Angel Sugar

「身体の問題、僕の事情」 第6章

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 起きたのは固いソファーの上だった。昨日の捕り物につき合ったのだ。明け方犯人確保の連絡を受けて暫く仮眠を取ったのだが、目が乾燥してパシパシとしている。
「隠岐・・お前はまだこっちにいるんだよな」
 コーヒーを差し出して木下は言った。ハッカーの犯人は先ほど捕まったのだ。それは未成年だった。
「ええ。木下さん達は今日で帰るんですね」
 目を擦って身体を起こし、ソファーに座り直した。その拍子に、ずるずると足下に落ちそうになる毛布を掴み、それを畳んでから木下からのコーヒーを受け取った。
「ようやく面目を保ったからね。夕方には全部片づくよ。隠岐も頑張れよ」
 木下もソファーに座って、係員が片づけているフロアを眺めながら言った。科警研から持ち込んだ機材を何種類も並べていた所為でそれほど広いフロアだとは思わなかった。だが、係員の手に寄って奇麗に梱包され運び出されていくのを見ると、ぽっかりとした空間があちこちに出来上がる。それを見てここは結構広い所だったのだと改めて思った。
「はあ・・」
 コーヒーを一口飲んでトシは、一気に目が覚めるのが分かった。
「なんだ、隠岐らしくない溜息だな」
 ははっと笑って木下が笑った。
「何時も気弱なんですけどね」
 くすくす笑ってトシは言った。その表情は気弱には見えない。
 リーチは言うのだ。気弱に見える態度は絶対利一には取らせないと。冗談で作るのは構わない。だが事件の渦中では一瞬たりともそんな風に思わせる態度は取らせないと。
 利一は見た目どこから見ても守ってあげたくなるような雰囲気と、保護欲をかき立てるような顔立ちを持っている。だから余計にリーチはそう思うのかもしれない。何よりリーチはそんな利一の顔が嫌いなのだった。
『リーチ起きて。そろそろいつもの仕事に戻るよ』
 トシはそう言ってようやくリーチを起こした。
『あ~なんかよく寝た。んでハッカーはどうなったんだ?』
『うん。無事終わったよ。学生一人逮捕したって』
 コーヒーを更に飲んでトシは言った。
『学生?ガキか?』
『うん。まあ、何となく予想はされてたけどね』
 言いながらトシは時間を確認してそろそろ下に降りないといけないことに気がついた。
「隠岐、その格好で行って怪しまれないか?昨日と同じスーツだろ?」
 立ち上がったトシに木下はニヤッと笑った。
「余計なお世話ですよ。全く・・今更戻って着替えて来る時間はありませんし、気にしなければ良いんです。あ、コーヒーごちそうさまでした」
 木下は出ていくトシに手を振って「又今度飲みにいこうなあ」と行った。それを聞きながらトシは扉を閉めた。
 下の階に降り、トシは自分の部署へ戻った。まだ早い所為か誰も出社していない。シンと静まりかえった部屋でトシは一人パソコンを立ち上げた。
『にしてもよ……』
 リーチがふと話しかけてきた。
『なに?』
『こんだけうろついても誰も該当者がいねえってことは、普段はいねえんだよそいつ』
『いねえってなんだよそれ……』
 リーチは一人で納得しているがトシには良く分からないのだ。
『だからさ、出張がちとか、営業マンとか他、そうだなあ、とにかく殺った奴は俺達みたいに何時も席に座って仕事してる奴じゃねえってことだよ。でなきゃこんだけ会わないのおかしいぞ。ちょっと四係に電話して、そう言う奴らの洗い出しは全部やったか聞けよ』
 リーチが苛々とそう言った。
『分かったよ~電話するよ』
 立ち上がったパソコンが自動的にメールソフトも立ち上がってきた。すると何件かメールが入っている。それを眺めながらトシは携帯をかけた。
「はい、隠岐です。ええちょっとお伺いしたいんですが……」
 言いながら目線はメールの差出人のところで止まった。
『おい、なんで幾浦からメール入ってるんだよ……』
 ムッとしたようにリーチが言った。
「えっ……あ、いえこっちのことです。ところで伺いたいのは、今ずっとこちらで犯人らしき人物を捜している訳なんですが、なかなか該当者に出合わないのです。それでこれだけチェックを入れても引っかからないと言うことは、部外者もしくは社員でも出入りの激しい営業マンや出張の多い人物になりますよね。そう言う人物で捜査線上に上がった人はおりませんか?」
 そう言うと電話向こうの刑事部長が「ちょっとまっててくれよ」といって保留音が流れた。
『リーチ……人が話してるときはしゃべりかけないでよ』
『悪かったけどな。そのメールなんだよ……』
 悪びれない声でリーチはそう言った。
『仕事の事だろ』
 そうでなければ非常に困るのだ。昨日のことが書いていたら、こっそり幾浦に電話したことや、会って抱きしめられたことが、おもいっきりリーチにばれてしまう。だが何が書かれていたとしても、トシはこのメールをリーチからもう隠すことが出来ない。平静を装って開封するしかなかった。
『ふうん……ならお前を呼んで仕事の説明すりゃ良いことだろ?同じ所で働いてるんだぜ。今更大層にメール送って来なくてもいいじゃんか。その上重要扱いだぜこれ。そうだろ?この赤い色ってさ、重要なんだよな』
 うう……いくらコンピューターが全く駄目だというリーチでもそのくらい分かったんだっけ?
