「譲れぬ問題、僕のプライド」 第8章
誰だろう……あれ。
トシは優奈をしっかりと抱き上げ、ガラス向こうにいる男を眺めた。男は五十代後半だろうか。老人とは言い難いが、中年という容貌でもない。興奮しているようだが、彩香が何かを口にすると、瞬間に大人しくなった。
トシが怪訝な表情でICUを出ると男は怖いほどの表情でこちらへ近づいてくる。その背後に立っていた彩香に訊ねるような視線を向けると「怪我をされた奥様のお父さんです。大丈夫です」と慌てて説明した。
「そうだったんですか……」
祖父は孫の無事な姿を見て感無量で言葉も出ないのか、抱いていいかと目でトシに訴えてきた。トシは笑顔で優奈を祖父に渡し、見守る。優奈は目を大きく見開いて、自分を見下ろす祖父を、見つめていた。
「あの……この子を連れ帰ってはいけませんか?このまま警察の方にご面倒をかけるわけにはいけませんし……」
「いえ……まだ鈴木さんご夫婦に危害を加えた犯人が捕まっていませんので、それはできません。犯人にとっては、この優奈ちゃんも憎しみの対象だと思われるからです。もし、優奈ちゃんが、母親の実家にいることを知れば、今度はそちらへ危害が及ぶ可能性もあります。お気持ちは大変理解できるものの、犯人の動向が掴めるまで、もう少し優奈ちゃんの身柄を保護した方がよろしいかと」
トシの言葉に、祖父は優奈を見下ろしながら、何度も頷いていた。
その表情は悲しみに満ちながらも、無邪気に笑う優奈に、笑顔を浮かべようとしている。
「大丈夫です。私が責任を持って優奈ちゃんを保護させて頂きますから……安心してくださいね」
「……はい。よろしくお願いします……」
「捜査員がもうお話を伺ったと思うのですが、妙な電話とかありませんでしたか?」
「私どもの方にはなにも……娘からも相談はありませんでしたし……大学の時に、確かに犯人といわれている男性と付き合っていた話しは聞いた覚えがあるんですが……別れるときにもめた話しも聞いていません」
祖父は優奈をじっと見下ろしながら淡々とそう言った。しばらくすると、祖母らしき女性がやってきて声を上げ、今度は祖母が優奈を抱き上げていた。
「お父さん、さっき、正隆さんのご両親ももうすぐこちらに着くって連絡があったのよ。優奈ちゃんのことは向こうのご家族ともお話しして……」
「いや……この子はまだ危険な立場にあるらしいから、刑事さんの方でしばらくは保護しなくてはならないそうだよ……」
「そうなんですか、刑事さん?」
「はい。大変申し訳ないんですが……」
「どうしましょう……あちらさんのご両親にも優奈ちゃんの元気な姿を……」
と言って、チラチラとトシの方を見る。
この様子では、すぐに病院からは出られないだろう。
祖母の気持ちも理解できるトシは困った立場に立たされてしまった。その助け船を彩香が出してくれた。
「隠岐さん、まだお時間があるようでしたら、三階の待合室でしばらく時間を潰して頂けますか?こちらのご家族には私の方からもお話ししなければならないこともありますし、それまでしばらく優奈ちゃんをお任せ願えませんか?すみましたら私が優奈ちゃんを隠岐さんの元へお連れします」
「それがいいですね。ただ、何があるかわかりませんので、ご家族の誰かが、優奈ちゃんを病院の外へはださないように、それだけは注意してください。じゃあ、私は三階の待合室で待ってます」
トシは笑顔でそう言った。
三階の待合室は、患者専用のリラックスルームになっていて、混雑はほとんどしたことがない。丸いテーブルに、木で作られた椅子。温かみのある配色にされているのか、壁が薄いピンク色に塗られている。テレビはないものの、端には横に長い本棚があり、絵本や漫画、雑誌が並べられ、自販機も置かれていた。
トシは自販機でコーヒーを買うと、椅子に座って一息つくことにした。
