「譲れぬ問題、僕のプライド」 第6章
「ちょっと、恭眞……駄目だよ」
本格的に覆い被さってくる幾浦を押しやり、トシは逃れようとした。けれど、幾浦の手はすでにトシの上着を捲り上げ、胸を撫で回す。乗り気な幾浦とは逆に、トシはサークルの中ですやすやと眠り込んでいる優奈が気になって仕方がない。
「私たちがしていることの意味など、分からないさ……」
「そういう問題じゃないよ……恭……」
また唇を塞がれ、上着がはだけられる。露わになった乳首に人差し指が触れた。チクッとした刺激が広がり、トシは身体を震わせた。一週間ぶりの愛撫は、鮮烈でまた心地よく、思わず流されてしまいそうになったほどだ。
「駄目だって、恭眞」
ようやくトシは言葉を遮る唇から逃れ、胸を這う幾浦の手を引き剥がした。けれど幾浦はトシの両脚に身体を押し込んだまま、離れようとはしない。
「トシ……」
「ちっちゃくてまだ何をしてるのか分からないと思うけど……ここではその……やっぱり駄目だよ。ううん。僕が恥ずかしいし……」
ちらりと優奈の眠っている方へ視線を向けると、側に横になっているアルと目が合った。アルは鼻の頭にやや皺を寄せ、何となくトシたちを非難しているようにも見える。アルの方が常識を弁えているかもしれない。
「じゃあ、寝室に行こう」
「赤ちゃんから目を離せないよ……」
赤ん坊という未知の生き物を預かっているのだ。それだけでトシの気持ちは落ち着かない。しかも、育てたことなどないのだから、一瞬たりとも目を離せない。
「少しくらいなら、いいだろう?」
「駄目っ!」
「トシ~……」
「恭眞、常識で考えてよ。赤ちゃんが側にいるのに、どうしてそんな気分になれるの?僕には……絶対に無理だからねっ!」
幾浦の胸をグイグイと押しやり、トシはようやく身体を起こすことに成功した。けれど、幾浦は不機嫌な表情のまま、納得していない様子だ。
「恭眞は寝室に行って、ゆっくり眠って。僕がちゃんと面倒を見るから」
揺るぎない信念を瞳に宿らせ、有無を言わさぬ口調でトシが言うと、幾浦はちいさなため息をついて、肩を竦めた。
「……分かった」
「明日も仕事でしょ?七時にちゃんと起こすね」
「……ああ。頼むよ」
幾浦は振り返ることなくそう言って、リビングを後にした。その背を追いながら、トシは安堵のため息をついた。
「クウン……」
アルが近づき、トシの頬を舐める。
「心配しなくていいよ。恭眞もちゃんと分かってくれてるって」
トシはソファから腰を上げ、優奈の眠っているサークルに近づいた。タオルケットに横たわった優奈はすやすやと眠っていて、時々、ちいさな手や足をピクピクと動かしている。何か心地よい夢でも見ているのだろうか。
「僕もこういう時があったんだよね……」
リーチから聞かされた両親の姿は、トシを落胆させて悲しませるものでしかなかったが、優奈のように両親に愛されて、抱きしめられた時がひとときくらいあったのだろうか。生まれたときくらい、望まれていたのだろうか。
「ちょっと羨ましいよ。だって、優奈ちゃんの両親は大怪我を負ってるけど、君を守るためだったんだから……自分の命よりも大切だったってことだからさ……。重症だと聞いてるけど、きっと大丈夫。優奈ちゃんを守ったご両親だから、独りぼっちになんて絶対にしないよ」
トシは微笑して、額に掛かる髪をそっと撫で上げた。
優奈は手が掛からなそうな寝顔をしていた。よく聞く赤ちゃんととは違って優奈は特別で、きっとトシを慌てさせることはないに違いない。そんな風に思えるほど、優奈の寝顔は穏やかなものだった。
だが、それが全くの幻想で、赤ん坊の本来の姿をまざまざと思い知らされることになった。
