Angel Sugar

「身体の問題、僕の事情」 第7章

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 トシ達が本来の仕事に戻り数日が経つ頃、新宿署から例の殺人事件の報告書が廻ってきた。内容によると、本田の娘がかなりしつこく矢部にストーカー行為を長期間されており、そのあまりの行き過ぎで本田が思いあまって矢部を殺害したと言うことであった。
 本田は仕事帰りにこのビルの一階で家族と食事の待ち合わせしたことがあった。そのときに矢部の目にとまったと思われる。その日から矢部はしつこく手紙や電話を繰り返し、酷いときには娘の部屋に入り込み、文房具を盗んだりを繰り返した。たまらなくなった本田は警察に相談しようとしたのだが、最初矢部は本田がこのビルで働いていることをネタに、自分を警察にばらせば会社で働けなくしてやると脅し、それが聞き入れられないと分かると、次に本田の娘が好奇心で昔一度援助交際をした証拠を世間にばらすと言って脅していた。
 母親はその事で病に伏し、娘は学校も休みがちになり、周りを気にし、誰であっても人と会うことを恐れ、部屋から一歩も出ない生活になり、家族が滅茶苦茶になってしまった。
 そんなことになろうとも矢部はどうあってもストーカー行為を止めようとしなかった。本田は今度聞き入れないときは殺してやると決心しナイフを懐に隠し、矢部とあの会議室で最後の話合いをしたのだ。が、やはりこちらの言うことを全く聞き入れない矢部に本田はこのままでは家族がこれから生きていけないと思い、不意を狙って刺したのだった。
「なんか可哀相な事件だな、こいつは……」
 同僚の篠原がそう言った。
「そうですね……。確かに同情します」
 リーチはそう言って調書の写しを机に置いた。
「ま、こういう事件の方が人間らしくていいわ。で、折角帰れる日にお前なにやってんの隠岐?」
 時間は丁度八時になった頃だった。
「え?あ、はい帰りますよ。さっきまで報告書をやっていたんですよ。篠原さんこそ、なにしてるんですか?」
「俺?俺、警部待ち。いや、残ってろって言われてさ。も~かなわねえよ~」
 と篠原がブチブチと文句を言って机のうえに手を伸ばした。
「じゃ、私はこれで。又明日……」
 リーチは言って警視庁を後にした。久しぶりに早く帰られるのは良いが、今晩もプライベートはトシに譲ることになっていたのだ。名執からの連絡はない。なにやってるんだろうと思うのだが、一度言い出したことを引っ込めることも出来なくなっていた。
『リーチ……良かったらプライベート譲るけど?』
 トシはちょっと気落ちしているリーチの為にそう言ったが、リーチは首を振った。だがそうしたらと言い出したのはトシだ。この場合どうして良いか分からない。今更電話してみたら?とは言えないのだ。
「いいよ……別に。お前したいことあるって言ってたじゃんか。俺寝るから好きにしろよ」
 リーチはそう言ってトシと交替した。
 したいことなど何も無かった。帰って食事を軽く摂ってパソコンを立ち上げメールのチェックをする。それが終わると眠るだけだった。
 プライベートを譲っていたときは、あれもしたいこれもしたいと思っていたのだが、こうやってずっと譲って貰うと特にしたかったことが無いことに気が付く。なんだかちょっとこれって寂しいかもしれない……とトシは思った。
 このまま帰るのが、勿体ないと思ったトシは本屋に寄ることにした。
 その本屋は日本で最大級の広さをほこり、店内にはじっくり本を読んで選べるように椅子や机が置かれているのだ。トシはこの本屋がお気に入りだった。
 トシは適当に本を選んで窓際の席に座り、本を読み出した。が、全然頭に入ってこない。暫く本の内容を眺めてぱたりと閉じた。
 気が入らないな……。
 どうもこの間からずっとこんな調子なのだ。身体が悪いわけでも風邪をひいているわけでもない。ただ、何故か警視庁に戻ると伝言があるかもしれないと言う期待を抱いて本庁に戻るようになったのは確かだった。
 幾浦は何か問題があったら連絡をすると言った。連絡がないということは問題が無いのだろう。所詮新人に任された仕事だ。重要な事など頼んでいたとは思えない。
 ふとトシはポケットから幾浦の名刺をとりだした。帰ってからもう一度見て分かったのだが、この名刺の裏には幾浦の自宅らしい住所と個人の携帯番号それにメールアドレスが記載されていた。
 リーチは「古くさい手を使いやがって」と言い、更に捨てるように言ったが、トシは捨てることなど出来なかった。その理由も良く自分では分からない。
 じっと眺めて何故かどうしようか考えている。
 これって会いたいってことかな?
