Angel Sugar

「氷解する瞳」 第1章

前頁タイトル次頁
 だるい会議が終わって名執は真っ先に席を立った。
 午前中は会議でそれ以後は名執の予定は夕方からのオペだけであった。名執は自室に戻ると白衣を脱いだ。そうしてスーツの上着を羽織ると、駐車場へ向かって歩き出す。その間中すれ違う患者から会釈を受け、それらに応えながら笑みは絶やさない。時には立ち止まりながら、患者と会話を交わす。
 受ける眼差しには自分に対する絶対的な信頼が見える。名執はそんな眼差しを受ける度に自分は医者であることを確認するのだ。
 何か人の役に立つ仕事に就きたいと思い、何となく医者になった。今は医者であることを誇りに思う。
 人に話せない過去を持ち、人から信頼される値など全くない自分に患者たちは信頼の目を向けてくれる。だから名執は彼らに無条件の優しさをあたえる。例え、病魔に冒された結果、精神的に追いつめられ、後は医者に頼るしかない。そんな状態で向ける信頼でも名執には酷く心地よく感じるのであった。
 もちろん、感情移入をしすぎた患者が亡くなったりすると落ち込むこともある。復活するのに時間がかかる事もある。それでも医者を辞めたいと思ったことは無かった。
 しかし先ほどの会議を思いだし、これさえなければいいのに……と名執は車を走らせながらため息をついた。
 本日は夜勤の為昼間はあいていた。うちに帰って仮眠を取ろうか、それとも普段しようと思ってずるずる引き延ばしてきた細々とした事をしてしまうか迷う所であった。
 色々考えたが結局名執は、さっさとうちに帰って暫く仮眠を取ることに決めた。
 元々名執はアウトドア派ではない。まず友人と呼べるのは幾浦だけであったので、交友関係は全くないと言って等しかったのだ。
 病院で同僚と呼べる人間はいたが、友人はいなかった。医者同士のつき合いは年に数回ある飲み会位しか参加しない。もちろん慰安旅行など絶対参加しない。(リーチの手前もある)たまに誘われるゴルフなども断っているうちにお呼びがかからなくなった。
 そう言うわけでこの病院の医者達の中では、たぶん一番付き合いにくい嫌なタイプの人間であるだろう。
 分かってはいるがそんな自分の方針を変えるつもりはなかった。
 自分は手術をした後にステーキなど食せる図太い神経の持ち主ではない。始終ゴマをすらなければならないような相手と一日付き合って等いられない。
 それに医者は、特に外科医はプライドが高い。手術方針を決める先ほどの会議にそれは顕著に分かる。
 名執にしてみれば、どんな方法であろうが、患者にとって一番いい方法を選べばいいと思うのだが、プライドの高い外科医がそろうと互いが自分自身の方法が一番だと思っているから始末に負えない。なにより派閥のようなものまであるので、結局二手に分かれていつまで経っても方針が決まらない。
 全くくだらないことである。
 そんな時、名執が冷ややかでいるのが廻りから煙たがられる要素であるのだろう。いや、それより年齢が彼らより下であるにも係わらず、立場的には上司という肩書きが気に入らないのだ。
 気に入らないと言われても名執にもどうにもならないことだ。決めたのは院長で自分からなりたいと言ったわけでは無かった。アメリカに渡ってスキップで大学まで終え、あのころは何かに駆り立てられているかのようにがむしゃらに勉強をした。
 毎日睡眠を削り、とれる博士号は片っ端から取った。その間人とのつき合いなど全くしなかった。いつも机に向かっているか、手術を片っ端から引き受けるかどちらかであったのだ。
 時間の感覚など無い、ただ酷く生き急いでいた。その結果が、今の自分である。
「あの先生は天才だから鼻にかけてる」と言われているのを偶然聞いたことがあったが、そんな筈は無い。彼らとて自分のように時間を全て学問なり研究なりに費やせば、誰だって出来ることなのだ。
 彼らは天才と呼ぶ人間の定義を医者でありながら間違っている。天才とは何もしなくても出来るのだ。それとて、神様のいたずらなのか、種としての偶然なのかは分からないが、脳に情報を伝達するシナプスが人より多い人間を言うのであって、自分のような神から見放されている人間ではないのだ。