ちょっと疲れたかも……。
赤ちゃんを見ているのは可愛い。けれど世話をするのは大変だ。問題は、トシは男性で未婚、しかも赤ちゃんを育てたことがない。こんな自分が赤ちゃんを預かっていいものなのかと、悩んでしまう。
それでも今トシができることは、赤ちゃんを危険から守ることだ。
「隠岐さん……今日はどうされたんですか?」
聞き知った雪久の声に、トシは通路へ視線を向けた。
雪久はパリッとした白衣を着ていて、いつものように、華がほころぶような微笑を浮かべた。見慣れているはずのトシであっても、その美貌にはハッとさせられる。雪久の持つ美のオーラは、強烈なものがあるのだ。
「名執先生、こんにちは。ちょっと事件に巻き込まれた方をお見舞いに来たんです」
前の椅子に腰を下ろした雪久に、トシはきわめて簡単に話した。
「本当に、いつも大変ですね……。でも……また無理をされていませんか?あまり顔色がよくありませんよ」
「……え、そうですか?」
「ええ。目の下にクマができています。昨日、徹夜でも……あ、すみません。個人的なことでしたね」
何か勘違いしたのか、雪久はそう言って、少し顔を赤らめた。
「……いえ……あの。名執先生が思われるような理由で、クマができてるわけではないので……その……」
雪久に、預かった赤ん坊のことを話そうとしたトシの言葉を、彩香の声が遮った。
「……隠岐さん、名執先生とお知り合いなんですか?
ベビーカーを押してやってきた彩香は、不思議そうな表情を浮かべていた。その言葉にトシが答えるよりも先に、雪久が声を発していた。
「柳田先生、私は隠岐さんの主治医なんですよ。柳田先生はどのようなご用件なんでしょう?」
なんとも言えない自信に満ちた雪久の笑顔に、彩香は何かに押されたように後退り、トシの方を見る。
「あ……優奈ちゃんを連れてきてくださったのですね。すみません」
トシは慌てて立ち上がると、彩香の手からベビーカーを奪った。
「優奈ちゃん?」
今度は雪久が困惑したような表情を浮かべ、「じゃあ、私はこれで……また何かありましたら、いつでもご連絡を……」といって彩香は去っていく。
「どなたの……お子さんなんですか?」
雪久はまた勝手に何か誤解しているのか、見れば胸が痛むほどの、悲しげな表情を浮かべた。
「ちっ……違いますよ。私の赤ちゃんじゃありませんっ!この子のご両親が二人とも怪我をしてしまって、赤ちゃんも狙われる可能性があるので、今、現場を離れていて、暇にしている私に面倒をみるようにと、上司から指示されたんです。柳田先生は、そのご両親の主治医です」
トシが両手を振ってそう言うと、雪久はホッとした顔をして、胸を撫で下ろしていた。だが一番ホッとしたのはトシの方だ。まだリーチにはこの赤ん坊の話はしていない。雪久に誤解されたままだと困る。
「……では、隠岐さんが面倒を?」
「はい。初めてのことばかりで、大変ですよ。今は大人しくしてくれているんですが、夜泣きで昨日は眠れませんでした」
「それで……クマですか」
そう言いながら雪久は腰を屈めて、優奈を覗き込んでいた。優奈は雪久の首からかけている聴診器が気になるのか、手を振り上げて、掴もうとしている。
「そうなんです……」
「……抱き上げもよろしいですか?」
「いいですよ」
雪久は優奈をそっと抱き上げ、赤ん坊を見ると誰もがそうするように、綺麗な笑みを浮かべた。
「あの……私の方にも回ってきますか?」
期待に満ちた雪久に、トシは顔を左右に振った。
これはトシが最後まで自分の力でやり遂げるのだと決めたことなのだ。だから雪久には悪いが、しばらくリーチを起こすつもりがなかった。
ただそれを雪久にどう説明すれば、トシのやろうとしていることに同意してらえるのだろうか。
「隠岐さん?」
雪久は優奈を抱きながら、トシの言葉を待っていた。