Angel Sugar

「氷解する瞳」 第6章

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「私が欲しいのは保護者じゃない……それなのに……リーチはいつも肝心なことは私に話さない……気を使ってくれているのは分かります。でも……」
 私がいつもその事でどれだけ辛い思いをしているのか……
 リーチ……知ってるんですか?
 うっと胸が詰まった名執は、悲しくて仕方がない。まして、こんな状況でリーチは保護者のつもりだという事実を知ることなど辛すぎるのだ。
「ユキ……」
「私がそんなに何でもかんでも傷ついて死のうと考えるから、話せないと貴方が思っているのなら……私は……貴方の……何なのです……」
 今度は喉が詰まった。
「違う……それとこれとは違う」
 名執の逃げをうっていた身体をリーチはもう一度引き寄せた。
「……」
「あーもう……何でこんがらがったんだよ……」
 少し口の端に笑みを浮かべ、リーチは言った。
「ま、俺が正体なくしちゃったのが原因か、うん……悪かった」
 いいながらリーチは名執の背をポンポンと叩いた。その仕草はこちらにも落ち着けと言っているようであった。
「リーチ……?」
「今日来たのは、俺が辞表を出した話をしに来たんだよ……。でもユキの口調じゃ、もう既に聞いたみたいだけどさ……。今日だと言うことを責めないでくれよ……。お前に話さないと……と思ってここに着いた時、俺、眠くて限界だったんだ……。起きたらお前は仕事に出ていたし……。じゃあ幾浦もうるさいから先に済ませようと思っただけで、故意に延ばしてた訳じゃない。俺、嘘ついてるみたいに見えるか?」
 そう言ってこちらをじっとリーチは見つめた。それが嘘か本当か名執には判別がつかなかったが、首を横に振った。
「で、とりあえずその辞表の話は置いといて、睡眠薬のことだけど、お前に対してだけじゃなくて、たぶんトラウマみたいになってるんだと思う……」
 苦笑しながらリーチは言った。
「トラウマ?」
「ん……これはトシがらみだから話せなかったけど……トシや幾浦には言うなよ」
「トシさんですか?」
「前にさ、緒方さんの事話したよな……」
 名執はトシが学生時代、緒方という先輩と仲が良かった話を聞いていた。しかし誤解からトシは緒方を避け、そのうち緒方は転校していった。それがどう今に絡むのか名執には分からなかった。
「え……ええ。でもそれが今の話にどういう関係が……」
「聞けって、で、あの話には、まだまだ続きがあるんだ……」
「続き?」
「トシ……な、緒方さんが転校して暫くしてから、俺に黙って睡眠薬飲んで自殺未遂を図ったんだ」
「えっ……」
 初めて聞くことで名執は驚いた。
「自分のプライベートの時に医者に行って、こっそり溜め込んでたみたいでさ、俺の知らないときに飲んで……。そのときは危険なときにベルが鳴るって不思議な現象はまだなかったから分からなかったんだ。で、意識がぼんやりした中で救急車にのせられ、俺が吐かされて、俺が病院で医者にしかられたんだよ……。俺じゃないって……」
 そう言ってリーチは微笑した。
「…………」
「こんなに近くにいる俺に、何の相談も無かったんだ……。いつも通りのトシだったし……死にたいと思うほど苦しんでるなんて分からなかった……」
 しんみりとした口調でリーチは言った。
「リーチ……」
「ホントに分かんなかったんだ……情けないことにさ。いっつも一緒にいるんだぜ、分かってやらなきゃ駄目だったのに気づきもしなかったよ。それからかな……睡眠薬ってのがあるだけで怖くなったのは……」
「トシさん……どうして……」
「自分の存在が許せなかったんだって……さ。なんか良く分かんねーだろ。俺も道連れなのに、そんなこと薬を飲んだときは全然考えてなかったって言ってたよ。同じくらい俺に相談することも考えてなかったらしい。とにかく半分衝動的な所もあったみたいだ。俺、無茶苦茶あいつに説教したって……死ぬのにもつき合ってやるけど、相談も無しに勝手に死ぬなって……そうでなきゃ、俺、死んだこと分かんなくて迷っちゃうだろ……ってさ」
「そんなことが……」
