Angel Sugar

「煩悩だって愛のうち」 最終章

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 会社が終わると、戸浪は如月と約束をした喫茶店に向かった。
 話とは何だろう……
 と考えるのだが、ピンとこない。もしかすると、どこかで聞きつけ、鈴香の事をからかうだけに呼び出されたのかもしれない。
 如月が指定した喫茶店は三階建て、窓になる側面が全部ガラス張りになっており、如月は二階からこちらを見つけて、手を振った。
 戸浪もその喫茶店に入ると、如月の待つ二階へと向かった。
 一階は人が結構入っているにも関わらず、二階には人がまばらであった。だがまあこれくらい人がいるなら安心だろうと戸浪はホッと胸を撫で下ろした。
 とにかく如月は、和解したとはいえ、まだこう信用ならないところがあるのだ。
「久しぶりだな……」
 ついこの間散々引っかき回した張本人が、そんなことなど何も無かったような顔でそう言った。
「……で、何なんだ……」
「まあそう構えるな。座れ……」
 如月の前の席に戸浪が腰をかけると、ウエイトレスがさっとやってくる。
「アメリカン……」
 戸浪はウエイトレスが何か言う前にそう言った。そうして、ウエイトレスが注文したアメリカンを戸浪の前に置くまで、如月は何も言わずに肘を机に置き、外の景色を眺めていた。戸浪もつられてその景色を見ていたが、別段何も変わった様子など無かった。
 街はそろそろ夜の化粧をし始める。ネオンが付き、昼間と違う人達が行き来するのだ。そんなものを眺めて如月は楽しいのだろうか?
 フッと視線を戻して如月の横顔を見る。日本人には不自然な青い瞳は吸い込まれそうなほど深い。
 この瞳に見つめられることで幸せになれた時期もあった。
「惚れ直したのか?」
 こちらの視線に気が付いた如月が、姿勢を戻しながらそう言って口元で笑った。
「……まさか……」
「お前が祐馬より私の方が良いと言うのなら、いつでもよりを戻しても良いぞ」
 如月は意外にも真剣な顔で言った。
「あのな、その話はもう終わっている。そんなことを又言うのだったら帰るが……」
 そう言って戸浪が席を立つのを、如月は言葉で引き留めた。
「お前達の家に、女の子が居座ってるだろう……。それで困ってると聞いてるが……」
 戸浪はそれを聞いて、浮いた腰をまた椅子に下ろした。
「まあな……で、お前は何を知ってるんだ?」
「面白い話をしてやろう……。あの子は祐馬のお姉さんに頼まれて、お前達の邪魔をしに居座ってるんだ」
「え?」
「この間、祐馬の姉さん……私にとったら義理の姉なんだが……に会ってね。それでそんな話を聞いたんだ」
「……もちろん……反対だからだな……」
 いつかこう言う日が来るとは思っていたが、こんなに早く祐馬の身内にばれるとは思わなかった。
 いや、祐馬は隠すような男ではない。自分から話した可能性の方が高い。なにより祖母には話したなどと抜かしていたのだからもうどうしようもない馬鹿だ。
 あの……馬鹿……。
「ま、普通は反対するに決まっているだろう……。自分の弟が、男とつき合ってるなんて姉として許せないのだろうな……。それで従姉妹に頼んだわけだ。報酬を奮発すると言うことで話は決まったらしいが……」
 言って如月は温くなったコーヒーに口を付けた。
「……金?金を貰ったからって、普通男同士の住む家に居座れるのか?何かあったらどうしようなどと考えないのか?」
 間違いがあるわけなど無いのだが、向こうにはそれは分からないだろう。いくらこちらがつき合っていると分かっていたとしてもだ。
