Angel Sugar

「身体の問題、僕の事情」 第1章

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「潜入捜査ですか……?」
 少しも困った風な表情を見せずに利一は管理官の田原に言った。
「いや、三係の担当じゃ無いんだが、新人サラリーマンに見えそうな刑事を一人貸して欲しいと四係の課長に相談されてね」
 そう言って田原はゴホンと小さく咳払いをした。
「では私にピッタリですね」
 顔が幼顔の利一は一見するとまだ学生のように見える。瞳が大きく、真っ黒だ。髪も手入れされていないはずなのに、サラサラとしている。なにより刑事であるにもかかわらず、余りがっしりとした体つきではない。身長もそれほど高くないのも原因であろう。剣道も柔道も段を持っており、その上喧嘩では負け知らずなのだが、鍛えているはずの身体は、余り筋肉質な方ではない。
『だれが新人サラリーマンだよ。ふざけんなっての』
 とリーチが心の中で悪態を付いた。
『仕方ないじゃない。仕事だもん。確かに利一の顔って幼顔だしさ~。新人に見えないこと無いじゃない』
 トシはそう言ってリーチを宥める。
 この利一という人間の身体には二人の魂が存在していた。一人がトシ、もう一人がリーチという。二人はお互いを物心が付く頃より認識しており、別段これが特別なことだとは思わずに育った。だが、ある事が原因で幼い頃に自分達は世間では病気と扱われることを知った。
 以来、彼らは自分達を守るために、二人で利一という人物を作り、演じることによって、周囲の目を誤魔化すことに成功した。
「新人に見えて貰わねば困るのだよ。それに知識の無い者が潜入するわけにはいかない。ある程度コンピューターの知識に精通していながら何かあっても対処出来る人間でないと困る。その点、君はそっち方面にもかなり長けているらしいし、何より君は優秀な刑事だからな。安心して君なら貸し出せると思ったんだよ」
 田原はそう言って、口元に笑みを浮かべた。
「そ、そんなたいした刑事ではありませんが……」
 と言って利一は恐縮した表情を浮かべる。浮かべたのはリーチであったが……。
 確かに利一は優秀であった。それは二人で得意な方面を分担しているからに他ならない。
 利一は警視庁捜査一課強行犯三係に所属し、普段は身体の支配権を一週間交替で担当しあい、事件の渦中、頭をフルに使うことをトシが担当し、犯人を捕まえる等と言った運動能力に関することをリーチが担当していた。それを彼らはチェンジと呼び、考えることもなく互いが入れ替わることが出来た。
 仕事が終わると例えばトシが担当の週はリーチがスリープと言って意識を眠らせ、トシが自分のプライベートを取る。翌週はリーチがプライベートを取るのだ。そうやって彼らは今まで生きてきた。利一を演じるようになり現在まで、誰にも……いやたった一人の人物を覗いて不審がられたことは無かった。これからもそうやって生きていくしかない。
 だが身体が一つしかないことさえ除けば不自由より得することが多いために不満はお互い感じたことは無かった。この今までは……。
「うちも忙しい。だから君の貸し出し期間は二週間の期限を付けた。但し余程大きな事件が起こった場合はすぐに戻ってきて貰うことになるが……いいだろうか?」
「もしかして、ソフト会社の殺人事件ですか?」
 たしかそんな事件を四係が扱っていたはずだ。
「おお、そうだ。最初は妙なハッカーが社内のシステムをダウンさせたことが始まりで、それがあまりにも悪質であったために、科警研の方が担当していたんだが、その会社で今度は殺人事件だ。それが社内の人間が関わっていないと分からない事まで出てきていてな。だからといって刑事がビル内の人間全員から調書をとる訳にもいかない。そう言う理由で内情も本当のところが外からは分からない。実は君に頼みたいのはそれが一番の理由だ。君は何となく犯人が分かるらしいじゃないか。それで潜入捜査になるんだが……出来そうかね?」
 リーチは何かやらかした人間を見るとピンとくるのだ。その能力はトシには無い。