 どうしようと冷や汗をかいていると、携帯から大きな声が聞こえた。
「隠岐!聞いてるか?まずいのか?」
「あ、はい。済みません。大丈夫です」
「一応、殺しがあった次の日から出張した人間は全部洗い出しが済んでいるが全部白。他に営業マンのほうも洗い出しは終わってるが白」
「そうですか」
 って今のトシの頭の中も真っ白だ。
「だが、そろそろ臭いのが数人上がってくれても良い筈なんだが……」
 刑事部長は溜息をつく。
「とりあえず洗い出しに上がった人物の資料をメールで添付して送って貰えますか?」
「ああ、もちろん。すぐに手配しよう」
「宜しくお願いします」
 携帯を切ってポケットに仕舞うとトシは自分の持ってきているパソコンも蓋を開けて立ち上げた。
『トシ、こっち先に開けて見せろよ』
 ああ、忘れてない。と心の中で溜息をついてトシは覚悟を決めてそのメールを開いた。

 トシへ
 昨日の夕方は悪かった。
 どうもトシを目の前にすると自分が冷静になれないようだ。
 今度、君の本来の仕事が終わったらゆっくり食事でも行かないか?
 
『なんじゃこりゃああああ』
 リーチの絶叫が頭に木霊した。
『……た、大したことじゃないよ……ほんと……』
『おまえっ!俺が寝てる間に何やってんだよ!昨日はハッカーの捕り物につき合ったんじゃねえのか!』
『つき合ったよ。だから……その……』
『はっきり言え!俺に隠れてこそこそしやがって!』
 頭の中で怒鳴られることは耳元で叫ばれるより始末が悪い。
『別にこそこそしてたわけじゃないよ。リーチ幾浦さんのこと毛嫌いしてるし……』
『毛嫌いとかそう言う問題じゃないだろ!それになんだよこれ、トシだなんて馴れ馴れしくお前を呼んでさ、でもって冷静になれないってどういう意味だ?お前、また何かされたんじゃねえだろうな!』
『何もされてないよ。ただ……その……』
 幾浦に抱きしめられたと言ったらリーチがブチ切れる事が分かっていたのでその事は誤魔化そうとトシは思った。
『その、ただってのはなんだよ?何かあったんだな?言えよ!』
『ちょっと話しただけだよ。誓って何も無かったよ』
『……』
 リーチは無言で何か考えているかのように黙り込んでいる。
『本当だって。もう、リーチ……もし何かあったんだったら、リーチを起こしてるに決まってるだろ?それにあの時リーチはスリープしてたわけじゃないんだから、僕がもし、とんでもないことになっていたら、いくら何でも起きて来てた筈だろ?』
『確かにな……』
 と言いながら、いまいち信じていない様子だった。
『やだなあリーチ、僕は男には興味ないよ……』
 あははと笑うのだがどうも妙に作ったような笑いになってしまった。いや、作った笑いだからそう聞こえて当然なのだ。
『お前、俺に嘘付いてるだろ……』
 ぎっく……
『俺に嘘が通用すると思ってるのか?吐け!何されたんだよ!』
 リーチは本能的に相手が嘘を付いているか、本当の事を言っているのか分かるのだ。これも一つの特技になるのだろう。であるからトシのように、何でもすぐに顔に出るタイプの嘘はそんなリーチにこれっぽっちも通用しない。
『本当に何も隠してないよ。僕が嘘付いてるっていうの?』 
 それでも嘘を突き通さなければならないときだってあるのだ。
『はああん。そういうこと言うわけか。いーぜ、せいぜい嘘ついてろよ。今度俺がこの身体の主導権を持った日にゃ、お前を装って幾浦から聞き出してやるからな!覚えてろよ!』
 リーチは怒鳴るようにそう言った。
『なっ……何言ってるんだよ。そんなの僕許さないからっ!』
『ほら、聞かれちゃ困ることされたってことだよな』
 ふふんとリーチは鼻を鳴らしてそう言った。
『してないっ!』
 トシには珍しくそう大声で叫んだ。と言っても心の中であったが。
『ま、いいけど~。のめり込んで泣きを見るのトシなんだからな。一回痛い目に合った方が今後のためだよな』
『痛い目って……』
『だってあいつ彼女いるんだぜ。お前に何言ってきてるのか、しんねえけど、ちょっとつまみ食いで毛色の変わったのにちょっかい出したかっただけだろ。それが済めばトシなんかぽいだぜっ』
『あのね、僕は男に興味ないって何度言えばリーチ分かってくれるの?』
 別につき合って等いないのだが、ぽいっと言われてトシはショックを受けた。
『……気が付いたらのめり込んでるタイプだろ、トシって……』
 ちょっと心配そうな口調でリーチが言う。そう、リーチは心配しているのだろう。それはトシにも分かるのだ。
『心配しなくても大丈夫だよ。ただ昨日、僕たちの所為で幾浦さんが色々言われてることを謝っただけだから……それだけだよ。リーチが心配すること何にも無かった』
 嘘を付くのがこれほど心苦しいとはトシは思わなかった。
『……分かった。もういわねえよ』
