Angel Sugar

「譲れぬ問題、僕のプライド」 第4章

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「は?」
「赤ちゃんだよ、赤ちゃん」
 篠原は、婦警から大きなスポーツバッグを預かり、それもトシに渡そうとする。拒否するように後へ下がると、篠原は無理やりスポーツバッグの肩ひもをトシに引っかけた。
「それは……分かるんですが……私に赤ちゃんをどうしろと?」
「話せば長くなるんだけどさあ、この子の両親は今、厳重な監視下のもとで警察病院に入院しているんだよ。母親の大学時代に付き合っていた男が、別れて三年も経ってから、いきなりストーカー行為を始めたんだ。所轄の警告もそいつを押し止められなかったみたいでさあ、とうとう刃物で両親を刺したんだよ。交番の方で、警邏の巡回強化をしていたから、すぐに異変に気づいて自宅へ飛び込んだんだけど、男は逃げて、部屋は血の海。複数刺された両親の意識は未だに戻らない。ただ、赤ちゃんも憎悪の対象だったみたいだけど、幸い母親が腕の中に抱きしめて守っていたから、助かったんだ。だから赤ちゃんもこれから先、狙われる可能性があって、親族には預けられない。でも、問題があったときに対処できそうな刑事はいつも出払っていて、面倒が見られない。というわけで、自宅で暇そうにしてるだろう、隠岐に白羽の矢が立ったんだ」
 確かに暇をもてあまし気味のところがあったが、それなりに忙しく過ごしていた。
「でも……私には赤ちゃんの面倒なんて見られませんよ。結婚もしてませんし、ましてや赤ちゃんなんて無理です」
 トシが赤ちゃんを篠原の方に差し出すが、篠原は手を上に上げて受け取ろうとしない。
「というわけで、隠岐。俺、いまからまたこの件で潰しに出なくちゃならないんだよな。頼んだぜ」
「ちょっ……ちょっと待ってくださいっ!いきなり赤ちゃんを渡されても、私、本当に無理ですよっ!経験豊富な婦警さんにお願いできないんですか?」
「だから……犯人がまだ町中をうろついていて、その子を狙ってるんだって。男尊女卑じゃないけど、もし、頭のいかれた犯人が、その子を殺そうとして飛び込んできたら、ちょっと婦警さんじゃ、危ないだろ?その点、隠岐はいかれた奴の扱いは上手いし、安心だって言うのが、里中係長の意見だよ」
 いかれた奴の扱いが上手い。
 それは崎戸のことを指しているのだろうか。
 だが、トシ達は別に扱いが上手いわけではない。
「里中係長は?」
「別件で田原管理官と出てて、いないって」
 トシ達の知らない間にすべてが決定されているようだ。けれど、本当にトシには赤ん坊の面倒をみることなどできない。
「……本当に……困りますっ!赤ちゃんなんて……無理、無理ですってっ!」
「大抵の問題はスポーツバッグに入っている本を読めば分かるってさ。何か赤ちゃんのために必要なものを買ったら、ちゃんと領収書をそろえておけよ。経費で落ちないぜ。あ、何か疑問とが、緊急事態の場合は、バッグのポケットに産婦人科の名刺が入ってるから、そこにかけて。じゃ……頼んだぜ~隠岐!」
「篠原さんっ!」
「あ……その子、優奈ちゃんって名前。女の子だから」
 篠原は一度だけ振り返ってそう言うと、駆け足で去っていった。
「……優奈ちゃんって言われても……」
 赤ん坊をだっこして途方に暮れているトシに、誰も救いの手を伸ばしてくれなかった。