「出来るかどうかお約束は出来ませんが……その二週間の新人というのは不審がられませんでしょうか?」
「いや、それは大丈夫だそうだ。本社に支店から研修を受けに来た新人というふれこみで君を本物の新人の中に入れて迎えてくれるそうだ。新人達も互いに見知った顔がいない連中を選んでいると言うことだから、君は何も心配せずに自分の仕事をしてくれたらいい。あちらでは出来るだけ沢山の人を観察するよう行動すること。妙な人間が混じっていたら捜査本部に連絡する。その人物の調査は新宿署で四係の連中が行ってくれるようになっている。今からすぐに新宿署に廻って、向こうの指示に従って欲しい」
『だる~既に話しはついてるんじゃねえか……』
 とリーチは心の中で呟きながら利一の表情は崩さず「わかりました」と答えると、田原に一礼をし、自分の席に戻るととりあえず自分のパソコンを鞄に入れた。
「隠岐どっかいくの?」
 フロアを出ようとしたところで同僚の篠原に声を掛けられた。
「ええ、暫く留守にします。多分後から私のことは皆さんに連絡が行くと思います」
「ああ……隠岐が行ってしまう……」
 寂しそうな目を篠原は向けてそう言った。
「とかなんとか言って、その束私に廻すつもりでいたんでしょう。ヤですよもう」
「あれ?分かった?はは」
 急に笑い出して篠原は持っていた書類を後ろに廻して隠した。
「じゃ、目黒にでばってる事件からは外されるのか?」
「みたいです。まだ地取りの段階でしたからそれほど迷惑は掛けないと思いますし。じゃ、急ぎますので私は行きますね。篠原さんも頑張ってください」
 篠原にそう言ってトシは先を急いだ。
『俺、おたくたちの住処に行くの嫌だよ……トシ、お前が全部面倒見ろよ。俺はパソコンなんて全然わかんねーんだからな』
 リーチはトシに言った。
『分かってるよ。でも僕は嬉しいなあ。本当はコンピューター関係の仕事に就きたかったんだもん。リーチが嫌がるからさ。それにしてもなんでか今刑事だけど』
 くすくす笑いながらトシは言った。
『あのなあ、二人で協力して出来る仕事でないと選べないって最初きめたじゃんか。刑事ならピッタリだろう?』
 何がどうピッタリなのかトシにも分からなかったが、身体を動かすことの方が性に合っているリーチにデスクワークなど望めない。刑事だって自分は別にそれほどやってみたい仕事ではなかった。どちらかと言えば避けたかった仕事である。まあ、やってみれば毎日同じ日などないため結構面白く、今では自分の天職だと思えるようにはなっていた。
『それよかさ、プライベート取れねえのかなあ……二週間仕事に拘束されるのか?』
 心配そうにリーチが言う。
『無理だろきっと。研修っていうのが隠れ蓑だったら、新人まとめてどっか寮にでもいれるんじゃない?僕たちだけ特別にってことは無いと思うし……。二、三日のことならホテルとか考えられるけどさ~諦めたら?』
 そう言うとリーチは不機嫌を通り越して黙ってしまった。
 リーチには恋人がいるのだ。それも最近出来たばかりのほやほやだ。相手は男性だったが、驚くほど奇麗な人だった。
 名前を名執雪久と言い、警察病院の外科主任だ。一度、リーチが被害者の診断書を貰いに警察病院を尋ね、そこで出合ったことがきっかけである。そのときからリーチの行動はおかしいと思っていたが、あまりにも近づいた所為で、利一に不審を名執は抱いたようであった。それが決定的になる前にリーチが手を打ったのだ。
 脅して秘密を守ることを約束させたとリーチはトシに話したが、その辺りがはっきりしない。どうもトシの知らないところで何かあったような気配はするのだが、何度聞いてもリーチは言葉を濁す。
 名執とは喧嘩していたと思ったら、次に泥沼の状態になり、気が付いたらリーチの恋人になっていたのだ。その過程も事情も全くトシには説明はなかった。恋人が男だというのも最初びっくりして気を失いそうになったのだが、まあこっちの身体の事情も分かってくれる理解のある相手であった事もあって、トシも半分呆れながらも認めることにしたのだ。というか、リーチに反論などトシには出来るわけなど無い。いくら反対したところでこの男、人のことなど何も聞かないのだ。 