 リーチは納得したのか呆れたのか分からないが、そう言って沈黙した。そんなリーチにトシは目の前にある幾浦から来たメールをそのまま削除した。
 返信するつもりは無かった。
 それと同時に幾浦が出社してきた。
「おはよう藤村」
 何時もの寡黙な顔に少し笑みを浮かべて幾浦は言った。
「おはようございます」
「昨日は……」
 と幾浦が言おうとするとそれをトシが止めた。
「すぐ他の方も出社されますので……」
 トシの口調も事務的な利一の声に変わる。
「そうだな」
 言ってトシの肩をポンと叩くと、幾浦は奥の席へと歩いていく。その後ろ姿を見てトシは何だが胸元をギュッと掴まれたような気分になった。
 僕は一体どうしちゃったんだろう……
 幾浦を見ているとどう表現して良いか分からない感情がわくのだ。そんな気持ちを何というのかトシには分からない。
 うじうじと考え込んでいると他の社員も出社しだし、自分達の席へと座っていく。
「藤村!」
 と、幾浦にいきなり呼ばれて一瞬椅子から身体が転げ落ちそうになった。
「は、はい」
 席を立ち、幾浦の所に走っていくと、まだ当の本人は電話中であった。
「じゃあうちの若い者を一人そちらに貸し出しますよ……では……」
 と言って電話を切る。 
「あの、なんでしょうか?」
「今日昼から一階で本日発売のソフトのイベントがあるんだが、悪いが手伝いに行ってくれないか?」
「はい。一階に行けばいいのでしょうか?」
「準備室に地下の会議室を使うらしいから今から降りて、そこにいる広報の塚本さんに指示をもらってくれ」
「分かりました」
 トシは席に戻らずそのまま部署を出るとエレベータに乗り地下まで降りた。すると既に準備に取りかかっている人達が沢山うろうろとしていた。まさか殺しのあった所も使っているのだろうかと思ったが、そこは立入禁止の札が立てられていた。
 ホッとしてそこを過ぎ、準備室の張り紙のある奥の会議室に向かった。そこはかなり広い会議室のようだが、あちらこちらにダンボールが積まれ、空いている箱からは今日発売のソフトやチラシが覗いている。それらがある廻りに人もあふれかえっていた。
「済みません……システム開発から手伝いに来ました藤村です。広報の塚本さんはいらっしゃいますか?」
 そうトシが叫ぶように言うと、奥で輪になって打合せをしている団体の一人がこちらを向いた。
「ああ、藤村君ね。こっちこっち」
 塚本はそう言ってトシに向かって手招きをした。
「私は何をお手伝いすれば宜しいでしょう?」
「ああ、これこれ、これを着て風船を配ってくれないか?」
 これを着てって……
 塚本が大きな箱をこちらに差し出してそう言った。中身を見るとウサギとネズミを足して二で割ったような動物の着ぐるみだった。
 嘘お~
「え、あの~これ着るんですか?」
 勘弁して欲しいと本気でトシは思った。
「そうだよ。うちの会社のキャラクターなんだ。モクモクっていうんだよ。これ身長の高い男は着られないんだ。でも君にはピッタリだろう?ちょっと大変だけど、まあ、こんな経験滅多にないよ」
「はい、そうですね……分かりました。何処で着替えたら良いんでしょうか?」
 トシは自分の身長が低いことを改めて呪った。
「そのへんで着替えてくれたらいい。君、男だし恥ずかしがることないだろう?女の子達はそうはいかないから、部屋を取ってるけど、男は無いよ。別に裸になってそれ着る訳じゃないからさ~」
「わかりました。すぐ着替えます」
 トシは箱を抱えて部屋の隅に行くと、箱を下ろして中身を取り出した。重そうな頭の、やはりどう見てもウサギとネズミの間の子みたいなかぶり物を手にとって溜息をついた。
『ねえリーチ、これも仕事なのかな……』
 とトシが言うとリーチは何も答えない。先程のことで腹を立てて無視しているのだろう。
『リーチ、怒ってるの?』
『別に……』
 その言い方はしっかり怒っているだろとトシは思ったが、リーチは自分から滅多に引かない。こちらが引くしかないのだ。それにこの場合確かにリーチが怒っても仕方ないことをトシはしてしまったし、隠してもいた。だから怒るのは当然だろう。
『ごめん……僕が悪かったんだよね』
『もういいって言ってるだろ』
 面倒くさそうにリーチは言った。完全にへそを曲げてしまってる。暫く放っておくしかない。ただし、リーチはそれほど長く怒りが持続しないタイプであるから、すぐに何時も通りに戻ってくれるだろう。
 と、トシが思っているとそれはすぐにやってきた。
『な、トシ代わって?』
『え?何を?』
 箱から着ぐるみのパーツを全部机に並べ終えた所だった。
『俺さ~着ぐるみって一回着てみたかったんだ~』
 うずうずとリーチはそう言った。
『僕は、ありがたいけど……こんなの着たいの?』
『なんか面白そうじゃんか~』
 先程までの不機嫌は何処へやら、リーチはもういても立ってもいられないような様子で着ぐるみから視線が離れない。
