Angel Sugar

「氷解する瞳」 第5章

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昼近く家に戻るとリーチが来ていた。今週はリーチの週であったので、名執は何の違和感も感じなかったが、こんな真っ昼間であるのが気になった。
「リーチ……来てるんですか?」
 名執が言いながらリビングに入ると、そこでリーチはソファーに眠っていた。だがそのリーチの姿を認めて驚いた。
「リーチ……どうしたのです?リーチ!」
顔色悪く、やや痩せたように見える身体を名執は揺さぶった。
 いつもなら名執が声を掛ける前に気がつくはずなのだが、その日に限り一向にリーチは目を覚まさなかった。
「狸寝入りじゃないですね……。リーチ……こんな所では風邪を引きます。……起きて下さい」
 さらに何度か揺さぶると、リーチはようやく目を開けた。
「ユキ……寝かせて……」
それだけ言って又眠りに落ちる。
 仕方がないので寝室から毛布を運んでリーチの身体にそっと掛けた。
「リーチ……何時に起こせばいいのですか?」
そう名執は言ったが、よほど眠りが深いのか、全く反応を示さなかった。
 見たことのないリーチの無防備な姿に何かあったと名執は思ったが、この状況では全く分からなかった。何よりリーチの額に手を当てると、又微熱があったので名執はタオルを絞って額にのせた。
「……」
暫く思案し、名執は幾浦に電話を掛けた。
「名執です」
「どうした?」
「今、リーチが眠っているのですが……様子がおかしいのです……」
「どう……おかしいのだ?」
「ひどく疲れた顔をしています。その上痩せて……眠ったまま起きないのですよ。何かそうなる原因を幾浦さんはご存じ無いですか?」
すると幾浦はこの一週間トシと自分がどんな風であったかを話した。
「尾行……ですか?」
「ああ、理由はわからんが、どうも四六時中見張られていたようだ。それで参っているのではないか?私とも連絡を取れなかったくらいだ」
「そうですか……起きたら聞いてみます」
「そうだ名執、今週二日くらいトシに譲ってくれ。二週間もトシと会ってない」
「ええ、構いませんよ。リーチに言っておきます」
「悪いな……」
 そう言って電話は切れた。
受話器を置いてリーチを見ると、気持ちよさそうに眠っていた。そっと近づいて顔を覗き込んでもリーチは反応を示さなかった。目の下のクマが痛々しく見える。
「リーチ……ご飯ちゃんと食べていました?」
答えは返ってこない事を分かっていたが、名執はそうリーチに言い終えると立ち上がり、起きたときに何か食べさせようと台所に向かった。