朝食はなんとか作ることができたが、みそ汁の味はよく分からなかったし、卵焼きも焦げてしまった。幸い自動的に炊きあがる飯は無事にできあがったが。そんないつもとは違う朝の光景に幾浦が気づかないわけなどない。
「……トシ、酷い顔だな。寝ていないだろう?」
「え……ううん。それより、恭眞は大丈夫だった?夜泣き、すごかったでしょ?」
数時間ごとに火がついたような優奈の泣き声に起こされ、トシはそのたびにミルクを温めて優奈に与えた。たった一晩のことなのに、身体中の体力が削がれ、力が入らないほど、トシは疲れていたのだ。なのに、毎日、そういう赤ん坊の面倒を見ている世の母親すべてに、トシは賞賛の言葉をかけたいほどだった。
「いや……眠り込んでいて、気づかなかった」
「そう、良かった。本当は外にでてあやしたかったんだけど、他の住民に迷惑をかけられないからさ……部屋で必死にあやしたよ。赤ちゃんって本当に大変」
「面倒が見られないようなら、お前の上司に相談したほうがいい」
「引き受けたからには最後まで面倒をみないとね。眠くなったら昼間に寝たらいいし……ふぁ……」
生あくびが漏れたのを手で隠しつつ、トシは幾浦の湯飲みにお茶をつぎ足した。
「トシがそう決めたのなら……仕方がないが。……ああ、ごちそうさま」
いつもとは違う朝食だったが、幾浦は何も文句をつけることなく、箸を置いた。それが幾浦の優しさなのだろうが、言われた方が楽なこともある。それが本日の朝食だ。
「あの……今日の卵焼き……ちょっと失敗しちゃって……あっ、みそ汁の味、大丈夫だった?」
「ああ、美味かった。大変な時なのに朝食を作ってくれてありがとう。だが、あまりにも疲れたときは無理はしなくていいから」
幾浦はそう言って椅子から腰を上げ、スーツの上着を羽織った。
「そうだ、トシ。今日は会議で遅くなる。夕食の用意はしなくていいから」
「分かった。仕事、頑張ってね」
にっこりと笑って言うと、幾浦はトシの腕を掴んで引き寄せた。
「恭眞……」
「キスくらいは……いいだろ?」
幾浦のがっしりした身体に包み込まれ、伝わる体温にトシは知らずと笑みを浮かべていた。この抱擁にどれほど力づけられたか分からない。トシにとってなくてはならない温もりだ。
「そういうの、断らないでよ……ん……」
自分の唇よりも少し肉厚な感触に、トシはうっとりしながら、幾浦の舌を受け入れた。ゆっくりと味わうように口内で動かされる舌に、腰が砕けそうな気分になる。正直に白状すると、トシにも人並みの性欲があって、昨晩、何もせずに過ごしたことには辛いものがあったのだ。もっともそれを言葉にしてしまうと、幾浦が問答無用で暴走しそうだから、黙っていたが。
「……あ……」
唇が離れると、トシはフッと意識が遠のきそうな気分に陥ったが、そこは両脚を踏ん張って、つなぎ止めた。けれど、幾浦はトシの状態に気づいていて、ニンマリとした笑みを浮かべている。
「……足りない顔だぞ」
「べっ……別にそんなんじゃないよ。ほら、恭眞。そろそろ出ないと、会社に遅れるって」
トシは幾浦から離れると、背後に回って背を押した。
幾浦が出勤するのを見送り、洗い物をしようと玄関に背を向けた瞬間、トシはあることに気づいた。煙草の香りがいつもよりしなかったのだ。そういえば、昨晩も、今朝も食後の一服をしていない。
「もしかして……優奈ちゃんのためかな?きっとそうだよね……」
トシの前では吸うが、さすがに赤ん坊のいるうちでは吸えなかったのだろう。いや、幾浦が気を使ってくれているのだ。
ありがとう、恭眞。
トシはほっこりと胸を温めながら、キッチンに向かった。