 祐馬がそう言うと戸浪は苦笑した。
「そうだな……頑張って食べないと又みんなに迷惑がかかるな……」
 そんな風に言う戸浪が何だか祐馬には切なく見えた。
 いつだって人のことばっかり考えているんだ……
 自分の身体の事より、その事で周りに迷惑がかかることの方が戸浪にとって心配なのだろう。
 もう少し自分を優先しても良いはずなのに……
 祐馬はそんな戸浪が好きで、そして不満だった。 
「ごちそうさま……」
 ようやく茶碗一杯のご飯を食べて戸浪が言った。本当はもっと食べて欲しいのだが、戸浪はそれで終えるつもりのようだった。
「もすこし食べた方がいいよ」
 席を立とうとする戸浪にそう言ったのだが、小さく笑っただけだった。
 戸浪はそのままバスルームに向かった。祐馬はそれを見送ると、戸浪が後で片づけると言った紙袋を開けて、色々入っている食材を冷蔵庫に分けて入れた。本当に沢山あるので、川田がどうやって持ってきたのかが不思議に思うほどだった。
 袋の中にはカロリーメイトやビタミン剤まで入っている。一体誰がこんなものをと思うのだが、これを戸浪の鞄にでも入れて置いてやれば、食べたいときに口に入れられるだろう。そうやって少しずつカロリーを摂るのが良いのかもしれない。これを買ってくれた人もきっとそう思ったのだ。
「私、片づけるよ……」
「も、いいよ。俺がやるから……」
 祐馬はそう言って鈴香には一切手出しをさせなかった。
 もうこのわがまま従姉妹には、ほとほと祐馬も疲れているのだ。
「ごめん……」
「いいから……お前はさっさと自分の部屋へ行けよ。勉強しなきゃなんないんだろ。面接試験だってあるんだから……あと俺片づけて置くから……」
「……うん」
 鈴香はそれを聞き、すごすごとその場を後にした事で祐馬はようやくホッとした。

 戸浪が寝室でうとうとし始めていた頃、ベットが少し揺れるのを感じた。祐馬が布団に潜ったのだろう。
 こんな風に一緒に眠っているのに、何故か今他人と一緒にいるような気がして仕方がなかった。
 すると祐馬が声をかけてきた。
「戸浪ちゃん……寝た?」
「……いや……」
「昨日……ごめん。俺本当に反省してるから……許してくれる?」
 申し訳なさそうな祐馬の声だった。
「良いんだ祐馬。お前は悪くないんだから……」
 そう言って戸浪は目を閉じたのだが、祐馬はまだ話し足りないのか、又話し始めた。
「あのさ、約束のこと俺覚えてるけど……ちょっとだけそっちに行って良い?」
「……いいよ」
 戸浪がそう言うと、確かめるように祐馬は後ろからそっと身体を寄せてきた。背中から伝わる温もりが確かにこれは祐馬だと伝えてくる。
 気負っていた何かが、ふんわりと溶けていくような気が戸浪にはした。
 自分から言い出したことなのに、こんな風にしか触れ合えないのが戸浪には辛い。
「俺……不安なんだ……こやって戸浪ちゃんにひっついてないとさ。だから馬鹿ばっかりやっちゃうんだよな……」
「……え?」
「愛されてるのかな……って時々不安になるんだ……。これってさ、やっぱり俺がガキだってことだよな……」
 言って祐馬は小さく笑った。
「俺がさ、すぐ突っ走っちゃって、戸浪ちゃん困らせて……昨日のことだって、頭冷やして考えたらほんと、なんて馬鹿なこと言ったんだろうって……すげえ後悔して……いつだって言っちゃってから俺、後悔するんだけど、それっていっつもなんだ。昔から毎度同じ事繰り返して、後で落ち込んでさ……そんな俺自分で嫌なんだけど……なんかこう頭に血が上ってると、そのとき押さえられないのが俺の悪い所なんだ……こんな俺……駄目だよな……嫌になった?」
 戸浪が自分の嫌な部分を変えたいと思うように、祐馬もそう思っているのだ。それが分かると何故か戸浪は酷く嬉しかった。
 誰だって自分の嫌な部分を持っているのだ。それを変えたいと思いながら生きている。そんな風に思い悩む事は自分だけではないのを知って、昼間感じていた不安が消えるのが戸浪には分かった。