料理を作り終え、それでもリーチが起きる様子が無かったため、名執はリーチとは反対のソファーに座り、雑誌を読みながら様子を窺っていた。すると丁度八時を回った頃に管理人から来客を告げる連絡が入った。
「名執さん、田原さんと言う方が訪ねてこられていますが、お通ししてもよろしいでしょうか?」
田原という名前に聞き覚えがなかった。
「知らない方です。お引き取り願って下さい」
名執はそう言ってインターフォンを切った。だが暫くすると又連絡が入った。
「警視庁の田原さんだそうですよ」
そう言われ、ようやく名執は田原の名前を思い出した。
 リーチから時折聞かされていた上司の田原だったのだ。
 自分にではなく、ここでぐっすり眠っているリーチ達に用があるのだろう。しかし、どうしてここにいる事を知ったのだろうか?
「……仕方ありません。お通ししても構いません」
「分かりました」
暫くすると来訪を告げるベルが鳴った。扉を開けると田原が立っていた。精悍な顔立ちに、スーツをきっちり着こなした田原は、目尻にはしわがあるものの、名執が想像していた感じとは違い、若く思えた。
 管理官というのだからもっと歳を取っているのだと思っていたのだ。今目の前に居る田原は三十代後半いくかいかないかくらいだろう。
 キャリア組なのでしょう……
 そんな事を考えていると田原が口を開いた。
「隠岐はこちらにお邪魔しておりませんか?」
「いえ……隠岐さんが何か?」
「隠岐は今日、辞表を出しましてね……話も聞かずに出ていってしまったもので、探しているのですが、自宅にもおりません。携帯は切っているようで繋がらないのですよ」
 言って田原は苦笑した。
「辞表……ですか……どうして辞表を……」
名執は本当に驚いた。
「いえ、誤解がありまして……その話を隠岐としなければならないのです」
「どうして……こちらに来られたのですか?」
 それが疑問であった。名執とつき合っていることは知らないはずだからだ。
「隠岐の友人先はみな回らせていただいているんですよ。特に名執先生とは病院で世話になってから随分親交があると聞いておりますので……」
 どういう意味に取ればいいのか分からなかったので名執は沈黙を守った。
「隠岐はこちらで今眠っているのですね」
 そう言った田原の目は確信を持っている目であった。
 気付かれていることを知って名執は観念した。
「ええ……そうですが……話を出来る状態ではありません」
「そうですか……不躾ですが隠岐の寝顔を見せていただけませんか?」
「はぁ?」
「妙に聞こえますが、私どもの誰一人として隠岐が眠っているのを見たことが無いのですよ。放っておけばいつまでも眠らない。事件に入るとあの男が全く眠らなくなることを知っています。だから寝顔を見たことがない」
「どういう意味で寝顔を見たいとおっしゃっているのでしょうか……」
「隠岐の飾らぬ姿を見たいだけですよ。それに姿を見ないと安心できませんので……」
どうしようかと迷ったが、田原は信用できる人間であるとリーチから聞いた事があった。名執はそれを信用する事にした。
「分かりました。ですが遠くから眺めるだけにして下さい。とても疲れておられるようで起こしたくはありません」
「それで結構です」
田原をリビングの入り口へと案内をし、扉のガラス部分から田原は利一の姿を眺めた。そしてぽつりと言った。
「隠岐にも……安心して眠る事が出来る場所があるのですね」
その瞳は自分の子供を見つめる父親の目に見えた。
「ありがとうございます。帰るとしましょう」
そう言って田原は玄関へと引き返した。帰り際、田原は名執に言った。
「隠岐に辞表は受け取るつもりはないと伝えて下さい。とにかく話し合いたい。そう伝えていただけますか?」
「隠岐さんに聞く耳がありましたら……」
 名執はそれだけを言って田原を見送った。
起きたら……リーチに言わなければ……
 名執はそう考え、一晩リーチの側についていたが、リーチが目を覚ましたのは翌日の昼過ぎであった。

「どのくらい……眠ってたんだろ……」
 のびをしながらリーチは起きあがった。するとテーブルにメモを見つけた。

リーチ、ご飯の用意はしてありますので必ず食べて下さいね。それと、私が戻ったら何 があったかちゃんと話して下さい。
 雪久

「話さないと……やっぱまずいか……」
まずいと分かっていても話しにくいことであった。下手をすると私の所為です……といって泣き崩れるだろう。だからといって黙っていても名執は泣くだろう。どちらにしても名執は泣くことが分かって、リーチは憂鬱になった。
「トシちゃんウエイクしてよ」
『うーんおはようリーチって……何か日が高いみたいだけど』
「丸一日、俺、寝てたみたい」
あくびをしながらリーチは言った。
『よっぽど疲れてたみたいだね』
「まだ……眠い……」
ふうんとリーチは言った。
「ユキに話さないといけないかな……」
『当たり前だろ……ケインが雪久さんに絶対話すよ。知らなかったらきっと雪久さん落ち込んじゃうよ』
「ん……だな」
分かっていたが気が進まないのだ。
「お前さ、今晩は幾浦ん家にいけよ。先にそっちに話した方が良いな……」
『何で、恭眞が先なわけ?』
「俺もちょっと考えまとめたいからさ、でないとうまくユキに話せない。だから一日考える時間が欲しいんだ。それに住むところも変わらないと……どちらかの家に一緒に住むのも出来ないしな。ユキも幾浦もその辺でもめそうだろ。だから幾浦に言って、以前あいつが買ったマンションの一部屋を安く貸してもらえるように交渉して欲しいんだよ。トシ、駄目か?」
『そう言う理由ならしかたないなぁ……でもあの部屋地下だよ』
「地下でもいいさ……安けりゃな。おい、生活費の心配をしてたのはお前だぞ」
『そうだけど……』
 トシはため息をついた。
『で、リーチ新しい就職は何にする?』
「それはもっと後だ。住処を決めて、ケインを何とかしないと……」
『同感……』
リーチはトシと交代し、幾浦の家へと向かった。

