Angel Sugar

「氷解する瞳」 第4章

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 海岸線に車を止め、暫く風に当たってから自宅に戻ると既にリーチは台所に立っていた。
「早いじゃないか……」
「リーチこそ……」
 あの騒ぎの中、そんなに早く帰られるとは名執も思わなかったのだ。
「いたたたた……持病が……ってさ」
 エプロンを着たリーチはお腹を押さえ、そう言った。
「仮病刑事」
「言ったな……食わせないぞ」
「不良刑事」
 今度はくすくす笑いながら名執は言った。
「可愛くない。可愛くないな……全くよ」
 やってられないと言うポーズをして、リーチは火を止めてこちらに近づいてきた。
「ユキ……」
 そう言って包み込むようにリーチは名執を抱きしめた。触れあう身体から暖かな体温がじんわりと感じられた。
「食事もいいけどまだ早いから……で、どうだったんだ?」
 言いながらリーチは名執を離した。そうして二人はリビングのソファーに座り、名執は先ほどいた喫茶店での事をリーチに話した。
「ん……で、何の勝負をしようとしてたんだよ」
「覚えが無いのです……もしかしたらケインが一人でそう思っているのかもしれません」
「ふーん……ケインね……あいつ俺の印象から言って……そう悪い奴じゃないぞ」
「……」
 ケインのどこをどう見れば、そう思えるのか名執には分からなかった。
「そんな驚いた顔するなよ。ただな、思い通りにならないから癇癪起こすってことさ。ただ扱いを間違えると何考えて何しでかすか分かんないぜ。いや、暴力的な事をするタイプじゃないからそれは大丈夫だけどな」
 分かったような顔でリーチは言った。
「リーチは……私が戻ってもいいのですか?」
 リーチを見上げて名執は聞いた。
「そうだな……真剣にお前が帰りたいって言ったら……俺はいいよって言うしかないだろうな。お前に惚れてるから……」
 あまり嬉しい答えではなかった。
「……」
「って、言って、とりあえず安心させて置くんだよ。で、薬でも盛って眠らせてさ、お前が場所の分からない所に監禁でもするかな……」
 ニヤリと笑ってリーチは言った。
「な……何て事を考えるんですか……」
 言いながら名執は、なんだか嬉しかった。
「以前言ったろ……お前無しの生活は出来そうに無いって……」
 リーチは名執を抱きしめ、鼻面を頭に置いた。
「それより……ケインが……その……貴方に言った事ですが……」
 吐き気をもよおすほど、その話題は避けたかったが、昔の自分が何故そうであったかをリーチに話しておきたかった。

