Angel Sugar

「血の桎梏―邂逅―」 第7章

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これではいけない。
 快楽に流されてばかりでは、何の進歩もないのだ。
 本能は身体の疼きを満たそうと懇願しているが、理性は必死に抵抗している。
 自分が何のためにここにいるのか。本来なら命を絶っていてもおかしくない自分がどうして生きながらえているのか、思い出すのだ。 
 俺……うやむやにする気はないからな――。
 ライはラシャがシャワー室に入っている間を狙い、こっそり通信室に向かった。だが扉は開かない。足下にいたリーガに、ライは頼んだ。
「リーガは入室許可があるんだよね。開けてくれる?」
「ここはまずいよ、ライ。入ったことがばれたらラシャに殺されちゃうよ」
「あれをしたら殺す、それをしたら殺す……って、もう聞き飽きたよ。殺したかったらそうすればいい。俺は怖くない」
「……ライって本当になんていうか……まあ、そこまでいうなら、開けてあげるけど……見るだけだからね」
 そう言うとリーガは、ライの肩に乗った。そこから扉についた、網膜認証式になっている画面に目を映した。
 青い光の筋が上下するのと同時に、扉が開いた。
 ライは通信室の椅子に座ると、すぐさま画面を操作した。ラシャの殺しの依頼がどこにファイルされているのか、探さなくてはならない。
「リーガ、知らない?」
「知ってても、教えない。僕はこれに関して無関係だからね」
「意地悪言うなよ」
「あのさあ、ライ。やっぱりやめようよ……。あいつが本気で切れたら、生きたままライを臓器屋に売っちゃうかもしれないぞ」
「先に俺はラシャと約束したんだ。殺しはやめる……そう言った。だからいい……あっ……見つけた」
 簡単にそれらしいファイルを見つけたものの、当然のごとく鍵が掛けられていて開けなかった。予想はしていたが、ライは怒りで顔が赤くなっていく。
「…………くそ」
 目の前のモニターに映るファイル。手の届く場所にあるのに、何もできない。これがある限りラシャの口にする『殺しはやめた』という言葉は、ただむなしくライの耳を通り過ぎていく。
「ほら、もう無理だって分かっただろ。さっさとここから退散しようって。もうすぐシャワー室から出てくるよ」
「リーガ。解除の鍵を教えてくれよ」
「それも知ってるけど、解除したところで中身は分からないよ。ファイルは全て暗号化されているんだ。読み取れるようにするには、あいつが身につけているブレスレットに入力されている、解読コードが必要になる」
「……」
「依頼はそれほど残ってなかったから、気にしなくていいんじゃない。新たな依頼は受けない。それで十分だと思うよ」
「残ってるってことは、誰かがこれからまだ殺されるってことだろ。十分だなんて、どうして言えるんだよ」
 ライが怒りを滲ませた声でそう言うと、リーガは耳をぶるっと震わせて、細く息を吐き出した。
「……ラシャは殺そうとする相手のことなんて頓着しないけど、僕は何度か調べたことがあるんだ。依頼がなくても殺したい酷いのもいたし、逆にどうしてこの人殺されなくちゃならないんだろう……って思うのもいたよ。でもさ。依頼人の立場からすると『死んで欲しい』理由があるんだよね。結局、依頼を受ける殺し屋より、それを金で代行させる人間の方が罪深い気はしない?」
「……」
「だいたい、ラシャが依頼を受けなくなったところで、別の殺し屋に依頼されるだけだよ。結局、ターゲットは死んじゃうんだ。その死を引き起こしたのは依頼者であって、殺し屋じゃないだろ」
「それは……そうだけど……」
「ライはさ……殺しを止めたいの? それともラシャを止めたいの? どっち?」
 リーガは金色の目をこちらに向けたまま、じっと答えを待っている。
「……どっちもだよ」
「じゃあさ、他にも殺し屋がライのところに『殺しをやめるから、毎日セックスさせろ』ってやってきたら、全員とそういう関係を結んじゃうわけ?」
「……む、無理に決まってるだろ。できないよ、そんなの」