 そう考えていると名執はげんなりしてきた。
 何より警察病院にこれほど長く勤めるつもりは無かったのだ。
 一年……そう約束では一年だけであった。だから雑音もそれほど気にならなかった。それがいつの間にか一年が過ぎていた。
「あの先生はプライドが高すぎる……」
 そう言うことも聞いたことがあった。
 それらはコミニュケーション不足であるために受ける誤解であることは充分、分かっているが、自分をさらけ出す勇気も根性もない小心者であるのだ。だから会話自体が発生しない。
 中には好意的にみてくれる同僚もかなりいる。態度で分かるがそれに上手く応えることが出来ない。それは時に同僚以上の感情を相手から感じるからである。そんなことはリーチには言ったことはなかった。言えばリーチは嫉妬するだろう。
 以前、いかにリーチ自身が嫉妬深いかを本人は名執に話してくれたことがあった。その為、そんなくだらないことを自分から話し、余計な心配をさせる種をまくつもりはなかった。
 なにより名執とてリーチからそんな話は聞きたくなかった。
 リーチやトシは魅力がある。利一という彼らが創った性格も魅力がある。警視庁やその近辺の警察署、果ては彼らが仕事で訪れた警察署では必ず利一の信望者になる人間がいる。少なからずの人間が利一に好意を抱いているのだ。それを思い出すととても名執は嫌な気持ちになる。自分の大切な人がたくさんの人から好かれるのは悪い気はしないが、いつ自分より魅力的気な人間に出合うかもしれないと思うと不安になる。
 確かにリーチは自分だけを見てくれている。必要だと、愛していると囁いてくれる。それでも心の隅にある自分の不安は、きっといつまでもそこに消えずにあるのだろう。こればかりはリーチが何を言って、約束してくれたとしても消えはしない。
 名執の全ての過去をリーチは知っている。それらをひっくるめて全てを包んでくれる。リーチには何も自分を偽ることはない。これから先、そんな人間には出会えないだろうと名執は思う。だからこそ不安になるのだ。
 リーチは名執のことを優しい人間だと思っている。そんなことは無い。嫉妬もするし腹が立つこともある。それにあの芳一のことも未だに許せないのだ。身に受けた暴力よりも、リーチをいまだに愛しているであろうことが許せない。ただ、許せないからと言って何か復讐をとは考えない。殺したいと本気で思い詰めたのは祖父のことだけである。
 そこまで思い詰めた時でも結局何も出来ず、状況に身をゆだねることしか出来なかったのだ。芳一のこともどんなに許せないと思ったとしても、多分その辺りで落ち着くのだろう。
 そんな自分がいやで仕方がない。自分から物事を切り開くことが出来ないのだ。それが名執の性格なのだ。そのことをリーチが知っているとは思わない。知ればきっとうんざりするに違いないからだ。
「嫌な性格……」
 小さくそう言って名執は家路を急いだ。

 自分のマンションに戻ると玄関に見慣れた靴が並んでいた。
「リーチ??」
 こんな時間にリーチが来ることなど無かったが、目の前に並んだ靴は紛れもなくリーチの靴であった。何より名執が選んであげた靴であったので見間違えはしない。
 自分の靴を脱ぐと名執はリーチのお気に入りの場所へと足を向けた。
 このマンションのベランダは二人暮らし(一週間ごとであったが)にはあまりにも広かったので、名執はサンルームを作った。リーチは工事の人間が暫くとはいえ部屋をうろつくことが気に入らないようであったが、出来上がってしまうと、その不機嫌もすっかり上機嫌にもどった。それ以来、最近はリビングよりもそこにいることが多かった。
 案の定リーチはクッションに頭をのせ、丸まった様な格好で眠っていた。
「起きているのでしょう?」
 名執はそっとリーチの脇に座って言ったが一向にリーチは狸寝入りを決め込んでいた。