刑事さん、こいつに騙されてるぞ。こいつは人のことなど、どうとも思わない奴だぞ。視線の中に入らないんだよ。昔ッからそうだ

 リーチがその事を、まともに取るとは思わなかったが、もしもを考えると恐怖が先に立つのだ。リーチに対し、いい子でありたいのではない。今もそんな人間だとは思われたくなかったのだ。
 誰よりもリーチにだけは思われたくない……
「何も……言うな……」
 だが説明しようとしている名執の言葉をリーチはそう言って遮った。
「私は……あの頃の私は……」
 目の奥が痛んだ。
「言わなくていいって言ってるだろ……」
 急に力強く抱きしめられ、名執は息が止まりそうになった。
「昔に……お前は俺にどうしてそうなったのかを、きちんと話してくれてる。二度聞き直すほど俺は馬鹿じゃない……もう、いいんだよ……」
「リーチ……」
 張りつめた何かが音を立てて崩れた。すると名執の瞳に涙が急に溢れてきた。
「お前は良く頑張った。辛かっただろ……。お前がどんなに昔の自分を毛嫌いしているか分かってる。消してやりたいと俺も思う……でも願ってもそれは消せないんだ。受け止めて生きるしかない。ユキはちゃんと向き合うことが出来たんだ。良くやった」
 小さな子供をあやすようにリーチの手は名執の背中を優しく撫でた。
 何か言わなければと名執は思ったが、喉が詰まり言葉にならなかった。ただ、涙だけがボロボロとこぼれる。
 それを止めることが名執には出来なかった。
「ユキは……俺に言ってくれたよな……。過去の俺がどんな俺であっても受け入れることが出来るって……。今見えている俺が俺であればいいって……。けど嘘は嫌だってさ……」
 俯いていた名執をリーチは自分の方に向かせてそう言った。
「そのまま……お前に返すよ……」
 リーチの瞳は優しく澄んでいた。そんな瞳を見せてくれるのは自分だけであるのも名執は知っていた。
 包み込むような優しさを持つ瞳……。
 その瞳をずっと見つめていたいはずが、涙のせいで曇った。
「リー……チ」
「泣き虫ユキ……でも泣いてていいよ」
 ふっと笑ってリーチは言った。
「辛くて泣くのも嬉しくて泣くのも……俺だけに見せてくれ……」
 軽く名執の頬に唇を当てながらリーチは続けた。
「だけど偽った姿は見せるな。そんなものは望まない……返事は?」
 言葉がうまく継げず、名執は何度も頷いた。
「ユキ……愛しているよ……どこにも行かせない……帰るなんて言ったら俺、お前をどうするか分からない……だから嘘でも言わないでくれ……帰るって……」
「言えません……だって私は……貴方の側で初めて私自身になれる……。自分の望む強さが生まれる……。貴方がいないと……もし貴方が私を……」
 捨てたらと言う言葉は言えなかった。
「今度こそ本当に……」
 壊れてしまうだろう……。
 日本に戻り自分は変わった。それでもそれは表面だけだ。それはいつまでもつか分からない自分であった。だから基本的な性格まで変わってはいない。
 毎日ただもがいていた。
 誰かに助けてもらいたかった。
 仮面のように笑顔だけを浮かべていたが、いつも小さく怯えている自分がいた。
 人が信じられず、心の扉を開くことが出来なかった。
 今もたった一人の人間にしか完全に開くことが出来ない。
「馬鹿なこと言うな……そんな考えもするな。二度とだ!」
 急に強い口調でリーチは言った。名執には怒りすら感じられた。その怒りすら名執には嬉しい。
「リーチ……」
「全く……お前はろくなことしか考えないんだからな……。もう少し楽しい事を考えろ。俺とやることとか……」
 ニヤニヤと口元に笑いを浮かべてリーチは言った。
「そう言えば……もう限界です……」
 名執は自分からリーチに口づけを求めた。