「あのな、今時の子が無料奉仕するとでも思ってるのか?あの鈴香って子は結構その辺りの計算は高いぞ。なんでも自分のヨットが欲しいらしい。だから身体売る意外の金になることは何でもするだろうよ」
 クスクスと笑いながら如月は言った。
「……ヨット……か。確かに随分日焼けした感じがしたが、それは海でヨットをしている所為か……」 
「なあ、戸浪……ヨットはどうでもいいんだが……」
 呆れたように如月は言った。
「えっ、あ、そうだったな……」
「というわけでだ、多分お前達が引っかき回されているだろうと思って、ご忠告まで……だ。鈴香が邪魔なら、祐馬の姉を持ち出して、全部ばれてるとでも言えば、こそこそと逃げ出すだろうからな……」
「どうして祐馬のお姉さんは、そんなめんどくさいことをするんだ?」
 わざわざ金を出して、鈴香に頼むのも妙な話だ。
「表向きは姉さんの方から祐馬に手を出せないんだよ」
 手を出せないと言うのはどう言うことなのだろう……
「なんだか妙な言い方だな……」
「戸浪、お前祐馬から婆さんの話聞いたこと無いか?」
 如月は意味深な目でそう言った。
「……ああ。ある。それが?」
「東都っていうのはすごいグループでな。爺さんが東一郎太、婆さんが都っていうので東都なんだが、身内の男連中を束ねてるのが爺さんで、女連中を束ねてるのが婆さんなんだ。で、爺さんは婆さんには頭が上がらないんだ。あんなすごい爺さんがね。で、祐馬って言うのはその爺さんと婆さんに可愛がられてる唯一の孫なんだよ。あの性格を見て分かると思うが、欲が無いのが気に入られて居るんだろう。まあ親戚連中も目の色変えて爺さんと婆さんに媚びてるからな。そう言う中で、祐馬だけが特異な存在なんだ。それが小さい頃からあんな感じだったらしくて、何かを欲しがったりしない、あれを買って、これが欲しいとねだったことも無いんだと。逆に二人からすればそんな孫が可愛いんだろうな。その孫が初めてつき合ってるから応援してくれと言ってきた……」
 ニヤリと笑って如月はこちらを見た。
「私の事か?」
「そうだ。お前の事だよ。言って置くが、お前の事は全部調べられてるぞ。家族構成から親戚連中からな。それで、お前が祐馬を騙して居るわけではないと判断されて、とりあえず爺さんは納得したようだ。婆さんの方はそう言う時代なのねえ~で逆に喜んでるらしいがな。そう言う味方を祐馬が付けたものだから、他の連中が表立って反対できないんだと」
「……私は……複雑なんだが……」
 どういう人達なのか理解できない。
 人を勝手に調べるのはまあ置いて置いて、
 何故そこで喜べる?
 相手は男なんだぞ?
 いや、反対されないだけ良いのだろうが……
 それはありがたいのだが……
「……そうだな……確かに一族の連中は変わっているよ。祐馬が一番まともに見える位だからな……」
 普通の家庭に生まれて良かったと、戸浪は何故かそう思った。
「それで祐馬の姉が動けずに、従姉妹に頼んだと言うことなのか?」
「だろうな、だがそれすらばれたら大変な筈なんだがな。ただ、姉は祐馬を可愛がっているから、どうにかしたかったんだろう」
「……そうか……」
 戸浪自身も、弟の大地と博貴の事を反対した時期があった。現在は二人を認めているとはいえ、複雑なときがある。それと同じようなものなのだろう。だから祐馬の姉を責めることは出来ない。
 だが、自分が大地にしたことで、弟は酷くショックを受けた。と言うことは、この話を祐馬に話すわけにはいかない。
 あの祐馬とて姉がそんなことをしたと知ったらショックを受けるに違いないのだ。
 それは出来たら避けてやりたい……。
 どうすれば姉のことをばらさずに、あの鈴香を追いだすことが出来るだろうか?
