「身体の問題、僕の事情」 第5章
扉の上にあるプレートに第三応接室と書かれているのを確認してトシは扉を叩いて「失礼します」と言って中に入った。中は革張りの応接セットが置かれているだけでそれほど広くは無かった。そのセットの椅子左側に幾浦が座っていた。
「ああ、すまん。ちょっとこっちに来て座ってくれないか」
手に書類をもって幾浦はこちらを見ずに言った。トシは「はい」と返事すると、幾浦の前のソファーに腰を掛けた。
「あの、書類をお持ちしたのですが……」
「それはいらないんだ」
「え?」
差し出した書類を持ったままトシは固まってしまった。間違ったのだろうか?
「済みません。間違えて持ってきたみたいです」
「そうじゃない。隠岐利一さん」
「あ……」
話を通してくれと四係に依頼していたことをすっかりトシは忘れていた。
「はあ、初めまして」
と何故か間の抜けたことをトシは言っていた。それを聞いて幾浦が笑い出した。
「なんだその初めましては」
涙目でまだ笑いが止まらないようだ。
「いえ、済みません」
「今朝、副社長に呼ばれてね。そんなことは今まで無かったので驚いたんだが……まあ、話を聞いてもっと驚いたことは確かだな」
「騙した事は謝ります」
「いや、そんなことはいい。君は上司に言われてここに来たのだろうから、文句があったとしても、君に言うのは筋違いだろうからな。だが、そうなら普通は事件のあった部署に配属されるのではないのか?」
「あまりにも近づきすぎるのも問題が出る可能性があったんです。それでその隣の部署に配属になったのは良いのですが、隣と全く交流が無いのにうちの四係が気がつかなかったんですよ。それでちょっと困ってるんですが」
「そうか、まあ私にとってはラッキーでもあり残念でもあるな」
「え?」
「ああ、うちの部署に欲しいと真剣に考えたものでね」
そう言って幾浦は座り直した。
「ありがとうございます」
「ところで、私はこの間新宿署に呼び出されたのは君が私のことを?」
「それは……偶然現場を確認していた時に幾浦さんが花束を持ってこられたのを見たんです。それで一応本部に連絡を入れたのですが……決して疑ったわけではなくて、被害者を御存知の方全てに聴取を行っていましたので……」
「それであの時電気が点いていたのか。なるほどね」
「気分を害されたのでしたら謝罪します」
トシはそう言って頭を下げた。
「確かに気分は良くなかったな。あちらの対応は悪くは無かったが……」
「そうですよね、一般の方は事情を聞かれるのも嫌がられる方がいらっしゃりますから。もう本当に申し訳ないことです」
多分こうなるとは思っていたがいざそれに直面するとトシは良い言い訳が思い浮かばないのだ。
「悪いと本当に思っているか?」
机に身を乗り出して幾浦はこちらをじっと見つめた。
うわ~実は怒ってる?
トシは真顔でこちらをじっと見つめる幾浦を、まともに見られない。
「思っています。あの……新人としての、こちらの仕事も手を抜いたりはしませんので……」
俯いて真っ赤になっているトシの顎が掴まれ顔を上げさせられた。
どうしよう、本気で怒ってるかもしれないと、内心汗だくになっていると、真顔の幾浦が急に破顔した。
あれ、怒ってない?
と、トシがホッとした瞬間、幾浦の唇が自分の唇に触れた。あまりの突然のことにトシは身体が硬直し、更に頭の中が凍り付いて何が起こっているのか判断が付かなかった。そんなトシの状態であるので幾浦の舌が口内にはいってきたことにも最初気がつかなかった。
「んっ……」
何?何が起こってるの?頭の中がグチャグチャでトシは何も考えられない。そんなトシに全く気がつかない幾浦は、いつの間にかトシを離すと机を廻りトシの座っている側に立っていた。ようやく目が覚めたような顔でトシは横に立つ幾浦を見上げた。
「あ……あの……あのう……」
「隠岐利一だからトシとでも呼ぶのか?」
言って幾浦はトシの両肩を掴んでソファーに倒した。馬乗りになられて今度は身体が動かない。
「はうあっ?」
うわっ……うわあああっ何?これ何?