 それは二十五年間、肉親よりも強い繋がりで四六時中つき合って来たトシには充分すぎるほど分かっていた。
『浮気されたらお前の所為だからな』
 リーチはブチブチとそう言った。
『全く……ちょっとくらい距離を置いた方が良いよ。リーチべったりだろ。全く……僕のプライベートまで取ってたんだよ。分かってる?それ?いくらつきあい始めは大事だって言ってもそろそろ僕にプライベートを返して貰えないと困るよ』
 つきあい始めた頃にリーチがトシのプライベートまで欲しがったのだ。まあ、最初の頃はお互い一時も離れたくないだろうと思ったトシは気軽に「いいよ」と言ってしまった。それからリーチは遠慮というものを忘れてしまったように自分の時間としてトシの時間まで奪っていたのだ。
 だがそろそろ一ヶ月を過ぎる。こっちも自分の時間が必要だ。
『ケチ。じゃ、二週間お前が利一になって自分の好きにすりゃあいいよ。どうせ俺は苦手な方面だし、まんまお前が面倒見ればいいさ』
『それってさ、どうせプライベートが取れないからって僕に押しつけてない?いっとくけど、これが終わったら二週間は僕の時間をもらうからね。僕だって見たい映画はあるし、読みたい本だってある。これは譲らないからね。分かった?』
 トシはそう強く言った。
『え、そ、それはないだろ!じゃ俺、ユキと一ヶ月は会えないってことじゃないか!そんなのねーよ!ここ一ヶ月俺がプライベート貰ったけどさ、捜査してたりの方が多かったじゃねえか』
 確かにそうではあったが……。
『リーチ、僕の言うこと少しでも聞いてくれるならちょっとでいいから考えてくれる?僕は別にリーチに意地悪でこんな事言ってるんじゃないんだ。僕がリーチの恋人だったら今頃別れてるよ。だってあれだけ振りまわされて、リーチの都合を優先させられたら絶対嫌になる。そりゃ、僕らの仕事が刑事だから、普通のサラリーマンみたいに休みがきちっと取れる訳じゃないし、事件に入っちゃったら会えなくなるのも仕方ないけどね。その時間を会わなきゃ良いのに、リーチってばちょっとでも時間が空くと、雪久さんの事なんかこれっぽっちも考えないで自分を優先しちゃうだろ。この機会に暫く期間を開けて雪久さん自身の時間も取ってあげないとさ。会いたくなったら雪久さんの方から連絡くれるだろうし……。今まではリーチばっかり連絡してたんだから、一度は待ってみたら?そしたら雪久さんのペースだって分かるだろうしさあ。少しは相手の事も考えてあげないとね』
 トシがそう言うとリーチはウッと一言呻いてまた沈黙した。聞く耳を持たないリーチでも少しは堪えたのだろう。堪えるということは自分でもそれを感じていたのかもしれない。
 暫く距離を置いた方が絶対いいとトシは思っていた。あれではあまりにも名執が可哀相だと思っていたからだ。確かに名執は何時も嫌な顔一つみせなかった。だからといって心の中でどう考えているかは分からないのだ。言えないだけで本当は結構重荷になってるかもしれない。このままの調子では、相手はいずれ疲れるに決まっている。
 トシは恋愛をしたことが無かったが、もし自分が名執の立場なら、既に別れているだろうと思った。それほどの執着をリーチは名執に対してするのだ。確かに特殊な自分達の事を思うと、リーチという人格を利一から切り離して一人の人間と見てくれる相手に出会えたのだから執着するのも仕方がない。だからこそトシは長続きして欲しいと思うのだ。あまりにも一気に燃え上がる炎は、燃え尽きるのも早い。
 トシはそれが心配だった。
『しゃーねえな……たまにはお前の言うことも聞いてみるか……』 
 リーチは唸るようにそう言って、新宿署に向かうために地下鉄に向かった。


 新宿内でそのビルはちょっと風変わりの様相をしていた。
 入り口に自社のオブジェが向かい合うように立っており、一階部分がやはり自社のソフト等一般客が気軽に試すことが出来るように開放されているのだが、今は早朝であるためにまだ入り口は閉ざされていた。丁度出社時であるために、社員は別に入り口から幅の広い階段を上がり、ビル内二階に入って行く。  
