Angel Sugar

「君がいるから途方に暮れる2」 第6章

前頁タイトル次頁
 寂しい。
 本当に寂しい。
 心が冷えきって温もりを求めている。
 本当は誰かに抱きしめられたくて仕方ないのだ。
 温かいぬくもりをいつも欲していた。
 一人は嫌だ。
 外見で良くクールだと思われるがそんなことは無かった。顔に出ないだけで、仕事のことでパニックになっていることだってある。だが良いのか悪いのか、戸浪は顔に出ないタイプだ。
 いや、平静を装うと必死になっているうちに習慣になってしまったのだろう。
 無邪気に笑っていた頃はいつまでだったか戸浪には思い出せない。そんな頃があったのかも、もう思い出せない。 
 ここに来なければ良かったのだ。上京するのではなかったと後悔した。だが上京する事情があったのだ。
「あーれー?」
 何処かで聞いた声だと戸浪が顔を上げると、驚くべき事に雅之が立っていた。
「あ、こんにちわ……」
「良く会いますねえ。運命を感じてしまうなあ」
 鼻を赤くしてそう言う雅之は以前と同じく一眼レフを持っている。
「安佐さんは今日は動物の取材ですか?」
 カメラを持っていることでそう思ったのだ。
「動物の赤ちゃん特集でさあ。こういうの滅多にしないんだけど、本来仕事で来るはずだった奴が風邪でダウンして、代わりに来たんだ。だるいなあって思ってここまで来たけど、澤村さんに会えるなんて、ちょっとラッキーだったかな」
 雅之は本当に嬉しそうに笑った。だが戸浪は見られたくない所を見られてしまったという恥ずかしさから、ここから今すぐにでも駆け出したかった。
「そ、そうですか……じゃあ私はこれで……」
「予定が無いなら取材に一緒に行く?普段見られないちっこい動物見られるよ」
 ちっこい……
 小さな子供の動物なのだろうか。
 思わず戸浪は足を止める。
 見てみたいと思ったから。
「宜しいのですか?私は一般人ですが……」
「いいよ。そんなの気にしないでさ、助手ということで、付いてきて」
 そんな簡単に決めて良いのだろうかとふと疑問に思ったものの、雅之は既に決めてしまったのか、園内を歩いていく。戸浪は置いて行かれないように後ろをつかず離れず歩いた。
 暫く歩き、見慣れた檻を抜けると動物園の管理者建物に入った。やや薄暗い建物は、あちこちから動物たちの声が聞こえてくる。
「お待ちしていました……」
 既に待っていた広報担当者が雅之の姿を見つけて、笑顔で迎えてくれた。青い作業服のような格好をしているのだが、こちらにも分かるように広報担当と書かれたプレートを胸に突けている。
 その担当者に促されるままに奥に入ると、まだ表には出せないであろう小さな動物たちの子供がいるゲージにたどり着いた。
 ライオンとヒョウの子供やレッサーパンダの子供が別々の場所に乾燥したわらを敷き詰めたベットで気持ちよさそうに眠っている。
 まるでぬいぐるみだ。
「でっかくなったら食われそうだけど、ちっさいと可愛いなあ……」
 雅之はそう言いながらこちらを振り返ったので、戸浪も頷いた。
 確かに可愛い。
 抱き上げてほおずりしたくなるような、そんな気持ちに駆られる。
「抱いても構いませんよ」
 担当者は相変わらずにこやかな表情で言う。
「じゃ、澤村さんだっこしてみてよ。僕はそれを写真に撮るから」
「え、はい」
 戸浪は言われるままライオンの子供を抱き上げた。すると腕の中でライオンの子供は爪を立て、きゅうきゅうと鳴いた。
「爪には注意してくださいね。時には噛んで、そこが傷になるかもしれませんが、驚いて落としたりしないでください。あ、手袋をお貸ししましょうか?」
 担当者は戸浪ではなく、ライオンの子供を見つめながら心配そうだ。よほど大切に育てているのだろう。
「あ、いえ大丈夫です……」
 戸浪はそう言いながら、ライオンの子のつぶらな瞳を見つめた。真っ黒な瞳は野生の雰囲気がある。これほど小さいにもかかわらず。
「サービスカット」
 そう言って雅之は何枚か写真を撮ってから、仕事用の写真を取り始めた。ゲージの中で丸くなっている虎の子供を撮り、レッサーパンダの子供が母親の乳を飲んでいる写真を撮る。
 戸浪はそれに付き添って言われるままライトを当てたりと忙しく身体を動かし、全てを撮り終える頃には日はすっかり落ちていた。
「疲れた?」
「いえ、楽しかったです」
 今ある悩みから暫く遠ざけてくれた雅之に戸浪は感謝していた。
「まあ、こんな経験はなかなか無いからね」
 雅之は機材を車のトランクに詰め込み、額を拭う。
「じゃあ、私はこれで……」
「助手はまだ仕事があるよ」
 当然のように言って雅之は、助手席の方を指さした。乗れと言うことだろうか。