トシが心の中で叫んでいると、スリープの眠りでないリーチがその声で起きた。彼らの眠りには二種類あって、ただ単に寝る眠りと、意識を眠らせるスリープがある。前者は簡単に周りの雑音で目が覚めるのだ。
『うるせえんだよ、ったく、なに騒いでんだよ……』
と、リーチが寝ぼけ眼の目を開くと目の前に幾浦が覆い被さってるのが見えた。
『なっ!なんじゃこりゃあああああ!』
『り、リーチ!どどどど、どうしよう!僕っ何、何がどうなって……』
トシはまだ状況が把握できていないがリーチはすぐに理解した。
『替われ!トシ!』
頭に血が昇ったリーチはそう言って無理矢理トシと交替した。トシがパニクっているときは、簡単に主導権を切り替えられるのだ。そうしてトシを替わったリーチは、幾浦が触れる手の感触を感じた瞬間思いっきり蹴り上げた。
「げふっ!」
と言って幾浦はソファーから転げ落ちた。それを最後まで見る間もなくリーチは素早く応接室から飛び出した。追ってこられると困るのでそのまま非常口の方へ走り、扉を開けて階段の所に座り込んだ。
『リーチ!幾浦さんに何すんだよ!』
自分がどんな目にあったかを忘れてトシはそう言った。
『何するんだあ?おめえな、犯されそうだったのに、何言ってるんだよ!くっそーこれが道ばたなら、ぼっこぼっこにしてやったのによ』
けっと吐き捨てるようにトシに言った。
『犯されって……何?幾浦さん男だよ?』
『てめえが鈍感なんだよ!』
『い、幾浦さんって……ほ、ほほほ、ホモ?』
トシは声が震えてはっきり言葉がでない。
『ほほほほって言ってる場合かよ!俺が必死に、二人きりにはならないように気を付けていたっていうのによ!』
だからリーチは訳の分からないことばかり言ってたのだ。だが肝心なことを言わなかったのは他ならぬリーチだ。
『リーチちゃんと教えてくれなかったじゃないか!最初から教えてくれたら……』
『教えてたらお前、態度が硬化するだろ?分かっているから言わなかったんだよ。ったく何でこんな事になってるんだ?』
『分からない。書類を持ってくるように言われて……それで、持っていったら用事は書類の件じゃなくて、僕たちの身分を副社長に話されたってことを聞いて……』
何故キスなんか僕にしたんだろう……
トシはリーチに話ながらずっとその事ばっかり考えていた。まずこういう経験が、恥ずかしいことにトシには経験がないのだ
僕は男だし……それって……好きだから?
好きじゃないと男にキスなんて、ましてや二人で抱き合う事は出来ないってリーチも言ってたし……。
と、男同士の恋愛を理解させようとして以前リーチが散々トシに言い聞かせた言葉を思い出していた。
じゃあ、僕のこと好きって事?
『あのさ……もしかして幾浦さんって僕のことが好きとか?』
キスやセックスは好きなもの同士がするものだという考えのトシはそう言った。
そうなの?僕のこと好き?
