Angel Sugar

「君がいるから途方に暮れる2」 第5章

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 祐馬が帰宅するといつものようにトナミが走ってきた。
「お腹……空いたか?」
 身体を屈め、小さな目を覗き込むと、トナミは嬉しそうにくるくると床を走り回る。そんなトナミのためにまずキッチンに行き、野菜室から袋を取り出す。
 祐馬の動きをじっと見つめながら、足元で今か今かと待っているトナミに野菜をやると、口一杯のほおばってシャクシャクと音を立てて食べ出した。
 ああもう……
 野菜の入った袋を膝に乗せ、祐馬はその場に座り込むと、背中を冷蔵庫にもたれさせる。するとヒンヤリとした感触が背に感じ、同時に頭も冷えてきた。
「……俺……とんでもないこと言ってしまったよ……」
 次にごろりと床に寝そべり、祐馬は呟くように言った。
 すると、トナミは野菜を持ったまま顔を覗き込んでくる。黒くて丸い瞳は、何処か心配そうな雰囲気があった。
「俺さ、後悔してるんだって……」
 トナミの頭を撫でながら誰もいないキッチンで祐馬は言った。
 あのとき、祐馬は自分が言ったことを取り消したくて、すぐに戸浪のいる資料庫に戻ったのだが、扉の向こうから聞こえる押し殺したような泣き声に動揺して、もう一度戸浪のいる資料庫に入ることが出来なかったのだ。
 どうして泣いていたのだろう?
 戸浪が望んだ結果になったはずなのに、何故泣くのだ?
 理由が分からなくて、祐馬はその場から逃げ出すように自分の課に戻った。
「戸浪……」
 何故こんな事になるんだ?
 上手くいっていたはずなのに、何が食い違ってしまったのだろう?
 理由が全く分からない。
 ただ冷えた心が痛んでいた。
「祐馬!飯食ったか?食ってないなら外で食べよう!あれ、キッチンで何寝そべってるんだよ?」
 まるで自分の家のように勝手に上がり込み、キッチンの戸口で雅之が驚いている。
「あ~色々な……」
「色々って?」
 そう言えば戸浪がおかしくなったのはこの男と飲みに行ってからだ。
 まさか、妙な話をしたのではないか?
「雅之……ここに座れ」
 横たえていた身体を起こし、祐馬は言った。
「なんだ?どうしたんだ?」
 言われたとおり雅之は何故か祐馬の前に正座をする。その膝にすかさずトナミが身体を乗せて丸くなった。
 見ているだけでなんだか腹が立つ光景だ。
「トナミは俺のだ」
 雅之の膝からトナミを抱き上げて、自分の膝に乗せる。祐馬の行動に雅之は苦笑していた。しかし、笑っている場合ではないのだ。
「この間……お前……戸浪と飲みに行ったよな。俺のことで何か話さなかったか?」
「え?別に大したこと話してないよ。なんで?」
「……なんで……って……。あいつの様子がおかしいから……さ」
 おかしいどころではない。
 滅茶苦茶だ。
 そんなことになっていることを雅之には言えない。
「……あー何、話したかなあ……。カメラの話しとか写真の話しとか……。あと、旅先の事とか……そういうのが主だったなあ……」
 天井を見上げて、何かを思い出すように雅之は視線を巡らせた。
「そんな話しであいつがおかしくなるわけないだろ。もしかして……俺の話はしなかったのか?」
「あ、そう言えば最初にちょっと話したな……。祐馬は良い奴だろって優しい奴だってさ。澤村さん同意してたよ」
 良い奴だと祐馬の友達である雅之が言ったことで、戸浪がおかしくなるとは思えない。
「それだけか?俺のことは……」
「あ、それから、お前が恋愛に対しても、優しいのがネックだとか話したなあ……」
「な?なんだそりゃ?」
 どうしていきなりそんな話になる?
 祐馬は信じられなかった。
 普通、昨日初めて会った相手と飲みに行くという行動も驚きだが、初めて話す話題で人の恋愛のことを話すだろうか?
「だってお前って、つき合っていて相手が嫌になっても、ずるずる関係を続けちまうだろ」
 口を尖らせて雅之はぶつぶつと言う。
「……な、なんだそれは……どうしてそんな話しになるんだ?」
「だから~。お前は良い奴で優しいけど、つき合ってるとそれがネックになるって言ったんだよ。で、好きでも無い相手とずるずるつき合うから、時には俺が間に入って相手に諦めてもらうんだっていったな。本当の事だろ?で、澤村さんが、そう言うことは自分でけりつけるだろうみたいなこと言うから、あいつはそこまで行くと切れるから俺が入る方が良いんだって言った。それと、好きなタイプの話しになって、お前は悩むのが苦手だから、色々悩まないぼーっとした相手が似合いだろうなあって話したな」