 フッとそういうことを思う。だが幾浦の冷たさは既に見てしまっている。だがそんな幾浦を見てしまった今でも、悪い人だと思えない。確かにあの時は何て酷い男だろうと思ったことは確かだ。
 もしかするとこうあって欲しいという理想が、本来の幾浦の姿を歪めて見ているのだろうか?トシはそう考えては溜息をついた。
「刑事さんも本を買いに?」
 と聞き慣れた声が聞こえた。まさかと思って振り返ると幾浦が立っている。
 え?まさか……
「あ、は。はい」
 突然現れた幾浦に驚きながらトシは何とかそう言った。
「だが、余り気乗りしなさそうな顔をしているな」
 そう言って幾浦は口元で笑った。
 あ、僕はこの笑い方がすごく好きなんだ……。トシはそう思うと急に恥ずかしくなってきた。
「いい本が無かったんです……。幾浦さんは見つかりましたか?」
 カクカクとした口調でトシは社交辞令を延べた。
「ああ、私はね。ところで今日は事件を追っかけていないのか?」
「珍しく今日は早く帰られましたので、本屋に寄ったのですが……」
 じっと見つめてくる幾浦の視線を避けながらトシはそう言った。
「そうか。ところで飯は食ったのか?私もまだなんだが、良かったら一緒にどうだ?」
「あ……はい」
 トシは何も考えずに速攻にそう答えた。別に食事くらいなら構わないよねと自分に言い聞かせて立ち上がった。
「本、返してきます」
 わたわたとトシは机の本を掴むと取ってきた棚に返しに走った。なんだか無茶苦茶心臓がドキドキしている。たかが食事なのにどうしてこんなに慌てているのだろうと、トシは冷静になれない自分を叱咤した。だがそんな状態であるので、本を返す手も震えている。あっと思った瞬間にバタバタと足下に本を落としてしまった。
 な、何てドジなんだ僕は~。
 誰にも見られていないだろうなあと見渡すと端でこちらを見て笑っていた。
 うう……何もこんな所見なくても良いじゃないか~と焦りながらトシは床に散らばった本を片づけだした。
「実は無茶苦茶ドジなんだな」
 くすくす笑いながらいつの間にか来た幾浦が本を片づけるのを手伝ってくれた。
「済みません」
「いや。いい。ところで何が食べたいんだ?」
「何でも構いませんが……」
「そうだな、折角の再会だから何か美味しい物でも食べに行くか……」
「あの、高級な店はちょっと……」
 トシは慌ててそう言った。   
「おごりだよ」
「え、それは駄目です。私は公務員ですし……」
「好きな相手に食事をご馳走したいと思うのも賄賂になるのか?」
 真面目な顔で幾浦はそう言った。
「そういう冗談は困るんですが……」
 トシが困ったような顔でそう言うと幾浦は苦笑した。
「まあいい。とにかく夕食だ」
 幾浦は後込みしているトシを引っ張りながら本屋の外に連れ出し、表通りでタクシーを拾った。トシが乗ろうかどうしようか迷っていると今度は強引に幾浦はタクシーに引きずり込んだ。
「なっ何するんですか?」
「何って、飯を食いに行くんだろう?」
 こちらが驚いているにもかかわらず幾浦は本当に嬉しそうな顔をしていた。その笑顔に押されてしまったトシは「はい」と頷くことしか出来なかった。 
「新宿まで」
 と幾浦が言うとタクシーは走り出した。トシは何を話して良いか分からず黙り込んだまま視線を彷徨わせていた。
「連絡……しようとは思ったんだがね。やはり警視庁に電話をするのは躊躇われたよ。何より仕事の話ではなくて個人的な用だったからね。さすがにそこまで図々しくはなれなかった。さてどうしようかと思っていたら今日あの本屋で会えたので驚いた」
 言ってクスリと笑う。
「は、はあ……」
 どう受け答えして良いかトシは分からない。逆に心臓はバクバクと音を立て血圧が急に上がったために倒れそうであった。
 落ち着け~と必死に自分に言い聞かせるのだがトシはもうパニック寸前なのだ。
「……そんなに緊張するほど私は恐い顔をしているのか?」
 じいっとこちらを見つめて幾浦がそう言った。
「いえ……」
喉がからからに乾いてくるのがトシには分かった。空気も薄く感じる。
 暫くすると新宿のビル群に着いた。二人はそこでタクシーを降り、トシは幾浦に促されるまま後をついて歩いた。
「ここだ」
 と幾浦が言った場所は地下にある店のようであった。看板は日本料理の店とあり庵という名前だった。まあ懐を心配するような店じゃないよなあとトシはちょっと胸を撫で下ろしたのだが、幾浦が案内役の女性に「座敷はあいているかな?」と言い、「ええ空いておりますよ」と言う会話かわされた。
 え、座敷って??