『え?』
『だってリーチ言ってたじゃないか、好きじゃなきゃ男となんて……その……出来ないって……だったら……』
そうだったとして、だからどうしたら良いか迄、トシは考えていない。
『あのね、トシ、好きなだけでキスしたり、犯そうとかおもわねえぞ。遊びだってあるだろうし、嫌がらせにも効果的だしな。相手を服従させるにもいい方法だ。しらねえ訳ねえだろ?犯罪にはしっちまった刑事や警官が刑務所がどんな目に合わされるかってさ……』
聞いたことはあった。囚人達に自分が元刑事とか警官ということがばれると、大抵かなりの嫌がらせがあるらしい。その中でもとりわけ酷いのがその話だった。
『それじゃあ幾浦さんは僕に嫌がらせしたわけ?刑事なの黙ってたから……。僕たちが報告したから幾浦さんが新宿署に呼び出されたこととかもばれたから、怒ってるの?でも怒ってるからって、普通あんな事するの?』
トシには理解できないのだ。
『だってよ~好きだったらこんな真っ昼間から、それもあんな応接室でキスすると思うか?もっとこう、ムードのあるところに誘ってさあ~盛り上がってホテルだろう?なによりここ会社だぜ。誰が入ってくるか分からないしさ。それに最後までやろうとは思わないから、あんなところで、からかったんじゃねえの?』
だが実は自分が言っていることが違うと分かっていながらリーチはトシにそう言った。トシには幸せになって貰いたいが、どうしても譲れない事があるからだ。口調は平静に言っているつもりだが、リーチは内心汗だくものだった。
利一の身体が受けにされるのだけはどうしても許せないのだ。
『……そうなんだ……』
そんなことが分からないトシはリーチの言葉を鵜呑みにしていた。
よっぽど怒らせたのだ。
何となくトシはショックだった。
『百万歩譲ってお前に気があったとしてよ、奴には恋人がいるじゃんか。長浜っていう女。そういうのがいるのにそっちを捨てて、男のお前にマジになるわけねえだろ。可哀相だけどさ……』
とリーチは言った。
『別に僕は可哀相じゃないよ。リーチみたいに男の人を好きになったりするの、理解は出来ても自分には出来ないもん』
まず想像付かない。誰かとつき合ったことのないトシなのだ。これが女性であったとしても、やっぱりつき合っている姿を想像出来ないのだ。
『ま、今度やばそうな時は、お前にちゃんと注意するからさ、気にすんな……』
『だから~別に傷ついてる訳じゃないんだけど……びっくりしただけでさ……』
『ならいいんだけど……』
『そろそろ自分の部署に帰ろうよ。用事は無かったんだし……』
いずれにしてもからかわれたのか、腹が立って嫌がらせをしたのかは分からない。だがそんな形でしか幾浦は自分に怒りを現すことが出来ない矮小な人間だと知ってしまった事がショックだった。
『かえろっか~』
リーチはそう言って立ち上がった。
当分、トシは幾浦に会いたく無かった。
席に戻ると、トシはリーチと交替してパソコンの画面を眺めて溜息をついた。昨日貰った仕事が終わっているので、それを幾浦に報告しなければならなかったのだ。しかし、あんな後にどんな顔をしていいか分からない。
その問題の幾浦はまだ戻ってきていなかった。
はあ~僕はもっと幾浦さんって大人だと思ったんだけどな……。
幾浦はトシにとって理想的な男性なのだ。がっしりした男らしい体つきに、背が高い。トシももっと身長が欲しかったのだ。背が低いために余計子供っぽく見える為だ。そして仕事も出来、部下からも尊敬されている。
それなのに、幾浦の報復はあまりにも子供じみていた。
『トシ、あいつ戻ってきたぞ。仕事出来あがったって報告行かなきゃならないだろ?俺行ってやろうか?』
『え、別に大丈夫だよ……』
そう言って仕事を終えたMOを持つとトシは席を立ち、幾浦の所に向かった。
「済みません、こちらの仕事は終わりました。次のを頂けますか?」
そう言うと幾浦はこちらを向いて、先程の事など何も無かったような顔で言った。
「これを隣の部の部長に届けてくれないか?」
紙袋に入った書類をトシに向ける。
「あ、はい」
答えてトシは紙袋を受け取りきびすを返して部署を出た。
『これからはお前を雑用に使うように決めたみたいだけど、俺達にとってはラッキーだったよな。これで隣に偵察にいけるじゃんか』
リーチは嬉しそうにそう言ったのだが、トシはそう思えなかった。
たしか自分は隣の部の様子を見に行きたいが、用事が無いので困ってるというような会話をしたはずだ。幾浦はだからこの書類を届けてくれと言ったような気がして仕方がなかった。
『何考え込んでるんだよ?』
リーチは訝しげにそう言った。
『え、ううん。ちょっと拍子抜けしちゃっただけ』
『ああいう奴は体裁を気にするから、何にも無かったような顔してるだけだろ。気にすんなよ』
『……そうだね』
本当にそうなのだろうか?
