Angel Sugar

「身体の問題、僕の事情」 第2章

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「藤村さん。支店の牧野さんから電話入ってますよ」
 席に戻って幾つか仕事を任され、さあ、やるかあと思った瞬間に電話が廻ってきた。支店の牧野というのは四係の人間の偽名だ。
 早速電話を繋いで貰ってパソコンを立ち上げ、ここの社員名簿にハッキングした。
「はい。今大丈夫です」
 やや声のトーンをおとしてトシが言いながら、リーチが先程チェックした人間を洗い出しする。
「ちょっと気になった人物の名簿をそちらにメールで送ります。全部一応暗号化して送ります。ただ、気になっただけで、殺人まで起こした人間では無いようですが、宜しいでしょうか?」 
 向こうは構わないというのでトシは自分のパソコンをとりだして、携帯に繋げるとそちらからメールを送った。別にここのパソコンからでも大丈夫だろうと思うが何があるか分からない。充分すぎるほど気を付けるに越したことはない。それにここは自分の席で何をしても周りから見られることは無いのだ。例え見られたとしても自分のパソコンを持ち込んだことで誰かが咎めたり等しないだろう。
 メールを終えるとトシは新人として任された仕事をとりだした。なんだかわくわくしているのが自分でも分かる。
 見ると簡単なバグチェックだった。仕事としてではなく多分テストとして渡されたような物だろう。
 渡されたMOを画面に呼び出し、バグを探す。トシはプログラムで組まれた英数字を読むのに長けていた。リーチが犯人を見分けられるのとちょっと違うが、トシは英数字の犯人らしき部分を見分けることが出来るのだ。何がどう見えるかは分からないが、何となくこの辺りだろうと思う部分を潰していくと、原因となった部分が発見できるのだ。
 リーチは自分が犯人を見分けられる理由を説明できないのと同じく、トシもそれが何故分かるかは説明できない。
 暫くその作業に熱中しているとリーチが退屈そうに言ってきた。
『なあ、トイレ行けよ。行く振りしてちっと殺人現場になったところ見に行かないか?写真は見せて貰ったけど、俺場所見たい。ま、その青いカードで行けるかどうかしらないけどよ』
『確かに現場を見て置きたいね』
 手を止めて、パーテーションの壁の部分に張り付けられたビルの各階案内図をトシは眺めた。現場になったのは地下にある会議室ばかりあるフロアである。使えるカードの色を確認すると青でも行けるところだ。青で行けるというのはきっと全員がここを自由に出入り出来るのだろう。同じ会議室でももっと上の階にある会議室は使えないようになっている。部署で重要な会議をするときに上を使うのだ。
 トシは青でも行けることを確認し、今度は社内の予定表にアクセスした。見ると四時からは一番端の会議室が使われているだけで、他の会議室の利用は無かった。ただ、この予定表をそのまま信用して良いかどうかは分からないが、とりあえず見に行ってみようかとトシは思った。
『トイレ行くって言わなきゃ駄目かなあ?』
 生真面目にトシが言うと、
『馬鹿、んなもん言って行く奴どこにいるよ』 
 呆れた口調でリーチが言った。それは分かっているが、どうも普通のサラリーマンを経験したことがない為に、何が普通か分からない。
『そ、そだよね。ちょっと聞いてみただけだよ』
 トシは、ははと笑って立ち上がると、そっと廊下へと出た。ちらりと見ると誰もこちらに気がついていない。何より部署の人間はみんなパソコンの画面にへばりついて仕事してるのだ。誰かが外に出ても気にすることは無いのだろう。
『何か気持ち悪いよな。席にみんなそろってるってさ。ほら捜査課って滅多に人いねえじゃん。事件でほとんど捜査本部に行ってるし……。だからこう、なんつーか……。みんな同じポーズで仕事してるのって気味悪いよ。やっぱお前この道じゃなくて良かったと思わないか?』