 ここは外資系のR&Lソフトシステムズの日本支社だ。トシも良く知っていた。何より就職活動時パンフレットを真っ先に取り寄せたところだったのだ。社名は会社を興した二人の名前の頭文字をとっているとパンフレットには書いていたはずだ。
 トシは語学も堪能である。だからこういう外資系で働きたいと思っていた。
「藤村さん、行きますよ」
 新人の一般案内を任されている佐伯が、ぼーっと自分のビルを眺めているトシにそう言った。藤村はこちらでの偽名だ。
「あ、はい。済みません」
 いつの間にか自分より他の新人は先に歩き出していたのだ。一人取り残されたような形で立ち止まっていたトシは慌ててみんなに追いつくように走った。そんな姿に他の二十人くらいいる新人が声を殺した笑いを口元に浮かべる。
 ちょ、ちょっと見とれてただけじゃないかああ。
 とトシは思いながら苦笑して団体に加わった。そうして、他の社員達がひとかたまりの団体にチラチラ視線を送ってくる中、二階にある会議室に案内された。
「これから、研修にあたっての注意事項などの説明を午前中にします。それが終われば各々割り振られた部署に一時的に配属をされます。配属先は支店から依頼のあった部署で、本格的に実務をこなしていただきます。研修とはいえ、実際に仕事を任されたりしますので気を緩めずに頑張って下さい」
 佐伯はそう言って、これからの注意事項を話し始めた。
『なんか……ドキドキしてきた』
 トシはリーチに嬉しそうにそう言った。
『ここまで来る間には気になる奴は居なかったよ』
 不機嫌そうにリーチはそれだけ言った。
 まだ機嫌が傾いたままだなあとトシは思ったが、いつものことだった。
『やっぱり初々しいよね新人ってさ。僕たちも警官だった頃初々しかったもんね』
 と、周りからは一番新人に見られていることも分からないトシはそう言った。
『何でもいいけどよ。こんなんで本当に何か知ってそうな人間が見つかると思うか?俺不安になってきたよ。だってよ、このビルって警視庁クラスだぜ。何人みりゃいいっていうもんじゃねえぞ。俺は占い師じゃねえんだからさ……』
 ぶつぶつとリーチはそう言った。確かにそう言う理由も分かる。これでは宝くじを当てるようなものだ。
『一応四係の方で、それらしい部署に配置してくれるように会社と交渉したって言ってただろ。だからそんな無茶苦茶な事は無いと思うけど……』
『四係が絞り込んだ所が間違ってねえって誰がわかるよ。それに俺達の話しが通ってるのは日本支社の社長と副社長だけだろ?それで自由に動けるのかよ……』
『知らないよ。とにかく二、三日様子見て考えようよ』
『トシ、何でも良いけどお前、ぼーっとすんなよな、ほら部屋の端に何人かいるけどそん中で一番背の高い男、お前のこと睨んでるぜ』
 リーチが呆れた口調でそう言った。リーチが言う方向をそっと見ると、確かに背の高い男がジロッとこちらを見ている。
『あわわ。ぼ、僕そんなぼーっとしてる?ちゃんと利一の顔してるはずだけど……』
 キュッと口元を引き締めてトシは、何故か足をそろえ直すと、話しをしている人に意識を集中させた。そんなトシに今日初めてリーチは笑いを零した。

 ようやく説明会が終わり、部署の担当者が名前を呼び、自分のところで預かる新人を何人かずつ連れ出していく。確か自分はシステム開発だったはずだ。どの人が担当してくれるんだろうと待っていると一番最後に名前を呼ばれた。
「あ……」
 顔を上げてトシは思わずそう口に出してしまった。先程睨んでいた男だった。
『幸先いいねえ~。俺、こいつみたいなタイプ受け付けないから頑張れよ~』
 とくすくす笑いながらリーチは言った。
「君はうちの部署だ。私はシステム第二開発部の幾浦恭眞。役職的には部長代理だがそれほどの権限はない。うちの部署の部長が海外と日本をいったり来たりしているためにその代理で雑用なんかをしているだけだ。そう言うことで暫く君の上司になるが先程のようにぼんやりしていると外資系では真っ先に切り落とされるからそのつもりでな」