「え?」
「現像ね。かなり枚数があるから、出来たのをカットして欲しいんだ。選ぶのも僕一人じゃ大変だからさ。アルバイト料はちゃんと出すよ。要するに手伝って欲しいんだけど」
 家に帰っても別にたいした用事も無い。
 戸浪は雅之の仕事を手伝うことにした。
 今は気が紛れるようなことをしていたいのだ。
「アルバイト料は必要無いですが、お手伝いしますよ」
「じゃ、決まり!」
 雅之は嬉しそうに運転席に乗り込み、戸浪は助手席に座る。
 戸浪にしてみれば、何処かにスタジオがあるのだろうと思ったのだが、着いたところは事もあろうか雅之の住むマンションであった。ここは祐馬も住んでいる。途中で出会ったらどうすればいいのだ。
 躊躇している戸浪の腕を掴んで引きずるように雅之はエレベータに連れ込むと二十階のボタンを押した。祐馬は十五階に住んでいた。
 これなら会うことは無いだろうと思いながらも戸浪は内心、ドキドキして平静を保つのに苦労した。
 よく考えると、祐馬が尋ねてくるかもしれない。その事実に思わず戸浪が帰ろうとした頃には既に雅之の部屋に入っていた。
「すぐ現像するけど、ちょっと時間かかるから、暫くその辺の本でも読んでてくれる?あ、何か飲みたかったら勝手に冷蔵庫から何でも取ってくれて良いから……」
 そう言って雅之はフイルムを持って、暗室と書かれた部屋に入っていった。
 何もすることがなかった戸浪はとりあえずリビングのソファーに座り、雅之が出てくるのを待つことにした。
 なんだか今日は疲れた。
 ぼんやりと戸浪は壁に掛かっている写真をぼんやりと眺めると火山が爆発した写真がまず目に入った。隣にはサバンナの写真だ。
 すごいな……
 あちこち飛び回って撮ってるのだろうか。
 そんな人生も悪くない。
 しかし、戸浪は既に職種を選んでしまった。面白くもない仕事を。
 世の中にはこんな風に世界を飛び回って写真を撮る男もいれば、自分のように地面に拘束された場所で働くしかない人間もいるのだ。
 その差はどこからくるのだろう。
 もっと、若い頃になら選べたのだろうか。
 色々考えても答えは出ない。ただ、分かっていることは戸浪が例え今より年齢が若かったとしてもこういう生き方を選べないと言うことだけだ。
 なんて面白みの無い人間なのだろう……
 いつの間にか視線が俯いていることに気がついた戸浪は小さくため息をついた。

 一時間ほど待たされて雅之が現像した写真を沢山持って戻ってきた。
「すごい待たせたみたい」
 言いながら写真を机に並べる。
「いえ、どうせ暇ですから……」
「じゃあさ、これ、切って貰おう。あ、先に選ぼうか……」
 言いながら雅之は戸浪に手袋を渡した。雅之の方は既に手袋をはめていた。
「随分あるんですね」
「これだけ撮っても、使えるのは十枚位なんだよね。だから、先に、ずれてるのやぼけてるのを分けて特に良いと思うのを分けて、普通のとで三つに分けて貰える?目で見てぼけてると思うものは本当に使えないんだ。あとはレンズを通してゴミがないかとか調べるんだけど、適当で良いよ。たいした金になる仕事じゃないし……」
 笑いながら雅之は言う。
「いいんですか?そんなに目は肥えてませんが……」
「いいのいいの。こういうのは素人の方が良いの見分けるもんなんだから」
「……はあ、そういうものですか……」
 良く分からないがとりあえず戸浪は並べられた写真を選ぶことにしたが、暫くその作業をしていると雅之が突然とんでもないことを言い出した。
「そう言えば……祐馬随分落ち込んでるんだけど、澤村さん何か聞いてない?」
「え、そうなんですか?な、何も聞いていませんが……」
 意味もなく心臓がばくばくと音を立て出す。
「この間夕食に誘っても、床に転がったまま起きあがらなかったよ。どうも恋人と喧嘩したみたいなんだよね」
 何か知っていて雅之が鎌を掛けているのかどうか、相手の顔色からは分からなかった。
「はあ……」
「あんな祐馬は滅多に見ないからさ。こっちが気を紛らわせてやろうと冗談を言ったら怒鳴られた。はは、全く。心配してやってるのが分からないのかなあ。ま、それが分からないくらい悩んでるんだろうね……」
 そんなはずはない。
 祐馬のことだ。
 一晩寝たら忘れるはずなのだ。
 そう言う男だった。
「……きっと仕事上の事でしょう……」
「本当にそう思ってるのかい?」
 じいっと雅之に見つめられて戸浪は写真を持つ手が止まった。
「……」
「止めた。こういうの、僕、苦手なんだよね。遠回しに聞くのってさ」
 雅之は持っていた写真を置いて言う。
「……それはどういう……」
 まさか知っている?