トシには幾浦が何を考えているのか全く分からなかった。
隣の部は自分の部と隣り合わせになっており、廊下を出るとすぐに扉を開けて入られるようになっていた。トシはその扉を開けて中に入ると、中で仕事をしている女性がこちらを向いて「何か御用ですか?」と言った。
「はい。隣の第二システムの藤村と申します。うちの代理がこちらの部長にこれを持っていくようにと言付けされまして……」
「うちの部長ならあの一番奥に座ってる人よ」
そう言って女性はニコリと笑った。
「ありがとうございます」
トシはぺこりとお辞儀をして部内へ入った。
『リーチどう?』
部長席に向かいながらトシはリーチに聞いた。
『特に目を引く奴はいねえよ……はあ、ここ違うな』
溜息混じりにリーチは言った。そうこうしている間に部長席に着く。四十五歳くらいの男性がやはり幾浦とよく似たように二台のパソコンをいったり来たりしながら仕事をしていた。机のプレートには滝沢と書かれている。
「済みません滝沢部長。隣の第二システムの者ですが、幾浦部長代理からこちらをお渡しするようにと預かって参りました」
トシはそう言って書類を差し出すと、滝沢はニッコリと笑みを向けてそれを受け取った。
「ありがとう。ああ、君は隣の部署に配属されている新人の藤村君だね」
「え、あ、はい」
どうして知っているんだろうと不思議にトシは思った。
「あの人を滅多に褒めない幾浦君が褒めていたよ。君はこれからしごけばいい社員になるだろうとね。最初はうちの部署に配属だったはずなのに、惜しいことをしたよ」
いいながら滝沢はニコニコ顔を崩さなかった。
「そ、そうなんですか?」
「幾浦君は仕事も出来るし付き合いも良い方だ。だが、あの男は寡黙で、自分にも他人にも難しいことを要求する男でね。そんな男が、ふとそう言ったのだから、君はそれを誇りに思っていいぞ」
「ありがとうございます。ではこれで」
とトシが帰ろうとすると滝沢はそれを引き留めた。
「今のは幾浦君には内緒だよ。こうやって君に好印象を与えて置いて、君があの男のそんな性格が嫌になったら、こっちに来て貰おうと企んでるんだからね」
とボソっと言った。
その姿がとても年齢にそぐわなくて思わず笑いそうになるのをトシは堪えた。こちらの部長は幾浦と対照的に話し好きなのだろう。
「はい」
出入り口で「失礼しました」といってトシは廊下に出た。
『まあ、ここでビンゴっていう奴を見つけられてるんだったら、いくら四係が鈍くさかったとしても、重要参考人をあげてるだろうしな』
該当者に出会わなかったリーチはそう言った。
『そうだね……』
『褒められて喜んでるんだろ?』
いきなりリーチに言われてトシは違うと言い張ったが、その通りなので余り否定に力が入らなかった。
『褒めるなんて誰にでも出来るさ……』
と、リーチは先程の事を思いだしたのかそう言った。だがそのリーチが人を褒めることが出来ない性格のくせに、名執の事は褒めるだろうとトシは思ったが何も言わなかった。『そうだね……』
幾浦に対してどう自分が思えば良いのか判断が付かずにトシはそう言った。なんだか今日は早く帰って眠りたかった。
数日は本当に雑用ばかり幾浦から言い渡された。だがそれは周りから見れば、可哀相な光景であったのだろうが、トシ達にはありがたかった。
色んな部署に書類を届ける行為は人を見定める作業がはかどり、その上怪しまれない。幾浦が意識的にそういう用事を頼んでいるのが、いくら鈍感なトシにも分かった。意地悪をするならそんなことに幾浦が気を使うわけはないのだ。それが分かってくるとトシはだんだん心苦しくなってきた。その度にリーチが「そんなことあいつが考えてる訳ねえだろう」というのだが、本当にそうだろうか?