「あったんだよ。だからさ、どんなに相手を分かっていると思っていても……絶対俺には隠し事をしないって思っても、ある日突然何があるか分からないって事を知った。俺、あのときほど自分の無力さを思い知らされたときは無かったよ。ショックだった。だから睡眠薬イコール無力な自分を思い出すのかもしれない……。だからお前にも怒鳴ってしまったんだ。そんなの飲むくらい何かに悩むんだったら、どうして俺に話してくれないんだって……その中にただの睡眠不足もあるんだろうけど……。そんなのはこれっぽっちも考えてなかった……。ただ怖かった。分かってるんだよ。お前は医者で、そんなもので自殺しなくても、もっと方法があるの知ってるって……だけど、あのときの恐怖はまだ俺の中にある……だから睡眠薬があるだけで怖い」
「リーチ……」
 名執はリーチの怯えたような目を初めてみた。
「それで納得してくれた?」
「話してくれて……ありがとうございます……」
 名執は心の底からそう思った。こんな風にリーチが昔のことを話すのは滅多にないからだ。知りたいとは思うがきっかけがないと、なかなかそういう話は出来ない。
「怒鳴って悪かった……」
 申し訳なさそうにリーチは言った。そんなリーチにすり寄って名執は首を振った。
「それで、だ、俺が辞めた話は誰に聞いた?」
「知ったのは田原さんからで、理由はケインが……得意げに言ってましたよ」
「あいつが何を警視庁に吹き込んだか分からないけどさ、一応あいつから忠告があって、その日の夕方から監視がついたんだ。四人も……で、俺眠れなくてもう限界だって時に尾行者を一人捕まえたら、なんと身内だった。一瞬にしてどうして監視がついたかが分かったんだ。で、腹が立って辞表を出したって訳だ……」
「…………」
「誰の所為でも無いからな。たとえばケインじゃなくても他の奴がばらす可能性もあったし、俺達の事じゃなくてトシの方がばれたかもしれないんだからな。その時どうするかはトシと話し合って決めていた。だからお前が申し訳がる事もない。分かった?それより田原さんがって……管理官と会ったのか?」
「その事で……話があるのです。田原さんが……貴方の上司でしたね。その田原さんが訪ねてこられて、辞表は受け取るつもりがないと貴方に言って欲しいとおっしゃっていました。一度警視庁に戻って話をしてこられたらどうです?」
 そう言うとリーチは何処か遠くを見るような目をして微動だにしなかった。
「管理官が……」
「ええ……」
「どうしてここに訪ねてきたんだろ……やっぱりそこまでばれてるのか……」
「それは分かりませんが……ただ、隠岐の友人先はみな回らせていただいているんですよ。特に名執先生とは病院で世話になってから随分親交があると聞いておりますので…とおっしゃっていました」
「そうか……ま、それはトシと相談してから決めるよ。俺の判断だけでは決められないから……」
「リーチ……本当に私……」
 急にケインのしたことを思い出して、涙が又出そうになった。
「だから……良いんだって。お前の所為じゃないんだからさ……ただ心配なのはお前の方にもちょっかい掛けてくるはずだ……」
「ケインに言ってやりました。私は隠岐さんと同じようにするだけです、と。医者を辞めたところで一生かかっても使い切れない財産がありますから……とも言ってやりました」
「……」
 リーチはそれを聞くと表情を曇らせた。
「リーチ……?」
「お前にとって医者は大切な仕事だろう……」
 とリーチが言うと、
「貴方にとって刑事は大切な仕事でしょう……」
 と、名執は言い、互いに顔を見合わせて笑った。
「ユキ……俺達確かに後ろ髪引かれてる……だけどお前を失うことに比べたら、職なんて何でも良いって思えるんだ。だから気にしないでくれ……。それはトシだってそう思っているから……。人間職なんてどうとでもなる。でも大切な人は代わりがきかないんだ……分かるよな……俺が言いたいこと……」
「はい……でも……」
「でもってなんだよ」
「田原さんがおっしゃったことですが……」
「そうだな……トシと相談するよ……」
 それ以上言いようがないという顔をリーチはした。
「それでもケインは悪い男ではないとリーチは言えますか?」
「ああ、ケインはそれほど極悪な性格してないぜ……お前気付かないのか?」
 何で分からないんだという顔をリーチはこちらに向けた。
