「譲れぬ問題、僕のプライド」 第5章
「ミルクできたけど……このくらいでいいかなあ……」
トシはリビングに戻り、タオルケットに寝ころんでいる赤ん坊の側に座ると、持っていたほ乳瓶を口に近づけた。ちいさな優奈は両手を上下に振っているばかりで、きちんとほ乳瓶を持てない。
「支えてやった方がいいんじゃないのか?」
幾浦の言葉に、トシはおそるおそる優奈を抱き上げた。まるで人間のミニチュアにしか見えない赤ん坊だが、当然、生きている。それがトシには不思議なのだ。
むちむちとした腕や足、目はまん丸で黒目がち、綿菓子のような髪は変な寝癖がついていて、天井に向かって伸びている。これをこのままにしておいていいのかどうかも、トシには分からない。
「……あ、飲んだ……」
唇にそっとほ乳瓶の先を押しつけると、ようやく優奈は吸い付いてきた。お腹が空いていたのか、うぐうぐと喉を鳴らしながらみるみるほ乳瓶のミルクが減っていく。
「……トシ……本当に預かれると思うか?」
背後から見つめている幾浦が、困惑している。
けれど、それはトシも同じだった。ただ、トシは素直に『できない』という弱音を吐けないのだ。
「大丈夫。ちゃんと……本もあるし」
スポーツバッグから、『初めての赤ちゃん』という本を取り出し、トシは笑顔を作った。けれど、幾浦は深いため息をついている。その気持ちもトシには分かるのだが、どうしようもないのだ。
「……そうか」
「今晩、全部目を通して、勉強するよ。世の中にはお父さんが赤ちゃんの面倒を見て、お母さんが働いている家庭もあるんだから、男にだって赤ちゃんの面倒は見られるってことだよね」
トシは明るくそう言ったが、幾浦の機嫌はあまりいいものではないようだった。
「私は……そろそろ夕飯を食べたいんだが……トシはどうだ?」
「あ……うん。そうだったよね。随分と遅くなっちゃった……あ、ちょっと待ってくれる?赤ちゃんって、ミルクを飲んだ後に、こう、背中を叩いてげっぷさせなくちゃならないんだよね?」
ミルクを全部のみ干した優奈は目をぱちくりとさせて、トシと幾浦を見ている。どうして二人を交互に見ているのか、トシには分からないが、自分の両親ではないことを確認しているようにも見えた。
そんな優奈を、自分の肩に顎を乗せるようにして抱くと、背中をポンポンと叩いた。この程度の知識はあるが、本当に間違っていないのかは、疑問だ。
トシは優奈の背を叩きながら本を繰って、該当の注意を読み、ホッとする。
「……間違ってないみたい……あ、夕飯だよね、夕飯」
優奈をそっとタオルケットに下ろし、トシは立ち上がった。
「ごめん、恭眞。ちょっと優奈ちゃんをみてやってて。僕、夕飯の準備をするから……」
「ああ。分かった」
幾浦はトシの方を見ることなく、優奈のちいさな手を掴んで、動くのを確かめているようだ。こういうちいさな赤ちゃんは、目にすることがあっても、これほど近くで触る機会がないため、幾浦も珍しいのだろう。
トシはキッチンに向かうと、鍋を温めて、ふとリーチを起こそうかどうか悩んだ。仕事に関わりのあることがあれば、プライベートの最中でも相手を起こし、状況の説明をすることになっている。けれど、これは事件ではないし、トシは自分だけで何とかできると、考えていた。
なにより、トシは幾浦に自分一人でできることを証明しなければならないのだ。血なまぐさい事件ではないことが、唯一の救いかもしれない。
トシは温めたビーフシチューを皿に入れてテーブルに並べると、茶碗に飯をよそった。幾浦はシチューと一緒にカリカリに焼いたパンではなく、ご飯を食べるのが好きなのだ。あと、ビールのアテに手羽先の甘辛煮を用意した。
準備を終えたトシが幾浦を呼びにリビングに向かおうとすると、優奈が突然泣きだした。
