「譲れぬ問題、僕のプライド」 第7章
昼からトシは優奈を連れて百貨店に行くと、ベビーカーを買った。真新しいベビーカーに寝かされた優奈はご機嫌で、両手をパタパタと動かして、キャッキャと声を上げている。トシはそのままベビーカーを押して、公園へと向かい、ベンチに腰を下ろすと、リュックからミルクを入れたほ乳瓶を取りだした。
「生温かいから……いけそうだよね」
トシは黒目がちの目をキョロキョロとさせている優奈にミルクをあげて、自分はコンビニで買ったにぎりめしを頬ばった。
お互い食事を終えると、トシはぼんやりと空を眺めた。木々は青々としていて、枝葉の間から漏れる木洩れ日が心地いい。いつも時間に追われているからか、穏やかにすすむ時間が滅多になかった。確かに仕事に復帰したい気持ちは強かったが、こういう時間もたまにはいいのかもしれない。
トシはベビーカーをチラチラと見やりながら、大きく伸びをして、空気を思いきり吸い込んだ。
「気持ちいいね、優奈ちゃん」
眠ることなく、目を大きく開けている優奈に、トシは円形の玩具を振って、声をかけた。けれど、優奈は声を出すことなく、口をもごもごと動かしていた。
ちいさな唇はピンク色で、ぷりっとしている。赤ん坊だから、手や足、何から何まで小さい。けれど、しっかりと人間の形をしていいるのだ。
「こんなに小さくてもちゃんと人間の形してるんだもん。すごいよね……」
人差し指で突っつくと、優奈の手はトシの指先をギュッと握りしめてくる。そうしていると、優奈自身が安心できるのか、トシが指先を左右に振っても、ちいさな手は離れない。
「赤ちゃんからこの世界はどんなふうに見えるんだろう……」
大きな黒い目はしっかりと見開かれ、あらゆるものを吸収しようとしている。この時期、記憶というのはどんなふうに刻まれるのだろうか。トシの顔もちゃんと覚えてくれているのだろうか。
「でもさあ、このもわっとした髪の毛って、切った方がいいのかなあ……それとも、こういうものなのかなあ……」
綿菓子のようにふわふわした髪は、いくら撫でつけても、空気を含んで後頭部に向かって膨らむのだ。もともと髪が細いためか、なんだか不格好に見える。顔がとても愛いらしいからか、トシにはこの髪形が余計に気になるのだ。
「赤ちゃんの髪って、お母さんが切るのかなあ……それとも、美容室に連れて行って、切ってもらうのかな……ううん、どんな髪形でも切っちゃ駄目なのかな」
膨れた髪をそっと撫でつけて、トシは唸った。
けれど、トシは親ではない。
生死を分けるようなことでもないのだから、両親のことわりなく、勝手に髪を切るのは止めた方がいいのだろう。優奈は女の子だから、両親はこの子の髪を伸ばし、三つ編みにしたいと考えているかもしれないのだ。
髪はいつでも切ることができるが、切ってしまえば、なかなか伸びない。
「ま……いいっか。あんまり広がってきたら、可愛い帽子買ってあげるからね」
「あ~あ~……」
優奈は嬉しそうに声を上げ、トシの指を掴んで振っていた。小さいながらも一生懸命生きようとしている優奈を見ていると、トシは思いきり抱きしめて、柔らかい頬に頬ずりしたい気持ちになる。
「……そうだ、お母さんたちの様子を見に行こうか?」
病院へはタクシーで移動すればそれほど遠い場所ではなかった。
両親は集中治療室に入っていて、意識がなくとも、優奈に触れさせてあげたら、良い方向に向かうかもしれない。
「じゃあ、行こうね」
トシはベビーカーを押して、表通りに出ると、タクシーを拾った。だが、チャイルドシートを乗せていないと言うことで、乗車拒否をされた。なんだか理不尽だと感じたが、仕方のないことだ。
トシは地下鉄を利用して、移動することにしたが、ベビーカーを押している人間にとって、何十メートルもあるエスカレーターを使用するのは、とても怖いことなのだとはじめて気付いた。
どうしようかと周囲を見渡すと、エレベーターが見えた。いつもなら絶対に利用しないものだが、こういう人のためにもエレベーターはあるのだろう。
トシはベビーカーを押して、エレベーターに乗り込んだ。
警察病院に着くと、トシは優奈の両親がいる集中治療室に向かった。集中治療室では、警察官が二名、緊張した面持ちで警備していたが、トシの顔を見るとどちらともにこやかな表情になった。