「ということはライはラシャだから止めたいと思ってるってことだよ。そういう自覚があるのかどうか知らないけど」
 ライはリーガが何を言いたいのか、よく分からなかった。けれどリーガはただ一人全て理解しているような顔をしている。
「ファイルを消す消さないっていう問題を前にして、どうしてそういう話しになるわけ?」
「いまここでそのファイルは消せないけど、仮に消したとするよ。そうなるとラシャは大変な立場に立たされるし、一緒にいるライも同じ危険を共有するってこと。ライがもし『殺し屋撲滅』のためだけにここにいるなら消してもいいよ。でも、ラシャだけ特別にそう思っているなら、やめた方がいいってことだよ」
「……え」
「ラシャが言ってただろ。命を狙われる立場になるって……さ。あいつ気づいてないみたいだけど、あの台詞はライを守ろうとして出た言葉だよ。自分が危険な立場におかれても、あいつは気にしない。僕がどうなろうと目もくれないね。でも……ライは違う。ライがいたからラシャはらしくない台詞を言ったんだよ」
 それは気づいた。
 冷酷なラシャから想像もつかない言葉だった。それはライを護ろうとしてくれているようにも聞こえた。
 覚悟はできているのか――。
 自分に対する覚悟はできている……はずだった。けれどリーガに問われてその気持ちが揺らぎ始めていた。
 自分の身にどのような火の粉が降りかかろうと、構わない。けれどラシャはどうなのだ。彼やリーガを危険な立場に追いやってもいいのか。
 ラシャが受ける殺しの依頼は、権力者ばかりだと聞いている。だから捜査の手も依頼者へ及ばない。そんな彼らの依頼を一方的に反故すれば、ラシャは追われる立場になるだろう。ひとときも気を許せず、一箇所に留まることもできず、また絶えず追跡者を交わして放浪し、いつかどこかでのたれ死ぬ。
 これが殺し屋の末路だと言い切れるほど、ライの意志はまっすぐ貫かれてはいなかった。
 どうしてこんな気持ちになっているのだろう。
 彼にどうなってもらいたいのだ。いや、自分はラシャとどうなりたいのだ。
「ライ、まだそのファイルを消したい?」 
「分からない……けど、いまは無理だって分かったから……部屋を出るよ」
 その現実になぜかライは安堵していた。ほんのついさっきまで、あんなにも悔しく腹立たしい気持ちになっていたにも関わらず。
 消せたら消していただろうか――?
「そこで何をしている」
 背後から冷たい気配が漂ってくる。同時に突き刺さる視線に身が竦んだ。
「……別に、なにも。入ったことのない部屋だったから、ちょっと見てただけだよ」
 そう言いながら、ラシャの視線を避けるように目を伏せ、部屋をあとにしようとした。が、その手を掴まれ、引き戻される。
「……っ。なんだよ」
「見つけたようだな」
 ラシャはライの身体を背後から覆い被さるように抱き留め、モニターを覗き込む。ライは取り繕うように言った。
「ちょっと触っていたら出てきたんだ。中は見てないから……」
「たとえリーガが開いたとしても、中は意味不明の数字ばかりだ。お前に見られることはない。説明されなかったのか?」
 ラシャの口調は淡々としたもので、怒りは感じられなかった。けれど両腕に挟まれた身体はモニターの台に押しつけられたままで、逃げ場がない。
 ライが言葉を失っていると、ラシャは右腕につけた細いブレスレットを、モニターにかざし、言った。
「それで……覚悟はできたのか?」
「……ラシャ」
「お前が消したいというなら、消してやってもいい。私は構わない」
「でも、それって……」
 モニターの画面に浮かんだファイルに、ブレスレッドを重ねようとしたラシャの手を、ライは止めた。
「待ってくれよ! いい……いいんだ。もう少し……考えさせてくれ」
「どうした?」
「俺は……俺はいいんだ……俺のことは……でも。頼む。いまはまだやめてくれ。考えさせてくれよ……」
「好きにしろ」
 ラシャは自分の手首からブレスレットを外すと、それをライの手首にはめて、去って行った。その姿を振り返って確かめることができなかった。
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