Angel Sugar

「譲れぬ問題、僕のプライド」 第2章

前頁タイトル次頁
 ピンポーン……。
 幾浦が帰ってきたのか、玄関のベルが鳴らされる。トシは夕食準備の手をとめて、先に走っていったアルを追いかけた。
「お帰り、恭眞」
 玄関でアルとじゃれ合っている幾浦に、トシは言った。幾浦はいつもどおりの笑顔で顔を上げる。先週、言い合ったことがひっかかっているような、ぎくしゃくしたものは、今は感じられなかった。ただ、トシ自身に戸惑いがあり、例の話題が出ないようにと、どことなく言葉を選んでいる。笑顔を見せていても、本心から笑えないのは、仕方がない。
「ああ……ただいま」
「仕事、忙しそうだね」
「納期が近いからな……」
 アルを撫でていた手を離し、トシの腕に伸びてくる。手はそっと腕を掴み、トシは引き寄せられるままに、幾浦の胸に飛び込む。一週間、感じることのできなかった温かな抱擁は、トシを安堵させ、幸せな気分にしてくれる。
「それで、今日はどうしてた?」
「今日は……映画を見ようかと思ったんだけど……それは恭眞と一緒に見ようと思ってやめて……綺麗なグラスとか、絵とか、家具とか……別に欲しい訳じゃないんだけど、目の保養のためにウロウロしたって感じかな……」
 自らも手を幾浦の背に回してしがみつき、うっとりとした表情で厚い胸板に顔を埋める。このまま眠りに落ちてもいいほど、心地いい。
「天気がよかったから、気持ちよかっただろうな……。こういう日はオフィスにいるのがばからしくなる」
「うん。分かるよ」
「こういうことは滅多にないから、今週、一日くらい休みを取って、どこかに行くか?」
 幾浦はトシをそっと身体から離してそう言う。
 切れ長で一重の瞳。
 真っ黒な瞳に、髪。
 精悍な顔立ちはとてもクールで、得に仕事中に見せる張りつめた時の表情が、好きだ。幾浦は饒舌ではないが、もともとあまりおしゃべりな男が苦手なトシには、寡黙なところも魅力的だった。
 そしてなにより、がっしりとした体躯。
 抱きしめられると、すっぽりと幾浦の腕の中に覆われる。自分より一回り大きな身体の幾浦は、それだけでもトシに安堵感を与えてくれるのだ。
 トシは自分では自立していると口には出すが、実際はとても依存心が強いことを自覚していた。それを知られたくなくて、妙に突っ張ることも多々ある。
「うん。行きたい。僕、どこでもいいよ。あっ……火、消したかな……ごめん、ちょっとキッチン見てくる」
 ふと、コンロにかけておいた鍋のことが気になったトシは、慌てて幾浦から離れると、キッチンに向かって走った。
 どうしてちゃんと見なかったんだよ~。
 トシはキッチンに駆け込み、コンロには火はつけられていないことを確認して、ホッと胸を撫で下ろした。
 昔からトシはとろいのだ。何をするにもワンテンポ遅れる。自分では鈍くさいとは思わなかったが、そういう指摘を同級生からされるまで、気づかなかった。その点、リーチは運動能力が長けていて、何事も手を抜きながらも適当に上手くやれる。またトシは手抜きのできない性格で、適当というのが苦手だった
 リーチのことを悪く言ってるのではない。トシはそういうリーチが羨ましいのだ。
 確かに学業でいう成績に関してで言うとトシの方がよく、リーチは身体を使うことや、本能的な判断に長けていて、『利一』を演じる上では、バランスは取れていた。けれど、それは二人分の結果だ。
「どうだったんだ?」
 幾浦がキッチンに入ってきて、ホッとしているトシに声をかけた。
「あ……うん。ちゃんと消してた。僕、ほんっと、抜けてるよね……。仕事じゃこんなことないんだよ……あ……っ……ううん。いいんだ……」
 自分から仕事の話題を振ってしまい、失敗したと一瞬、言葉がつっかえたが、両手を振ってトシは誤魔化した。
「……そうだな。だが、仕事だから、プライベートだからと、人間がそうそう性格を変えられるものではないだろう?仕事で無理をしているんじゃないのか?」
 幾浦はトシにそう言いながら、上着を椅子の背に引っかけると、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
「無理してないよ」