 エレベータに乗り込むと同時にリーチが言った。
『僕は嫌いじゃないけどね。でも今は刑事で良かったと思うよ。最初は困ったけど』
 クスッと笑ってトシは言った。
『だってよーこんな仕事、性格暗くなりそうじゃんか』
 リーチは何故かコンピューター関係の仕事に従事する人間は全て暗い性格だと思っている。そう言う人間が起こした殺人事件をやはり以前扱っているからだ。
 だがそれは偏見だ。言ってもリーチのような性格には分からない。
『暗いって話しはもうやめよ。はい、ついたよ』
 地下に着くとトシは迷わずに問題になった会議室の前にやってきた。都合の良いことに社員は誰もいない。
 扉は当然の如く立入禁止の札が貼られていた。だが鍵は閉まっていなかったのでトシはいつもの癖でハンカチをノブに掛けてその部屋へ入った。
 広さは二十畳くらいでそれほど大きい会議室ではない。並べられていたであろう机類は折り畳まれて部屋の端に積み上げられている。椅子も同じく積み上げられ、がらんとしていた。
「ちょっと暗いね……」
 トシはそう言って薄暗い会議室の入り口にあるスイッチを押して明かりを付けた。すると床に敷かれたグレーのカーペットの一部が黒っぽくなっている所が奥に見えた。あれが殺された現場なのであろう。
 近づいてみると益々生々しく見える。殺人が行われたのは一週間ほど前なのだが、それでも現場保存のためにこのままの状態でまだ置かれているらしい。だが来週にはこれも奇麗になる予定だった。
『確か後ろ向きにぐっさりだったよな。ええと、十センチ程度の小型のナイフで脊椎損傷で出血多量死』
 リーチが報告書を思い出すようにそう言った。
「だったね。でも凶器は出てきてないし、犯人らしき人物も特定できないっていうのも変だよね。衝動的じゃあ、こんなところで殺すことは無いだろうしさ。計画的ならそれなりに恨みがあったわけだからさ」
 トシは独り言のようにそう言った。周囲に誰もいないと支配権を持っている方は心の中で話さずに口に出して会話をする。もし誰かがこの光景を見たら、危ない人だと写るだろう。
『返り血の処理はどうしたと思う?』
「解剖所見では刺してすぐはそれほど出なかっただろうって言ってたし、ぐさって刺して、パッと抜いて逃げたら上一枚ですんだろうから、トイレで着替えることも出来るだろ?だって悪いことに発見が翌日の夕方だったしさ」 
 うろうろと周りを歩きながらトシは言った。
『おい、誰か来るぞ。隠れた方がいい』
 人の気配に敏感なリーチがそう言った。
「え、隠れろって……」
 わたわたとトシは机を積み上げている下に潜った。机は丁度前の部分が隠れるように板が下ろされているのだ。
『これで相手が犯人だったらラッキーってやつだよなあ』
 嬉しそうにリーチが言うがそう簡単なものではないはずだ。
『静かにしててよ……』
 暫くすると扉が開けられ、誰かが部屋に入って来た。何か、かさかさという音がする。誰だろうと顔を出して見たいのだが、いくら何でもこちらに気がつくはずだ。こんなところで犯人ならいいが、関係のない社員に見られたらなんと返答して良いか分からない。立場が悪くなるだけだ。
 そう思ったトシはじっと息を殺して身をひそめていた。
「……・変だな。明かりがついている……・」
 幾浦さん?
 その声の主は幾浦の声であった。
『リーチ……違うよね?』
 恐る恐るトシはリーチに言った。
『いや、こいつじゃねえぞ。俺やった人間は見分けつくしよ。この男からはなーんも感じなかった。まあ俺に取ったら天敵っていう感触はあったけど』
「……面白半分に誰か社員が来たんだろう。全く、だからここに鍵を掛けて置けと言ったんだ」