 机に手を付き、上から見下ろすように幾浦はいきなり先制攻撃をしてきた。
 身長は百八十を超えている。真っ黒な髪に一重の切れ長の目、やや太めの眉毛は外資系で揉まれながらも流されない強い意志を感じられた。
「す……済みません」 
 穴があったら入りたいトシであった。
「説明を聞いて分かったと思うが、このビル内で自由に行き来が出来るのは三階までだ。後はこのカードが無いと例え社長であっても上の階には行くことが出来ない。その上カードには色んな種類がある。確かにエレベータには乗ってどの階にも行けるが、降りたところにある読みとり機を通さないとそのフロアに入ることは出来ない。その読みとり機には使えるカードの色が指定されている。これは青色だ。地下と食堂のある三階、そしてうちの部署のある十階、しかも同じ十階にあっても他の部署には入ることは出来ない。分かったか?」
 そう言って幾浦はトシの首にカードの入ったラミネートケースの紐を掛けた。ぷらりとぶら下がるカードは真っ青だ。ちなみに幾浦の掛けているカードは薄いピンク、青、白と三色入っていた。
「はい」
 だが実際トシは既に社長と副社長だけが持つオールマイティのカードを支給されていた。もし、運良く犯人を見つけたとしても、カードの所為で行動が制限されると困るからだ。ただし、カードを渡されるにあたり、誓約書を書かされた。どんな新商品やプログラムを見ても口外しないという書類だ。
 しかし、そのカードは最後の札だ。使用する場合はこちらの身分を明かさなければならないだろう。
 こういうところは、さすがコンピュータ会社だ。
「では、うちの部署に案内しよう」
 そう言うと幾浦は背を向けて歩き出した。トシはその後を置いて行かれないようについて歩いた。その間もリーチは怪しそうなのがいないかと、花畑から周りをキョロキョロと見回している。
 リーチは普段からもそうだ。人の気配にものすごく敏感なのだ。誰かの視線を感じるのも早ければ、利一に近づく気配も一足先に気がつく。それはとても動物的であった。考え方も行動の仕方もリーチは直感や感覚で決めている節がある。それはリーチが身体の支配権を持っていなくても、スリープという意識の眠りさえしていなければ発揮される。
 反対にトシは五感に関してそれほど敏感でない。だから犯人を当てるような芸当など出来ない。但し、物事を組み立てて理論的に考えることを得意とした。
 リーチに人の観察を任せて、トシは幾浦に連れられるまま、自分がこれから働く部署で紹介をしてもらい、その度に頭を下げて挨拶に終始した。
 ようやく自分にあてがわれた席に着くことが出来た頃にはもう二時になる頃であった。社員一人ずつのデスクが身長よりやや低い位のパーテーションで仕切られ、隣が見えないようになっている。こういう席がトシの理想だった。アメリカ的で憧れるのだ。
 机には自分専用のフラットのモニター。それも二十一インチだ。パソコンのハードも最新だ。何から何まで新鮮で、トシは嬉しくてパソコンを撫でながら顔に知らずに笑みが零れた。どうせ誰も見ていないのだ。
「ニヤニヤしていないで食事に行くぞ」
「……ひっ」
 いきなり幾浦にそう言われてトシは小さく声を上げた。どうしてこう間の悪い所ばっかり見られてしまうのだろう。
『なあ、お前……利一忘れてるぜ……』
 呆れるような声でリーチはそう言った。それに答えるより先に幾浦に謝っていた。
「済みません。嬉しくてつい……」
 利一の表情でないトシ自身の見られたくない顔を見られた所為で恥ずかしくて耳まで真っ赤にしてそう言った。だが、幾浦は呆れたのか、くるりと背を向けて「行くぞ」と言った。初日から既に最悪の印象を与えてしまってる。
「はい」
 それ以上は何も言わずにトシは幾浦の後を追った。
 社員食堂に着くと、かなりの広さのフロアに、やはり多くの人が出入りしていた。こういう会社では時間通りに昼食などは取れないのだろう。
 そこはチケット制ではなく、自分で欲しい物をトレーに取っていくバイキング形式であった。トシは幾浦の後について、トレーを取り、適当に皿に入れていった。リーチの方はやはり周りを見回し何人かをチェック入れていた。