 仕事をしているときのトシは、自分で言うのも変だが、何事もスマートにできるし、その自信があった。けれどプライベートになると、確かに違う。もしかするとリーチが起きていて背後で見ているから、ミスをしないようにと、いつだって神経を張りつめているのだろうか。
 いや、そういう訳ではない。
 もちろん、リーチが起きているから、トシは安心して仕事が出来るのだが。
 トシにはトシの役目がちゃんとある。
「トシは自分で気づいていないようだが、どこかぼんやりしているところがあるからな。それに、随分リーチに依存している」
「そんなことない」
 トシはぼんやりしているわけではないのだが、何かを決めるにも、じっくり考えてから答えを出すタイプだ。だから、テキパキと適当に何でも決めて、力強く引っ張ってくれるリーチに、自ずと依存してしまうのは無理もなかった。
 けれど、反抗期の年齢になると、普通なら両親に反抗するのだろうが、そういった相手がいなかったトシやリーチは、互いの中で反発することになった。もちろん、あの時期が一番互いにとってやりきれない、辛い時期となったが。
 けれど、それからトシは精神的に自立する部分と、依存する部分を分けられることができるようになった。もちろん、完全に自立したいとは思う。けれど、リーチはトシより二つ上ということもあって、あれこれとトシの面倒を見ようとする。それを拒否することなく受け入れるのも、二人の関係をいいものにしていくために、必要なことでもある。
「いや、お前がそう思ってるだけだ」
 幾浦は椅子に座って、手の中で缶ビールを弄んでいるが、まだ開けていない。
「……ね、恭眞。また、この話題を蒸し返す気でいるの?」
「まだ答えは出ていなかっただろう?」
「……恭眞の思う答えって、僕が刑事をやめるってことだよね?そんなの絶対に無理」
 もう、何度も話したことをトシは口にした。
「トシはもともと私と同じ職種に就きたかったんだろう?」
「今は思わないよ。僕、刑事っていう職業になれて良かったと思う」
 毎日忙しく過ごし、同じ日がないほど、様々な問題に直面する。ただ、ドラマや映画のように華やかな仕事ではなく、ほとんどが地味な聞き込みや、張り込み、報告書というデスクワークがほとんどだ。これらは意外にトシの性格にあっていた。
「私は……その職業がお前にとって危険だから心配だと話しているだろう?」
「どんな仕事だって危険なことはあるよ。道ばたを歩いていても事件に巻き込まれることがあるだろうし、寝ていても突然地震がやってきて、タンスの下敷きになることだってあるじゃないか」
「そういう危険について話している訳じゃない。それにお前達は……たまにではなくて、よく危険な目に遭遇しているだろうが」
 刑事だと言っても幾浦の心配するようなことは滅多にない。けれど、確かに崎戸の件では幾浦をも巻き込み、トシ達も生と死を彷徨ったし、大きな手術も受けた。殺し屋に狙われたこともあるし、先日はハイジャックとも対峙した。多分、普通の刑事よりは危険の遭遇率が高いかもしれない。
 それは分かっているのだが、幾浦に同意はできない。
「恭眞がそう思ってるだけだよ。僕はなんとも思ってない」
「トシはリーチに引きずられているんだろう?」
「なにそれ」
「お前はリーチに逆らえないところがあるからな」
「そんなこと、ないよ」
「プライベートもよくリーチに奪われてるだろう?」
「それは事情があるときだよ。例えば、恭眞は雪久さんが事故に巻き込まれて、リーチがプライベートを譲って欲しいって言われたら、無視できるの?自分だけ良かったらいいわけ?」
 トシがやや口調を荒立てると、側で見ていたアルがトシの隣に座って、前足を膝にポンポンと当ててきた。言い合いしないで……と、訴えているのだ。
「……そうじゃない。私が言いたいのは、お前の立場が弱すぎると言いたいんだ。決定権をもつのはリーチだろう?トシはそれに逆らえずにいつも引きずられていることが、気に入らないんだ」
「決定権なんてそんなのないよ。立場はいつだって平等だし、二人で話し合って大抵のことは決めてる。どちらが優位とか、そういうのないよ」
「私にはそうは見えない」
 淡々と告げる幾浦の言葉に、トシの方が切れそうだった。
前頁タイトル次頁

↑ PAGE TOP