 リーチが人の気配を読み違えることはない。例え深く眠っていてもリーチのセンサーは確実に人の気配を感じ取り、名執がどんなにそっと近づいても気づかれてしまうのだ。
「うん」
 瞳を閉じたまま、眠そうにリーチはそう言った。
「リーチこんな時間にどうしてここにいるのです?」
「なんでかな……」
 やはり瞳は閉じたままであった。
「リーチ……」
 暫くするとうっすらと目を開けたが、その目は熱っぽかった。
「熱があるんですか?」
 あわてて名執はリーチの額に手を当てた。すると高くはないが、普段より高い熱が指先から感じられた。
「いつもの……微熱」
 そう言ってリーチの瞳は閉じられた。
「また体を酷使してますね。自分でも分かっていることなのにどうして気をつけられないのですか……」
「そう言うなよ……」
「ほら、立って下さい。寝室で横になった方がいいですよ。まずスーツを脱いで楽な格好で体を休ませてあげないと……」
 名執はリーチの肩を軽く揺すってそう言ったが、問題児は一向に動こうとしなかった。
「リーチ」
「後一時間ほどで出ていくから……ここに転がしておいてくれていいよ……」
「駄目です。ほら、立って下さい」
 今度は肩をつかんで起こそうとしたためか、リーチは素直に体を起こした。
「う~」
「凄んだって怖くなどありませんよ」
 名執はそう言うと、渋々リーチは寝室へ歩き出した。
「お前こそ……何でこんな時間に帰って来るんだよ」
「私は夜勤ですから夕方まで眠ろうと……」
 そこまで言って名執はリーチがニヤリと笑ったことに気づいた。
「駄目ですよ。リーチ」
「何だよ。俺まだ何も言って無いだろ……」
 下着一枚になったリーチがベットに寝転がりながら言った。
「全く……二人もいて健康管理がどうして出来ないのでしょうね」
 名執は、呆れた口調で言った。
「二人だから出来ね~んだよ」
 リーチとトシは日常生活でも睡眠時間は多くない。その上、刑事という職業上、一度事件を追いだすと、何日も眠らない日が続くのだ。本人達にすれば、二人は交代で休んでいるというが、意識はそうであっても彼らの共有する体は一つしかない。
 だから周囲からみると、一週間も利一は眠らない生活を続ける事になる。それでも本人たちはスリープといって意識を交代で眠らせているので、休んでいるつもりなのだ。そういう状態が続くと先に身体が悲鳴をあげるのも無理はなかった。
「微熱が一番怖いのですよ。それよりおしゃべりはもうやめて眠って下さい。一時間後に起こせばいいのですね」
「い……いいよ、自分で起きるって。それよりお前も寝ろよ……夜勤だろ?お前こそミスできない仕事なんだから……」
 その目は本気でそう言っていた。
「そうですね……ですが私は少し用を済ませてから休みますので、先に休んで下さい」
「だから……そういうの後にしろよ、寝るのにつき合え」
 むうっとしながらリーチは言った。
「リーチ……」
「そういうのは無いから」
「ほんとに約束して下さいよ」
 こういう約束はなかなか守られた試しが無いのだ。と言っても名執も結局リーチの言うことを聞いてしまうのが問題なのだが……。
「くどいな」
 名執は仕方なくパジャマに着替え、リーチの隣に横になった。するとリーチは案の定こちらにすり寄ってきた。
「リーチ……」
 困ったような名執の口調にリーチが言った。
「ユキ……このまま眠らせてよ」
 頭を胸にすり寄せてきたリーチから普段より高い体温が感じられる。これなら怠いに違いなかった。
 どうして、もう少し体をいたわった生活が出来ないのだろうと悩む。いくら注意しようと、リーチにしろトシにしろ耳を貸してはくれないのだ。
「困った人達ですね……」
 呟くようにそう言った時にはリーチはすでに寝入っていた。名執は狸寝入りかどうかを確認するために、少し鼻をつかんでみたが、リーチは微動だにしなかった。
「眠ったみたい……」
 ささやくようにそう言って今度はリーチの髪をそっと掻き上げた。するとリーチの性格には似合わない顔がそこにあった。無防備な寝顔はさらにそれを濃くする。
