Angel Sugar

「身体の問題、僕の事情」 第3章

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「もしもし……はい。え?あ~今ですか?」
 掛けてきた相手は上の階に居座っている科警研の人間だった。
『科警研の人間が何の用なんだよ……範疇外だぜハッカーは』
 リーチがぶつくさ言った。
「じゃあ、ちょっとそっちに伺います」
 トシはそう言って電話を下ろした。
『協力してくれって言う訳じゃないみたいだけど、ちょっとのぞきに来てくれってさ。行ってみる?』
『行ってみるって行くって言ったんだろ?んじゃ行くしかねえ。ったく俺にも分かる仕事で呼べよな。ちっとも面白くねえ』 
 このまま寝てしまいそうな程退屈げにリーチは言った。
『はは。いっかもー。僕もちょっと開き直ってみる』
 トシはそっと席から離れ部署を後にした。そうして十八階にあるフロアを目指すためにエレベータに乗った。
 十八階で降りると早速カードの読み取り機が入り口に設置されていた。トシはオールマイティのカードを差し込みフロアの入り口を開けた。
「隠岐!」
 こっちの姿を見つけた科警研の木下が声を掛けてきた。
「あのう、今は藤村なんですけど……」
 はは、と笑ってトシは言った。
「あ、そうだったよな。でもこのフロア社員立ち入り禁止になってるから隠岐の心配することなんかないよ。そいや殺人事件だよなあ……犯人のめどついた?」
「全く分からないですよ。それより、新人として配属された次の日に警視庁に戻るように言われて、いきなり捜査で四日も休んだ所為で、仕事干されちゃいました」
 とトシが情けなく言うと木下が大笑いした。
「ごめんごめん、隠岐が仕事干されるなんて考えられないからさ。ははは、ま、いいじゃねえの、本職はデカなんだからさ」
 良いながら木下は中へと案内した。
「ご苦労様です」
 トシがそう言うと科警研の中嶋が振り返った。もう一人はパソコンの画面に張り付いて必死にキーボードを打っている。三人とも若い。ネット犯罪を担当する人間みな一様に若いのだ。
「ああ、隠岐君ちょっとこれ見てくれないか?」
 と言って束のコンピューター用紙を差し出した。それを手にとって見ると昨日の晩かなりのバトルがあったようだ。
「うわあ、二万回もトライしてますねえ……」
 トシは感嘆の声を上げた。
「かなりの数のプロキシーを通してきてるんだよ。全く…昨夜は何とか捕まえられるかと思ったんだが、もう少しのところで逃げられた」
 忌々しげに中嶋は言った。
「で、どういうことをしてくるんですか?」
 トシが近くにあった椅子に座って中嶋に聞いた。
「一番酷いのが、中のデータを全部真っ白にしたんだよ。まあ、サーバーがいくつも分かれていたことと、バックアップを毎日取ってるから被害は最小限に収まったんだが。かなり悪質だな。なによりデータを真っ白にするのにウイルスを使ってきた。どうもデータを盗むんじゃなくて、混乱させるのが向こうの目的のようだ」
「こっちも恨みですかあ」
 トシはそう言って苦笑した。
「そう言えば殺人も恨みだろうって話しだったよな。四係の松下が言ってた。そっちも難航してるらしいね」
 木下も椅子に座って言う。
「難航してますね。四係も色々特定してはその人物を潰していってるらしいんですが、なかなかこれと言った人物は浮かばないようです」
「じゃあ、恨みじゃないのかもよ」
 木下が知ったようにそう言った。
「恨みじゃないとあんな風に計画的に殺せませんよ」
 と言ってトシは笑った。
「それより、何の用ですか?」
 暫く雑談し、トシは本題に入った。
「いや、君何か良いツール持ってないかなあと……」
 中嶋が、苦笑しながらそう言った。
「あ、追跡ツールですか?自作のはありますけど…メールで添付してこっちに送付しましょうか?」
「あ、頼むよ。それが、こっちで用意したのはなかなか遅くて…科警研に言って新しいのを頼んだら今持ってるのが最新だっていわれてね。そういや、隠岐さんはそう言うプログラムを組むのも得意だと聞いていたから、別に何か持ってるんじゃないかと思って」
「そんなたいしたものじゃ無いんですけど」
 恐縮しながらそう言った。だが実際は自慢のツールだった。 
「ありがたいなあ…なあ、隠岐、いっそのこと科警研に来いよ」
 木下がそう言う。
『もートシ、さっさと下へ下りようぜ』
 さっきから話しが見えないリーチがそう言って急かした。
「じゃあ、私は下へ降りて添付で送りますね」
 席を立ってトシはそう言った。
「あ、隠岐、そんな暇だったらこっちも顔出してくれよな」
 木下が言ってウインクをよこした。
「はは……」
 トシはもう笑うしかなかった。
 席に戻ると早速トシは中嶋宛に添付でツールを送った。それを終えて、またする事がなくなった。時間はもうすぐお昼だ。だが食欲はない。
 はあ…
 トシは溜息ばかりついていた。出来ることなら本当の新人として色々経験してみたいという気があったのだ。だが今は何もする仕事がない。幾浦の方は実際はどう考えているのだろう?もうこちらを見放しているのだろうか?