「隠岐さん、もしかしてこちらのご両親のお子さんですか?」
「ええ。今、私がお預かりしているのですが、今日はご両親に会わせるために連れてきたんです。ご両親の意識は戻っていないと聞いているんですが、お子さんに触れさせることで、いい方向に向かうかもしれないと思って」
トシが警察官に説明していると、集中治療室から看護師の田村が出てきた。
「まあ、隠岐さん。こんにちは。あ、こちらのご両親に会いにいらしたんですね」
「こんにちは、田村さん。そうなんです。入っても大丈夫ですか?」
「……それはちょっと、先生に伺ってからですね。少しお待ち頂けます?」
「名執先生ですか?」
トシの言葉に、田村はクスリと笑った。
「いえ、違いますよ。同じ外科の柳田彩香先生です」
「……柳田?はじめて聞くお名前ですね」
「ええ、先月、新しく来られた先生なんですよ。お若いですが腕も良くて、とても綺麗な方で、未婚者だそうです。隠岐さん、アタックされたらいかがですか?」
田村の言葉に、トシは苦笑いしながらも面会の許可をもらえるよう、依頼した。トシは優奈をベビーカーから抱き上げて、「よしよし……」と声をかけながら、田村が戻ってくるのを待った。
「隠岐さん、なんだか本当の親子みたいに見えますね」
警察官の一人がにこやかな顔でそう言った。もう一人いる警官も赤ん坊を覗き込み、いつもは引き締めているはずの顔を、笑顔で緩ませている。赤ん坊を見ると、人は自然と笑顔になるのだろう。
「昨日の晩はとても苦労したんですよ。凶悪犯より手強いかもしれません」
トシが生真面目に言うと、警察官は二人とも声を上げて笑う。
そんな、和やかな雰囲気の中、田村が彩香と思われる女性を伴って戻ってきた。
「柳田先生。こちら、警視庁捜査一課の隠岐さんです。今、優奈ちゃんを保護して下さっています」
田村が紹介を終えると、彩香は軽く頭を下げて、口を開いた。
「初めまして、柳田彩香です。大変な状況で優奈ちゃんを預かって下さって、ありがとうございます」
逆三角形の輪郭は小作りで彫りが深く、目鼻立ちがはっきりとしている。ストレートの髪は顎の長さで切りそろえられていて、サラサラと左右に揺れていた。白衣は真新しいものの、スレンダーな体型にピッタリと合ったもので、着慣れているようだ。
「警視庁捜査一課の隠岐利一と言います。今後も、いろいろお世話になるかと思いますが、どうぞよろしくお願いします」
「……鈴木夫妻の面会にいらしたと伺いましたが、意識も戻っておりませんし、できることなら、面会は、少し控えて頂きたいのですが……」
「いえ、刑事としての用事は何もありません。ただ、優奈ちゃんをご両親に会わせてあげたいんです。それに、意識がまだ戻っていないと言うことだそうですので、優奈ちゃんに触れさせてあげることで、いい方向へ向かうのではないかと思ったんですが、駄目でしょうか?」
トシは大げさにならない程度に、困った表情を向けた。
「隠岐さんの提案はとても素晴らしいことだわ。ぜひ、中に入って、優奈ちゃんをご両親の手に触れさせてやってください」
ようやく許可をもらえたトシは、優奈とともに消毒を受け、それぞれ白衣とマスク、手袋を身に付けて、集中治療室に入った。優奈はぐずることなくトシに身を任せていたが、自分の母親が横たわるベッドの側に立つと、「あ~あ~」と言って、身を乗り出そうとした。
トシは優奈の脇を抱えて、母親の手に触れさせてやった。ちいさな手はしっかりと母親の手を撫でて、声を上げている。
「お母さんが守ってくれましたから、優奈ちゃんは怪我もなく、とても元気にしています。優奈ちゃんが寂しがっているので、お母さんも早く元気になってくださいね」
優奈の母親はトシの言葉に反応することなく、ただ、彼女を生かしている機械の音だけが、響いている。親子三人、幸せに暮らしていたところに、勝手な思いこみに囚われた男がナイフを振り回した。殺人事件まで発展しなくても、こういう勝手な思いこみで人を傷つける人間が最近増えてきた。
「日本警察はまだまだ優秀です。あなた方が目を覚ます頃には、安心してもとの暮らしに戻れるよう、必ず犯人を捕まえ……」
トシの言葉が、外からの怒鳴り声でかき消され、最後まで言えなかった。何かあったのだろうと、肩越しに振ると、見知らぬ男が叫んでいた。