「分かりません」
「そうか……」
 仕方ないなあという笑みをリーチは浮かべた。その理由が名執にはよく分からない。
「どうしてリーチはそう言うのですか?」
「あいつはな、……うーん……俺が言ってもいいのかな……」
 困ったようにリーチが言った。
「そんなに都合の悪いことですか?何を知っているのです?」
 名執は必死にそう言った。
「別に何かを知っているわけじゃないさ……見て気付いただけさ」
「見て、気付いた?」
 リーチは暫く思案するとこちらに向いた言った。
「ケインはな……お前に認めてもらいたがってるんだ……」
「はぁ??」
「ケインの目標はお前で、そのお前に無視されるのが辛いんだよ。だから子供のように癇癪をおこしているだけなんだ」
「そんなことは……」
「そうなんだよ。見ていてそれが分かった。あいつは自分の事に関心を持ってほしいと思って、お前に色々いちゃもんつけてくるんだよ」
「どこをどう見ればそうなるのですか?」
「渦中のお前には見えにくいのかもしれないけどな。ホントに嫌な相手の為にわざわざ日本に来るわけ無いだろう……それも連れ戻したいだなんてな……。可愛いじゃないか……ちょっとひねてはいるが、ケインの視線はいつもお前を捉えていたよ」
「…………」
 そんなことは信じられなかった。
「ケインの不幸は自分の目標を近いところに持っているとこだ。もっと上を見ればいいのにな、お前じゃなくてもっと上……」
「私なんかを目標にしていると言いたいのですか?」
「ああ、だから勝ち負けにこだわるんだよ、奴は……」
 不思議な気分であった。
「ではどうすれば……」
「あいつとさしで話してみたいな……」
 リーチがとんでもないことを言った。
「ケイン……とですか?」
「ああ、どうすれば良いのか分かるような気がしてさ……」
 リーチはそう言ってこちらをじっと見つめてきた。居場所を教えろと暗に言っているのだ。
「話しても喧嘩腰になるだけです」
 ムッとしたように名執は言った。
「そうかもしれないな……」
 フッとリーチは笑った。
「リーチ……私はどうすれば良いのでしょうか?もう何がなんだか分からなくなってきているのです。ケインはあの調子ですし……レイは間に挟まれて苦しんでいる……だからといって私は何もできませんし……」
「そうだな……」
 リーチは困ったという顔を向けてきた。
「ケインが目を覚ませば良いんだけど……」
「目を覚ます?」
「ああ、上には上がいるってことだ」
「そんなことならケインも分かっていると思いますが……」
「分かってないからこんな事になったんだよ」
「…………」
「ケインの気持ちも分からない事も無いんだが、これ以上ごちゃごちゃ言って来るんなら、ちょこっと頭を冷やしてもらわなきゃあな……」
 ニヤッとリーチは口を歪ませた。
「リーチ……なんだか不穏なこと考えてませんか?」
「別に……」
 白々とリーチは言った。こういうときのリーチはよからぬ事を考えている場合が多かった。
「で、奴らどこに泊まってるんだよ」
 やっぱり……
「教えませんよ」
「話し合いたいだけさ」
「それは先に田原さんと……」
「ケインが先だ。それが済まないと、こちらも動きようがないからな。言えよ」
 名執は渋々ケイン達の宿泊しているホテルを教えた。
「どうせ俺暇だからちょっと遊びに行ってくるよ」
 立ち上がってリーチは言った。
「リーチ……」
「帰って来るって……遅くなるかもしれないどさ」
 そう言ってリーチは玄関へと走っていった。名執はそんなリーチを心配しながら見送った。

 ケインが食事に出かけ、レイは独りぼっちでベットに座っていた。ケインがしたことを自分が止められなかった事が酷く心に重くのし掛かっていた。名執が利一とつき合っていたことは驚きであったが、だからといってそれに対して自分が何かを言う資格等無かった。
 名執が選んだことである。自分たちが立ち入って良いことでは無いのだ。それなのにケインは警視庁に手紙を出した。その内容をレイは知らなかったが、たぶん二人の事を書いたのだろう。利一の数々の業績を知ると、彼が刑事であることに、どれほど誇りを持っていたのかが分かる。それを自分たちが壊したのだと思うと心が痛かった。
 他人の人生を左右することが許されるのだろうか?