 言いながらやっぱりかさかさっという音が響いた。暫くすると部屋の電気が消され、幾浦が部屋を出ていく音がした。少し時間をおいてからトシは這いながら出てくると、かさかさの正体を見た。
「花束だ……・」
 死んだ相手は幾浦の知り合いだったのだろうか?確かに年は近かったはずだ。二人で競い合ってたのか?だが死んだ相手の役職はただの主任だ。競い合う土俵が違う。幾浦は部長代理だ。外資系の能力主義ではこういう事も起こるのかもしれない。
『花束を置くってことはそれなりに近しい相手なんだろうな。でも調書じゃあ、あいつの名前は出てなかったぞ。漏れたのか?』
 リーチは訝しげにそう言った。
「分からないけど……・幾浦さんに話しを振れると思う?新人の僕が?」
『話しのもっていきようだと思うけどさ、四係に知らせとくか?』
「……そうだね。何か知っていたかもしれないし……」
 何となく気乗りがしない。後で自分が刑事だとばれたときに、幾浦がどう思うかと考えると憂鬱になるのだ。
『仕事だ、トシ』
 そんなトシに気がついたのか、リーチは言った。 
「分かってるよ」
 トシはゆるゆる身体を起こして自分もその会議室を後にした。

 席に戻ってくると、自分の席に幾浦が座って腕組みをしていた。
「あ……」
「随分長く間席を外すんだな。そんなに身体の調子が悪いのか?」
 切れ長の目でちらりとこちらを見る。冷え切るような雰囲気があたりに漂う。
「済みません」
 言い訳すると幾浦のようなタイプは余計に怒りを覚えるはずだ。その為トシは何も言わずに謝った。
「それより渡した仕事は出来ているようだが、出来たら出来たと報告するもんだろう?最初にそう言ったな」
 机に放置されていた先程までしていたトシの仕事を見て幾浦は言った。
「済みません……」
 ああもう、謝ることしか出来ないよ~。
 内心だらだらと汗をかきながらトシは謝ることしか出来ない。
「……謝るなと注意したはずだ。そんな風に謝られると不愉快だ」
 机の上に手を組んで幾浦は言った。こっちは怒られている生徒のように棒立ちになるしかない。
『ねえトシ、こいつビルから突き落としていい?』
 今度は突き落とすのか?
「君は仕事は速いが、さぼるのも得意なようだ。その上、物覚えが悪い。まあいい、出来た仕事は引き取っていく。次はこっちだ。今度は出来たらちゃんと報告するように」
 言って代わりのMOを机に置いて、最初の分を持つと幾浦は席を立った。
『撃ち殺して良いか?』
 好きにして。とトシは思った。
 席に座るとトシは溜息をついた。まだ一日目なのに、殺人事件を追って一週間ほど馬車馬の如く働いた時のように疲れている。
『安心するなよ、あいつの視線こっち向いてるぞ。当分大人しく仕事してた方が良い。ああ、奴のこと四係に報告は先にしとけよ』
 リーチが苛々とそう言った。
『分かってるよ……』
 言いながらトシは新しく置いて行かれたMOを開けて次の仕事は何だろうと書類に目を通して絶句した。
『これやってたら今日帰れないよ……』
 トシは一人ごちた。
『ははは、新人苛め開始か?やな野郎だなあ』
 苛めでは無いのだろうが、ちょっとはそんな気分になりそうな仕事があてがわれたのだ。夕方からは歓迎会のはずだ。それまでにはとうてい終われそうもない。歓迎会は中止なのか?トシは先に四係へメールを打つと、もう一度フラットのモニターを眺めた。
 やっぱり苛めかなあ……。ふうと何度目か分からない溜息をつき、とにかく割り当てられた仕事に没頭することにした。
定時の時間のベルが鳴ったことも気付かず、更に声をかけられているのも分からなかった。
「藤村!」
「あっ。はいっ」
 急に現実に戻されてトシは振り返った。
「さっさと終われ。言ったはずだ。今日は歓迎会だとな」
 既に鞄を持った幾浦がそう言った。
「あの、でもこれまだ……」
「君がさぼらなければ出来た仕事だったな。仕方ないから明日で良い」
 し……仕方ないから明日でいいって?