 椅子に座り込んでトシはぼんやりとフラットの画面を流れるスクリーンセーバーを眺めた。
 見放されてるのかもしれない。席を外しても誰も気がつかない存在なのだろう。いや、この間はみんな楽しく歓迎会をやったが、その後、トシの行動で、あいつは使えない新人だと全員が思ったのかもしれない。だから多少席を外してもどうでもいいのだ。
 確かに身分を偽って自分はここに居るのだが、それでも出来たらみんなと仲良くしたかった。今はただ疎外感だけがヒシヒシと肌を刺す。
 このまま、あと一週間とちょっとを毎日過ごすのは耐えられないかもしれない。だからといってどうして良いかも分からない。 
 ま、仕方ないか…。
 二週間だけだが、経験したことのないサラリーマンをやれると喜んでいた。刑事という仕事に誇りを持っている。今ではそれ以外の仕事は考えられない。だが今回は死体もないし、暴れる犯人もいない職場で、色んな人と知り合い、いつもとは違う経験ができたらいいなあとあまーく考えていたのだ。
 甘いんだ僕は…昔から…。
『おいトシ、まったー幾浦の野郎が呼んでるぞ。そろそろ仕事くれるんじゃないの?』
 どつぼにはまっているトシにリーチがそう言った。
『え、そ、そうかな』
 なんだか嬉しくなってトシは幾浦の席に急いで行った。尻尾がついていたら、ぶんぶんと振っていたに違いない。
「ああ、暫く昼食でみんな席を外すから電話番頼もうと思ってな」
 言いながら幾浦は自分のパソコンの電源をおとす。
「あ、はい。分かりました」
『わははははは、電話番だぜ。いいねえ、隠岐利一が電話番だよ。こいつあ篠原にでも聞かせたら大笑い』
『笑い事じゃないよ……』
 席に戻りながらトシはリーチに言った。 
 周囲の人間の目線もなんだか来たときよりも冷たい。こういう経験は初めてだ。
『なんかなーガキじゃねえんだから、しかとなんてするなよなあ~』
 全然堪えていないリーチが言って笑いを堪える。
『あのねえリーチ、笑い事じゃないよ。分かってる?』
 トシはムッとしてそう言った。こちらばっかりが気に揉んでいるのが腹立たしい。
『なんで?』
『嫌じゃないの?僕は嫌だ。役立たずなんて仮にも思われるの…』
『だってもう既に思われてるじゃん』
 そのとき電話が鳴った。トシが取ると四係の人間だった。
「あ、下沢さん。そちらの進展はどうですか?」
「全く駄目だ。そっちはどうだ?」
「こっちも駄目です。というか今日戻ってきたんですよ。三係の仕事が入ってしまって…御存知だと思うんですけど」
「ああ、聞いてるよ。それで苦情を言われたよ」
 下沢は笑いながらそう言った。
「苦情?」
「うちの電話は、ほら、名古屋支店での君の上司になってるだろう?それでな隠岐が休んでいる時に電話が転送されてきたんだ。幾浦ってたしか、隠岐の今の上司だな。その人に電話を貰って、お宅の新人はどうなってるって散々嫌みを言われた。大変な上司の下にいるようだな」
「笑い事じゃないんですよ。ほんと、困ってるんですよ。出来るようでしたら幾浦さんに私の立場を説明して欲しいんですけど…でないとどんどん悪くなりそうで……」
 トシの本音だった。これ以上悪くなる前に幾浦に説明して欲しいのだ。
「ああ、そうだな、彼は容疑から外れてるし、別にばらしても良いだろう。早速そっちの副社長に話しをして、直接君の事を話して貰うよ。この間の嫌みは君の立場が結構悪くなってるのを想像できるほどだったしな」 
 分かってるならさっさと説明してよ!とトシは叫びそうになるのをぐっと堪えた。何より幾浦にはそんないい加減な人間だと思われたくないのだ。
「宜しくお願いします。あ、はやり調書を取ったんですか?」