嫌ならこの部署から追いだすだろう。それだけの権限を幾浦は持っているのだ。逆に周りの部下からは「ちゃんとした仕事をあげて下さいよ」と言われ始めているのもトシは知っていた。雑用ばかりしているトシが、可哀相だとでも思ったのだろう。だが幾浦はそれに対して何も言わなかった。それが余計に申し訳なく思うのだ。
周囲の人間はトシが何かミスをしたから意地悪的に雑用を押しつけていると思っているのだ。その証拠に、幾浦がいないときに同じ部署の人間が側に来て、雑用ばかりのトシに慰めの言葉を贈ってくれるからだ。
このままでは幾浦の人間性を落としてしまう。もちろん犯人が捕まればこちらは身分を明かしても良いことになっているので、それまでの辛抱なのだが、自分の責任でそんな風に今だけでも思われる幾浦のことが気になって仕方ない。それで本当にこちらに当たられるなら、まだ気も収まるのだが、そんな言葉は一言も幾浦から発せられなかった。
変わったと言えば、最初の頃のような態度を幾浦はトシに見せなかった。口元だけで笑う幾浦などあれから一度だって見ていないのだ。あの笑い方がトシは好きだった。何時も寡黙なだけにちらりと見せる笑みはとても魅力的だったからだ。しかし、あの事件以来、幾浦は単に上司と部下としてしかの姿をみせはしなかった。それが妙に寂しくトシは思った。ゆっくり話をしてみたかった。どうしてあんな事をしたのか聞いてみたかった。本当に嫌がらせだったのか?それに今の幾浦の立場のことを謝りたかった。
だが、リーチがずっと目を覚ましているのでこっそり「ちょっとお話が……」等と言えなくなった。こういう場合もう一人がいるというのは不便だなあとちょっぴりトシは思ってしまった。
どうしたらリーチにばれずに話が出来るんだろう。もちろん二人きりになってまたあんな目にあうのは嫌だった。嫌なのだが……。
『トシ、おいトシ……電話!』
「えっ?」
リーチに言われて気がつくと自分の席の電話が鳴っていた。
「もしもし……」
「隠岐、時間があったら上にあがって来いよ。今日はちょっと罠を仕掛けるから結構面白いバトルになると思うぞ」
木下はそう言って、ハッカーの対策のために設置された場所へ来ないかと誘ってきた。トシは時間を確認してもうすぐ定時退社の時間が迫っていることに気がついた。
「あ、じゃあ五時半にはあがれますので……」
そう言って電話を切った。
気晴らしにいいか……。
『ゲロ~また上にいくのかよ……俺わかんねえから起きてるの怠いよ……』
リーチが面倒臭そうに言った。
『じゃ、スリープしてれば?』
そうすれば幾浦に話す時間がとれるかもしれない。そう思ったトシは、何時もと変わりない口調で言った。
『お前が上に上がったのを確認してから寝ようかな』
スリープじゃなくて寝るのか……。
『そうしたら?』
としかトシは言えない。強く言うと感の鋭いリーチは気付くからだ。
『そうしよ。しかしさあ、これだけうろついて何で犯人らしいのがいないんだ?』
捜査本部の方も進展していないのだ。
『さあね。僕も不思議に感じてたんだ……』
トシはそう言って同調した。確かに変だった。ある意味閉鎖されたところでおこった殺人事件なのだ。そろそろらしき人物像が浮かんできてもおかしくない頃だ。そう言う人物が浮かばないのは何処かにミスがあるからだ。
『まあ、まだ時間はあるし、もうちょっと頑張ってみるか~』
とリーチは言った。
と、リーチはあくまで気楽に言った。
『じゃ、上にいこっか~』
トシは科警研の詰めている階に上がり、木下達のいる部屋にノックして入った。
「あ、来た来た~」
木下が座ったまま椅子を回転させてこちらを向いた。あたりに散らばるコンピュータ用紙が同時にがさがさと動いた。
「どうですか?」
と良いながらトシは紙を拾って畳んでいく。毎日かなり悪戦苦闘しているのがその床に散らばる紙の様子で分かった。
「今晩こそな……」
中嶋はパソコンの画面から目を離さずにそう言った。
「昨日な大体どの地域からアクセスしてきたかだけは検討がついたんだよ。で、今日はその地域にも人員を投入して犯人を捕まえるって寸法だよ」
「やっとホッと出来ますね」
「まだまだ、分からないね。昨日その地域を限定したといっても、その人物が今日来るとは分からないし、今日その地域からアクセスするとも限らないからな」