『面白そうかなあ……』
 机に並べた着ぐるみを眺めてトシは言った。
『だってこんな経験滅多にないじゃんか~俺着たい』
 そこまでリーチに言われると自分も着てみたいとトシは思ってしまった。意外に面白いかもしれない。
『じゃ、交替でやってみる?中、どうせ熱いし、一人でずっとかぶるのは辛いからさ。二時間ごとに交替するって事でどう?』
『そーだなあ、そうするか』
 とりあえず交替で着ぐるみの面倒を見ることに決まり、トシはいそいそと着替え始めた。上着を脱いで、上半身裸になると次に用意された綿のTシャツを着る。ただ、首からは警察手帳がぶら下がっているので、人に見られないように隠しながら着替えた。スーツのズボンもやはり脱いで、用意された短パンをはくと上着から取り出した携帯をポケットにつっこんだ。次に着ぐるみの胴の部分から足を入れ手を通し、背中のチャックを閉めようとするのだが、モコモコとした厚みが邪魔をして後ろに手が回らない。それに気が付いた近所の社員が背中のチャックを上げてくれた。
「ありがとうございます。手届かなくて……」
「頭もかぶるの手伝いましょうか?」
「あ、お願いします」
 何キロもある頭の部分は確かに一人でかぶるのは難しそうだった。
「頑張って下さいね」
 言いながらかぶり物を頭にのせて、後ろの首の部分にある、頭と胴を繋ぐ紐をその人はしっかり結んでくれた。そうしないとお辞儀をした姿勢を取ると、頭が脱げてしまうからだ。
「助かりました」
 とは言ったものの、外にどの位の声で聞こえているのかこっちから分からなかった。そうして一匹の謎なキャラクターが出来上がった。
『これ結構、頭重いよ。ふらふらする』
 頭が大きいために、口のあたりに小さな穴があいており、どうにか外が見えるのだが視界がかなり狭い。首元が他の場所より布地が薄く、アミになっており、空気穴の役目をしているようだ。ただ表面に毛を生やしているので、外からアミになっている部分は分からない。
『慣れるまであんまり頭下げない方がいいぜ。前にすっころぶぞ』
 とリーチは笑いながら言った。確かにそうだろうとトシはそろそろ歩いてみると、まあ何となくバランスが取れた歩き方が出来そうだった。
「あ、着たね。じゃあこいつをもってと、小さい子供に配ってあげてね。無くなったら君と一緒に側にいてくれるコンパニオンの女の子達から補充してくれるかい?」
 と言って準備の整ったトシに塚原が風船が付いた紐の束をこちらに握らせた。だがこちらはまるでミットを手にはめたような状態なので上手くつかめない。
「おっと、ちゃんと持ってくれないと困るよ。会場で手放さないように気を付けてくれよ。それと君の出番は会場が始まるまでの間だけ。昼に司会者がソフトのお披露目をするからその頃帰ってきてくれたらいいよ」
「あ、はい」
 何とか紐を握りしめてトシは言った。これは結構大変かもしれないとようやく思ったのだが、妙にうきうきしているのも確かであった。
「あ~っと、西村さん、この着ぐるみの藤村君と、もう上に上がってくれるかい?そろそろ上にお客さんが来てるそうだから、チラシと風船を配ってほしいんだよ」
 西村と呼ばれた女性がこちらを振り返ってニコリと笑みを見せた。真っ直ぐな髪をやや茶色に染め、真っ赤な地に黄色のラインが縦に入っている水着を着ている。長く伸びた足はストッキングをはき、やはり真っ赤なヒールを履いている。その出で立ちはまるでレースクイーンだ。
『あ、なんか、この女、俺嫌い……』
 リーチが又訳の分からない事を言い出す。
『全くも~リーチって本当に好き嫌いが激しいんだから……』
 呆れてトシはそう言った。
『こいつ絶対性格悪いぞ。まあ顔は綺麗だけどな……』
『はいはい』
 トシはそう言って苦笑した。
「じゃあ、会場に上がりましょうか?」
 西村に言われてトシは頷いた。が、頭が重く真っ直ぐに戻せず、西村に支えてもらって何とか転ばずに済んだ。
「大丈夫ですか?」
 笑いを堪えながら西村が言う。
「はい。ちょっと気を付けないとこれ結構重いですね」
 と、自分でフォローを入れた。
 風船を持って、ぼてぼてと歩き、会場に上がると既に客がちらほらと入っていた。中には母親に連れられた子供もいる。何が発売になるか良く分からなかったが、上から下ろされている垂れ幕の内容が子供用のゲームの発売を伝えていた。
『この会社ゲーム会社じゃなかったよな~』
 リーチがそう言う。
『うん。でもさ、ゲームって当たればでかいから新規参入したんじゃないの?』
 多分そう言うところだろう。
「じゃあ、私チラシ配りますから、そちらは風船配ってくださいね。無くなったら私か他にも同じコスチュームのアルバイトさん達がいるので近くに居る人に貰ってください」