『何となくこいつっていうのはいるけど、それが直接今回の件に関係するかはわからないなあ』
『首から下げてるカードに名前が書いてるけど、分かる?』
 とトシが聞くと『分からない奴もいるよ』とリーチは言った。後で社員名簿にハッキングすればいいだろう。
 リーチは放火した現場に戻ってきた犯人の写っている写真をみると、犯人が誰かピンとくる。だがその犯人が何もしでかしていない頃の写真や、こういう会社の名簿に載っている写真などでは分からないのだ。
 雰囲気があるだろ?とリーチは言うのだがそんなの普通の人間になど分かるはずが無い。
「君は食欲旺盛な方なのか?」
 驚いた顔で幾浦がこちらを振り返ってそう言った。
「え?」
 気がつくとトレーにてんこ盛りにトシは料理をのせていた。
「あ……、は、いえ。こういう食事の仕方が初めてで良く分からなくて……あれもこれもと思ったらこんなに取ってしまいました」
 こんなに食べられないよと思いながらも、取った物を返すわけにもいかずトシはそう言った。リーチと心の中で会話すると、たまにこういうことになるのだ。事件の渦中ではピリピリとした空気の中なのでまずこんな失態は無い。が、当たり前だがここではそんな雰囲気がない。その為、気が緩んでいるのかもしれない。
「……まあ、食べられるのなら、どれだけ盛ろうが構わないが」
 幾浦は言って近くの席に座ると備え付けのコップに御茶を二つ注いでこちらに一つ差し出した。トシはそれを受け取る。
「済みません……」
「いいから、いちいち謝るんじゃない」
 ちらりとこちらに視線を向け幾浦はムッとした表情でそう言った。こちらの点数がどんどんマイナスに加算されていくのが分かる。
「あ、はい」
 済みませんとまた言おうとしてトシは言葉を飲み込んだ。
『駄目だ~リーチ~僕なんか失敗ばっかりしてるよ~』
 無言で味の分からない食べ物を頬ばりながらトシはリーチに話しかけた。
『別にさ、俺達新人のつもりでやってるんだからそれらしくて良いんじゃないのか?ま、お前の地だから仕方ねーよ』
『いつもはこんなんじゃないのに~』
 トシは泣き言のように言った。どうも利一の振る舞いをここではやりにくい。新人の振りをしろと言われて普段と違う人間を演じることに抵抗があるのだろう。ただでさえ利一も作った人格だ。それを今度は、また違う人格を演じろと言われてもそうそう、切替などできやしない。その為に地が出てしまうのだろうか?
『お前自体の地が鈍くさくて新人ぽいから、お前、地でやれよ。丁度いいじゃんか。トシとして振る舞えるぜ。こんな機会滅多にねえから楽しめばあ?』
『……僕の地は鈍くさくなんかないよ』
 ムッとして反論したがリーチは、クスッと笑い声を上げるだけの返事を返してきた。
 まあ、確かに自分のプライベートで本を買いに行ったり、映画を見たりと利一を気にせず自分の時間を過ごしているときは、平らなところで転んだり、ぼーっとして人にぶつかったりとリーチには言えないが、鈍くさい限りを尽くしている。利一の時はそんなことなど無いのだが。
 地なのかなあ……
 溜息を小さくついて、トレーを見ると必死に食べているにもかかわらず中身が全然減っていない。
 うう、どうしようこれ……
 内心汗だくになっていると幾浦がたまりかねたように笑い出した。
「す、済まない。あまりにもおかしくてな。バカにしている訳ではないんだが……」
 寡黙だった顔が見事に笑顔になっている。
「い、いえ。確かに笑えますよね。こんなつもりじゃなかったんですけど」
 ずっと表情を変えない、どちらかというと冷たい印象の幾浦がこんな風に笑うなど考えられなかった。考えられないのだが、見てしまうと似合う過ぎるくらい魅力的な笑顔だった。
「仕方ない。残ってしまったら食堂のおばさんに謝って引き取ってもらいなさい。無理に食べて体調を壊されても困る。それに今夜は君の歓迎会なんだから、余計に元気でいて貰わないとな」
 笑顔をスッと元の表情に戻して幾浦は言った。
「歓迎会ですか?」