 がーんと頭を何かで殴られたような気分になったが、何とか笑顔を作って「すぐ終わらせます」とトシは言った。
「廊下でみんな待ってるぞ」
 そう言って幾浦はさっさとそこから離れた。
「あ~なんかもう、ショック続くよ~」
 一人呟いてトシはパソコンを終了させ、自分も鞄を持って廊下に出ると同じ部署の人間が既に輪になっていた。急いでそこに混ざると十人ほどの団体で会社を後にした。
 歓迎会の店は職場のビルの前にある小さな居酒屋であった。
「今日は貸し切りだ」
 幾浦がそう言うとみんな喜んで席に着く。どうして良いかまごまごしていると、幾浦に腕を掴まれ引き寄せられた。
「彼は既にもう紹介しているが、二週間うちで預かる新人だ。みんな可愛がってやるように」
 そう幾浦が言うと、みんな口々にトシに向かって「可愛がってやるよ~」という罵声?が浴びせられた。
『変なノリ……・』
 リーチがあくびをかみ殺してそう言った。退屈で眠そうだ。
『みんなで何かするのは多分今日だけだろうから、適当にくつろいでたら?それとも怪しそうなのここに居る?』
『俺には、おたくがひと盛り籠に入っているようにしか見えない』
 訳の分からないことを言う。
「初めまして。暫くお世話になる藤村です。分からないことばかりですけど宜しくお願いします」
 照れた顔でトシはそう言って頭を下げた。
「さて、席に座るか?」
 幾浦に促されるまま、その隣にトシは座った。すると既に机に置かれたビールをみんな勝手に注ぎだした。乾杯くらいは飲んだ振りしようとトシもビールを入れられたコップを持った。
「たった一人だけで幾浦部隊に配属された可哀相な新人に乾杯!」
 とノリの良さそうな槙田が言った。多分こういう時何時も彼が乾杯の音頭をとるのだろう。しかし、可哀相な新人ということはこの部署、結構周りから「大変ね」と言われる部署なのだろう。
「乾杯」
 ようやく始まった酒宴であったが、トシは店の人にこっそりウーロン茶を頼み、それをちびちび飲みながら周りが色んな話しをしてくれるのに耳を向けていた。
 トシはこうやって人の話を聞くのは好きだった。自分で話すより人の話を聞く方が好きなのだ。
「藤村~お前それ酒じゃないだろ~飲めよ~」
 先程の槙田がやってきて、ビールを勧めてくるのだがいかんせん、飲めないものは飲めないのだ。
「ありがとうございます。でも明日に響くと困りますので……」
 やんわり断るのだが槙田は酔っていて、こちらが断っていると思っていない。
「なんだって?俺の酒飲めないの?」
 ちょっとムッとした感じで、こちらの背中から手を回してビールをトシの手に握らせる。後ろから抱きつかれてちょっと困ってしまった。
『こいつ気持ち悪いな。蹴りいれてやろうか?』
 どうしてリーチはこう過激なのだろう……。
『酔っぱらってるんだよ』
 苦笑してトシはリーチを宥めた。
「藤村飲め」
「はあ……」
 困っていると幾浦が横から言った。
「槙田。私には注いでくれないのか?」
 幾浦にジロリと睨まれた槙田はトシから離れて笑いながら
「ああ~部長代理にまず注がなきゃ駄目ですよねえ。俺って世渡りべたで~」
 何処が世渡りべたなのか分からないが、槙田はそう言って幾浦のグラスにビールを注いだ。
「お前の何処が世渡りべただ……」
 幾浦の方もそう思っているようだ。
「はは~嫌だなあ」
 槙田は幾浦のグラスに注ぎ終わるとその場を離れた。
 暫くみんなの雑談に混じり宴もたけなわの頃、幾浦がふとトシに言った。
「後でみんなに君の事を話しておくよ。忘れていた」
 廻りにお酒を勧められるたびに幾浦は助け船を出してくれていたのだ。こういうのを見るとあの苛めのような仕事はやっぱり苛めじゃなくて自分の為に用意してくれた仕事だったというのが分かる。これは新人として期待されているのだろうか?出来ない仕事などいくら何でも頼みはしないだろう。出来ると思ったから少々難しくても課題として出されたのだ。
 幾浦は仕事に厳しく、甘さなどこれっぽっちも見せない。だが会社を離れ、プライベートでは逆に仕事の話しは一切持ち出さない。
 それは部下と決してなあなあにはならず、かといって突き放しもしないのだ。これが理想的な上司だろう。
 だが期待されても応えることは出来ない。いずれ自分は本当の仕事に戻るからだ。それを思うと申し訳ないような気がして仕方がない。
「いえ、気を使わせて済みません」