 思いっきり二人きりじゃないか~と慌てたのだが、ここまできて逃げ出すことも出来ずにトシは仕方なく幾浦の後を付いて座敷へと入った。
 そこは二人では広すぎるほどの場所で、窓の向こうには本来ならある筈のない庭が見える。庭は外の部分に人工的に作られているようであった。
 カチコチニ固まって座っているトシとは対照に幾浦は余裕で注文をするとこちらを振り返り又笑い出した。
「なんだこういうところは初めてか?」
「え、はあ……何時も事件でかけずり回っていますし、こういうところに来る甲斐性もありませんし、刑事って意外に結構薄給なんです」
 何より隠岐家は一人分の給料で二人分をまかなわなければならない。
「張り込みとかでは使わないのか?」
「とんでもないです。滅多に使いません。結構経費のこと五月蠅いんですよ」
 トシはそう言って手を振った。警察は国民の税金で雇われている。余りそう言う話は詳しくできないのだ。人によっては反感を買うことを充分知っている。
「そうか……まあトシには余り似合う場所では無いな」
 もういつの間にかトシと気安くこちらを呼んでいるが、言われていると慣れてきたのか気にならなくなってきていた。
「はは。そうですね」
 そうやって適当に会話をしていると料理が並びだした。食べたことのない物ばかりでトシは目が見開いたまま戻らない。
 ちょっとまって……こんなのおごって貰う理由が無いよ。それに割り勘だって出来るのかどうか分からない~。
 トシがそう思って箸も付けることが出来ずに冷や汗をかいていると幾浦が言った。
「なにをぼーっとしているんだ?食べるぞ」
「え、あ、あの……」
「いいから」
 幾浦はトシを促すようにそう言い、自分は箸を既に割って造りをつまんでいた。トシもどうしようかと思ったが、もうなるようにしかならないと割り切ると自分も箸を割った。
 暫く出される物を出されるままに食べていると幾浦がふと思い出したかのように言った。
「そう言えば……」
「はい?」
「トシが犯人を逮捕する前、私と長浜さんとの会話を聞いていただろう?」
 トシはその一言で小芋が喉に詰まった。
「う~げほげほ」
「大丈夫か?」
 慌てて幾浦がこちらにやってきて背中を叩いた。
 次に差し出された御茶を口に含んでようやく小芋は喉を通り抜けた。
「死ぬかと思った……」
 湯飲みを持ったままトシはそう呟くように言った。が、ハッと気が付くと幾浦が間近に座っている。小芋はもう喉にはつかえていないはずなのに又喉元が苦しくなってきた。
「済まなかった。食べているときにいきなり言う話では無いな」
 苦笑して幾浦はそう言った。
「で、実際の話。話は聞いていたのか?」
 そこから離れて欲しいのに、幾浦はどうしてもその話をしたいようであった。
「済みません。聞こえてしまって……」
 顔色を伺いながらトシは言った。あの状況で聞こえていない見ていないは通用しないだろう。
「そうか。なら酷い男だと思っただろうな」  
 苦い顔をして幾浦がそう言う。それに対してどう答えて良いかトシには分からなかった。
「……」
「確かに今までは胸を張って話せる恋愛などしたことがない。だからこそ、本気になった相手の為に精算したんだ。その本気になった相手にせめてもの誠意を見せたいと思ったからな」
 こちらを見る幾浦の目が熱く感じる。
「……でも、長浜さん……本気だったんでしょう?あれではあまりにも可哀相じゃないのですか?どなたに誠意を見せたいか分かりませんが、あれは誠意には見えません」
「優しく突き放すことの方が残酷だと思うんだがね」
 困ったように幾浦が言った。
「でも、私はそう言う経験がありませんので、どういう方法が良かったかは分かりません。つき合っていてお互いすれ違ってくることもあるでしょうし……」