「そうだ。今日は何処の部でも新人を預かった部署は晩に繰り出すはずだ。うちも例外じゃない。どうせ帰っても君のことだから寮でぼんやりしているだけだろう?まあ、たまには東京で羽目を外してもいいだろうしな」
 トシは名古屋の支店から来たことになっているのだ。
「ありがとうございます」
 と、言ったものの……。
『リーチどうしよう。僕お酒飲めないよ』
 トシは本当に全くアルコールを受け付けないのだ。リーチはざるなのだが、トシが支配権を持っていなくても、意識が目覚めているだけで、利一の身体はアルコール中毒になる。だから、捜査課の飲み会の時は何時もトシはスリープし、リーチが利一の面倒を見る。だが今日はいつもとは違う。リーチが例え交替してトシがスリープしたとしても、リーチにはコンピューターの専門語など理解できない。かといってトシが意識を目覚めさせていると、利一はアルコール一口で倒れてしまう。
『……仕方ない。飲めないということにしとけ。俺達は今病院に担ぎ込まれている時間はねえんだぜ。そう言う奴も世の中には居るんだからさ。ま、警察病院に担ぎ込んでくれるんだったら俺はかまわねーけどな』
 なんだか嬉しそうにリーチは言う。
『飲めないことにする』
 トシはきっぱりそう言った。
「あの、歓迎会とても楽しみなのですが、私、全くお酒を飲めないんです。それでもよろしいでしょうか?」
 トシがそう言うと幾浦は先程の笑顔など嘘だったと思わせるような冷ややかな表情で言った。
「付き合い酒というのは社会では必ず必要な事だ。嫌だとか、飲めないでは出世はできん。飲めない奴は吐いてでも飲んで慣れていくんだ。君も学生気分をさっさと捨てることだな」
『こいつ首絞めていい?』
 リーチがそう言うのを無視してトシが言った。
「学生時代やはりそう言われて練習をしましたが、練習すら出来ないうちに倒れて病院に運ばれたんです。そこで医者に言われました。慣れる事の出来る体質と慣れない人がいるそうです。私は慣れることの出来ない体質だそうです。アルコールを分解できる酵素が肝臓に無いと言われました。そこまで分かっていて、アルコールは飲めません。何かあったら皆さんにご迷惑を掛けることになりますし……」
 申し訳なさそうな笑みを浮かべてトシは言った。利一のこういう表情はなかなか便利だった。人に反論させることの出来ない顔になるのだ。
「そうか、なら仕方ないな」
 やや表情を和らげて幾浦は言った。
『やだねえ、こういうエリートさんはよ~。自分の事が一番正しいと思ってるんだからなあ。てめえだけで実践してろって』
 相変わらずリーチは悪態をついている。
『幾浦さんは僕の為を思って言ってくれてるんだから……あ、違うけど。良い上司だと思うよ』
 普通面と向かってこういう忠告は出合ったばかりの人間には言えない。それなのに、下手をすると嫌がられるような事を忠告してくれるということは、こちらのことを考えてくれているからだ。幾浦の表情ではとても冷たく聞こえるのだが、元々こういう顔なのだろう。
 もしかしたら誤解されやすいタイプなのかもしれないとトシは思った。それに気がつくと妙に幾浦に親近感を持った。
「私のために言って下さってるの分かります。本当は幾浦さんの言うようにそうしたいんです。出来ない自分がとても辛いです」
 本当の気持ちを込めてトシは言った。こんな風に忠告されるのは嫌いじゃない。リーチの場合は例え相手がこちらのことを思って言ってくれた言葉でも、頭ごなしに言われることを酷く嫌う。
『ゲロ~こんな奴に感謝するなあ』
 と、益々五月蠅いリーチであるが、こういう場合は無視だった。
「いや、本当に悪かった。身体の事なのだから仕方ない?」
 言って幾浦は自分のトレーを持って立ち上がった。トシもつられて立ち上がる。
「やっぱり……無理です。おばさんに謝って今日だけ許して貰います」
 トシのトレーにはまだたっぷりと料理が乗っていた。ちらりと幾浦がそれを見て口元だけで笑った。
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