 年齢より幼い顔立ちで、どちらかといえば可愛い感じがする。あまり手をかけない髪は少年の様にさらりとしていた。これで黒目がちの瞳が開いていると、人によってはたまらないタイプの男性であろう。その瞳が子犬のようにもオオカミのように鋭い眼光を放つことを名執は知っている。逆にその瞳が優しい笑みを見せてくれるのは自分だけだと言うことも知っていた。
 名執はリーチのそのどちらの瞳も大好きであった。それを話して聞かせたら、きっとリーチは、妙なことを言うと言って笑うだろう。
 そんなことを考えているのも知らずにリーチは眠っていた。名執が側にいることを確認してから眠りに入ったときのリーチは、普段では考えられないほど無防備に等しい。
 どんなときでも神経を眠らせることが出来ないリーチは、一日が終わる頃には、口には出さないがくたくたに疲れる様であった。本当に命の危険なときなどそう滅多に無いのだが、リーチは四方八方にアンテナを張っているようであった。
 本人は無意識でそうしているのだから口で言っても理解できない。それに本人にとっては日常であるから始末が悪い。それが今では名執のそばでは驚くほど無防備な寝顔を見せるようになった。
「お休みなさい……リーチ」 
 名執も眠りについた。

 目が覚めるとリーチは既に出た後であった。リーチの眠っていた場所に移動し、彼の残した温もりに浸りながら、またうとうととした。そうして次に起きたのは、既に三時を過ぎていた。
 慌てて起きあがり、服を着替えながら、ふと電話を見ると留守番電話が入っていた。再生を押すと驚く人からであった。
「スノウ元気にしていますか?レイです。覚えてくれていますよね。約束の一年が過ぎても帰ってくる気配がないので、プロフェッサーが僕に貴方を連れ戻すようにと言われました。スノウが働いている警察病院から今電話をかけています。どうも入れ違いになったようです。聞くと夕方から又こちらに来ると看護婦から聞きました。その頃合いを見計らって僕もこちらで待つことにします。いろいろな話は会ってからということで、とりあえずご挨拶まで」
 レイ……レイが来たのですか……。
 名執は居間のソファーに座るとじっと考え込んだ。
 日本へは一年という約束で戻ってきた。名執はあの頃、生きることが限界であったのだ。
 時間や日付が分からない毎日を過ごし、なんのために生きているのか自分に日々問いかけていたあの時、いい思い出など何もない日本へ帰りたいと無性に思っていた。偶然にも医学会議でアメリカに来ていた巣鴨に勧められ、一年だけという約束で日本へと戻った。
 初めての経験に最初はとまどったものの(研究所では手術をしても患者と接触は無かった)患者との会話や、穏やかな時の流れが名執には心地よかった。何事にも無関心であった自分の視界に色が付いたのだ。
 そしてリーチと出会った。
 生きると言うことが現実に自分の中で確かなものとなったのだ。移りゆく季節を肌で感じ、時間を取り戻すことが出来た。愛されること、愛することの幸せをかみしめることが出来た。そのうち一年の約束など忘れてしまった。向こうもそのことを忘れていると名執は考えていたが、そうではなかったのだ。その証拠にレイが日本へとやってきている。
 レイは真っ直ぐな性格を持っており、名執のことをスノウといって慕ってくれていた。名執雪久という発音が苦手なのか、スノウと呼んでいた。
 名執は、レイの実直な性格がとても苦痛に思えたことを思い出した。レイを見ていると苦労も知らず、両親の暖かい愛情の中で育ったことが分かるからである。曇りのない笑顔が時に名執を酷く落ち込ませたのだ。
 そのレイが来ている。それも連れ戻しに来たと言っている。しかし、例えレイがその気でやってきているにしても名執には戻る気は更々なかった。
 


「そろそろなんだけどなぁ……」
 レイは待合室でチョンと座って何度目か分からない吐息を吐いた。
 名執が約束の一年を過ぎても戻ってこない事で、どんなに居心地の良い環境なのだろうと空の上で考えたが、意外にこぢんまりとした病院であったことが驚きであった。
 確かに日本の地価では大きい方になるのだろうか?