「ああ、役職も年齢も違うが同期だったそうだ。参考人から漏れたのは、同期なんだが部署も違うしほとんど交流はなかったからなんだがね。それにどうも外資系というのは同期でも中途採用が多いせいか、年齢の離れた同期が多いんだ。年齢が近いから交流があるとかというのではないから、分かりにくい」
 下沢は苦笑混じりにそう言った。
「こちらも出来るだけ人物チェックをします。では…」
 トシはそう言って電話を置いた。
 その後電話は一本もかかってこなかった。
 ぼんやりするのも躊躇われたトシは社内規定をだらだらと読んでいた。その間に一人又一人と部署の人間が戻ってきては仕事に戻っていく。幾浦もいつの間にか席に戻って仕事をしていた。
『なあ、トシ。俺とちょっと代われ』
 リーチが苛々とそう言った。
『なに?喧嘩する気なら譲らないよ』
『馬鹿、幾浦に仕事貰いに行くんだよ。これから毎日お前そうやって無駄に時間を過ごす気か?俺は嫌だぞ。例え俺は何も出来なくてもこんな扱いはむかつくんだよ。だったら仕事をよこせって言うしかないだろう?』
 リーチは当然だというようにそう言った。
 確かにそうだ。無理矢理にでも仕事を廻して貰わなければこっちは暇をもてあましてしまう。もちろんそれが目的ではないが、折角の機会を無駄にすることはない。
『いいよ。僕が話すから……』
 トシはすっくと立ち上がって幾浦の席に向かった。
「済みません、私にも何か出来ることはありませんか?」
 そう言うとちらりと幾浦はこちらを見た。
「何でもいいんです。何かありませんか?」
 トシがもう一度そう言うと、幾浦はようやく手を止めて言った。
「何時になったらそう言ってくるかと待っていたが、やっと言ってきたな」
 やや表情を和らげて幾浦は言った。
「えっ?」
 きょとんとした顔でトシは幾浦を見たが、幾浦の方はMOと指示書を取り出してトシに差し出した。
「これが君の仕事だ」
 幾浦から手渡された仕事は、元々トシの為に用意されていた物であった。
「あの……」
「仕事というのは自主性が大事だろう?君は仕事の段取りもせずに四日も休んだ。病気なら仕方が無い。だが、やるべき事はきちんとしてから休むのが当然の事だ。だが君はそれが出来なかった。そのミスの事で私は君から仕事を取り上げた。だが取り上げられたからと言って腐って仕事をしない奴だったらさっさと荷物をまとめさせて支店に送り返す気でいた。これでまあ、君の首が繋がったな」
 そう言って言葉とは逆に笑みを幾浦は浮かべた。
「はい。ありがとうございます」
 幾浦は自分のことを考えて育てようとしてくれているのだ。少しでも苛めだと思った自分が恥ずかしかった。なによりここは外資系だ。実力の無い人間、仕事をいい加減にする人間はどんどん切り捨てられていく。幾浦はそんな人間を沢山見てきたのだ。だから厳しくすることで、外資系で生き残る術を教えようとしてくれていた。それが分かるとトシは嬉しくて仕方がなかった。
「ニヤニヤしてないでさっさと席に戻るんだな」
 と幾浦が困ったようにそう言った。
「あ、は、はい」
 かあっと耳まで赤くしてトシはそう言うと、急いで席に戻った。
『……なあ』
 席でトシが赤くなった顔を冷やすようにパタパタ手で煽っているとリーチが言ってきた。
『なに?』
『あいつ、その……もしかしてさ……』
 言いにくそうにリーチはもごもごと言葉を濁す。トシにはリーチが何を言いたいのか分からない。
『はっきり言ってよ。リーチなんか最近そんなのばっかじゃない』
 ムッとしながらもトシは貰った指示書を手にとって読む。 
『……別に何でもねえよ。それよかお前、飯どうするんだ?』
『今あんまり食べたくないし、何か大層な仕事が廻ってきたからちょっとこっちに没頭するよ。急いでやってもかなり時間かかりそうだし……』