「恭眞っ!どうしたの?」
「いや……なんだ……よく分からない。突然泣きだしたんだ」
優奈を抱き上げて左右に揺らして宥めているのだが、まるで火がついたような声を上げている。
「……どうしたんだろう……赤ちゃんって泣くのが仕事っていうのは聞いたことあるんだけど……泣いたままにしておいたらいいのかな?」
慌てて本を繰ってそれらしい記述を探すのだが、該当しそうなところがない。
「……あっ!」
「え?なに?」
「……お尻が生温かい……おむつが濡れてるようだぞ」
幾浦が苦笑しながら優奈をタオルケットに下ろすの横目で見ながら、トシはスポーツバッグから新しいおむつを引っ張り出した。
「あ……これ、もともとパンツの形になってる。じゃあ、脱がして穿かせるだけみたい……。へ~こんなふうになってるんだ……ふうん……」
トシはおむつを眺めながら驚いた。
「トシ、見てないで代えてやらないと……」
「あ……うん。そうだった」
もっと手間取るかと思ったが、おむつは簡単に新しいものと取り替えることができた。優奈はすぐに泣きやんで、言葉にならない声を上げて、喜んでいるようだった。トシもホッと胸を撫で下ろしたが、ただ、このゴミをどう処理していいのか、分からない。
「ねえ、恭眞。不燃ゴミ?それとも可燃ゴミ?」
「……いや……それは……聞いたことがない。明日にでもトシが隣の奥さんに聞いてくれないか?それまで、ゴミ袋にまとめておいた方がいいだろう」
「そうだね……分かった。あ、ご飯、用意できたから、キッチンに来て。優奈ちゃんはちょっとここで待っていてね。アル、ちゃんと面倒をみてやってよ」
トシが袋におむつを捨てて、口を閉じると、アルは分かったというように優奈の側に横になる。優奈はアルが気に入ったのか、長い毛をちいさな手で掴んでは引っ張り、笑っていた。これでしばらくは優奈も大人しくしてくれているだろう。
優奈をアルに預け、二人はキッチンで遅い夕食を摂ることになった。もともと寡黙な幾浦は、無言でビールを飲み、話題を探せないトシは黙々と食べることに専念していた。だいたい、こういう状況で楽しい話題を提供できるほど、トシは饒舌ではないし、また、幾浦も不器用なタイプなのだ。
とりあえず……明日はベビーカーを買おう。
やっぱり朝の日光浴は必要だよね。
隣の奥さんにゴミの分類を聞いて……。
他にも注意事項があれば聞かないと……。
お風呂ってどうするんだろう……。
「トシッ!」
「……あっ、なに?」
「さっきからずっと呼んでいたんだが……」
「あ……うん。ごめん、いろいろ考えていて、そっちに没頭してたみたい……。ほら、いろいろ必要なことがあるでしょう?それで頭がいっぱいになっちゃって……ごめん。それで、なに?」
「ぼんやりしてないで、きちんと食べろと言いたかっただけだ」
はあ……とため息をついて、幾浦は言う。
確かにトシは、優奈のことで頭がいっぱいで、シチューを掬ったスプーンを持ったまま、ぼんやりしていたのだから、注意されても仕方がない。
トシは慌ててシチューを口に掻き込んだ。
「……事情は分かるが……納得ができない」
リビングで寝ると言ったトシに、幾浦は困惑した表情を浮かべた。
「でも、頻繁に起きてミルクを飲ませなくちゃならないんだよ。今は眠ってるけど、きっと夜泣きすると思うし、そうなると恭眞が睡眠不足になっちゃうだろ。仕事に差し支えが出る可能性もあるから、僕がすぐにあやせるように側についてやらないと……」
トシはリビングに毛布を持ち込んで、ソファで寝るつもりでいたのだ。
「……それは……構わない。だが……何もなしじゃ……私も眠れない……」
幾浦はトシの頬に手をかけると、触れるだけの軽いキスを落とした。