 しかし特別なところの無い、ごく普通の病院であった。あの名執が気に入るようには思えなかった。
 名執は素晴らしい才能に恵まれた人間である。繊細な指はそれこそ芸術的であった。その指が一度メスを握れば奇跡だって起こしてしまうだろう。いや、現実に起こしていたのだ。そうであるからこんな病院で落ち着いてしまう等考えられないのだ。
 レイは名執に憧れていた。いつも冷静で的確な判断を下す手腕は見事なものであったのだ。その上彫刻のように整った顔立ちをしていた。まるでギリシャ神話に出てくるミューズのようであった。
 尊敬し、憧れ、名執のようになりたいといつも思っていた。冷めた瞳は近寄りがたいものがあったが、レイはそんなものにめげはしなかった。いつも名執の側をうろつき、教えを請おうと必死であった。時折名執の方から一言、二言でもあった日には嬉しくて夜も眠れなかった程である。
 しかし名執は日本へ帰ると言い出した。プロフェッサーもそれには驚いたようであったが、名執が日本へと戻ることを許可した。一番手放したくないと考えていたはずのプロフェッサーが許可した時は本当に驚いた。
 確かに拘束するものなどない。だが報酬も普通の医者よりかなりいいのだ。こちらの要求も有る程度柔軟に対応してくれる。そうであるから居心地は良かったはずだ。
 それなのにどうして……レイは理解できなかった。
 頭をもたげながらレイは玄関の方に視線を移した。すると向こうから名執らしき人物が歩いてきた。
「レイ。ご無沙汰していますね。お元気でしたか?」
 そう言って名執は笑みを見せた。それは今まで見たことのない笑顔であった。
「ス……スノウ?」
 その笑みはレイに衝撃をもたらした。いつも冷めた表情しか見せなかった名執だったのだ。記憶にある名執は極寒に咲く白バラのイメージがあった。それが今は洋蘭のごとき笑顔である。
 同一人物かどうか一瞬疑いを持ってしまうほどの変わり様であった。
「どうしました?」
「え、いや、その。スノウ……なんだかものすごく変わりましたよね」
 どう対応していいか分からずにレイは妙なことを口走ってしまった。
「そ、そうですか?」
 暫くじっとこちらを見つめて、
「そうかもしれません」
 と、名執は言った。
「変わりましたよ。だって……僕の知っているスノウはもっと……その……何て言うか……」
 どう表現していいか分からずにレイは語尾が頼りなく消えた。
「いいのですよ。どうおっしゃっていただいても……私は本当に自分でも変わったと思っていますので……レイの知っている私はとても冷たい印象があったはずですから……」
 くすりと笑って名執は言った。
 その一つ一つの仕草がどれも信じられない。
「つ、冷たいなんてそんなんじゃなくて……」
「それより、アメリカからわざわざ何のご用で来られたのです?」
「一年の約束だったじゃないですか……」
 いきなり用件を切り出した所為か、名執の方は困ったような表情を浮かべた。
「……」
「どうして戻ってこないんですか?プロフェッサーと約束したんでしょう?」
「はっきり申しますが……戻るつもりはありませんよ」
「スノウ……」
「私を見て変わったと思うでしょう。こんな風に変われたのもここに来てからなのです。まぁ、レイは良いと思ってはくれないかもしれませんが、私は今の自分の方が好きになれます。そんな自分になれたのは今の環境のおかげです。だから戻るつもりはありません」
 きっぱりと名執はそう言った。
 その口調は厳しく感じたが、全体的に柔らかくなった名執の雰囲気が、言葉尻を柔らかくしている。
 レイの知っている名執にそんな風に言われたとしたら、暫く立ち直れなかっただろう。
「でも……僕は……」