言いながら、やっぱり中嶋はパソコンの画面から目を離さない。
「でもまだ時間ありそうだけど、隠岐ここに居て大丈夫か?」
木下が時間を確認してそう言った。
「え、あ、はい。じゃあ……」
ちらりとトシは内線として使用されているPHSが机に設置されているのをちらりと見て言った。
「ちょっと内線借りますね。さっさと上に上がってきたので、一応今の上司に帰ると電話を入れておきます」
「あ、構わないよ」
木下はそう言って自分の仕事をし出した。トシはPHSをとり、廊下に出ようとした。
「あれ、こっから掛けないのか?」
「バックの音が入ると困りますので」
そう言ってトシは笑ったが、今から掛ける内容を聞かれたくなかったのだ。幸いこの部屋はパソコンのプリンターが常時三台動いているのでそう言う理由がラッキーにも使えた。
「あ、そうだな。言われると確かに五月蠅いね……」
と木下は言って苦笑した。毎日そこにいると、最初雑音だった音でも耳に慣れて五月蠅いと思わないのだ。
「じゃ、ちょっと席を外します」
トシはそう言ってようやく廊下に出ることが出来た。トシはリーチがぐっすり寝ているのを確認してから、何処で内線を掛けようかと思案した。すると、廊下の端が丁度T字型になっており、一列に椅子が並べられ、ちょっとした休憩所のようになっていた。そこは開けることは出来ないが、出窓になっており、奥に入れば廊下側からこちらは見えない。
トシはそこへ向かい、T字型の廊下を曲がると誰もいないのを確認してから、奥の方の椅子に座った。
ふ~。
悪いことをしているわけでは無いのに、妙に手の平が汗ばんでくる。
もし違う人が取ったらどうしよう。
幾浦の席番号は分かっている。部署を出るとき、幾浦が席に座っていたのを確認してから上に上がってきた。今なら幾浦が出るだろう。そう思うのだがトシには確信が無い。
「……」
今しか無い。トシはそう思った。今リーチは寝ている。ここで話すくらいならリーチは起きてこないし、トシのしていることを気付かずに済むだろう。
二、三度トシは深呼吸して幾浦の席番号を押した。
「幾浦ですが……」
いつもの事務的な口調がそこから聞こえた。
「藤村です。いえ隠岐です」
「帰ったんじゃないのか?」
そう言うバックからはカタカタとパソコンのキーを叩く音が聞こえる。
「え、いえ。まだ社内なんですが……ちょっと今時間宜しいですか?」
「どうした?」
相変わらず事務的な口調だった。なんだかちょっとトシは寂しく思った。
「私のことで随分ご迷惑をかけていますので……申し訳ないと思いまして……」
「迷惑?そんなものはかかっていないが」
「私にとって代理から書類を運ぶ用事を頼まれることは、刑事という立場上とてもありがたいのですが、それが周囲から見ると…その……」
はっきり言えないところがトシには辛かったが、言いたいことを幾浦の方が先に気がついた。
「雑用ばかりさせないでやってくれとは言われてるが。別に気にすることは無いだろう。それとも、そんな使えない新人だと見られるのが嫌か?」
ちょっと含み笑いのこもった声で幾浦が言った。その口調でトシはややホッとした。
「いえ、私の事はいいんです。それが本来の仕事にかかわる事ですし、感謝しているんです。ですが、その事で代理にご迷惑を掛けていますので、心苦しくて……」
「それは君の身分が分かれば、周囲もそうだったのかと納得してくれるだろう。それに私は元々余り雑音は気にならない方だから、気にしなくていい。じゃあ切るぞ」
と言うだけ言って幾浦から通話を切った。
「……」
トシは切れたPHSを耳から遠ざけて、手の平に握り込んだ。何となくもの悲しいのは何故なのか分からなかった。向こうは社内で周りにも沢山まだ人がいるのだ。そんな中でゆっくり話など出来ない。幾浦が君の身分が~と言ったのは刑事だというと、例え小声で話していても誰かに聞かれるかもしれないからだろう。
「は~っ……」
大きく息を吐き出して、こってもいない肩を叩いた。ちらりと視線を窓の外に向けると、夕闇に浮かぶビルの灯が、じんわり目にしみた。
何時も大勢の人の中で働いている。ホッと出来るのは自宅のコーポの狭い一室だけだ。自分自身であることが出来るたった一つの場所。そこは何時も静かでトシに優しい場所だった。