「戸浪……」
「あ、済まない考え事をしていた……」
 如月に呼ばれて、戸浪は顔を上げた。
「お前がそんな親戚共に疲れたら何時で私が慰めてやるぞ……」
「……はあ……冗談も休み休み言え……」
 言いながら戸浪は、ようやくコーヒーを口元に運んだが、既に冷えて冷たくなっていた。
「冗談か……」
 如月が、苦笑いした。
 そこに戸浪の携帯が鳴った。
「もしも……あ、……」
 相手が祐馬であったのでちらりと如月を見て、身体を横向きにすると小声で言った。
「済まない……ちょっと人と話をしているんだ……後でかけ直すから……」
「ごめん、これだけ言わせてよ……。俺、今日ちょっとだけ遅くなるからさ、戸浪ちゃん悪いんだけど……」
 祐馬が申し訳なさそうに言う。
「分かった。適当に時間を潰す。心配するな……」
 と、ボソボソと言っている戸浪に、如月は相手が誰だか分かったのか、いきなり声を上げて言った。
「どうする戸浪~これからホテルでも行くか?お前時間がありそうだしな……」
「お、おいっ!何を一体言い出すんだっ!」
「今更~何言ってるんだ?私とお前の仲だろう?」
 いやに嬉しそうに如月が言う。
 それは本当に冗談にならない。
「何?今のって如月?戸浪ちゃんどう言うことなんだよっ!もしかして会ってるの?」
 祐馬はこちらの話が聞こえたのか、いきなり怒り出した。
「あ、な、何でも無いっ、切るぞっ!」
 戸浪は祐馬に弁解せずに携帯を切った。
 その慌てぶりが面白かったのか、如月は何食わぬ顔で笑っていた。
「如月~っ!」
「いや、こっちは情報を提供したのに、報酬はないからな。少しくらいの悪戯は大目に見ろ」
「お前が言うと悪戯にならないっ!ようやく落ち着いたんだから余計なことは言うな」
 言って戸浪はレシートを持って立ち上がった。それにつられるように如月も腰を上げたのだが、戸浪がそれを止めた。
「一緒にはここを出たくない。何処で誰が見ているか分からないからな。ここでの事は祐馬にいくらでも話せるが、間違っても一緒に歩いている所は見られたくないんだ……。時間をずらして帰ってくれないか?」
「……はあ……そう来たか……」
 溜息をついて如月は浮かせた腰を再度椅子に下ろした。 
「済まない……。教えて貰って感謝はしているんだ……」
 だが、もう如月の事で祐馬ともめたくないのだ。あれが一番きつかったからだ。
「言葉だけの感謝を貰っても、嬉しくとも何ともないな……」
 そう意味ありげに言った為、戸浪は机に手を伸ばして如月の方をじっと見た。
「じゃあ、ここのコーヒー代は払ってやる」
 ピッと如月の分のレシートを取ると身体を起こし、その場を後にした。
 後ろで苦笑している如月の声が聞こえたが振り返ることはしなかった。 

 戸浪は外で時間を潰す事はせず、真っ直ぐにマンションに向かった。
 どうやって鈴香を追いだすかであったが、少々お灸をすえて置いても良いだろうと戸浪はあることを考えていた。
 家に入ると、居間からテレビの音が聞こえてきた。呑気にテレビを見られて幸せな奴だとフッと思った。
 それにしても、いくらその気が無かったとはいえ、祐馬の前でパジャマまで脱ごうとした鈴香は恐ろしすぎる。祐馬が本気になったときのことは考えなかったのだろうか?
 まあ、どこから見ても祐馬にそんな根性があるとは思えないな……と戸浪は思った。
 それが分かっているから鈴香はあんな事を平気でやってのけたのだ。
 祐馬がああであるから、まだ自分達は清い交際で過ごしている。
 根性無しめっ!