 と、自分の本来の仕事を忘れたトシがそう言った。
『あのなあ、休憩を取って社内をうろついて貰わないと仕事になんねえだろ?』
『え、あ。分かってるけど……これさあ……』
 MOを開いてトシが言った。 
『これはどうでもいいの。ったくよー飯だ飯!!俺に代わってくれよ。一回ここの食堂食ってみたいからさ~』
 なんだか嬉しそうにリーチが言った。結局それが目的なんだろう。
『でもほら、折角仕事貰ったし……』
 少しも仕事をしないで先に昼食を摂ることが気が引けたのだ。もちろん他の人達はみんな自分の休憩を取ったのだから、こちらも気兼ねなく取ればいいのだが、何となくトシはそれが出来なかった。折角貰った仕事だ。一生懸命やって育てようとしてくれている幾浦に認めて貰いたいのだ。
『ね、ちょっとだけ、ほら、夜行けば良いじゃない?ね、リーチお願いだよ……』
 トシがそう言うとリーチが呆れたように溜息をついた。
『好きにしろ。俺、退屈だからスリープするぞ。うろうろするようになったら起こしてくれよ』
 スリープというのは意識を眠らせることだ。リーチは余程退屈なのだろう。
『ごめん。後で起こすよ』
 リーチがスリープするとトシは目の前の仕事に熱中した。

 気がつくと既に時間は就業時間を過ぎていた。目と目の間がじいんと痛み、お腹も空いていた。ちょっと何かお腹に入れた方がいいなあと思い、トシは席を外すとリーチを起こした。
『リーチウエイクして…ご飯食べに行くから』
 スリープしている相手を起こす合い言葉はウエイクである。どんなに深く意識を眠らせていてもその一言で意識が目覚めるのだ。
『う~ん…げ、何で外がこんなに暗い?お前、一体何時まで飯食わずに頑張ってるんだよ』
『夢中になってたら就業時間過ぎてたの』
 はは、と笑ってトシは言うが、こんな時間になっていた事はトシ自身も気がつかなかったのだ。
 食堂に着くとこれから夕食を取って頑張ろうとしている社員が結構沢山いた。
『代われ~トシ~代わってくれ~俺が食う』
 リーチがバックで五月蠅く言うのでトシは仕方なくチェンジした。
 トシが今度、バックで見ているとリーチは嬉々としてトレーに色々のせていく。
『リーチ…そんなに食べられるの?僕もこの間そんな状態になったけど食べきれなかったよ』
『お前交替して分かったけど、すげえ腹減ってるじゃんか。良くまあこんなになるまで何か食いたいと思わなかったなあ』
 言いながらデザートのプリンやケーキまでのせている。
 リーチは甘党なのだ。トシは辛党。服の趣味もリーチは寒色系が好みでトシは暖色系が好みだ。お互い性格が全く違う。違うからこそ上手くやっていけるのかもしれない。
「頂きます~」
 満面の笑みでリーチはトレーに置いた一杯の料理を食べ始めると、同じ部署の槙田がやってきた。やはり残業する気なのか、トレーにラーメンとチャーハンをのせている。
「藤村って実はすごい食べるんだなあ」
 こちらの前に座りそう言って箸を割る。
「え、はは。そうなんです」
 照れくさそうな利一の顔を作ってリーチは言った。
『交替する?』
『これ食ったら代わる。お前プリン嫌いじゃんか。俺これ絶対食う』 
 クリームブリュレはリーチの大好物だ。それを食べるまでは絶対交替する気はないだろう。トシはそんなリーチになんだか可笑しさを堪えながら『じゃ、全部食べてね』と言った。
「そいや、ずっと休んでたよな……風邪?」
 バックでそんな会話が行われていることなどつゆ知らず槙田はそう言った。
「そうなんです。朝起きたらいきなり身体動かなくて…。来たばかりなのに四日も休みを頂くなんて…。もう本当に穴があったら入りたいくらい恥ずかしいです」
「まあ、身体のことだから仕方ないよなあ」
 うんうん一人頷きながら槙田が言った。実際は四日間かけずり回っていたのだが…。