 許されるわけは無かった。
 ケインは意地悪なところがあるが、そんなことをする人間でないはずなのだ。臨床研究でもケインは本当に良くやっていた。瞳の奥には患者を助けようとする意志があった。だからレイはケインのことを苦手とは思え、嫌いではなかった。なのにどうして普段のケインからは考えられない行動を起こしたのか分からなかった。
 するとノックの音がした。
「イエス……アーケイン?」
 ケインが帰ってきたのかと思ったが来訪者は利一であった。扉を開けると普段着の利一が立っていた。
「済みません。ケインさんにお話があって……よろしいですか?」
 人懐っこい瞳がレイを見つめた。誰が何をしたかを知っているはずなのに、そんなそぶりは見えなかった。
「ケインは……今、食事に出かけています」
「あの……少し待たせていただいても構いませんか?」
「え……はい……」
 レイは断ることが出来なかった。自分たちに文句を言う資格が利一にあるからだった。
「あの、こちらに座って下さい。ケインはすぐ戻ると思いますので……」
 そう言ってレイは窓際の椅子に利一を案内した。すると利一は嫌な顔一つせず「ありがとうございます」といって椅子に腰をかけた。
「レイさん……」
 いきなりそう言われたレイは「あ……はい」と返事をした。
「ケインさんが今回私にしたことをレイさんはご存じでしたか?」
 窓の景色を見ながら利一は言った。その窓に映る利一の表情は信じられないことに穏やかであった。
「終わってから聞きましたので……それが止められなかった理由にはならないと思いますが……本当に申し訳なかったと……」
「…………」
 利一はレイに対して返事をせずに、ただ無言で夜景を見ている。映る表情はやはり変わらない。逆に余計レイは胸が痛くなった。
「ケイン……口は悪いですけど……あんな陰険なことをする人じゃないんです……今更っても信じてもらえないかと思いますが……」
「先生から聞きませんでしたか?私はケインさんのこと悪い人間だとは思っていないと……」
「あ、はい」
 そんな事を名執が別れ際言った事を思い出した。
「今も思っていますよ……」
 振り返って利一は言った。今度は笑みを浮かべていた。
「どうして……そんな風に言えるんです?まだ……怒鳴られた方が僕は……良かった」
 レイは思わずそう言っていた。
「怒鳴るつもりはありません」
 静かに利一がそう言った。
「僕は……」
 そのときケインが帰ってきた。
「ケイン……」
「……文句を言われても遅いぞ」
 ケインはやや驚きながらそう言った。
「権利はありますよね」
 利一はそう言うと続けてレイに言った。
「レイさん暫く席を外していただけますか?」
 利一がそう言うと、レイは頷くしかなかった。

 レイが出ていくとリーチはケインと向き合った。
「座りませんか?」
 先にリーチが窓際の椅子に座っていたので、前の空いている席を勧めた。
「………」
 ケインは暫く思案した後、仕方ないという表情でこちらの勧めた席に座った。
「で、何の用だ」
 表情は平静を保っているが、動揺しているのをリーチは気付いていた。
「どうしてそんなにギスギスしているのです?」
「いきなり……何の話だ」
 そんな話だとは思わなかったのか、今度は明らかに動揺した表情が読みとれた。
「貴方を見ていると、そんな生き方はとても疲れるのではないかと思いまして……」
「人の心配より自分の心配をしたらどうだ。本当は腹が立っているのだろう?」
 ケインはじっとこちらを見て言った。
「いえ、いずれ何らかの形でばれるのではないかと考えておりましたので、腹が立つ事はありません。確かに後ろ髪は引かれますが、大切なものを失うことを考えればそんなものはどうでもいいことなのです。だから今日はケインさんに恨み言を言いにきたのではありません。それより私は貴方の事が心配で……」