 と、いかにも慣れたように西村はそう言ってチラシを配るためにトシから離れていった。見えにくい視界には確かに西村と同じコスチュームの女性が数人にて、既にチラシを配っている。
 さーって僕も配ろうかなあ……と、トシは風船を持ち、重い体をぼてぼてと動かして子供のいる所に歩き出す。
『おい、トシっ!後ろ!!』
『え?』
 と声を上げた瞬間、ガスッと蹴られて前につんのめった。
『ななな、なに?』
 ぐるっと後ろを振り返ると悪ガキっぽい二人の小学生が「ばーかばーか」と言って、小憎たらしく、蹴ってくる。
『こんのがっき~蹴り返してやれ!』
『あたたた、あのね、蹴り返せるわけないでしょ。何処にでもいるじゃない。こういう子供をいちいち相手にしてたら身が保たないよ。ったーーっ』
 最後の蹴りは膝を直撃した。確かに着ぐるみの布は分厚いので、最初の何発かは痛くは無かったのだが、最後の蹴りはツボにはまったような痛みが来た。
「うう~……がお~っ」
 トシは手を振り上げて、子供に向かって走り出した。子供はびっくりして逃げていく。
『何やってんだよトシ……』
 呆れた風にリーチが言った。
『ちょと脅かすくらいなら良いかなっておもってさ~あれ……』
 子供を途中まで追いかけトシは立ち止まった。が、周りの視線は笑いを堪えた目を向け、それだけでも恥ずかしかったが、持っていた風船がいつの間にか手から放れて、頭上の垂れ幕に引っかかっていた。
『あーーーっどうしよう。飛ばしちゃったよリーチ……』
 上を見上げておたおたしている着ぐるみは周りから見るととても滑稽だった。
『あーもーしゃーねーな~。あれくらいなら取れるだろう?』
 リーチはそう言うのだが、背伸びしても取れる高さではない。
『届かないよ……だって、分厚い着ぐるみの所為で、完全に手が上がらないんだよ』
 その上、手はグローブよりもでかい。指も上手く動かせない。
『代われ。俺が取ってやるよ』
 完全に呆れ返ったリーチがそう言ってトシと交替した。どうやって取るのだろうと思って見ていると、リーチは垂れ幕と逆の方向へ歩いていく。
『リーチ?』
『ま、見てなって』
 リーチは階段のスロープを上がり二階に上がると、手すりを乗り越え、そこから見える垂れ幕へジャンプした。
 周りにいる客達や、コンパニオン達はあまりの事に止めることも出来ずに息をのんでいる。
『ぎゃああああああっ、何考えてるんだよ!!』
 トシは驚いて叫んだが、リーチは垂れ幕に捕まり、するするっとずり落ちながら、目的の風船を掴んで、一回転して床に着地した。そのあまりのスマートさに周りから拍手が起こった。リーチは得意げに手を上げてポーズを取っている。アトラクションとしてはなかなかのものだった。
『見直したか?』
 へへんとリーチが言った。
『……僕は呆れた……』
 安堵の溜息をトシは付いた。
『でもこの頭、すげえ重いのな。俺、一回転した瞬間、首がもげるかと思ったぜ』
 と恐ろしいことをさらっとリーチは言った。本当にもげていたら、違う意味で新聞沙汰だ。そんなことにならなくて良かったとトシは本気で思った。
 だが、着ぐるみの廻りに子供達が嬉しそうに近づいてきて風船をねだりだした。そんな子供達にリーチは飛んだり跳ねたりして風船を配り歩いた。全くこの男は侮れない。確かに運動神経は抜群なのだが、着ぐるみを着てもそれが発揮できるとはすごいことだとトシは感心しながら、半分呆れた。
 どっちが子供か分かんないよねえ~
 子供は嫌いだと普段言ってる割には、子供と同化しているようにトシは思える。もしかして精神年齢が同じなのかもしれない。そんなことを考えて思わず笑いそうになった。
『あのさ~俺疲れちゃったんだけど、トシ交替しろよ』
 リーチがゼイゼイと息を吐きながらそう言った。この着ぐるみを着てあれだけ動き回れば確かに疲れるだろう。だがトシにはリーチのように飛んだり跳ねたりして風船を配り歩くことなど出来ない。いきなり交替して、動きの鈍くなった着ぐるみは、はっきり言って不気味だろう。それを考えるとトシは可哀相だがリーチに着ぐるみの面倒を見て貰う方が良いと考えた。
『悪いけど、リーチが適任だから着ぐるみは任せるよ』
『ああ?おい、交替制っていったじゃんか~』
『だって、リーチの方が子供に受けてるし、かっこいいもん。僕じゃまた子供になめられて蹴られちゃうよ』
『……確かにな~しゃーねーなあ』
 と言いながらもリーチはかっこいいと言われて気分が良さそうだった。
『もうちょっと頑張ってね。お昼迄って言ってたしさ。そうだ、お昼はリーチが食べてくれていいよ。一杯身体動かしてるしお腹すくだろうからさ~』
 とトシが言うとリーチは、以前食べたクリームブリュレを思いだし『よし、俺が引き受ける』と言って益々張り切りだした。
 こういうところリーチって単純でいいなあ……とトシはふと口に出しそうになって思わず言葉を飲み込んだ。
 
 
 