「長浜さんとはつき合ってはいない。ただ何となくが長すぎたんだ……」
 それだけだと言う風に幾浦が言った。
「……どうして私にそんな話をするんですか?」
 トシはそう言って顔を上げた。
「言ったはずだ。私はトシが好きなんだ」
 視線を外さず幾浦が言う。
「何を言ってるんですか。からかわないで下さい。私は男なんですよ」
 ムッとしたようにトシは言った。自分をからかって何が面白いのだろう。そういう幾浦の気持ちが全く理解できない。
「からかうのにこんな場所に連れ出したりしないだろう?」
 言いながらじりじりとこちらに近寄ってくる。
「……」
「どうして分からない?真剣だから男に告白しているんだがね」
 真剣ってなんだよ~なんなんだよ~とトシはパニックになっているのだが、蛇に睨まれたカエルのように身体が動かない。そんなトシの身体を幾浦は包み込むように抱きしめた。
「……あ……」
「愛しているんだ……私もこんな気持ちは初めてだ……」
 きゅっと抱きしめている腕に力が込められ、トシは以前感じた温もりが身体を覆うのが分かった。
 このまま行き着くところまで行ったらどうなるんだろう?
 そんなことがフッと頭をよぎってトシは必死にそんな気持ちを振り払った。幾浦が恋愛に対してどんな風であるかこの間知ったはずだ。リーチの言ったように手の内に入った瞬間に興味を無くすだろう。何よりこちらは男なのだ。相手を繋ぎ留められる物など何もない。
「誰にだって……言う言葉なんか……信用出来ません」
 そう言ってトシは必死に幾浦の腕の中から逃れようと、手足をばたつかせたが、幾浦は更に腕に力を込めた。
「……っあっ」
 痛みを感じてトシは小さく声を上げた。
「愛していると言う言葉を安売りしたことはない。それが気にかかっていることなら、否定するぞ。私は本当に真剣なんだ」
 トシは幾浦に顎を掴まれて顔を上げさせられた。じっと見下ろすその瞳は真摯だ。
 嘘だ、これは嘘だと思いこもうとするのだが、目の前の瞳は真剣で、更に訴えるような目であった。
 これは嘘を付いている目なのだろうか?嘘を付いているのなら幾浦は詐欺師に簡単になれるだろう。
「……あの……離してください。お願いですから……」
「トシは私をどう思ってくれているんだ?聞かせてくれたら離す」
「どうって……」
 どうと問われて何と答ええれば良いのだろう。トシ自身自分の気持ちを測りかねているのだ。確かに幾浦はトシが望む男性像だ。最初会ったときそう思った。こんな風になりたいと。こんな男性に生まれたかったと思った。それは憧れで恋ではない。
 無いはずだ。
「私は……」
 と、言葉を発そうとするといきなり唇が塞がれた。ねとっりした舌が逃げるトシの舌を捉えて絡まった。
「……っ……」
 急速に高まってくる熱が理性を鈍らせる。こんな事したら駄目だと思うのだが、身体が言うことを聞かない。
 トシはキスなどしたことがないのだ。こんな感覚は今まで知らなかったのだ。そうであるから対処の方法も分からない。されるがまま翻弄されて何がなんだか分からない。クチュクチュと口元から聞こえる音も何故か遠くから聞こえる。
「トシ……」
 ようやく口元を離されたにもかかわらず、トシはぼーっとしたまま視線が定まらない。ぼんやりした視界に幾浦が見えるのだが、なんだか足が地に着いている感覚がない。
「良かったらこれからうちに来ないか?」
 トシは訳も分からないまま首を縦に振った。
 


 幾浦のマンションに着き、玄関を入ると、のそっとした影が現れた。
「アルお客さんだ。お前が嫌がっても私は今回は、絶対彼を案内するぞ」
 と幾浦が言った。トシは不思議な事を言ってるなあと思いながら、まだぼんやりしていたが、その影が犬であることに気が付いた。 