「祐馬……っ」
 正直な祐馬の告白が余りにも嬉しくて、戸浪は身体を祐馬に向けるとそのまま抱きついた。暫くこんな風に抱き合っていなかった分、その温もりは熱く感じた。
「ごめん……も、俺ほんと……なんて戸浪ちゃんに謝って良いか分からないよ。戸浪ちゃんはちっとも冷たくなんか無い。いつだって人のことばっかり心配してるし、気にしてる。そんな戸浪ちゃんが俺好きなのに、昨日、ほら、同僚だって分かっていても、あいつの面倒をかいがいしくするの見て、なんか嫉妬しちゃってさ……そんで不安になっちゃったんだ……。顔も最近見ない日続いただろ……だから余計にそう思ったみたい。俺みたいな男より良い奴一杯いるし、女にだって戸浪ちゃんもてるだろうし……。だからさ……あんな事しちゃったんだ……。だって最近こんな風に抱き合えないし……。変な話だけど、こんな風に戸浪ちゃんと抱き合って、ようやく俺の戸浪ちゃんだって思えるんだ。変だろ……戸浪ちゃんが、ちゃんと俺のこと好きって言ってくれてるのに……」
 祐馬は言いながらこちらをきつく抱きしめた。息を付くのも必死な筈が、幸せな拘束だった。
 この恋は決して辛い恋ではない。お互い抱き合うことで、あんなに悩んでいた自分がもう今はいないのだ。祐馬が言うように、自分自身も触れることが出来なかった不安が、ナーバスになった原因なのだろう。
 これでは祐馬と同じじゃないか……
 そう思うと戸浪は何故か可笑しくなった。
 祐馬と同じに、相手を求める自分がいる。それが満たされていなかったから、不安になり、そしてもう駄目なのかもしれないとまで思った。それが少しこうやって抱き合うだけで解消されている。
 ガキはお互い様だったのだ……
「夜は……電気を消してからは、こうやって暫く抱き合うことにしようか?」
「ええっ!戸浪ちゃんがそんな事を言うなんて……俺信じられないっ」
 暗闇のなかで祐馬が妙な声でそう言った。
「馬鹿、でかい声を出すな」
「ごめん……で、ほんといいの?」
「……いや、なんというか……お前がそう思うように私も……そのな……」
 言葉を濁して戸浪は言った。祐馬のようにストレートに言えないのだ。だが祐馬には分かったようであった。
「へへへ、そか。俺だけじゃなかったんだ……。あ、もしかして、俺を避けてたのはそれが原因?俺とこんな風にしたかったけど、鈴がいるから我慢できなくなるのが嫌とか……そうなんだ~そうだったんだ……」
 いや、それは違うのだが……
 祐馬が喜んでいるのなら、そうしておこうと、戸浪は思った。
「……ま、まあな……」
 言って戸浪は祐馬の胸に頬を寄せた。久しぶりの感触がどんどん不安を消してくれる。
 不思議なことだな……
 戸浪は本当にそう思った。
「じゃあ、戸浪ちゃんは淡白じゃなくてむっつりなんだ……」
 バキッ!
「痛いなあもう……」
「そんな風に言うなっ」
 とは言ったものの、考えるとそうなるのだろうか?
 だがむっつりと言われると余り嬉しくない。だがまあ淡白と言われるよりいいのか?
 等と考えていると祐馬が又言った。
「そだ、俺ね、昨日のことで考えたんだけど、もしさ、なんかのきっかけで周りに俺達のことばれても、俺、戸浪ちゃんを絶対守ってやるから……。だからさ、もしもばれてもその事で戸浪ちゃんから消えたりしないでよ。俺は覚悟決めてるんだからな。だから戸浪ちゃんも覚悟決めてくれよ」
「ああ、約束する……」
 目を閉じて戸浪はそう言った。
 男とつき合うということで既にリスクは背負っている。一人では耐えられないかもしれないが、二人なら何とかなるだろう。
「それと……もう一つ……」
「なんだ?」
「キスして良い?」
 戸浪は速攻に頷いた。
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