 昼過ぎようやく本イベントが始まり、リーチ達はようやく着替えて良いと許しを貰った。早速着替えようと一旦玄関を出、会社の入り口の方に廻り、階段を上がろうとすると携帯がポケットで鳴っていた。着ぐるみは中で手を自由に動かせる隙間があるため、リーチは簡単に短パンのポケットの携帯を取って耳元に当てた。
「もしもし……」
 登り始めた足を止めて、リーチは階段に座った。周囲にいる外回りの社員や道行く人は、何故こんな所に着ぐるみが座っているのだろうと不審気な目を向けていることにリーチは気付づくと、携帯を持ったまま立ち上がり、敷地内の人工的に作られた小さな公園にぼてぼてと歩きながら向かった。
「はい。隠岐です。え、はあ……駄目ですね。そろそろめぼしい人物が出てきてもおかしくないのですが……」
 相手は三係の里中係長だった。そろそろ戻ってこいと言うのだが、それはも一つ上の田原管理官と相談して欲しいことだ。リーチ達の方から帰るとは言えない。だがそんなことはおくびにも出さずにリーチはいった。
「もう少しで期限ですし、それまでは頑張ります。ご迷惑かけて済みません」
 里中はそれを聞いて「いやいや。隠岐君も大変だろうけど頑張ってくれ」と言って慌てて切った。
『たくな~、俺らに文句言ってもしゃーねんだろうけどよ。マジで係長仕事一杯抱えてるんだろう。言いたくもなるんだろうな』
『ほんと最近は人殺しが多いもんね。』 
 トシは溜息をついてそう言った。
『んじゃ着替えて飯食いに行こうか~』
 と、リーチが歩き出そうとすると、何故か木々の向こうに幾浦と長浜が見えた。
『あれ、幾浦とその恋人じゃなかったか?なーにやってんだろうな。なんかちょっと険悪そうだぜ』
 確かに険悪そうな雰囲気が漂っている。こちらは木の葉に隠れて向こうから見えないのだろう。
『ホントだ……でもリーチ、さっさとここ離れようよ。盗み聞きは駄目だよ』
 トシがそう言ってもリーチは動かなかった。
『おもしろそーじゃんか~。それに向こうはこっちみえてねえしさ~』
 嬉しそうにリーチがそう言った。
『駄目だよ!』
 とトシが叫ぶと同時に、バシッという音が響いた。
『おお!女の方が先に手が出たぞ』
『え……』
 思わずトシは見ては駄目だと思いながら音のする方に視線が行った。
「一年よ恭眞……一年もつき合ったのよ。それを好きな人が出来たから会わないってどういうことなの?」
 長浜はそう言って必死に涙を堪えているようであった。
『うは~修羅場!』
 もうリーチは楽しくて仕方がないようだ。トシは逆に見ては行けないものを見た罪悪感で一杯になった。
『ねえ、リーチ……行こう……悪いよ』
『ええ~おもしれえよ。いいじゃん』
 と、リーチは動く気がないらしい。
「私は別に君とつき合ったとは思っていないがね。君が勝手に誘いをかけてきた。私は暇な日につき合った。それだけだ」
 幾浦の声はやっぱり事務的だ。
『あいつってすげえ冷たい男じゃないか』
 リーチもさすがに驚いている。
「暇な日にって……そんなのって……」
 長浜は絶句している。それは当然だろう。
「私が君をうちに案内したことがあったか?君に何かプレゼントでもしたことがあったか?そんなことなど一度もしていない。それにだ、君に好きだとか愛してると言ったこと等ないだろう。勝手に君がつき合っていたと勘違いしていただけだ」
 幾浦がそう言うともう一度長浜は平手を飛ばそうとしたが、今度は幾浦がその手首を掴んだ。
「これ以上ひっぱたかれる理由は無いだろう。私も君も寂しさを紛らわすために楽しんだ。それ以外に何が私たちの間にあった?そう言う関係を終わらせようと言ってるだけだ」
 きつい瞳でそう言われた長浜はもう何も言えないようであった。
「貴方は最低な人だわ」
「何とでも……」
 幾浦の表情は全く変わらない。長浜は掴まれた手を振りほどいて走っていった。幾浦の方は何の感慨も伺えない表情でただそれを見送り、最後に溜息をついた。
『なんか……正体見たりだぞ。ああいう奴は誰も愛せないタイプだぜ。お前にちょっかいをかけているもの、気まぐれなんだろうな~。本気になったらこっちがえらい目にあいそうだ』
 リーチが言う。トシは返答する言葉がでない。
 ショックだったのだ。幾浦が女性に対してあんな風にしか言葉を出せないと言うことが、とてもショックだった。確かにつき合っていてあわなくなったり、色々あって別れることもあるだろう。そんなことは仕方のないことだ。付き合い方も色々だ。お互い割りきっていることもあるからだ。だがあの言い方はあまりにも酷すぎる。
 幾浦の事がトシは益々分からなくなってきた。やはりあの好きだというのも嘘なのだろうか?例えばもし、仮にもし、あの男とつき合ったとして、向こうが飽きたらあんな風に切り捨てられるのだろうか?