「まあ、だがみんな悪い奴じゃない。普段パソコン相手に仕事している分、こういうところでは少々羽目をみんな外したがるんだろうな。それは仕方ないことだ。君にもいずれ分かる」
 と言って幾浦は口元だけで笑った。
「はい」
「みんな、仕事もこれだけ熱心ならいいんだが……」
 言いながら部下を信頼の目で見渡している。その幾浦をじっとトシは見てしまう。
 幾浦はトシがなりたかった男性像に近いのだ。背が高く、男らしいがっしりとした体型、それで仕事も出来、自信を持って生きている。部下から畏怖をもって慕われ、その期待に背くことがない。
「なんだ?」
 トシの視線に気がついた幾浦が言った。
「いえ、幾浦さんって仕事も出来て部下にも慕われてかっこいいなあって思ったんです」
「そうか?」
 咳払いをして幾浦は言った。
『おい、トシ、やめろ。こういう奴を喜ばさない方がいいぞ』
 今まで沈黙していたリーチがトシに言った。
『え、何で?』
『何でって……お前分かってる?お前のその顔でそんなこと……』
『僕の顔?利一の顔だよね?』
 リーチが何を言いたいのかトシには全く分からない。
『あのさ、幾浦って誰か思い出さないか?』
『誰かって?誰?』
 じーっと幾浦を見てトシはリーチの言う誰かを思い出そうとするのだがピンとこない。
『だから!あんまり見るなって』
『リーチおかしいんじゃないの?さっきから何言ってるんだよ。分かるように言ってよね』
 だんだんトシは腹が立ってきた。
『……いい。もう』
 それだけ言うとリーチは又沈黙した。
『何が言いたかったんだよ。もう、はっきり言ってよ!』
 だが返答は無かった。
「しかし、そろそろお開きだな」
 言って幾浦はみんなにそれを伝えた。誰も文句も言わずにそれに従う。 
 店の外に出るとヒヤリとした風が頬を撫でた。目の前には憧れた会社のビルが畏怖堂々と建っている。それを確認してトシはほおっと息が漏れた。
「藤村は寮に戻らないといけないんだよな。俺達は二次会やるけど……」
 十一時で寮の門は閉じられるのだ。だが主役がいない場合も二次会と言うのだろうか?
「ええ。皆さんは行って下さい。私はこのまま寮に帰ります」
 実はまだ仕事は残っているのだ。
「そう、じゃ仕方ないね」
 みんな残念そうにそう言う。
「じゃあ、代理行きましょう!」
 そう言って部下達は幾浦の腕をとって引きずった。
「一人で帰られるのか?」
 名古屋から来たと思っている幾浦は振り返ると心配そうに言った。
「大丈夫です」
 トシはそう言って見えなくなるまで団体を見送ると、くるりときびすを返して今働いているビルに戻った。
 警備員のいる入り口を通り、自分の部署へと戻る。本当は既に閉められてはいるが、開けるためのキーは既に持っている。この上のもっと上の階ではやはり科警研が来ているはずだ。ハッカー対策だ。
 トシは支給されたカードを使って部屋へ入ると自分の席に座った。シンと静まりかえった部署は気持ち悪いと言うより、ホッとした。
『なあ、トシ、ちょっとだけ代わってくれない?』
 猫なで声でリーチが言った。多分名執に電話を掛けようと思ってるのだろう。
「我慢するんじゃないの?」
『我慢するけど、ほら、二週間は拘束されるって事ちゃんと話して置きたいんだよ』
 ムッとした声でリーチが言った。トシは仕方無しに交替してやった。
「おい、暫く寝てろよ。ユキに電話するんだからさ」
 そう言ってリーチはトシをスリープさせると名執へ電話を掛けた。
 次にトシが起こされると見知らぬ所をリーチが走っていた。
『はれ?何?なんなの?ここ何処?』
『呼び戻されたよ。一家全員殺されたらしい。そっちに一旦もどれってさ。今現場に向かって走ってるとこ』  
 トシが周りを見回すと既に野次馬が群がり、警官も鑑識もあちらこちらにいて騒然としている。
『でさ~、新人の僕はいきなり休暇を貰うことになるわけ?』
 仕事も途中でほったらかしたまんまだ。
『しゃーねーだろ。こっちが本業。あ、俺達のことは四係のほうから副社長に連絡してくれるってさ。それより今週はお前担当なんだから身体代われよ』
 今後のことを考えて憂鬱になりながらトシはリーチと交替した。
「隠岐!」
 人混みをかき分けて同僚の篠原が走ってきた。
「篠原さん、状況はどうなってるんですか?」
「今、鑑識が入ってる。暫く中には入れないよ。しっかし、えげつない事件だぞ。さっき窓から現場になった居間を覗いたけど、血の海だった」
