「血の桎梏―邂逅―」 第1章
おおよそマンションの一室とは思えない、緑が生い茂る広い空間に、プールが設置されていた。水は透明で決して澱んでおらず、触れると水温は一定に保たれているようで心地よく、いつでも入れるように管理されている。仰ぎ見ると、ガラス張りの天井からは青い空が見え、太陽の光が燦々と降り注ぐ。ここにいるとどこかのリゾート地にやってきたような気分にさせる。
「ここすごいじゃないか~……」
口を大きく開けて驚いているライのとなりで、リーガが水面をじっと眺めていた。
「プールか……そういえばあったの忘れてたよ」
「泳がないの?すごく気持ちよさそうだけど……」
「僕は水が嫌いだし、ラシャがここでくつろいでたり、泳いでる姿なんて見たことないよ」
「……それは……想像もできないね……うん」
その場所を見つけたのは偶然だった。
ラシャの自宅がどんな間取りで、部屋がいくつあるのか確かめようと、あちこちウロウロしていて見つけたのだ。基本的に入ってはならない部屋というものはなく、ラシャの通信室以外はどこでもライは入ることを許されていた。
もっとも別に特別な部屋というものはなく、使われていない部屋もあったし、簡単な医療器具の置かれた部屋、トレーニングルームや、最初ライが閉じこめられていた部屋も、見つけた。
とにかく外からは分からないが、意外に中は広い。そうしてあちこち見回って最後に見つけたのがこの屋内プールだった。
「リーガは泳げないの?」
「泳げるけど、好んで泳がないの。でもここは緑があって気持ちいいね。これから日光浴には来ようかな……」
ネコほどの大きさのリーガは、薄黄色をしている。耳や尻尾から伸びた触手のような巻き毛が、クルクルとせわしなく動いていた。
「いいところ見つけた……外に出たくても出られなかったからさ。ここなら緑も太陽もあるし、プールでも泳げる。ストレス解消に良さそう~」
「ストレス解消ね……」
そういってリーガは笑いながら水際で歩き回っていたが、水が前足に触れると、鼻の頭に皺を寄せて顔を上げた。
「冷たい?」
「そうじゃないけど……やっぱり水は嫌い」
「じゃあ、ここにリクライニングチェアーやテーブルを持ち込んで、リゾートしてもいいよな~。ラシャはしたいとは言わないだろうけど……」
怜悧な美貌を持つもと殺し屋には、健康的な太陽というものがなんとなく似合わない。それは単にライのイメージだけの問題なのか、それともラシャ自身が興味がないのか、分からないが。
「勝手にしてもいいんじゃない?ラシャって人が何をしていようと、興味を持つこと自体ないし、同じことをしたいと思うタイプでもないしね。制限もないんだから、ライの思うように生活した方がいいよ。でなきゃ、ラシャと生活しているとストレスでやられちゃうからね」
リーガはそう言って水際から離れると、もう出口に向かって歩き出していた。ライもその後を追って、いったん屋内プールから出ることにした。せっかく素敵な場所を見つけたのだから、タオルやローブ、飲物を用意してライはここへ戻ってくるつもりだった。
久しぶりにリラックスできそうな場所を見つけたことで、ライは浮き立った気分になっていた。プールがあったというのも驚きだったが、それを独り占めできる感動の方が大きかった。
ライはニコニコしながら部屋へ戻ると、真新しいタオルとローブを用意し、プールサイドに持ち込む飲物をキッチンで準備していた。
「ライ~誰か来たみたい……」
リーガがキッチンに走り込み、テーブルの上に飛び乗った。
「来たみたいって……?」
「……知らない人だったよ」
モニターを見たのか、リーガは首を傾げている。
「ラシャは?」
「通信室に入ったまま出てこない。来客は分かってると思うんだけど……」
「ラシャが会いたくない相手かな?」
それなら、ライは会ってみたい。
「かもしれないね」
「じゃ……俺が見てこようかな……」
「止めた方がいいよ」
「どうして?」
「……そんな気がするだけ」
「とりあえず……見てくるよ」
なんとなく渋っているリーガを置いて、ライは玄関に向かった。だがすぐにドアを開けることなく、モニターで相手を確認する。
『……君は誰だ?ここはラシャの家だよな?』