 そうなのだ。興味が無くなったらそれまでなのだ。本気になったらきっと傷つくタイプの人間なのだろう。
 トシはそう考えて胸が痛んだ。自分は好きでも何でも無いはずなのに、無性に悲しくなったのだ。
『……あっ……』
 リーチが短く叫んだ。
『なに?』
『あいつだ。あいつくせえ!』
 リーチは幾浦の丁度向こう側にいる男を見て言った。その姿は作業服を着た初老の男だった。
『え、なに?あれが犯人って言いたいの?』
『あれだ!ああ間違いねえ!人を殺してる』
 リーチは言いながらかけだした。ちょっと待て!このままでは幾浦とすれ違うではないかとトシは思ったが、仕方のないことだった。こちらの本来の仕事があそこを歩いているからだ。
 重い着ぐるみを揺らしながらリーチは幾浦を通り過ぎた。そんな着ぐるみの走る姿にさすがに幾浦も振り返り立ち止まった。  
「済みません」
 リーチはゴミを担ごうとしている作業服の男に声をかけた。服の胸ポケットの上には、ビル管理会社のプレートが縫いつけられ、そこには本田と名前もあった。多分このビル担当の作業員なのだろう。
「はい?」
 本田は顔を上げてこちらを見ると驚いた顔をした。確かにいきなり着ぐるみに声をかけられたら驚くだろう。その為必死にリーチは頭を取ろうとしたが、後ろで結わえ付けている紐がグローブのような手では外せない。諦めたリーチはこのままの姿で言った。
「あの、私こういう者です」
 首元にある空気口から警察手帳を同時に見せる。それを見た本田は先程より驚いた顔をした。
「ちょっと訳があってこんな格好をしていますが、警察の者です。私が何故貴方に話しかけているかもう分かっていますね?」
 とぼけた顔の着ぐるみはきっと台詞に似合わず滑稽だったかもしれない。だが本田は驚いた顔に今度は顔色を無くしていく。
「私は……」
「お話聞かせて貰えますか?一緒に来ていただけますね?」
 リーチは宥めるようにそう言った。
「あの男は……わしの娘にストーカー行為を働いてた。警察に相談しようと思った。だがあの男は……」
『何か事情があったみたいだよ。人殺しには僕には見えない』
『まあな。でもこいつがやった。事情はどうあれな……』
 もう少しで泣きそうな本田の肩をリーチはポンポンと叩いて落ち着かせようとした。
「事情があったんですね。警察はそれほど貴方に辛いところでは無いはずです。裁判でもきっと貴方の事情を考慮してくれますよ。だけどしたことは決して良い解決方法じゃなかった。その罪は償わないと駄目です。分かりますか?」
 そう言うと本田は項垂れるように頷いた。リーチは相手が落ち着いているのを確認してから携帯をかけた。
「もしもし、隠岐です。犯人と思われる人物が自首しましたので緊急逮捕致しました。現在会社の表におります。すぐ迎えを寄越していただけますか?」
 そう言ってリーチは携帯を切った。顔を上げると幾浦がこちらを驚いた顔で見ている。
「トシか?」
 リーチはトシでは無かったが、軽く頷いてその横を本田と共に横切った。



 ビルの入り口で待っているとパトカーがけたたましく走り込んできた。その騒がしさに道行く人や、外回りの出ている社員達が、なんだなんだと集まってくる。
 ちらりと本田の様子を伺うと逃げ出そうという気は伺えなかった。ホッとして降りてくる警官と刑事に手を振った。が、向こうは不審気な顔をこちらに向ける。
「私です。隠岐です。済みませんこの格好じゃ分からないですよね」
 大声でリーチはそう言って手を振り続けた。
 一瞬警官と刑事は顔を見合わせ、再度こちらを向くと笑いを堪えた顔で近づいてきた。
「ご苦労様です隠岐刑事」
 刑事二人がそう言った。
「あの済みません。ちょっとかぶり物だけ取って貰えませんか?もう熱くて……」
 言うと警官が後ろに回って紐をほどき、頭の部分だけを取ってくれた。
「ありがとうございます。この方が自首されましたので……」
「自首ですか?」
 訝しげな顔で刑事が言った。
「ええ。自首です。宜しくお願いします」
 そう言って本田の背中をそっと押した。本田は振り返って何か言いたそうな顔をした。
「自首です。本田さん」
 ニコリと笑みを向けてリーチは言った。本田はそんなリーチ達に深々とお辞儀をして、二人の刑事に連れられて去っていった。
 やっと終わったなあとホッと安堵の溜息を付くと何故かそこに槙田と数人の同じ部署の人間がダンボールを持って立っていた。
「ええ!藤村って刑事さんだったのか?」
「え、はあ。済みません。こちらで起こった殺人事件の為に警視庁から派遣されてきていたんです。色々事情がありまして皆さんには黙っていたのですが……」 
『はあ……これじゃあ飯食い損ねるな。お前にバトンタッチするよ。いちいち説明するのうざい』
 そう言うのでトシはリーチと交替した。