 顔をしかめて篠原は言った。
「盗られたものはあったんですか?」
「いや、なんもとられてねえ。それより殺した相手に対して、執拗に斬りつけてるところを見ると怨恨だろうって遠藤警部が言ってたよ」
 篠原はやってきた道を振り返って問題の殺人事件が起こった家を見て腕組みをした。その視線の先をトシも追う。
 当分この事件にかかりそうだなあとトシは溜息をついた。


 四日でスピード解決した殺人事件を終え、トシは憂鬱なままR&Lソフトシステムズのビルに出社した。今朝早くまで捕り物があった所為で徹夜だ。目の下のクマは体調を最悪にみせる。まあ、風邪で休んだということになっているはずだから、こういう外見の方が良いのかもしれない。
 自分の部署にそろそろと入るとまず幾浦の所に挨拶に行くことにした。幾浦はフロアの一番前に他の社員と明らかに違う広い机にデスクトップのパソコンと、ノートパソコンを置いて交互に見ながら仕事をしていた。
 近づいたトシを見てフッと顔を上げる。が、その表情は険しい。
「いきなり……お休みを頂いて申し訳ありませんでした」
 深々とトシは頭を下げたが、幾浦のほうはすぐに手元のフラットのモニターに視線を落とし、言った。
「体調が悪くて休むのは仕方がない。だが君は仕事を任されてそれが途中のままだったな。普通は同僚に電話するなりして、その途中の仕事をどうするかをきちんと段取りをつけるべきところだろう?それすらしないとはどういうことなんだろうな」
 もっともだ。弁解の余地など無い。
「はい。ご迷惑をおかけしました。本当に申し訳ないと思っています」
 頭を上げることも出来ずにトシはそう言った。幾浦の表情がまともに見られないのだ。
「思うなら何故出来ない?救急車でも運ばれて出来ない状況だったとでも言うのか?」
「いいえ……」
 トシがそう言うと幾浦は溜息をついた。
「多少見所があるとは思ったが、君はうちの部署では使えない。さぼるわ、休むわじゃ仕事を任せられんからな。こちらは期限というものがある。みんなそれぞれ分担してチームを組んでいるんだ。出来ない君に仕事を安心して任せることなど出来ない」
 が~ん……・ここまで言われてしまった。
『ああ、拳銃返さずに持ってきて撃ち殺してやれば良かったなあ……』
 リーチがぼんやりとそう言った。だが元気はない。事件でかけずり回った分、ぐったりしているのだ。
「…………」
 トシは何か言おうと思うのだが言葉が出ない。こういう場合どういえばいいのか分からないのだ。何を言っても言い訳になるのだろうし、本当のことは言えない。
「ああ、もう席に戻って構わない」
 冷たく幾浦にそう言われてトシは仕方なく自分の席に戻った。
 だが、する事が何もない。
『これってさ、仕事干されたってことだよね……』
 未だかつてこんな事など無かった。その分トシのショックは大きい。
『ここずっと捜査にかかりっきりだったから、休みだと思えばいいんじゃない?』
 あくびをかみ殺したようなリーチの返事であった。
『……・一日何もせずにいたら僕、気が狂っちゃうよ……』
 机に突っ伏してトシは言った。この間まであった自分の仕事は奇麗さっぱり机から撤去されている。本格的に干すつもりだろうか。
『あ、俺に代わる?どうせすることねえんだったら、どっか昼寝出来そうなところ探して、とんずらここうぜ』
 リーチは嬉しそうにそう言った。
『あのね、一応ここの社員だよ。それも新人。新人が昼寝してどうするの?益々立場悪くなるじゃない』
『だってよ~既に無茶悪じゃんか~。今更真面目な新人装っても無理だろ。四日も休んでたんだしな~』
 なんだかリーチ嬉しそうだ。
『リーチとは交替しないよ。僕今日一日ここで反省してるよ。きっと反省させるために仕事、干されてるんだと思うから……。幾浦さんも僕が反省してるの分かったらまたちゃんと仕事くれると思う』
 幾浦はそれほど陰険なタイプでは無いはずだ。
『そっかなあ~あいつ仕事には厳しそうだぞ。お前がいくら反省しても、許してくれそうに無いと思うけどな』
 確かにそれも考えたが、だからといって昼寝するわけもいかないだろうとトシは思った。
「社内規定でもよもっと…」
 小さくそう呟いてトシが冊子を手に取った瞬間内線が鳴った。
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