「あ、アフガンハウンド……可愛い……」
 ようやく出たトシの言葉がそれであった。自分がどんな状況なのか全く把握できていないままトシは、アルと呼ばれた犬に近寄って抱きしめた。アルも最初驚いた顔をしたが、トシがあまりにも可愛いと連発するのに気を良くしたのか、いつの間にか尻尾をぶんぶんと振ってトシの顔を舐め回した。そんな愛犬の姿に幾浦が後ろから「珍しいこともあるんだな」と小さい声で言った。
「僕、犬が好きなんだ……こんな大きな犬を友達にしたかったんだ……」
 っておい、利一忘れてるぞとリーチが起きていたら激怒していたところだが、リーチは今だこんな状況も知らずにぐっすりとスリープしている。
「僕?……そうだな。トシは普段はそう自分の事を言ってるのか……ああ、そっちの方がトシらしい……」
 嬉しそうにそう言って幾浦はトシの肩に手を回した。肩に触れられた所為で、ようやく自分がとんでもない台詞を言ったことに気が付いた。
「……あの……そうだ、ぼ……いえ、私は……」
「いいんだ。無理しなくても……仕事を離れたら僕でいいじゃないか……。本当のトシを見せてくれて良い。仕事の顔じゃなくてな……」
 その言葉にトシは胸が苦しい。いつか誰かが自分に言ってくれるのではないかと求めていた言葉なのだ。利一じゃない自分を見せてくれと言われたことがこんなに嬉しい。
 あの会社では自分は利一であれたとは思わない。どこかしら本来の自分に近い人間であった。それはリーチも言っていたことだ。だが、利一なら自信がある。だがトシ自身の何処が良くて好きだとこの男は言うのだろう?全く分からない。
「おいで……」
 トシは差し出された手を取ると、促されるまま幾浦に付いて歩いた。案内された先は寝室である。ベットに座らされ急に現実に戻ったトシが言った。
「あの……やっぱり……」
「ここまで来てくれたと言うことは……少しは私に気持ちがあると言うことだろう?違うのか?」
 射すくめられるように見つめられてトシは動けない。なのに、身体はどんどん体温が上がってくるように感じられた。
 自分で自分の気持ちが分からないからこうやって今、ここに自分はいるのだとトシは思った。幾浦のことは嫌いではない。多分好きなのかもしれない。そんなことも思う。リーチが言ったように、飽きればこの男はあの長浜のようにトシを切り捨てるだろう。それが分かっているのに、幾浦から向けられる眼差しを避けることが出来なかった。
「僕は……」
 幾浦の抱擁は今までトシが欲しいと思ったものだった。誰かに身体を預けてみたい。守られるように抱きしめて貰いたいと小さい頃から思ってきたものだ。それは誰にも頼られない身体の問題とその理由を告白できない事情の為だ。
 それでもリーチは相手を見つけた。自分にだってきっといるのだと言い聞かせてきたが、もしかしてこれがチャンスなのかもしれない。ただそれが長続きするかどうかが不確定なだけだった。
 長続きしないかもしれない。だけど、安心感を例え一瞬でも与えて貰えるのなら、その為の代償だと思えばいいのだ。もう、一人は嫌なのだ。ずっと二人ぼっちだった。身を寄せ合って力を合わせて今まで生きてきた。だけど片方の一人は相手を見つけて今、自分は独りぼっちだった。
 そんな自分が誰かに頼りたいと思ったって構わないじゃないか。長続きはしないと納得済みなら……僕自身がそれでも良いって思ったならいいよね。リーチだって僕の知らないところで恋人を作ったんだから……。
 トシはようやく自分の気持ちを納得させると幾浦の方を見てゆっくり頷いた。
 迷いは無かった。
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