Angel Sugar

「君がいるから途方に暮れる2」 第4章

前頁タイトル次頁
 朝目が覚めるともう戸浪はいなかった。
「なんだよあいつ……おいてけぼりかよ……」
 頭をカリッとかいてベットからおり、さっとシャワーを浴びてから服を着替えようと畳んだシャツに手を伸ばしたが途中で止まった。
 祐馬が渡した合い鍵がシャツの上に置かれていたのだ。
「なんだ?どういうことだ?」
 見下ろす鍵は鈍い光を反射するだけで、当然無言だ。答えてくれる相手は既に会社に行ってしまった。
 放置された鍵。
 どういう意味に取ればいいのだろうか。
「……」
 忘れたと言うより、祐馬に返すといいたのだろう。
「……くそっ……!どうしてあいつはこういう事をするんだよっ!」
 吐き捨てるように言い、それでも放置された鍵をつかんでコートの上着に入れる。どうせ、止めたいと言いたいのだ。
 だから、鍵がシャツの上に置かれていた。
 祐馬とのことを止めたいと戸浪がメッセージを送っている。
 しかし、祐馬にそんな気は無い。
 一体どういう心境の変化でまたそんなことを考えているのか祐馬には戸浪が分からない。複雑に物事を考えるタイプではないから。
 だが、そんな自分の性格が少なからず戸浪を傷つけていることには気がついていた。だからといって、どうして良いのか祐馬自身も分からない。
 戸浪は深く考えるタイプで、祐馬は物事をそれほど突き詰めて考えないのだから、根本的に性格が違うのだ。今更そんなことで悩んだとしても、最初から分かっていたはずだった。
 祐馬は戸浪を手放す気が無い。
 ようやく祐馬はシャツを羽織り、ボタンを留める。
「問いつめてやる……」
 望んで手に入れた戸浪を簡単に手放すことなど今の祐馬には考えられなかった。



 先に起きた戸浪はぐっすり眠っていた祐馬を置いて、出社した。
 祐馬が脱いで畳んだシャツの上に戸浪は合い鍵を置いてきたのだ。
 それが祐馬に見られる前に会社へと逃げたかった。
 これでいいと思う……
 戸浪は朝早いためにまだ誰も来ていないフロアにある自分の席に座ってそう心の中で呟いた。
 所詮無理だったのだ。
 この自分の性格が克服できない限り、いずれこういう結末が遅かれ早かれやってくる。最後に理由を突きつけられる辛さを考えると、今のうちの方がいい。
 後はいつも通り過ごせばいいのだ。
 自分は狡いと戸浪は思う。
 昨晩、祐馬の優しさに戸浪は訴えたのだ。
 泣いてもう少し待ってくれと、許してくれと訴えた。そんなことを言えば、祐馬が例え戸浪が邪魔になったとしても、本来もつ優しさが邪魔をして、雅之の言ったようにずるずると関係を続け、最後には行き着くところまで行ってしまうのだろう。
 その重大な事を思い出したとき、戸浪は既に祐馬に抱きしめられて何も言えなかった。
「……もういいんだ……」
 戸浪がぼんやりとパソコンの画面を眺めていると、社員が出社してきて、にわかにフロアが騒がしくなった。
 また一日が始まるのだ。
 退屈な一日が。
 仕事をしていてこんな虚脱感に襲われたことなど無かった。祐馬とただ抱き合うだけの関係を続けていたときですら、こんな気持ちになったことはない。
 するとメールが届いたことを戸浪のパソコンが知らせてきた。

 どういう意味だ?