 と余計にイラつきながら戸浪は居間に向かった。
「鈴香ちゃん。ちょっとキッチンまで来てくれるかな?話があるんだけど……」
 戸浪がそう言うとちらりとこちらを見て、プイと又テレビ画面の方に顔を向けた。その態度にむかついたのだが、戸浪はもう一度同じように言った。
「何よ話って……」
 ようやく鈴香は立ち上がって、渋々キッチンに付いてきた。
「座ってくれるかな?」
 言うと意外に素直に鈴香は椅子に座った。
「私、何を言われても絶対ここから出ていかないからっ。祐ちゃんを絶対鈴のものにするんだからねっ」
「……そんな気が無いのに、ヨットの軍資金の為にそこまでするのは立派としか言いようが無いね」
 戸浪はニッコリと笑ってそう言った。
「……えっ?」
「ちょっと小耳に挟んだことがあってね。鈴香ちゃんヨットが欲しいんだって?お金貯めるの大変だろう?」
 そう言うと急に鈴香の顔色が無くなった。
「何のことか分からないわっ」
「私は君たちの親戚関係がどうなり立っているのか良く分からないんだが……こう言うことがばれたら大変なおじいさんとおばあさんが居るらしいね。もう、これ以上ごちゃごちゃするなら、三崎に頼んでそちらに相談して貰っても良いんだけど……」
 視線を逸らせずにそう鈴香に言うと、青い顔になった。
 祐馬にそんな話をするつもりなどこれっぽっちも無いが、こう言わなければ鈴香も、その後ろに居る姉も諦めはしないだろう。
「そんなの……祐ちゃん信じないわ……」
 鈴香がそう言う声は震えている。
 今まで強気だったのは何処へ行ったのか?と言うくらい鈴香は急におどおどしだした。
「……まあ、私もそろそろ君のわがままには、閉口していてね……」
 言って戸浪は冷蔵庫からビール瓶を取り出しそれを鈴香の前に置いてやる。
「何……」
「これでもね、私は空手の黒帯なんだ……。それで、色々面白いことも出来る……見たことないかい?こう言うのっ」
 と言ったと同時にビール瓶の首元を手の平を上に向け、そのまま横にし、指先をそろえてやや斜めに振りおろした。
 するとコオーンという音と共に首元上部が机に落ちて転がり、切られた部分からビールが溢れて机にシュワシュワと音を立ててこぼれ落ちた。
「ひっ……」
「これね、人間にも有効なんだって知ってたかい?」
 と平静に言っているが、人間になど使えやしない。今も出来るかどうか半分半分の確立だったが、上手く切り落とせたようだった。
「男を舐めてると、酷い目に合うって事だよ。私も意外に短気でね。何時こういうことを君にしたくなるか分からない。だから出ていってくれないか?私も殺人犯にはなりたくないんだ」
 そう言うと鈴香は視線を何故か、こちらの右手に張り付かせたまま、恐怖におののいていた。何だろうとこちらも視線を落とすと、久しぶりの事で失敗したのか、手先が少し切れて血が流れ出していた。
 失敗したか……
 まあ瓶が切れたんだからそれで良いとしよう……等とじっと血が付いた手を見ていると鈴香が「ひーーっ……」と言って椅子から転げ落ちた。
 痛いのはこっちなのだが……と思いつつ鈴香に近寄った。
「出ていってくれるかな?」
 戸浪が鈴香の前に膝を曲げて中腰にそう言うと、声を出さずに頷いた。
「この事は三崎には内緒にね。君は気が変わって埼玉のおばさんの所に行く。そう言う事にしておこうか?」
 言って血が付いた右手を見せると、鈴香は何度も頷いた。
 なんだ素直じゃないか……
 と、戸浪は思っていたのだが、ただでさえ戸浪の顔は奇麗すぎる分、空手モードの冷えた目つきだと、底冷えするような冷たさが漂うのだ。その上手先から血を流す戸浪は一種壮絶な雰囲気を漂わせていることに本人は気付いていない。
「……じゃあさっさと荷物をまとめてすぐに出ていってくれないか?三崎には私から言って置くから……」
 そう言うと鈴香はよろよろと立ち上がって、自分の部屋へと行った。それを見送ってから戸浪は、切れた指先を水で流し、傷を確認した。
「……たいした傷じゃないな……」
 指をタオルで拭いて傷口にテープを貼った。続いて、二つに切ったビール瓶を片づけ、床や机に零れたビールを拭いた。
 久しぶりにこういう芸当をしたが、切れる物なんだな……
 と、戸浪の方がホッとしていた。
 これで失敗していたら目も当てられない結果になっていただろう。
「じゃ……私……」
 キッチンの方へ入りはせずに鈴香は廊下から顔だけをこちらに向けて言った。最初来たときのように背中に大きなリュックを背負っていた。
「合い鍵は?」
 言うとこちらに投げて寄越し、そのまま玄関を飛び出していった。
 バタンと言う玄関が閉まる音が聞こえて戸浪はようやくホッと安堵した。
 嵐は去ったのだ。
 
 久しぶりに居間でのびのびとしていると、ふと、大事なことを忘れていたことに気が付いた。