がむしゃらに仕事でかけずり回っているときは良い。だが今のようにぽっかり空いた時間があると、どうして良いか分からなくなる。そんな時、あのただ狭いだけの部屋がトシにとって唯一気を落ち着ける所なのだ。
硝子に写る自分の顔を見て、また溜息が漏れた。
本当の僕はどんな顔をしているのだろう。利一の顔をみて何時も思う疑問だ。リーチと同じなはずは無いのだ。それを証明するかのように名執は二人のうちどちらが主導権を持っているかパッとみて分かるらしいのだ。二人の印象は違うと名執は言うが、今まで見分けられた人間などいない。確かにそういう人間が頻繁にいて貰っても困るのだが、周りを騙しているという事実がトシには心苦しかった。
「そこで何をしているんだ?」
いきなり声を掛けられてトシが振り返ると幾浦が立っていた。どうしてここが分かったのだろうと驚いて声が出ない。
「電話中こちらの階の席番号が出ていたのでね。電話が終わったと同時に上がってきたんだ」
幾浦はそう言って、トシの隣に腰を下ろした。
「そうだったんですか…ちょっとびっくりしてしまって…」
トシはそう普通に言ったつもりだが、内心はどうしよう、二人っきりになってしまったと、そればかり考えていた。余りパニックになると起きて欲しくないリーチが起きてくる。だからトシは必死に平静を保とうとした。
「その…だ。この間の事は悪かった」
幾浦はこちらを見ないで、視線を前に向けたままそう言った。
「…あ、いえ」
こういう場合どう答えて良いのかわからない。神奈川県警に一人、利一に惚れ込んでアタックしてくる北村という男がいるが性格が幾浦と全く違う。あちらは適当に冗談で流すことが出来るが幾浦は違う。冗談で流せる雰囲気を作りようがないのだ。
「ここは社員立ち入り禁止な筈ですが……」
トシはとにかく話を続けようとした。
「そう言うお達しが上から出てはいるが、別にせき止めるものは無いんだよ。まあ普通の社員は上には行くことが出来ないが、私のカードはこちらの階に入られる」
「そうですか……」
他に何か話題がないかトシは必死に考えるのだが何も無かった。
「あのっ。幾浦さんが怒って……その、この間私にああいうことしたのは分かりますが、怒らせた事は謝りますので許して貰えますか?」
あれ、こっちが謝ることだったかな?とトシはフッと思ったがもう口から出てしまったので取り消しようがない。
そうだ僕は怒らなきゃ駄目だったんだ。
ってもう遅いって。
「私が怒って、ああいうことをすると何故思う?」
不思議そうな顔をこちらに向けて幾浦が問う。だがそれを聞きたいのはこっちだった。
「それはっ、私が聞きたいくらいです。確かに私は刑事ですが、新人だと言って幾浦さんを騙していましたし、私が報告した所為で幾浦さんは事情聴取を受けさせられた。その事で頭に来ていたんですよね。だからああいう嫌がらせをしたんですよね?」
と、トシは一気にまくし立てた。
「では君は人に嫌がらせをするのに、他人にキスなどするのか?」
じっとこちらを射抜くように見て幾浦は言った。表情は怖いほどだ。
「は?」
「それとも私が、嫌がらせをする方法として誰かに迫るような人間に見えるのか?」
そんな風に見えなかったからショックだったのだが、違うのか?違うのなら本当の所は何だろう?トシには、もう訳が分からない。
「……あの…済みません。なんだか良く分からなくなってきました。考えがまとまらないんです。もうこの話は止めましょう」
これ以上話を続けていると、本当にパニックに陥ってしまうのだ。今も口調は必死に冷静を装ったつもりなのだが、それでも声がカクカクしているのはトシにも分かった。
暫く睨み合ったような形になったが、幾浦が先に視線を逸らせて溜息をついた。
「分かった。私が悪かった。そうやってはぐらかすと言うことは、遠回しに拒否をされていると言うことなんだな」
「拒否って……」
何か変だ。話しても訳が分からなくなるから、止めようと言っているのに、それが拒否なのだろうか?その言い方って……なんだか…とても…。
「私のする事を君はセクハラだと思ったのだろう?嫌がらせと…そう言う人間だとね」
トシには幾浦が、とてもがっくりしてるように見えた。それは気のせいだろうか?