相手はライの顔を見てそう言った。
「あ……はい。俺……ラシャと一緒に住んでるライって言います」
『ええっ!あいつが誰かと住んでるって?嘘だろ、おい。なあ、キリー。ラシャの奴、可愛い男の子を連れ込んでいちゃいちゃしてやがるぞ。びっくりするくらい可愛い子だ。あれはファンド星系生まれじゃないかな。綺麗な薄紫の瞳に、白っぽい金髪がたまらないぜ』
誰かと話しているのか、男は横向きで隣に立つ誰かと話しているようだ。
『紅(くれない)さま……落ち着いてください。どうするんですか、帰りますか?』
キリーと呼ばれた男は顔は見えないものの、どこか呆れた声でそう言った。
『ラシャはもういい。それよりさっき映った可愛いこと話しがしたいな……』
そういって紅と呼ばれた男はまたモニターの方を向くと、ライに向かってにっこりと微笑んだ。鳶色の瞳は魅力的で、同じ色の髪は肩までの長さがあり、耳の脇で柔らかいウエーブが掛かっていた。端正な顔立ちはどちらかというと甘く、少し厚みのある唇がセクシーだと感じる。金糸のちりばめられたゴージャスなマントは紅の鳶色の瞳や髪を際立たせていた。
『なあ、せっかく来たんだから、せめてドアを開けてくれないか?別に、押し売りじゃないし、泥棒でもないんだからよ』
「あ……はい。いえ、……あの。ラシャとどういうご関係なんですか?」
『兄弟だよ、兄弟。血は繋がってないけどな』
「ええっ!あ、はい。開けます」
ライは兄弟という言葉に驚き、思わずドアを開けていた。だが、ドアが開くのと同時に、ライは紅に抱えられ、声を上げる間もなく、尻を撫でられた。
「うん。この腰つきは締まりが良さそうだ」
「ひ……ひゃ――――っ!な、な……なにするんですか――――っ!」
「間近で見ると、もっと可愛いな。いや……それより問題はこの凄まじいキスマークか」
脇を掴まれて、ちいさな子供を高い高いするように持ち上げられたライは、両脚をバタバタさせて逃げようと試みたが、無駄だった。
「なあ、キリー。このままお持ち帰りしてもいいと思うか?」
紅はやや斜め後ろに立っているキリーにそう言った。
キリーは小柄な男で、年齢は分からないが随分と若い感じだった。
「それはラシャさまの怒りを買うのではありませんか?しりませんよ……」
キリーの背後には二人、重装備の男が銃を構えて立っている。ということはこの紅という男は要人か、それに相当する身分の男のようだ。
「うわ~うわ~なに、なに、どうなってんの?」
リーガが玄関の騒ぎを聞きつけて走ってきたのだが、ライが担がれている様子を見て驚いていた。
「……キリー、なんだか小さい動物がしゃべってるが……なんだあれは」
「バイサーですね。珍しい……原型ですよ、原型」
「ラシャのやつ……いいもん飼ってやがるな。キリーあれも捕まえてこい。私が持って帰る」
ライを抱き上げたまま、紅はそう言った。
「紅様……ここへ泥棒に来たのですか?」
「あいつが顔を出さないんだから、仕方ないだろ。ここに来たって言う証拠を持ち帰らないとなあ~。ほら、あのちっこい動物を捕まえてこいっ!」
紅の言葉にリーガが毛を逆立てて、戦闘モードに入ろうとしていた。
「あ……なんか、怒らせてしまったみたいだぞ。キリーお前の所為だ」
「……はいはい」
はいはいといいつつ、キリーはため息をついて動こうとしない。呆気にとられていたライだったが、リーガの声に我に返った。
「ライっ!しっかりしてよっ!こいつ、ライを連れて行こうとしてるんだよっ!」
「あ……あ……うん。離してください」
「え~。ここより俺のところに来た方が幸せだと思うぜ。豪華な服で着飾ってやるし、欲しいものは何でも買ってやる。自然の多いところに住みたいなら、一戸建てだって用意してやろう。もちろん、三食美味い飯を食わせてやる」
紅の甘い誘い文句に、リーガは「あ……じゃあ、僕、行く」と言ってあっさり戦闘モードを解除した。
「リーガッ!」
ライが肩越しに怒鳴ると、リーガは耳を半分垂れさせていた。
「いや……だって……ここより待遇良さそうだから……」
「何を騒がしくしてるんだ……」
ようやく出てきたラシャだったが、怒りのオーラを纏っていた。