「祐馬に電話するのを忘れている……」
 はたと気が付き携帯を取り出すと、自分が電源まで切っていた事が分かった。急いで電源を入れると、祐馬からのメールと留守番電話でメモリーが一杯になっていた。
 全部確認するのも恐ろしくなった戸浪はすぐに電話をかけた。
「戸浪ちゃん何処にいるんだよっ!何で電源切ってるんだよっ!そんなんおかしいじゃないかっ!如月と居るのかっ!そんなのないよっ!」
 と、こちらが話す間もなく機関銃だ。
「如月は居ないって……今、私は家に帰ってるよ。あれからすぐに帰ってきたんだ……そうがなりたてるな。耳が痛い」
 まあ確かに祐馬が怒鳴るのも分かる……と、思いながらも戸浪が言うと、「俺もすぐ帰るっ」と言って鈴香が居ないということを話す前に切ってしまった。
「全くあいつはどうしてこう落ち着きが無いんだ……」
 呆れながらも携帯に保存された祐馬からの留守番電話とメールを見ずに全部消した。どうせ帰ってきたら同じ事を言うのだ。二度聞くのもめんどくさいと戸浪は思った。
 一時間くらいで帰ってくるか……
 と、もうすぐ九時になるのを柱時計で確認してそう思った。
 久しぶりに祐馬と二人きりだ……
 久し……
 おい、じゃあまさか……
 今日最後まで抱き合うことになるんだろうか?
 そう考えると戸浪は、だんだん顔が赤くなってきた。
 ど、どうするんだ?
 こっちは、まだ心の準備が出来ていないぞ……。
 と、戸浪が一人でオロオロしていると、いきなり玄関の扉が開いた。
 早すぎやしないか?
「戸浪ちゃんっ!何処だよっ!」
 バタバタと廊下を走る音が聞こえて、居間に走り込んできた。
「は、早いな……近くに居たのか?」
 電話を切ってほんの十分だった。
「は~は~……公園の屋台にずっと居てた……そんなんどうでも良いよ……」
 そう言う祐馬の目は座っていた。
「……何を慌てて居るんだ……」
 ははっと笑おうとしていきなり押し倒された。
「何で今頃又如月に会うんだよっ!どういうつもり?」
「痛いぞ……手を離せ。別にたいした用じゃない……お前それより鈴香ちゃんのことだけどな……」
 と言うのだが、祐馬はもうこっちの言うことなど聞いていない。
「もしかして……戸浪ちゃん。あいつと今度こそ本当に寝たのか?」
 と、祐馬が真顔で言ったことで、戸浪の拳と蹴りが入った。
「があああっ……いてええ……」
 蹲った祐馬が涙目でそう呻いた。
「目が覚めたかっ!何を言い出すかと思えば何が寝ただっ!全く……そんなことはどうでもいい、鈴香ちゃんが埼玉の家に帰るといって出ていった。私はそれをお前に言いたかったんだっ」
「えっ……そうなの?」
「ああ、急にな。私が帰ってきたときは、もう支度をして出ていこうとしていたよ。合い鍵はきちんと返して貰ったから心配するな……」
「何で急に出ていったんだろう……」
 祐馬は不思議そうな顔で言った。
 だが戸浪は本当の事など言うつもりは無かった。なにより身内に、それも兄弟に企まれるということは本当に辛いことを戸浪は身をもって知っているからだ。
「さあ、昨日の事で嫌になったんじゃないか?好きな相手があろうことか男が好きなんだぞ。女心でやってられないと思ったんじゃないのか?」
「……そか……そう言うこともあるなあ……ほら、言うじゃん、恋人を男に取られるのが一番女として悔しいって言うか、情けないって言うか……何かそんなん聞いたことあるよ。まさにそれなのかもなあ~」
 先程の剣幕はこれっぽっちも残さず、祐馬はのほほんと言った。
 全くお気楽なタイプだ。
「だろうな……」
 はあ~と溜息をついて戸浪は言った。
「で、俺そんなんで誤魔化されないぞ。なんであいつと会うんだよっ!アメリカに帰ったんじゃないの?」
 祐馬が又頭に血を昇らせそうな雰囲気になってきたため、戸浪は言った。
「出張で戻ってきたらしい、又すぐに帰るだろう。それはいいとして、如月とは喫茶店で会ってきた。ほんの数分だ。帰りも別々に帰ってきたぞ。この間私が傘を借りたから、それを返しただけだ。嫌だろう、お前も……如月の物を私が持っているのは……だから帰ってきているのを聞いて一瞬だけ会った。それだけだ」
 思いっきり嘘を付いているのだが仕方ない。こういう言い訳しか思いつかないのだ。
「ほんと?」
 半信半疑で祐馬は言った。
「ああ、本当だっ!全く……そう言うことで疑われるのが一番気に入らない」
 ムッとして言うと、祐馬がこちらを引き寄せた。
「……だってさあ……なんか、如月だけは駄目なんだよな……こう較べて無茶苦茶俺が劣るの分かってるから……不安なんだよな~」
 ギュウッと抱きしめて祐馬が言った。
「……な、なら……確かめて見ろ……」
 言ってもうこっちは顔が一気に赤らんだ。
 うう……言わせるなこんな台詞っ!