 それが原因だと祐馬は確信した。
「……なあ、戸浪がぼーっとしたタイプに見えるか?」
 深いため息をついて、祐馬は雅之を見る。
「色々悩むタイプだろうね。顔に出さないけど……」
「俺とあいつはつき合ってる。それがだ、俺にあうのはボーとして何も考えない相手が良いと、それも中学からのだちに言われたら、ショックだと思わないのか?」
「そんなの、あの時は知らなかったから仕方ないだろ。それに、そんなささいなことで悩むか?お前が口説き落としたんなら、僕が何を言っても気にならないだろ?それに、嫌になってずるずるっていうのも、相手がお前を好きになって、好きでも無いのにとりあえずつき合った場合、どうのって話しからだぞ。別に関係ないじゃないか」
 ムカムカとした表情で雅之は足を崩した。
「……お前って……もう少し考えて行動してくれよ……」
 引っかかるとしたらそれしかない。
 いや、他に何かあったのだろうか?
 戸浪は何も言わなかった。
 問いつめて、先に沈黙に耐えられなくなった祐馬の方が切れてあんな暴言を吐いてしまったのだ。何時だってそう。答えがすぐに出ないと気が済まない。
 長期に渡って悩むことが祐馬には苦手なのだ。
 疑問だと思うことはすぐに理由が知りたいタイプだから仕方がない。
 だが自分のそんな性格が裏目に出てしまった。
「なあ、何かあったのか?」
 肩を落としている祐馬の表情を読みとろうとするように、雅之が覗き込む。
「……別に……何でもねえよ……」
「喧嘩したのか?澤村さんと……」
 からかい口調で雅之が言うので祐馬は余計にむかついた。
 誰が一体悪いのだ?
 しかし、今更責任転嫁したところで状況が好転するわけでもない。
「……五月蠅い」
「すげーマジに好きなんだなあ……珍しい……」
 雅之は感心していた。
「悪かったな……自分で言うのも何だが……どうしようもないくらい惚れてるよ……」
 そう言うと雅之は吹き出す。
「笑うか?なあ、普通笑うことか?」
「ははっ……そこまでお前に言わせるなんてすげえなあ……澤村さんは」
「あーそうだよ……なのに三行半だ!」
「澤村さんが?お前を?」
「俺がいっちまったんだよ!ちくっしょう!どうすりゃいいんだよ」
 床をどんと叩いた祐馬に驚いてトナミは膝から飛び降りて、また雅之の膝に乗る。その行動もなんとなく気に入らない。
「はあ?お前が言ったのか?」
「売り言葉に買い言葉……」
「馬鹿だなあ……」
 はははっと雅之が笑った。それがかんに障った。
「お前の所為じゃねえか……」
「おい、てめえが不器用なのを僕の所為にするのか?」
 ギロッと睨まれて、確かにそうだと祐馬は反省した。
 雅之に当たったところで、結局悪いのは自分だと分かっているのだ。
 言わなければ良かった。
 今更後悔しても遅い。
「……ああ、俺の所為だ……俺が悪いんだよ……」
 俺が。
 この俺が一番悪いのだ。
「……まあ、すぐに忘れて元気になれるさ。いつもそうだったろ?」
 昔はそうだった。だが今は違った。
 それを雅之は分かっていない。
「……帰れ……」
「分かったよ。一人で飯に行くよ……全く……」
 雅之がトナミを床に下ろし、次に立ち上がって肩越しに一度振り返ったが、もう何も言わずにマンションから出ていった。
 扉が閉められる音を遠くに聞きながら、祐馬はまた床に身体を伸ばす。何をする気にもなれないのだ。
「不器用か……そうだな……」
 天井を見つめていると、そろそろとトナミが近寄ってきた。見下ろしてくる目は不安げに揺れている。祐馬が怒っていると感じているのだろう。
 動物はとても敏感なのだ。
 それはトナミを飼い始めてから知ったことだった。だが良く考えてみると人間だってそうなのだ。相手の事を考えて、敏感に反応するのは誰しも同じ。しかも戸浪の場合人一倍感受性が強かった。
 分かっていたはずなのに。
 理解していたつもりだったのに。
 結局祐馬は何も戸浪のことを分かっていなかったのだ。
「戸浪…ごめんな……」
 自分のことだと思ったトナミはペロペロと祐馬の口元を舐めた。
「ごめん……」
 もう一度そう呟いて祐馬は目を閉じた。



