Angel Sugar

「血の桎梏―邂逅―」 第5章

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「待てよ……俺……まだ聞きたいことが……っ!」
 ラシャの身体を押しのけて、ライは落とされている冷えた眼差しを見上げた。黒曜石にも似た煌めきを持つ瞳には、感動や、動揺などの心の動きは浮かんだことがない。いつだって寒々しいほどの輝きしかそこにはないのだ。
 ラシャにはこの世界がどんなふうにみえているのだろうか。
「……なんだ?」
「え……あ……その……」
 いつの間にかラシャの美貌に魅せられていたライは、自分が何を聞こうとしていたのか、すっかり忘れていた。けれど、今のラシャはライの問いかけに一応、真面目に答えてくれている。知りたい質問をするには、今がチャンスなのだ。なのに思考が停止したまま、次の言葉が出てこない。
「……ラシャって……あの……今までに好きになったり、大事にしたい相手って……いたのか?」
 自分でも信じられない質問を口にしたライは、ラシャの美麗な顔を見つめながら、額に汗を浮かせた。
 俺……何言ってるんだよ。
 こいつにそんな感情なんてないの、俺が一番よく知ってるじゃないか。
 ライは内心では出てしまった言葉に後悔しながら、それでもラシャから視線を逸らせなかった。
「本当にくだらない質問ばかり口にするんだな、お前は……」
 ラシャはライの質問にすぐさまそう言い、会話は終わりだというふうに、背を向けた。けれど、ライはすぐさまラシャの前に立ちふさがる。
 一番の質問を忘れていたからだ。
「ラシャは殺しをやめた……俺もそれは知ってる。でも……まだ俺に隠れて殺しを続けてることを知った」
「だから?」
「ラシャ……俺と約束してくれたよな? なのに、どうしてまだ続けてるんだよ。もう誰も殺さないって……約束してくれたじゃないかっ!」
「すでに引き受けたものは、金が支払われている。この意味は説明しなくとも、馬鹿でも分かるだろう?」
「金なんて、突っ返せばいいだろっ!」
「そんなふうに簡単にすむことではない」
「……どうしてだよ。だって感情もない、何かに執着することもない、楽しいとか悲しいとか理解できないラシャが、どうして、その程度の約束ごとを反故にできないんだよっ!そんなの、変だ……っ!」
 ラシャの指が頬を捉え、その丸みにそって動く。ラシャの瞳は相変わらず冷えたままで、白磁のような肌は、まるで作り物のようにも見えた。
「なら、逆に問わせてもらう。お前にその後の覚悟はできているのか?」
「覚悟?」
「金を返したところで、それで終わりにはならない。一方的に秘密を知った私が今度狙われる立場になる。私にとってはどうでもいいことだが、お前はどうだ?私と一緒にいることで、仲間だと思われるだろうな。突然背後から刺されることもあるだろう。気軽に外も歩けなくなる。そういう現実を受け入れられるのか?」
 ラシャの言葉に、ライは驚いていた。
 ラシャの本心がどこにあるのかは分からない。それでもラシャはライのことを気遣ってくれているように聞こえたのだ。
 俺を……守ろうとしてくれてる?
 そうなのか?
 驚くべきラシャの言葉に、ライは一瞬声を失っていた。リーガも同じなのか、口を少し開けたまま、目を大きく見開いている。
 ライが感じた疑問をラシャにぶつけていいのだろうか。
 それとも、止めた方がいいのだろうか。
「ラシャ……」
「覚悟はできているのかと聞いているんだ」
 面倒くさそうにラシャは言う。
 だが、ライが答える言葉は決まっていた。
 この男とともに過ごすと決めた日、自分の命は捨てた。
 例え全くこの男を変えられず、その手にかけられても、いいと。
 何もかも捨ててきた。
 家も職場も友人も。
 自分に残っているのは、この身一つだ。
 それを後悔していない。
「……覚悟はできてる。ラシャと一緒にいると決めた日から……」
「そうか」
「だから……ラシャ……もう、本当にやめてくれよ」
「……」
「なあ、人を殺すってことは、その人の全てを奪うことになるんだ。俺は……命って例えそれが自分のものであっても、自ら奪うことも許されないことなんだって思う。俺は……それを思い知らされたんだ。その辛さを……その苦しみを、ラシャもいつか知らなくちゃならない。そして人を殺めてしまったら、命ある限り弔っていかなくちゃならない、罪なのだと、気付かなくちゃならないんだ……」
「まるで……お前も誰かを殺した口ぶりだな」
「……ああ。一人殺した」
 その時のことを思い出し、ライの頬に思わず涙が伝った。
 もし、思いとどまっていたら、何か変わっていたかもしれないのだ。
 あのとき、あのとき……。
 あのときに戻れたら。
 昼夜を問わず、ライはそんなふうに過去ばかり振り返っていた。
 けれど、どれほど科学が進歩しても、今のところ過去には戻れない。
 自分の犯した罪を、その元から変えることはできないのだ。
「お前はそのことで苦しんでいるのか?」
 ラシャはどこか興味深げに聞いてきた。
 ライの言ったことを、自分なりに考えているのだろうか。
「……ああ」
「どんなふうに、痛む?」
 頬に触れていた指先が、ライの胸元に移動して、心臓の上を撫でさする。不思議なことにラシャが触れていると痛みより心地よさが伝わってきた。
「胸が……締め付けられるように、苦しい。覗くことはできるけれど、どこにあるのか分からない心が……痛む」
「……心地よさそうだな」
 乳首の上を何度も撫でさすられて、ライはこんな状況でありながら、身体が火照ってきた。
「ラシャ……俺は話をして……っあ!」
 ラシャのもう片方の手がスラックスの上から雄を掴み、緩やかに揉み上げてくる。膝がガクガクと震えだし、身体が前のめりになっていく。
「よせよ……」
「苦痛を思い出して顔を歪めるお前の顔は欲情に値するな……」
 まるで朱を引いたように赤い唇が、微笑している。だが、表情は冷静沈着そのもので、深淵を思わせる瞳は笑ってはいない。
「な……何を言って……っ!」
 ダンッと壁に押しつけられて、ラシャの脚がライの両脚に挟まれる。
「たかが一人を殺して辛い、痛いと涙するなら、私がこの手に殺しを教えてやろうか?十人も殺せばなんとも思わなくなる……」
 喉の奥でくぐもった笑いを響かせ、ラシャは目を細めた。
 室内の温度が数度下がったように感じられ、ライは身体を震わせる。
「……ラシャ……本気じゃないよな?」
「身体を隙間なく血で洗えば、何も感じなくなるぞ……」
 そう言ってラシャはライの上着を切り裂いた。
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