 そう言ってリーチがちらりとケインの様子を伺った。ケインの方は居心地悪そうであった。それはそうだろう。怒鳴られるだろうと思った人間が想像していなかったことをいきなり言うのだ。ケインが動揺するのも無理はなかった。
「あんたに心配される覚えはない」
「私、節介焼きなんです」
 そう言ってリーチは笑みを見せた。利一の顔の笑みが相手にどんな影響を与えるかリーチは充分知っている。
「……」
「名執先生が言ってました。勝負をした覚えはないと……何の勝負されたのです?」
「まだそんなことを……雪久が私を煽ったんだ。臨床研究で同じ患者を手術したときだ……私は……」
 ケインは言いにくいのか、そこで言葉を止めた。
「同じ患者を手術ですか?」
 リーチは黒目がちの瞳をケインに向けた。その純な瞳の効果は絶大であった。
「……私は手順を間違えかけた……」
 余程そのときのショックが大きかったのか、ケインは苦しそうに言った。
「その事を雪久に注意された……冷たい口調でな……」
「それが……勝負ですか?」
「違う……もう少し聞いてくれ。確かに……あれは私のミスだった。注意されて助かったと……雪久に対して感謝した」
「感謝されたのに……どうして?」
「その後だ……食堂で雪久を見つけて、同じ席に座り感謝の言葉を伝えた。なのに、あいつは私の事を見下したような視線を向けて言ったんだ」
 そのときのことを思い出しているのか、ケインの表情は怒りに燃えていた。
「今後私は貴方と組みたくはありません。ってな」
 そう言ってケインは自嘲気味に笑った。泣き笑いに近かった。
「ああ、確かにお前はすごいと言うしかなかった。同じ土俵に上がることはまだ無理かもしれないが、次を見てから判断してくれと言ったさ……だが二度と組むことは無かった。雪久がプロフェッサーに二度と私とは組ませないでくれと頼んだそうだ」
「……」
「余り腹が立ったので、あいつにどういうことだと聞いたんだ、そしたら貴方のミスを私が背負おわなければならなくなるのが嫌だと……だから雪久に言ってやったんだ。お前に必ず勝って二度とそんな台詞を言わせないと、そう言うとあいつはやっぱり冷めた目つきでたった一言、どうぞと言った……」
 組んだ手をケインはじっと見ながらそう言った。
 ケインは真面目なのだ。リーチにはそれが分かった。
 名執に言われたことで、ケインはそれからものすごい努力をしたに違いないのだ……。たぶん名執が一年の約束で日本に帰っている間に、追いつこうと必死だったのだろう。それが当人がそんなことをこれっぽっちも覚えていないので、ケインは切れたのだ。
 自分はそれだけのために一年を費やしたにも関わらず、覚えていないと言われたケインは、それこそ名執を殴りたい気分になっただろう。
 しかし名執が突き放した理由もリーチには良く分かっていた。
「誤解ですよ……ケインさん……」
「何がだ」
 ジロリとケインはリーチの方を睨んだ。
「あの先生は……貴方を見下しているのではなく、貴方を避けたかったのですよ」
「そんなことは分かっている」
「あ、そう言う意味じゃなくて……ケインさんが感謝の言葉などを言うから避けたんです」
「何だそれは……」
 確かにそういう名執は理解できないだろう。だがリーチには手に取るように名執の当時の事が分かっていたのだ。
「人と関わることがとても苦痛だったようです。あの先生、つい最近まで本当に人間不信で……今はそれほど酷くありませんが、昔はかなり酷かったようです……。それは本人も言ってましたけど……。だからケインさんから感謝の言葉を聞いて、どうして良いか分からなかったのでしょう。だから二度と近寄ってこないようにそう言ったのだと思います」
「そんな馬鹿な……」