 週末自宅で一人過ごすのが耐えられなかった戸浪ではあったが、趣味もない自分が何かに没頭できるわけもなく、結局だらだらとベッドで身体を伸ばしたまま、ぼんやりとしていた。
 一人でいるのが嫌で仕方がない。
 一人でいると色々考えるから。
 外に出ることも考えたが、今日はとても冷えた。こんな日は外に出ない方がいい。ずっと痛まなかったはずなのに、この間祐馬の前で何年かぶりに足に痛みを覚えた。
 そうであるから余り冷える日は外に出ない方がいい。
 色々考えるものの、結局は何をする気にもならず、朝の八時に目を覚ましてからずっと毛布にくるまってもぞもぞとしている。
 考えるのは祐馬のことばかりだった。
 合い鍵も既にその役目を終え、机の引き出しの奥にしまった。この先二度使う事にはならないだろう。なら、大地にでも渡すかと考えて止めた。
 次に、祐馬のように何か動物でも飼おうかとふと戸浪は思った。
 飼うなら猫だ。
 犬は始終五月蠅くてかなわないから。
 聞くところによると猫はトイレのしつけも楽で、建物を掻く癖も小さい頃に段ボールを与えておけばまず大丈夫だと聞いたことがある。
 だが、早く帰宅できないときの世話はどうする?
 寂しいからと言って昼間独りぼっちにさせてしまうのだ。それは可哀相だった。
 もう一人の自分を作ってしまうような気が戸浪にはしたからだ。
 それは望まない。
「ペットショップにでも行こうか……」
 ささくれている自分の心を穏やかにしてくれる存在は動物しかない。
 フェレットの面倒を見ているとき自分の心がとても穏やかになっている事に戸浪は気が付いていたのだ。無邪気で何も考えない存在がそういう気持ちにさせてくれるのだろう。
 ようやく考えがまとまると、戸浪は早速着替えることにした。
 シャツを着て上からセーターを着る。
 念のため膝にサポートを巻き、最後にダウンジャケットを羽織ると、早速都内のペットショップに向かった。



 都内でも規模の大きいそのペットショップは色んな生き物がいた。
 犬や猫も豊富な種類取りそろえられていて、更には昆虫や爬虫類、金魚や熱帯魚までいた。
 そんな中、戸浪はあちこちうろうろ見て廻り、大きな柵で仕切られた中に子犬や子猫が沢山放されている場所で腰を据えることにした。
 無邪気に戯れている小さな生き物たちが微笑ましかった。可愛いなあと思わず笑みがこぼれる。近くにはフェレットのゲージもあり、色んな毛色のフェレットがみんな丸くなって眠っていた。
 そう言えば、あんな風に眠っているのを死んだと誤解したこともあった……
 以前の事を思い出し、戸浪は急におかしくなった。
 ふと顔をあげると親子連れや恋人達が犬や猫などを入れた箱を嬉しそうに持ち帰っていく姿が見える。その反面、自分のようにただ眺めているだけの人間も沢山いた。
 きっと戸浪と同じ気持ちで来ているのだろう。
 人はどうしても温もりが欲しいのだ。
 だから癒されたい。
 求める相手は恋人であることもあるし、ペットの場合もあるだろう。
 きっとここに来る独りぼっちの人間は、恋人もいない、戸浪のような人間なのだ。それを思うとなんだかわびしくなってきた。

 柵から離れ、暫くうろうろしていた戸浪だったが、そのペットショップを後にして、電車に乗ると今度は上野動物園に向かった。
 何故か急にパンダが見たくなったのだ。
 上野動物園に着くと真っ先にパンダを見に行った。パンダは半円状になった硝子に仕切られた向こうに座っていてこちらを向かずに笹を食べている。
 もう、気候が寒いせいか、家族連れが思ったほど少なかった。戸浪はパンダの場所を抜けて、キリンや象のいるゾーンのベンチに座った。
 冷たい空気が戸浪の頬や手を赤くさせた。ふと、自分は何をやってるんだろうと言う気持ちになる。
 こんな風にこれからも一人なのだろうか?
 友達はいるが実家のある秋田だ。それももう、相手が結婚して会わなくなって久しい。こちらに来てから友達と呼べるものは出来なかった。
 大地が来てくれて嬉しかったのだが、今は他の男のものだった。
 寂しいなあ……。
 冷たい風が渡る空を眺めて戸浪は息を吐く。
 それは一瞬白く煙り、空気中に溶けていった。
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