 翌朝リーチが目を覚ますと、名執はまだその腕の中でぐっすりと眠り込んでいた。
「ユキ……」
 起こさないように……それでもそっと廻していた腕に力を込めた。
「よく眠ってるな……」
 名執の寝顔をじっと見つめて呟いた。
 睫毛が本当に長かった。彫りも深く端正な顔立ち、これで瞳が開いているとリーチはもう降参であった。何度、腕の中で眠る名執を見ても、その現実が本当であるのかと疑問を持つことがある。
 これは夢なのではないか、夢から覚めると名執はいないのではないか……
 そんな事を考えてしまう。
 名執のいない人生は考えられない。
 もし名執が帰ると言い出したらどうすればいいだろう……
 そういう不安もある。
 この腕の中にずっと囲っておくことが本当に出来るのかという漠然とした不安である。
 互いに離れなれないと分かっている。
 それでも自信過剰になることなど無いのだ。
「俺の自信なんて……お前の言葉一つでどうとでもなるんだからな……ああ……俺ってホントお前に惚れてるよ……」
 名執の額にかかる髪をかき上げると形の良い額が露わになった。鼻梁にしろ眉の形一つ取っても芸術的であった。その眉が今の仕草で顰められる。
「う……ん……」
 小さく名執はそう言って、不安げな顔で無意識に手を伸ばしてきた。その手にリーチは自分の指を絡めた。ほっそりとした指はしなやかに巻き付いてくる。その動作と同時に、ホッと安心したかのような表情が名執の顔に浮かんだ。
 名執は無意識でよくリーチを探すような仕草をする。それはきっと未だに癒されない孤独が意識の底にあるからだ。そればかりはゆっくり癒えるのを待つしかなかった。
「ユキ……何も心配しなくていいからな。どんなことになっても俺はお前の側にいる……なんだって一緒に背負ってやる……。だから地面にまっすぐ立ってるんだぞ。後ろを振り返ることも、怖くてしゃがむこともしなくていい。前だけ向いてまっすぐ歩くんだ……」
「ん……リーチ……何……言ってるんですか……」
 リーチが耳元で囁くように話していた声が聞こえたのか、名執はうっすらと目を開けた。
「いや……悪戯しようと企んでいたら……お前が目を覚ましたってことさ。残念」
「リーチ……」
 名執が全く……という表情をこちらに向けた。
「ユキは何時出勤だ?」
「八時に間に合えば……」
「俺はこれからすぐに出勤だから……行くよ。お前はもう暫く眠ってろよ」
 そう言ってリーチはベットから降りた。
「リーチ……」
 名執はそう言ってこちらに手を伸ばしてきた。
 何か不安な事があると名執はいつもそうやってリーチに包容を求めるのだ。そんな名執をリーチはぎゅっと抱きしめてやった。
「気を付けて……」
「うん……」
 軽くキスを交わしてリーチは着替えた。出るときもう一度名執を抱きしめ、外へと出た。
 気分良くマンションのエントランスを出ようとした瞬間、リーチはある気配を感じた。
 ち……見られたか……出てくるか?
 リーチは人の気配を察し、向こうがどう出てくるかを待った。すると暫くしてその人物は姿を見せた。
「隠岐さん、こんな時間に何をされてるんですか?」
 ケインであった。
 お前はストーカーかっての……
「付き合い酒を少々」
 にっこり笑ってそう答えたが、ケインはふふんと鼻を鳴らして意味ありげな視線をこちらに送ってきた。
「付き合い酒?そうじゃないんでしょう」
「何が言いたいのです?」
 分からないと言う顔をしてリーチは言った。
「それで雪久は動けなかったと言うことか……」
「どういう事ですか?」
「どこまでとぼけていられるか分からないですがね、ちょっと良く見ておれば誰だって分かりますよ。雪久が隠岐さんに向ける視線、で、こんなに朝早く雪久の住むマンションから出てきた。馬鹿でも気がつく」
「私には……ケインさんが何を言いたいのか……」
 あくまで分からないふりをリーチは続けた。
「いいでしょう。取引です隠岐さん」
「取引?」
「雪久が日本にこだわる理由がはっきりした。だから隠岐さん、雪久と別れて下さい」
 たーこ……
 お前にどういう権利があるって言うんだよ~
 この馬鹿!
 等と心では悪態を付いているリーチではあるが、そんな事は一切口には出さなかった。
「何をおっしゃっているのです……」
 当然、訳が分からないと言う顔を続けてリーチは答えた。
「日本はまだまだ堅い考えの人間しかいない。それに隠岐さんは刑事さんだ。上司にばれると大変なことになるんじゃないですか?」
 瞳を細めてケインは言った。
「何をばらすと言いたいのです?私には全く想像がつきません」
 ああもう、こいつ、いい加減にしろっての……
「いいんですね」
「分からないことを、いいとか駄目だとか答えようがありません」
「そこまでとぼけるのならこちらにも考えがある。好きにさせてもらう」
 そう言ってケインは去っていった。
 リーチは溜息を付きつつトシを起こすと、その事を話した。
『だから……扱いを間違えないでよって言ったでしょ』
『間違えたつもりは無いんだけどな……』
 リーチは、ハハッと笑いながら言った。
『笑い事じゃないよ……それより覚悟しといたほうがいいね』
 トシは真剣にそう言った。
『そうだな……トシ……済まない』 
『だから……以前に約束したじゃない……どちらかがばれてもお互い様だって。僕の方がばれてたかもしれないんだよ。それより……生活費の方が僕は心配だよ……』
 トシが妙に現実的な事を言ったので、なんだかリーチは可笑しかった。
『何で笑うの?』
『やっぱりお前って……何処かずれてんなぁと思ってさ』
『ずれてるのはリーチだよ。一番問題はそこなんだから』
『分かった分かった。でもま、どういう形であっちが動くか分からないから当分こちらも様子を窺うしかないな……』
 ため息をついてリーチは言った。
 当分ではないことを二人はその日の夕方に知った。