 祐馬が親友の雅之に戸浪のことを話したのだろうか?
 戸浪は祐馬に話すなと言ったがそれが守られているとは限らない。
「祐馬とつき合ってるんだろ……いや、つき合ってたが正解か……。あ、別に俺は男同士だからどうのとかそんな偏見は無いから」
 雅之にズバリそう言われて戸浪は顔が真っ赤に変わる。
 ばらした祐馬に腹を立てたことともあるが、雅之に知られていたことで形容しがたい恥ずかしさが身体中を覆う。
 言葉など何も出ない。
 ただ、静かに羞恥に耐えていた。
「あのさあ、あいつマジで落ち込んでるんだよ。つーか、何があったのかまで、僕は聞いていないから内容まで知らないけどさ……」
「貴方には……関係ない事です……放って置いてください……」
 どうして関係のない人間にまでこんな言い訳をしなくてはならないのだ。
 この場からさっさと逃げ出して、雅之の視界から自分を消してしまいたいと戸浪は切実に思った。
「僕はあいつの親友だよ。あんなに悩んでるのを見てしまったら放っておけないんだ。それにあいつ……頭に血が昇って自分から三行半下したって後悔してるだろ……。ほら、澤村さんも分かってると思うけど、あいつはすぐ口をついて悪態でちゃうからさ……。本当はそんな気無かったんだ。だからさ、もし……」
「私は……終わったと思ってるんです……だからもう……」
「祐馬は納得してないんだって言ってるだろ。澤村さんが本気でもう祐馬が嫌だというんだったら、それはそれで仕方ないことだと思う。だけど、ちゃんと話し合ってくれないか?このままじゃ祐馬が納得できないだろうから……」 
 雅之はそう言って柔らかい笑みを向けてきた。いつもこんな風に雅之は祐馬の力になっているのだろう。
 別れるときも、そうでないときも……。
「……済みません。もう、会うつもりはないんです」
 絞り出すように戸浪はそう言った。
「ほんっと強情だよな。ちょっと会うのが何で出来ないかな。ついこの間まではラブラブだったんだろ。それが別れたからってそんなに冷たくなれるもんか。ああ、そうか真剣じゃなかったからそう言う態度とれるんだ」
 この男は何を言ってるのだろうか。
 雅之に何が分かる?
 戸浪が今、どんな気持ちでいるのかなど理解できないのだ。
 だが、そんな気持ちを戸浪は話すつもりは無かった。
 自分自身をいい子に見せる気は無い。
 理解して欲しいと思わない。
 誤解して酷い奴だと思えば良い。
 ならば今後、二度と雅之は道ばたで戸浪を見つけても声をかけてこないはず。
「……」
「澤村さんは、こんな風に優しく笑えるにね。祐馬には冷たい顔が出来るんだ」
 ライオンの子供を抱いた戸浪の写真を見ながら雅之は言った。
「……帰ります」
 戸浪はぽつりとそう言って立ち上がった。
「僕ばっかりしゃべってるじゃないか。何か他に言いたいこと無いのか?これだけこけにされて腹がたつだろ?」
 そう言う声を背から聞きながら戸浪は玄関に向かった。もう何も話したくない。何も答えたくはない。
 戸浪が玄関で靴を履いて扉を開けようとすると、雅之が腕を掴んでノブから手を無理矢理引き剥がした。
「ちょっと待てって……」
「貴方には関係のないことです。そうでしょう?」
「だからさあ、そう、怒ってないで、まず祐馬と話しを……」
 と言った雅之の目線が何故か戸浪ではなく扉の方に向かう。つられて戸浪も後ろを振り返ると、いつの間にか空いていた扉の所に祐馬が立っていた。
「み……三崎……」
「なんだよ……これ、どう言うことだ?」
 祐馬は低い声で唸るように言った。
前頁タイトル次頁

↑ PAGE TOP