 分かっているくせに、どうして聞くのだろう。とはいえ、確かにあれだけでは単に置き忘れたのだろうと思われても仕方がない。

 私には必要ない。

 すると、祐馬からの返事が速攻返ってくる。

 俺はお前との事を止めるつもりはないからな。

「澤村主任。この件ですが」
 いきなり後ろから声を掛けられた戸浪は、慌てて目の前のメールを消した。振り返ると春日が立っていた。見られたかどうか戸浪には分からないが、平静を装うことにした。
 見たところでどういう意味か分からないだろう。
 そう思うことで戸浪は気持ちを静めたのだ。
「なんだ?」
「今配布されているデータなんですけど……」
 打ち出した紙を渡され、戸浪は仕事に集中することにした。だが、パソコンの下にあるバーにいつまでもメールが来たことを知らせる点滅が気になり、春日の問いかけに戸浪は半分も聞き取れなかった。
「……あ……と。なんだったかな……」
 用件を話し終えたはずの春日は目を丸くして、次に笑った。
「後で良いですよ。仕事は九時からですし……。チャイムが鳴ったらもう一度話しに来ます」
 戸浪に渡した紙をもう一度掴むと、春日は背を向けて自分の席に戻っていった。
 ……
 何をぼんやりしているんだろう。
 そうか……
 このメールが気になって仕方がないんだ……。
 戸浪はメーラーをもう一度画面に出すと、祐馬からのメールが既に六通も入っていることに気がつきため息が漏れた。
 それを全部選んでゴミ箱に捨てる。
 読んだところで、更に気が滅入るだけなのだから、読まずに捨てた方がまだ楽だった。
 多分向こうのパソコンには読まずに捨てたという旨のメッセージが届いているはずだ。それで祐馬が腹を立てたとしても、戸浪はもうどうでも良かったのだ。
 更に何通か来たのを削除し、祐馬のメール自体を受け付けないよう設定した。
 恋愛は同じ社内でするものではないとはよく言うがその通りだろう。関係を切ったとしても、その後嫌でも会社で顔を合わせなければならないから。
 祐馬は今ものすごく怒っているはずだ。話し合いもせず、合い鍵を置いて来ることだけで終わらそうとする戸浪自身が悪い。
 分かっているが、自分の口で言える自信がない。
 祐馬が怖いのではない。
 向かい合うと抱きしめられたいと思う自分の弱さが戸浪は怖かった。
「澤村君」
 いきなり部長の柿本に呼ばれ戸浪はハッと我に返った。
「は、はい……」
「済まないが、D-三とD-四のMOを午後から会議で使うので、資料庫から持ってきてくれないかね?私はまだ打合せがあるんだ……」
 資料庫の一部分の保管庫は特別なキーを持っている人間にしか開けられないようになっている。そのキーを戸浪は持っていたのだ。
「分かりました」
「戻ってきたら私が貰いに来るよ。決して机に置きっぱなしはやめてくれよ」
「もちろんです」
 戸浪がそう言うと柿本は手を振って会議室の方へ向かっていった。
「三と四だったな……」
 机の二番目をキーで開けて、資料庫のカードキーを取り出し立ち上がった。
「ちょっと資料庫まで行ってくる」
 と同じチームの人間に言い、戸浪は資料庫に出かけた。
 歩きながらいつの間にか視線が俯いてしまう。考えてみるとずっと祐馬のことを考えているのだ。やはり自分は祐馬が好きなのだと思う。
 普通恋人達がこんな状況になってしまったら、一体どうするのだろうか。戸浪には今、どう振る舞って良いか分からない。何より祐馬に対する自分の気持ちは変わっていない。
 まだ来ない先に怯えた結果だった。
「……はあ……」
 小さな溜息をついて、戸浪は資料室に入った。大量のMOやCD-R、マイクロその時代時代の記録がここにあった。戸浪はそこを抜けて、キーでしか開かない資料室の扉を開け、中に入ると祐馬が腕組みして立っていた。
「……」
 驚きすぎて戸浪は硬直したまま動けなくなった。主任クラスはみんなここのキーを持っているのだ。資料を取りに行くのを何処かで祐馬が聞いていたのだ。
「何だって言うんだよ……。お前突然すぎるぞ。合い鍵返されたところで何も言わない。それじゃあ、俺、納得できないぞ。ったく、メールは削除、話しにならねえ!」
 祐馬は言うと戸浪の腕を掴んだ。
「……説明などない……」
 違う出来そうにない。
「あのなあ、続けられないって言うけど、やっと始まったばっかじゃねえか。それでどういう結果になるんだ?お互いこれからだってのに……。何が気になって続けられないんだよ。言えよ。問題があるなら……解決していきゃ良いんだろうが……」
 解決したいと戸浪も思っている。だが無理なのだ。
 この性格を治したいと思ってきた。しかし今までに成功した試しはない。
 長年つき合ってきた自分を変えることなど、無理だと気がついたから、祐馬と離れたいと思ったのだ。
「お前が勝手にけりつけるのはいいけどよ。俺の気持ちはどうなるんだ?俺のことは全く無視か?この付き合いはお前が止めたと言ったら止められるものだと思ってるのか?わからねえよ。なあ戸浪……何かあったのか?誰かにばれて何か言われたのか?」
 祐馬に力強く引き寄せられて戸浪はどうして良いか分からなくなった。
「離してくれ……」
「ああ?」
「……離して……」
「はっ……やっぱり無視か?お前っていつもそうだったな。都合の悪いことは全部無視するんだな。こっちがこれだけ真剣に考えて誠実になってるっていうのに、お前は無視だ。やってられねえな。お前が自分をいつも押さえているのは分かってる。言いたいことをなかなか言えないのも分かってる。だがなあ、人の誠実な気持ちを踏みにじるような、そんな酷い奴とは思わなかったよ。ちっ……情けねえ……俺……。お前の事ばっか考えてるのによ……その相手がこれだ」
 祐馬は戸浪を掴む手を離し、自嘲気味にそう言った。
「祐馬……」
 違う……どう言えば良いのだ。
 祐馬にどう説明すれば良いのだろうか。
 戸浪も祐馬のことばかり考えている。好きで仕方ないのだ。だが、それに似合わない自分が辛い。こんな理由をどう説明すればいいのか。
「お前の家のキーも返す。どうせ返せってその理由も言わずに一方的にお前は要求するんだろ。その前に返してやるよ。こんなものっ!」
 床に叩きつけるように祐馬は戸浪のマンションの鍵を投げた。視線を落とすとキーの鈍い光が目に入ってきた。
 身体だけの関係であったときからずっと祐馬が持っていたキーだ。
「……」
「終わりにしてやる!お前が望んだようにしてやるよ!こんなにすぐに嫌になるんなら何で俺に告白なんかしたんだっ!それとも俺が好きだと言ったから一瞬同情したか?はっ、期待もたせやがって、今まで何人もつき合ってきたけど……お前が一番最低だったよ!」
 そう言うと祐馬は資料室を出ていった。
「……ああ……」
 そうだ、私は最低なんだ……。いずれ気が付くことを、今気付いただけだよ祐馬……。私はお前のような素晴らしい人間には全くあわない。いや、私自身、誰ともあわないのだろう。
 どうして私は……こんな人間なんだろう……。
 戸浪はその場に座り込むと暫く声を殺して泣いた。
前頁タイトル次頁

↑ PAGE TOP