 トシは警視庁の近くで車を停めて待ってくれていた幾浦のところへ戻ると、後部座席にスポーツバッグを置いて、乗り込んだ。
「……トシ、聞いていいか?」
「うん」
「よくできた人形か?」
 人形ならよかったと思いつつ、トシは腕の中の今はすやすやと眠っている赤ん坊を見下ろし、生きていることを確認してから、顔を上げた。
「ううん。本物だよ」
「泣いたり、ミルクを飲んだり、おしっこをしたりするのか?」
 それさえなければ、多分、トシも快く引き受けただろうが、赤ちゃんはきっと泣くだろうし、お腹も空かせるし、排泄もする。
「多分……生きてるよ」
「チャイルドシートは乗せていないんだが」
「じゃあ、買いにいかなきゃ……あ……ベビーカーも必要かも。でも時間も遅いし……今日は無理だよね」
 赤ちゃんを車に乗せるとき必要だったはず。もちろん、必要なのは分かっているが、幾浦のトランクには入っていないし、自宅にもない。
「問題は……何故トシが赤ちゃんをだっこしてるのか……ということだ」
「……事件に巻き込まれた赤ちゃんで、刑事が面倒を見ないと危ないらしいんだ」
「お前が面倒を見るのか?」
「僕、断ったんだけど……手が空いてる刑事がいないって」
「トシは赤ちゃんの面倒を見たことがあったか?」
「ないよ……どうしよう」
 トシは我に返ったように言ったが、バックミラーを覗き込んでいる幾浦の表情は、トシと同じくらい困惑していた。
「……とりあえず帰るしかないか?」
「そうだね」
「……だが、どうする?トシのコーポでは狭すぎて、赤ちゃんの面倒は見られないだろう?」
 確かにそうだった。
 しかも壁が薄いため、赤ん坊が泣き出すと、隣人に凄まじい迷惑をかける。けれど、幾浦のマンションは広いし、隣室との防音も効いている。そして、トシのコーポより広々としているし、バルコニーで日光浴もさせられるだろう。赤ん坊にとっても環境が良さそうだ。ただ、幾浦がそれを了承してくれるかが問題だった。
「う……うん。でも……仕方ないよ」
「うちは構わないぞ。私はどうせ昼間は仕事で出かけているからな。大変なのは結局トシだろう?」
「でも……今は大人しいけど、赤ちゃんは泣くよ。泣いたら……恭眞、寝てられないと思うし……」
 問題は、それだけではないのだが、トシは黙っていた。
「仕方がないだろう?赤ちゃんは泣くんだからな」
「……そうだけど……本当にいい?」
「今から断って、誰かに預けられるのならそうして欲しいが、無理だから引き受けてきたんだろう?」
「うん。ごめん、恭眞」
 引き受けたというより、無理やり押しつけられたと言った方がいい。とはいえ、確かに赤ん坊はまだ自分が何者なのかも分からないものの、トシが断れば、生まれてきたこと自体が疎まれたようにあちこちたらい回しにされるのは目に見えているし、それは可哀想だ。
 随分と昔、トシ達もたらい回しにされたらしい。
 トシは小さくて覚えていないのだが、二つ上のリーチが覚えていた。
 あのとき、どれほど孤独だったか、どれほど寂しくて、辛かったのか。物心が付いたときに聞かされたトシは、当時のリーチを想像して、泣いたものだった。
 だから断りたいのは山々だが、引き受けてしまったのだ。もしこれがリーチであっても、きっと同じように引き受けていただろう。
「マンションの管理人さんは老夫婦だが、三人のお子さんを立派に育てたらしいし、隣のご夫婦は二人目の子供が生まれたばかりだから、聞けばいろいろ教えてもらえるだろう」
「え、本当?」
 幾浦の言葉は、途方に暮れていたトシにとって明るい話題だ。けれど、幾浦の表情はいまだ困惑したもので、諸手を挙げて歓迎というわけではなさそうだった。
「ああ」
「ありがとう……じゃあ……そうさせてもらおうかな……」
 トシは努めて明るく言ったはずだったが、耳に入ってくる自分の声は、やけに乾いるような気がした。



 自分達の夕食も後回しにして、トシは赤ちゃんの本を読みながら、ミルクを温めていた。
 赤ちゃんはリビングの床にタオルケットを敷いて、寝かしているが、今は目を覚ましていた。けれど、泣き出すことなく、アルの揺れる尻尾を追いかけて、言葉にならない声を上げて喜んでいた。意外にアルはいい子守になるかもしれない。
 幾浦といえば、昔アルを購入したときに使ったサークルを物置から出してきて、赤ん坊のための臨時の寝床をしつらえていた。
 突然やってきた赤ん坊のおかげで、トシと幾浦の間にあった問題は、一時的に先送りとなったものの、いつまた再燃するかもしれない。それがトシには不安だった。本当は刑事としてトシだけでも立派にこなせることを証明したかったのに、赤ん坊は予想外だったのだ。これはとても一人では対応できないし、幾浦が手伝ってくれて、トシも助かっている。
 駄目だ……これじゃあ。
 赤ちゃんのことも、僕が一人で問題なく対応できることを証明しなくちゃ。
「あつっ!」
 ミルク瓶を温めすぎたトシは、慌てて蛇口を捻った。
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