「もしかして代理は知ってた?だから隠岐に書類運びの雑用ばっかりさせてたのか?」
「そうなんです。幾浦さんにもご迷惑をかけていました」
 幾浦という名前を口に出すことも、トシにはなんだか辛い。だが、これでもう終わりだった。二度と会うことも無いだろう。それで良いのかもしれない。
 自分のこのもやもやした気持ちの理由も分からなくていい。顔を見るたびに胸が痛むのも今日で終わりだ。
 そこへ覆面パトカーが滑り込んできた。降りてきたのは四係の松井係長だ。他にも数名の刑事を連れている。中には見知った顔もあった。そのどの顔も笑いを堪えている。
「隠岐……その格好は?」
 松井はゴホンと口元で咳をひとつしてなんとか平常の顔で言った。
「イベント会場を手伝っていたんです。これなら犯人にも気付かれないと思いまして」
 と、そんな理由ではないがトシはそう言った。
「そうか、大変だったな。出先で犯人逮捕の件を聞いてな、通り道だから隠岐も拾って帰ろうと寄ったんだが……それではすぐに戻れないな」
 顔は引き締めているのだが、目は笑っている。
「着替えてこちらの方を片づけてから帰ります。1時間くらいで新宿署に伺います。私の方も里中係長から五月蠅く帰るように言われてますので、余りそちらには長居出来ませんが……」
「分かった。じゃあ、あとでな」
 そう言って松井は車に乗り込むとさっさと帰っていった。
「本当に刑事さんなんだ……」
「はあ。見えないと良く言われるんですけど。警視庁捜査一課の刑事なんです。みなさまにもご迷惑をおかけしました」
「え、いや。別になあ」
 槙田は廻りに同意を求めるかのように顔を左右に振る。
 狼狽えるのは仕方ないだろう。一般人は警官はあっても、刑事という人種にあうことは滅多にないからだ。
「じゃあ私は着替えて報告をしに戻ります」
 そう言ってトシはその場を後にしてビルに入った。



 着ぐるみ姿を着替え、部署の席に戻るとトシは身の回りのものを片づけ始めた。その間、ちらりと奥の席を目の端で捉えると、幾浦は何事もなかったような顔で仕事をしていた。その何も無かったような態度で仕事が出来る幾浦の事がトシには理解できない。
 先程のこと、今見たことを振り払うようにトシは頭を左右に振った。
『ようやく本来の仕事に戻れるかと思ったら俺すげえ嬉しい』
 リーチは嬉々としてそう言った。確かにこの仕事はリーチには拷問みたいなものだったろう。
『うん。そうだね』 
 気が重くトシはそう言った。
『元気ねえな……』
 リーチはふとそう聞いた。
『え、ううん。お腹空いちゃって、元気出ないんだよ……』
 と、お腹など空いていないのにトシはそう言った。
『最後に食堂寄って帰る?』
 嬉しそうにリーチはそう聞いてきた。どうせリーチが食べたいのだ。だが、既に自分が一部の社員に刑事だとばれた。今頃噂がものすごい勢いで社内を駆けめぐっているのに違いないのだ。そんな中で食堂に行けば質問責めにされることは目に見えている。トシにはそれにいちいち応えられるだけの体力も気力も今はなかった。
『ここの食堂はまずいと思うよ。食べるなら帰り何処かに寄るか、何か買って帰ってそれを食べるかにしよ。僕もう早くこの会社から出たいんだ……』
 とにかく疲れたのだ。
『……そか。分かった』
 いつもなら駄々をこねるリーチが珍しくそう言った。
『さーってこれを返して、帰ろうリーチ』
 トシは書類やカード、今まで使っていたMO等をまとめるとそれを持って幾浦の席へと向かった。
「幾浦さん。こちらをお返しします。今までお世話をかけました」
 トシがそう言うと幾浦は胸元から名刺を一枚こちらに差し出した。
「ご苦労様。これはこちらの連絡先だ。隠岐さんのも頂けるかな?」
 この場所でこういうことを言っても良いのかとトシが驚いていると幾浦が続けて言った。
「君がやった仕事で何か問題があった場合、連絡させて貰うかもしれないからね。人が作ったものは、作った人間でしか分からない所があるだろう?確かに君は刑事さんなんだろうが、こちらも仕事だからね。済まないがそう言う理由で連絡先をこちらに控えさせてもらえないか?」
 ああ、そう言うことかとトシは内心ホッとしながら、何時も使っている警視庁のロゴの入った名刺を一枚差し出した。
「多分こちらに連絡を頂いても私はすぐに捕まらないと思うにですが、電話に出た人に伝言をしておいていただければ、後ほどこちらからお連絡を入れさせて貰います」
「分かった。ご苦労様」
 幾浦はそう言って又自分の仕事に戻るかのようにパソコンのキーを叩きだした。話は終わったと、トシは貰った名刺を胸ポケットに直すと今まで一緒に働いていた部署の人に挨拶をかわしながら部署を出、そうしてビルを後にした。
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