「あ、じゃ、今晩は良いんだ?」  
 急に嬉しそうな顔になって祐馬は戸浪を抱き上げた。
「……祐馬……っ……」
「よっしゃ~俺っ!もう戸浪ちゃんを思いっきり喘がせちゃうもんな~」
 等と走りながら言うので、頭を叩くのだが、もうやることしか考えていない祐馬はちっとも痛がらない。
 寝室の扉を祐馬は足で開けて、二人でそのまま抱き合うようにベットに沈み込んだ。
「ひゃっ!」
 急に背中に冷たい感触を受けて戸浪は妙な声を上げた。
「変な声だすなよなあ~」
 祐馬は気が付かずにこちらの首元に絡みついてくる。だがこっちはそれどころじゃない。
「おい、待て、待てっ!」
 覆い被さっている祐馬を無理矢理引き剥がして戸浪は言った。
「んも~んだよ~っ!」
 ふてくされた祐馬を無視して、戸浪はベットを確認した。
 あのガキーーーっ!
「……祐馬……ベットが水浸しだっ……!」
 二、三発殴っても良かったと戸浪は本気で思った。
「はあっ?うわっ!何でこんな濡れてるんだ?いや、そんなもんじゃないぞっ!」
 ベットのシーツから、下のスプリングまで濡れてビショビショだった。嫌がらせに鈴香が最後にバケツで水でもまいたのだろう。
「嫌がらせだな……出ていった子の……」
 はあ……と大きな溜息をついて戸浪は言った。
「……ほら、タオル持ってきて拭いてから、乾かさないと……。でもこれは斜めにして乾かさないと駄目だな……。乾くかどうかも分からないが……」
 ベットを眺めて戸浪が言うと、祐馬がじっとこっちを見ている。
「何だ?」
「んじゃさ……今晩はやっぱり駄目?」
 そういう祐馬は涙目だ。
 気持ちは分かるが、この水浸し状態では、どうにも無理だった。
「お前、この状態で何を言ってるんだっ。布団もどうせビショビショだぞ……」
「だってさあ~」
 床に座り込んで、こちらには聞こえない程の小さな声で祐馬は、なにやらぶつぶつと言っていた。
「だってもくそもないっ!ったく、お前の従姉妹のやったことだぞ。お前が責任を取れっ!」
 イライラとしながら戸浪は濡れたシーツを引き剥がした。これをすぐに洗濯機につっこんで洗わないとシミになる。毛布の方は明日クリーニングに出すしかない。
「戸浪ちゃん~」
「五月蠅いっ!さっさと手伝えっ!」
 せっかっく心の決心をつけた矢先だ。
 それが、これだっ!
「どうせ戸浪ちゃんは濡れるんだから別にいいじゃん……」
 さらっとそう言った祐馬の鳩尾に蹴りが入った。
「げふっ……痛い~痛いよ戸浪ちゃん」
「こんの~馬鹿がっ!」
 もう一度シーツで頭をベシッと叩いて戸浪は寝室を出た。
 馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、ここまで馬鹿だとは思わなかった。

 戸浪は当分、この怒りが冷めそうに無かった。

―完―
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