 夕方、仕事を終え、トシは幾浦宅に行こうと退庁した。
『トシ……待て……』
『何?今日は譲らないよ』
『じゃなくて……尾行されてる』
『えっ?』
 周囲を見回したが、トシには分からないのかリーチに言った。
『ホント?』
『東西南北に一人ずつ……』
 リーチはため息を付きながらそう言った。
『ちょっと代われ、一匹捕まえてみる』
『分かった』 
 トシはリーチと交代した。そしてリーチは何気なく尾行している人物に近づこうとするのだが、こちらが一歩近づくとその人物は一歩後退する。足早に近づくと急に気配を消す。すると代わりの尾行者が距離を縮めてくるのだった。
『駄目だ……尾行のプロだ……』
 ふーと息を吐いてリーチは言った。
『何でそんなの僕たちについてるの?』
『知るか……それより、幾浦の家には寄るな。下手するとまずいことに巻き込むぞ』
『……リーチ巻けない?』
『ちょっと無理だ……それに下手に逃げたりすると余計あちらさんの不信感を買う』
『恭眞……怒るだろうな……』
『勝手に怒らせておけ。尾行される理由が分からないうちは、俺もユキん家にはいかない。嫌な予感もするからな』
『……リーチ……なんかまずいことしたの?』
『別に……いつもの利一だったぜ』
 二人は尾行される理由を捜したが、これと言ったことは何も思いつかなかった。
『連絡はメールを使え』
 家であるコーポの近くまで来るとリーチが急に言った。
『電話じゃ駄目?』
『電波を拾われる恐れがある』
『そこまでする連中なの?』
『あそこにバンが止まってるだろ。窓も染めてて中身が見えない。で、アンテナが天井に一杯立ってやがる。あれは電波を拾う為の車だ』
 コーポのある場所から十メートル先に怪しげなバンが止まっているのをトシは確認した。
『一体……なんだっていうのさ?』
『知るか……とにかく家に帰れ……』
 そう言ってリーチはトシと交代した。トシはため息を付きながら自宅へと戻った。だが、戻る途中もずっと見えない尾行者は追ってきていたのでリーチは神経が休まらなかった。
 自宅に着くとトシは又聞いた。
『どう……まだいる?』
『見る間でも無くバンは止まったまま、尾行者も外にいるさ……一体……何だってんだよ』
 イライラとリーチはそう言った。
『とにかく僕は恭眞に連絡を取るね』
 そう言ってトシはパソコンの電源を入れた。
 暫くトシはメールのやりとりをし、何とか幾浦を説得したようであった。リーチの方はそんな二人より今もいるであろう尾行者のために神経が休まらなかった。



「隠岐……お前……飯ちゃんと食ってるか?寝てるか?」
 篠原が心配そうにこちらの顔を覗き込んだ。
「え、どうしてそんなこと聞くんですか?」
 トシはそう答えた。が、理由は分かっていた。リーチが尾行されていると分かった日から全く睡眠を取っていないのだ。というより神経がそちらに集中するようで落ち着かず、眠れないといった方が良かった。
 普段からリーチは人の気配に敏感である。それが四六時中見張られているという感覚が不眠と食欲不振に結びついたのだ。
 リーチのそんな体調がトシにも飛び火し、眠ることは出来ても食欲は無かった。
「お前、目の下のくま……鏡で見て見ろよ……頬も痩けてるし……変な病気にかかってるんじゃないのか?病院行って来いよ」
「大丈夫ですって」
 理由がはっきりしているので、そうとしか言いようが無かった。
「係長も心配してたぜ……」
「すみません。でも大丈夫です」
「…………」 
 篠原は訝しげな顔をしながら自分の席に戻った。
 尾行者はあの日以来一週間、相も変わらずこちらを尾行していた。さすがに庁内にいるときは気配が消えるが、事件で外へ出るとそれは再開された。
 家に帰り、朝出勤する。その間もずっと尾行するのだ。
 トシはリーチが心配であった。トシから見てもリーチは随分憔悴していた。言葉数日々も減っていく。
『リーチ……大丈夫……』
『ん……ああ……』
『僕にさ、良い考えがあるんだけど……やってみようか?』
『何だよ?』
 訝しげにリーチは言った。
『夜になったら実行するよ。絶対捕まえて吐かせてやるんだからね!』
 トシも頭に来ていたのだ。幾浦と会うこともままならない状況が、さらにそれを加速させていた。
 今週のプライベートは自分の番でありながら、一日も幾浦に会えなかったのだ。そのお陰で幾浦の機嫌も悪かった。
 その日は事件も入り帰宅は夜遅くになった。周りは既に寝静まり、人の通りは無い。トシはそんな中を歩く。尾行者はそれに併せて移動しているようだ。
 トシは急に道路にしゃがみ込んだ。心臓の辺りを手で押さえ、苦しそうに喘いだ。
「う……く……」
『なぁトシ……そんなんで奴らが姿を見せると思うか?』
『うるさいな!演技の邪魔しないでよ。気が散るでしょ!』 
 急に心臓発作が出たような演技をトシは続けた。周りに人はいない。自分たちのことを見ているのは尾行者だけである。
 例え、雇われ尾行者であっても無視は出来ないだろうとトシは考えたのだ、しかしリーチはあんまり乗り気ではなかった。
『くさいって……』
 やる気なさそうにリーチは言った。
『う、うるさーい!!』
 トシは壁に背をもたれかけさせ、座り込んだ。胸を掴んだ手を震えさせた。次に頭を垂れ、必死に痛みを堪えている姿を演じていた。
『別な方法を……』
 と、トシにリーチが言ったところで、誰かが足早に近づいてきた。
『おい、トシ!やったみたいだぜ、代われ代われ!』
『ほらね』
 トシは得意げにそう言った。
「大丈夫ですか?」
 近づいてきた人物はそう聞いた。その声は頭上から聞こえた。
「救急車を……あっ」
 と、言ったところでリーチはその人物を一瞬のうちに掴み、自分の下に組み敷いた。あまりの早業だった所為か、組み敷かれた相手は言葉が継げずにいた。
「この一週間……どうして私を……あ……」
『どうしたのリーチ……』
「どうして……身内が……」
『身内って……警察関係者!』
「な……何のことでしょう……私は通りがかりの……」
 そう言ったところでリーチは掴んでいる胸ぐらをギリリリと絞った。
「く……」
「そんな嘘を見抜けないと思っているんですか?どういう理由でこの一週間私をつけ回したのです?」
「つけ回して等……」
 明らかに動揺しながら男は言った。
「後の三人は様子を伺っているみたいですね……まぁいいでしょう。近くの警察署に行って突き出せば私の仕事は終わりです」
「それは……」
「何故、付け回したのですか?理由を教えていただければ放免しますよ」
「…………」
「黙秘?ですか……。いいでしょう。では警察署に……」
 そう言ったところで「待って下さい」という声が後ろから聞こえた。振り返ると背の高い三十代後半くらいに見える男が立っていた。
「すみません。お怒りはごもっとも……今回は許していただけませんか?」
「許す、許さないはどうでも良いのです。ただ、どうして私が……それも身内につけられたか聞いているんです」
「私どもも詳しいことは聞いておりません」
 リーチはそれを聞き、その男を底冷えさせるような瞳を向けた。
「ただ……その……交友関係を調べるようにと……」
 おどおどと言ったがその台詞が嘘ではないことはリーチには分かった。その上理由も一瞬のうちに理解した。
「分かりました……」
 リーチは掴んでいる男を離した。
「行っていいですよ……」
 それだけ言うとリーチは自宅へと足を向けた。男達は後ろでこれからのことをどうするか話し合っているようであったが、もうどうでも良かった。
『リーチ……』
『ケインが……たれ込みでもしたんだろう……だから交友関係を調べられていたって訳だ』
『……』
『くそぉ!それなら直接ききゃーいいだろうが!』
 寝不足と食欲不振のリーチの怒りは普通ではなかった。
『リーチ落ち着いてよ』
『これが落ち着いて……』
『明日さ、辞表だそ……ね、それで終わり』
 トシは宥めるようにリーチに言った。
『ああ、辞めてやる。信じてる身内に探られる……こんな生活送るくらいなら、辞めた方がマシだ!』
 結局リーチは、その日も眠ることが出来なかった。