 本人が満足していることに口を出すわけもいかなかったが、名執の才能をこんなところで終わらせる訳にはいかないのだ。
 名執はもっといろんな事を成し遂げることが出来る。それにはこんな田舎の病院では無理なのだ。
「スノウを連れ戻します」
 きっぱりとレイはそう言った。
「レイ……。私の人生は自分で決めます。貴方にもプロフェッサーにも決める権利は無いはずでしょう。確かに約束を違えたことは謝ります。それにたいしてどう思われたとしても私は戻るつもりはありません」
「いいえ。連れ戻します」
「……困りましたね」
 ため息をつかんばかりに名執は言った。
「どうしてここなんですか?ここにこだわる理由は何ですか?」
 分からなかった。患者はどこにでもいるし、何が名執を引き留めているのか分からなかった。だから納得する理由が欲しかったのだ。
「ここは患者と接触出来る環境です。ほとんどはそう言う環境ですが、あの研究室では御法度でしたね。私はそれが普通だと思っていましたが、それは間違いだと気づいたのですよ。患者さんは不安な為に自分の主治医と話をしたがるのです。医者はそれに応えてあげなければいけない。心のコミュニケーションも大切な治療の一つです。それが出来ない環境に戻りたいと思わないだけですよ」
「メンタルケアは専門のドクターがいるじゃないですか。専門でもない我々がするべき事じゃないでしょう」
「そう言う意味のものでは無いのです。ですが、いくら話しても貴方には分からないでしょうね」
 悲しげな顔で名執は言った。
「分からない。理解できない」
「話はそれだけですか?」
「それだけ……って」
 名執がどうでも良い事のように言ったのでレイは慌てた。
「用件は終わりました。失礼しますよ。私はこれからオペなのです。これ以上つきあってはおれないのです」
 くるりと背中を向けて名執は歩き出した。
「スノウ!」
 拒絶したような名執の背中がレイには痛かった。
「今度は観光で来て下さい。案内してあげます」
 一度だけ立ち止まって名執がそう言うと、もう二度と振り返らずに行ってしまった。
「……」
 周囲にいる患者や看護婦が自分のことを訝しげに眺めていた。会話は英語であったので分からなかっただろうが、中には分かった看護婦もいたようでこちらを睨んでいた。
 なんだか悪者になったような気がしたレイは、仕方なくホテルへと戻った。

 オペが済み、自室に戻ると内科の看護婦がやってきた。
「名執先生……ちょっと良いですか?」
「え……三宅先生のところの山名さんでしたね。三宅先生が何かご用でも?」
「あ、三宅先生は関係なくて……その、悪いと思ったんですが……聞こえちゃって……」
 聞こえてと言うところで名執はピンと来た。レイとの会話を聞いていたのだろう。そう言えば彼女は英語とドイツ語が出来ると聞いたことがあった。
「内緒にしておいて下さいね」
「もちろんですよ。先生ご担当の患者さんの耳に間違って入ったら、それだけで逝っちゃいますって」
「山名さん……」
「じょ、冗談ですよ先生。でも絶対戻らないですよね」
 真剣な山名の言葉が名執には嬉しかった。
「ええ。毛頭ありませんよ」
「良かった」
 安心した表情を浮かべて山名は言った。
「他の方に心配をかけては申し訳ないので秘密にして於いて下さいね」
 名執は念のためもう一度そう言った。
「分かってますって。じゃ、私戻りますね」
 本当に大丈夫でしょうか……と思いながら、その考えをすぐに否定した。
 山名は昔、絶対安静の患者を、その家族が家に連れて帰るのを見逃したことがあったのだ。
 患者が行方不明になったとき、山名は担当医に問いただされたが一切口をつぐんでいた。そしてその患者は自宅で息を引き取った。それは患者の希望であったのだ。