「皆さんにもご迷惑掛けたみたいで…本当に済みませんでした」
 済まないなど、これっぽっちも思っていないリーチが言った。
「迷惑なんかかかってないよ。そんなに落ち込まなくていいって。みんなだってわかってるし、それに代理だって本気で怒ってるわけじゃないしさ。あの人無茶苦茶恐そうだろ?でも結構藤村のこと期待してるみたいだよ。期待してるから厳しくしてるっていうか…。代理の場合、思いっきりわかるからなあ…。本当に使えないどうでもいい奴に対しては態度が冷たいよ。なによりぞっとするくらい目つきが冷ややかになるからなあ。まあ元々ああいう顔なんだろうけど」
「期待されているなんて……勿体ないです」
 なんて、ちっとも思っていないがリーチはそう言った。
「だって代理が言ってたけど、仕事の仕方とか、新人ぽくないらしいね。もしかして藤村って中途?どっか前に違うコンピュータ会社に勤めてたとか?」
『うげートシ代われ!何かほっとくと、手に負えなくなってきそうだ』
 リーチが根を上げてそう言うのでトシはリーチと交替した。
「はい。以前少しだけ違うところで働いていました。でもこちらが元々本命だったのですが、一度はおとされて違うところで働いていたんです。ですがどうしてもこちらの会社で働きたくて…前の所を辞めて、もう一度こちらにアタックしてようやく採用して貰ったんです」
 トシは笑顔でそう言った。
「うち、確かに入社基準高いからなあ。入ってからも大変だし……でもやりがいがあるからがんばれるんだよなあ」
 そう言って槙田はラーメンをするすると口の中に入れた。
「やりがいありそうですね。だってこちらの皆さん、みんな生き生きされてます」
「はは、生き生きね。忙しいだけだよ」
 槙田は照れたようにそう言った。
「そう言えば…新聞で見たんですけど、こちらで殺人事件があったんですよね。でもそんな雰囲気全然なくてホッとしてるんです。ちょと恐いなあって思ってたので」
 トシはそう言って話をふった。
「え、ああ、そうだ、隣の課の主任だよ。何で殺されたんだかなあ…。うちの課とあんまり交流無かったしさ。矢部さんっていうんだけどね、なんていうか存在感の無い人で、大人しい感じの人だったよ。だけど、警察は何やってるんだろうな。さっさと犯人捕まえてくれなきゃ俺達安心して働けないよ」
 って、刑事に向かってそれはきついよ~とトシは思いながら更に聞いた。
「恨みでしょうか?」
「さあ、今言ったみたいにあんまり知らない人だし色恋に疎い感じの人だったよ。性格も悪い訳じゃないんだろうけど、根が暗いっていうかさ…でも藤村そんな話興味あるの?」
 不思議そうな顔で槙田は言った。
「え、いえ、そう言う訳じゃないんですけど、誰かが殺されるって、なんだか身近で聞くこと無いですよね。だからちょっと気になったんですけど…」
 あははと誤魔化すようにトシは笑った。
「そんなことよりあっちの方が俺達気になってるんだよねえ」
 と言って槙田は目線をトシの斜め後ろに向けた。それにつられてトシも振り返る。すると幾浦が奇麗な女性と一緒にコーヒーを飲んでいた。
「あの奇麗な人さ、長浜さんって言って秘書課の人なんだよ。代理と同期って言うのもあるんだけど、よくああやって二人でコーヒー飲んだりしてるから怪しいって思ってるんだけどね。つき合ってるのかもしれないってみんなでこっそり噂してるんだけど、それだったら逆に隠すだろうから、まだそう言う付き合いはしてないのかもしれないなあってさ」
「でも似合ってますよ」
 トシには絵に描いたようなカップルに見えるのだ。
「似合ってるんだけど、代理の方はあんまり気のない感じしない?」
「色恋に疎いので良く分からないんですけど…」
 苦笑してトシが言った。