 翌日、登庁するとリーチはまっすぐ管理官の元へと向かった。
「隠岐です。失礼します」
「ああ、待っていたよ。入りたまえ」
 田原には利一が来るのが分かっていたように言った。
「隠岐、実はな……」
 本題に入られる前にリーチは辞表、それと警察手帳、手錠を机に置いた。
「私の用はこれだけです。色々お世話になりました」
 くるりと身体を反転させてリーチは退出しようとした。
「隠岐、待ちなさい!」
 同時に田原の電話が鳴った。
「とにかく、少し待っていてくれたまえ」
 と、田原は言って受話器を取ったが、リーチは立ち止まることも、後ろを振り向くこともせずに部屋を出た。
「隠岐!探したぜ!事件だってよ」
 退庁する途中篠原に会った。
「私にはもう関係ないんです……」
「なーに言ってんだ!冗談を言っている場合じゃないだろ」
「辞めたんです」
「は?」
 リーチが言った言葉を理解できないのか、篠原はびっくり顔でこちらを見ていた。
「刑事……辞めました。色々お世話になって……篠原さんありがとうございました」
 言ってリーチはさっさと警視庁を後にした。
 篠原は呆然とその姿を見送った。

 リーチは尾行者がもういないのを感じ取ると、名執のマンションに直行した。
『悪い……幾浦の所には明日にしてくれないか……俺はユキの家でしか眠れない……』
 リーチは、ひどく気分が悪かった。
『分かってるよ。僕はどこででも眠れるから……じゃ、スリープするね』
『ああ、お休みトシ』
 名執の住むマンションにつくと、リーチはさっさと鍵を使って玄関に入った。住人は仕事中であるのか当然ながら誰もいない。
「気持ち悪い……」
 小さく呟くとリーチはソファーに転がった。そうしてクッションを引き頭を乗せる。
 睡魔はすぐにやってきた。
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