 家族から事情を受け、初めて山名は自分が黙っていたことを認めた。そして辞表を出したが、院長の取り計らいで現在も勤めている。患者の家族から強い要望もあったのも理由であった。何より亡くなった患者は最後の瞬間に意識を戻し、家で死ねることを喜んで息を引き取ったのである。
 そんな口の堅さを持つ山名であったから黙っていてくれるであろう。問題は今後のレイの動向であった。あの様子では簡単に引き下がるように思えないのだ。
 話しても分からない相手に何を言っても無駄なことは分かっていたが、理解して欲しいとも思った。レイが理解してくれるのであれば、そのことをあちらで説明してくれるだろうと思うからだ。
 本来ならば自分が行かなければならないのであろうが、行けば簡単に帰してくれないかもしれないという不安があった。それにリーチも黙っていないだろう。
 暫くすると予定していたオペの準備が出来たと連絡が入った。



 週があけ、リーチが久しぶりに外で食事をしようと言ったので、名執は指定の店へと急いだ。レイはあの日、病院で会ったきり姿を見せなかったので、諦めたのだろうと安心したが、リーチに会うとそうではないことを知った。
 珍しくリーチの方が先に席に着いていた。こちらを見て手を振っている。名執は急いでその席に向かった。そうして席に座るとリーチが笑顔で言った。
「ユキ、お前つけられてるぞ」
「え?」
「振り向くなって、金髪の小僧だ。知ってるやつか?」
 相手に気づかれないようにする為か、リーチはやはり先程見せた笑顔をのまま言った。
「金髪……」
 レイは姿を見ないのではなく、隠れていたのだ。それを知り名執は妙に腹が立った。
「こっちに来るぜ」
「ええっ」
 暫くすると、レイが側に立った。
「ご一緒しても良いですか?」
「いい加減にしてくれませんか?」
 げんなりと名執は言った。ちらりとリーチの様子を伺うと、表情は相変わらず利一の顔で笑顔であった。
「私は別に構いませんよ。名執先生のご友人ですか?」
 リーチは英語でそう答えた。
「そうです」
 リーチと会話が出来ると分かった所為か、名執が答える前にレイがそう言って、空いている席に勝手に座った。
「初めまして。レイ・バルハートと申します。失礼ですが?」
「隠岐利一と申します」
 名執は考えられない状況に、どうして良いか分からず固まった。
「先生、レイさんがこちらに来られていることをご存じだったのですか?」
「え、ええ。つい先日会いまして……」
「では、私とこんなところで食事をする前に、レイさんを観光に連れていってあげないと……折角来られたのですから……」
 笑顔でそう言っているが名執には分かっていた。リーチは今頃「なんで言わなかったんだよ」と心の中で悪態をついてるに違いないのだ。
「いいんです。私は観光で来たわけでは無いのです」
「そうなのですか……ではこちらの先生にどのようなご用件で……」
「ドクターは元々日本へは一年の約束だったのです。それで連れ戻しに来たのですが、どうしても首を縦に振ってくれないのです」
「連れ戻しに……ですか?」
 リーチの造った笑顔が造ったように曇る。
「ええ。貴方が友人であるなら分かって下さると思うのですが、名執さんは素晴らしい腕を持ったドクターです。こんな島国で埋もれてしまうにはあまりにも惜しい人材なのです。これは誇張ではありません。もっと彼の才能を伸ばす環境で腕を磨くべきなのです。そしてそれを与えられる場所がある。ならそこへ帰るべきだ。そう思われませんか?」
 レイは興奮気味に言った。
「先生はどうお答えしたのですか?」
「え、私はお断りしたのですが……」
 急に話を振られた名執は上手い言葉が出なかった。
前頁タイトル次頁

↑ PAGE TOP