「ここだけの話、長浜さんは結構代理にアタックしてるらしいよ」
 小声で槙田は言う。
「いいですね、ああいう奇麗な人にアタックされるのって」
 いい男にはいい女が寄ってくるんだなあとトシは変な納得の仕方をしていた。
「さて、うわさ話はここまで。俺先に帰ってるな」
 槙田は話しながらもしっかりラーメンとチャーハンを平らげていたのだ。トシの方は話す方に気を取られてトレーの料理はリーチが食べた分を除くと全く減っていない。
「あ、はい。私もこれを食べたらすぐ戻ります」
 トシが慌ててそう言うと槙田は幾浦が以前見せたように、トシのトレーをちらりと見て笑いを堪えながら「しっかり食べて体力つけろよ」といって帰っていた。
『…なんか僕、大食漢って思われたかもしれない…』
 トシががっくり来たようにそう言った。
『じゃトシ代われ~俺食う』
 リーチはどうしてもクリームブリュレが食べたいのだろう。
『はいはい』
 もう一度交替をしてリーチは食べることに専念していた。良く食べるなあと感心していると、いつの間にか幾浦が側に来ていた。
「またそんなに一杯トレーに置いて食べられるのか?」
 ちょっと呆れ気味に幾浦は言い、前の席に先程飲んでいたコーヒーを持って座った。
「あ、はい。二度と風邪で倒れないようにしっかり食べて体力を付けようと思って…」
 リーチはそう言った。
『ぬう…俺こいつ苦手なのになあ……』
 と心の中では別なことを言っていた。
『代わる?』
『いや…いい』
 とリーチは言う。今度こそトレーの物を食べきるつもりなのだろう。
「藤村は、名古屋支店だったな。本社に来る気はないのか?」
 幾浦はそう言ってじっとこちらを見た。冗談を言っているようには見えない。
「もちろん東京で働きたいです。情報が早いのはやはりこちらですし、いつか東京に転勤になればいいなあと思ってるんですけど」
 既に東京で働いているのだが…。
「そうか。では、もし私の部署に欲しいと人事に申告したとしよう。それが通ったとして、君はうちの部署でやっていく自信はあるか?」
「え…」
 ごくんと食べたものを飲み込んでリーチは驚いた顔を作った。
『リーチ交替する。交替してよ』
 トシは幾浦と話がしたかったのだ。それもとても大切な話をしている。リーチに任せておけないのだ。
『やだよ。俺これ食うまでかわらねえからな』
 リーチはそう言ってトシと交替することを拒否した。
「なんだ、うちの部署は不服か?」
 ニヤリと口元だけで笑い、幾浦は言った。
「私にそんな実力はまだありません。不服はありませんし、本当にありがたい話なんですけど、私なんか代理の下で働かせたら恥をかくことになるでしょうし…。そんなご迷惑をかけられません」
 言いながらリーチは黙々とトレーの物を片づけていく。そんなリーチをみて幾浦は、笑いを堪えるように言った。
「それだけ食欲があれば、体力も付くだろう。今の話は真剣な話だ。名古屋に戻って急に移動になったとしても驚かないようにな」
 幾浦はそう言って、席を立ち、リーチの頭をクシャッと撫で、去っていった。
『幾浦さんって僕たちのことあんなに買ってくれてるんだ……何かすごく嬉しいや』
 トシは幾浦の仕草の意味などこれっぽっちも分からずに、感激していた。だがリーチは頭を撫でられた瞬間鳥肌が立つかと思った。そんな事などトシは気づきもしない。
『………』 
『リーチどうしたの?食べ物喉に詰まったの?』
 黙り込んだリーチにトシはそう聞いた。
『いや…うん。何でもねえよ』
 止めていた手を再び動かして、リーチはガツガツと、一応利一の仕草でトレーの物を片づけだした。
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