「先生の経歴……ご存じですか?」
「ああ、確か内科次に精神科それから外科にきたとプロフェッサーから聞いたことがあった。妙だなとは思ったが……それが?」
「精神科を選んだのは、自分自身を見つめたかったからだそうです。でも自分のことも面倒見切れないのに人の精神状態の相談など受けられないことを知って、外科に移ったのですよ。相手に飲み込まれそうで怖かったそうです……」
 リーチはそう言ってケインの方を見た。ケインは信じられないという表情をしていた。
 まあいきなりそう言ってもすぐには信じられないだろうなあ……。
 だが分かって貰わなければ先には進めない。
「彼に両親や親戚はいません。詳しいことは言えませんがその辺りでかなり苦労したようです。人間不信もそのころになったようで……だからケインさんがどうとかではなくて、あの先生にとっては誰であっても近づいて欲しくなかったのです。でも聞くと臨床研究所ではみなさんとてもそんな先生に良くしようとされたようですね……レイさんがみんなが先生を心配してたと言ってました。多分そんな人の目が苦痛になって日本に逃げ出したのですよ」
「そんな話は……信じられん」
 きっぱりとケインは言った。
「信じるか信じないかは貴方次第です……」
 そう言ってリーチは笑みを浮かべた。
「だが、今の雪久は昔と余り変わってはいないぞ」
 そうケインが言うとリーチは可笑しくなった。やはりケインは名執に好かれたかったのだ。
「何が可笑しい……」
「いえ、先生があなたに冷たいのは……いえ、レイさんにもそうですが、昔の嫌な自分を思い出す人達から今度は逃げたがっているのです。可笑しいでしょう……今も昔も自分であるには違いないはずなのに……怖いんですよ向き合うのが……」
「いや……あいつはそんな奴じゃ……」
「言ったはずです。信じるかどうかは貴方次第だと……ただ、自分を基本に人のことを捉えると間違った見方しかできないと私は思います」
 だから俺みたいな第三者の目からも見ろと言ってるんだよっ!
 なあんて事は口には出さない。
「そんなつき合いにくい奴と、どうしてあんたはつき合うんだ。確かに綺麗な男だが……」
「人間不信になるのはそれだけ純粋な心を持っているからだと思います。そして傷ついた分、それを克服したとき、誰よりも他人に優しくなれる。そんな彼の患者に対する優しさに私は惚れたんですよ」
 照れたようにリーチは言った。
「わ……私にのろけられても困る……」
 突然の事にケインは焦っているようであった。
 いっちょ上がりってとこだな……。
「あ、そうですね……」
 ははっとリーチは笑った。
「今晩きたのは……先生からは言えないだろうと思ってお節介を焼いたんです……だから何を話したかは貴方の胸の内に仕舞っておいて下さい……。ばれたら怒られますので……」
「雪久は……今……幸せなのか?」
「ええ。そう思っています……」
「そうか……」
 夜景を見ながらケインは言った。誤解は解けたようだ。
「では私はこれで……」
「ああ、隠岐さんの上司にはこんな風に手紙を送りました。良かったらどうぞ……」
 そう言ってケインは二つ折りの手紙をリーチに渡した。リーチはそれをポケットに入れるとお礼を言って外に出た。外ではレイが真っ青な顔で座り込んでいる。
「レイさん……終わりましたよ」
「隠岐さん……」
「間に挟まれて大変だったでしょう……その事は先生も心配しておられました。でももう大丈夫です。ケインさんも分かってくれたようですし……」
「僕は……」
 涙が潤んでいた。
「ケインさんに私が何を話したか聞いて下さい……じゃ……」
 リーチはそう言ってホテルを後にした。
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