「そ、そんな風には思っていませんが…あの…嫌がらせじゃなかったらどうしてあんな事を私にしたんですか?」
トシが思い切ってそう聞くと幾浦が一瞬驚いた顔を見せて次に苦笑した。
「なんだ、君は意外に鈍感なのだな。ここまで私が言っているのに分からないのかい?」
「え?」
「私は君が好きだからああいうことをしたんだよ」
幾浦がゴホンと咳払いをして、見たことのない照れた表情をやや目元に落としてそう言った。
「は?好きって…誰をですか?」
トシは自分が聞いたことが信じられなくてそう聞いた。
「私が、君を好きだと言ったんだ」
「わっ…私は男ですっ!」
裏返ったような声でトシはそう言った。又頭が混乱してパニック寸前だ。ここから逃げないと、血圧の上がった利一の変化にリーチは必ず起きて来る。こんな所を見られたらまた怒られる。違う、幾浦を蹴り上げる筈だ。
「だから…私も困っているんだよ。困って、もてあまして、どうしようもないからああいう行動に出てしまったわけだ。自分はどんなときでも冷静だと思ってきたんだがね……」
困ったような顔でそう幾浦が言った。
「困ってるんですか?」
頭がガンガンとしていて何がなんだか分からない。
「だからそんな私を助けてくれないか?」
と言って幾浦の手はトシの腕に伸びた。
「助けるって…何を…どう…」
チラチラ伸びてきた手を見て、幾浦が何をしようと思っているのか判断が付かずにトシはそう震えながら言った。
「今日は蹴らないでくれよ」
クスッと笑って幾浦はトシの腕を掴んでその胸に引き寄せた。頬に感じる温もりは幾浦の体温がシャツを通して伝わるからだろう。
ドキドキしているのだが、悪い気分では無かった。まるで保護されるように抱きしめられてトシはその心地よさに自分でも驚いた。シャツから香る煙草の匂いが、幾浦が煙草を吸っていることに気付かせる。煙草は嫌いだが、不思議と嫌な匂いだとは思わなかった。
こんな風に誰かに抱きしめられたことはない。覚えていない両親すら抱きしめてくれた事など無かったのだろう。なにより虐待されて孤児院の前に捨てられたのだ。そんな両親が愛情を持って抱きしめてくれたことがあったとは思わない。
他人の体温がこれほど温かいことをトシは初めて知った。何故だかずっと抱きしめて貰いたいとふと思ったほどだ。
いつの間にか背に廻された幾浦の腕がギュッと締まる。その締め付けも心地良い。
「二人きりのときはトシと呼んでいいか?」
そう幾浦が耳元で囁くように言う。トシは無意識で頷いた。
何か幾浦が続いて言おうとしたとき、トシの携帯が鳴った。その音で現実に戻された。
「ひっ」
どんっと幾浦を突き飛ばしてトシは、科警研の詰めている場所まで息も付かずに走り、扉を開けて中に入り、ようやく落ち着きを取り戻し始めた。が、そんな慌てて走り込んできたトシを見て木下が携帯を耳から離して驚いた顔をしている。
「今さ隠岐の携帯鳴らしたんだけど……何慌ててるんだ?そんな隠岐初めて見たぞ」
「えっ、あ、ははっ、あの…なんか、お化け見たような気がして……」
と、なんだか間の抜けた事しか思い浮かばずにトシは言った。木下はそれを聞いて爆笑し、中嶋はパソコンの画面を見たまま肩で笑い、もう一人いる人間は呆れた顔をこちらに向けた。
笑ってくれていいよ~も~。トシは溜息をついた。本当の事など言えるわけが無いからだ。眠っているだろうリーチの様子を伺うと、こっちが今まであったことなどこれっぽっちも知らない顔で眠っていた。それを確認してトシは安堵した。
良かった。リーチ、気がつかなかったんだ。まあ、命の危険とは違うからリーチが起きてくることは無いだろうけど…。
リーチは特に怪我を負うような危険が近くに潜んでいると一発で目を覚ますのだ。まああれは命の危険っていうもんじゃなかったし、僕もこの間みたいなパニックは起こさなかったから良かったんだ。
確かに驚いたのだが、この間のように我を失うようなパニックには陥らなかった。心の中で叫ぶこともしなかった。
「隠岐、で、落ち着いた?そろそろ始まるみたいだ…」
「あ、はい」
そうは言ったが、トシはその晩何に対しても集中できなかった。