名執が出勤するとケインとレイが入り口で待っていた。無視しようとしたがケインの方から近づいてきた。
「雪久、いつまでこんな田舎にすっこんでいるつもりだ?」
 無視した。
「恋人は、お前を捨てるぞ。戻って来るんだ」
 何をケインが言っているのか分からなかった。
「何が言いたいのです」
 ようやくケインの方を振り返って名執は言った。
「ちょっと隠岐さんの上司に忠告しただけだ」
ケインは薄笑いを浮かべてそう言った。そのケインの台詞でリーチの状態と田原が訪問した理由を名執は知った。
リーチはだから辞表を出したのだ。
「ケイン……貴方って人は……なんて卑怯なのです」
「卑怯はお前だ」
「隠岐さんは……辞表を出しました。もう関わらないで下さい」
「何だって?」
 ケインは驚いたようであった。
「貴方が例え私に同じ事をしても、私は隠岐さんと同じ事をするだけです。それでも私はここから離れません。別に働かなくとも私には一生かかっても使い切れない財産がありますから……」
「スノウ……」
 今まで黙っていたレイが口を開いた。
「レイ……私は残念で仕方ありません……貴方だけはケインを止めてくれると……」
 名執がそう言うとレイは俯き、もう何も言わなかった。
「ケイン……貴方が何に意地を張っているか、私には分かりません。ですが、貴方にもレイにもプロフェッサーにも、私の人生に口を出す権利はありません。誰にもです。これ以上私につきまとうのでしたら、私は自分の生活を守るために法に訴えるつもりです」
 きっぱりと名執はそう言った。
「……スノウ……僕は……」
少し顔を上げてレイは言ったが、言葉が続かないのか暫くすると又俯いてしまった。
「隠岐さんが……ケインは悪い人間ではないと言ったことが信じられませんよ」
 静かにそう言うと名執は病院に入った。

「恭眞……ちゃんと聞いてくれた?」
「もちろん」
「じゃ、何で嬉しそうに笑うの?」
 トシはむっとしたように言った。今回の騒動を幾浦に話したのはいいが、それを聞いて何故か幾浦は嬉しそうなのだ。
 人が辞表を出したというのにだ。
「私はお前が刑事であることに反対だった」
 急に幾浦は真面目な顔でそう言った。
「……」
「再就職くらい何とでもなる。私が世話をしてもいい」
「僕と……リーチの生き甲斐だったんだよ……」
「お前らに取って生き甲斐でも私は反対だった」
「言っとくけど……コンピュータ関係の仕事にはつけないよ」
「どうしてだ?」
「リーチはまるっきり出来ないから……メールくらいは出来るけどそれだけだから……そういう訳で仕事は二人で協力して出来るものしか選ばないよ」
トシは悲しくなり、次にだんだん腹が立ってきた。
「トシ……」
「恭眞……恭眞はどうしてそうリーチを毛嫌いするの?どうしてリーチの事も考えてくれないの?」
 涙が出そうなのをトシは必死に堪えた。確かにリーチと幾浦はそれほど仲が良くない。だからといってこんな時まで、そんな風に毛嫌いするなど信じられないのだ。
「ご、誤解だトシ……」
 慌てたように幾浦は言った。
「いつもそうだよね……どうして?」
 幾浦の顔をじっと見つめながらトシは言った。
「別に毛嫌いなどしてはいない」
「リーチは……僕たちのこと本当に良く考えてくれているのに……。以前色々もめたときも……リーチや雪久さんはどうすれば僕たちが仲直り出来るか考えてくれた……。なのに恭眞はリーチ達の事なんてどうでもいいんだ……」
腹が立っていたのが、今度は悲しくなってきた。
「だから……誤解だと言っている」
「……」
「どういえばいいのかな……。リーチには感謝はしても毛嫌いはしない。ただ、私はあいつが無茶をしてお前が巻き込まれるのが怖いんだ。だからすぐあいつの行動をいさめたくなる。お前達が普通の刑事では無かったからな……。こっちは四六時中心配していた。リーチが走り出すとお前も走るだろう。それが怖いんだ。それを分かっていないリーチといつもぶつかるんだよ……」
トシを引き寄せて幾浦は言った。
「よく分からないよ……」
「例えば、リーチが屋上で綱渡りがしたいと言って、お前が断れないところが嫌なのだ」
幾浦はそっと抱きしめて囁くように言った。
「そんな事言わないよ……」
 呆れた風にトシは言った。
「違う、例えだ。お前達がいつも一緒にいるから……リーチが無茶をしてもお前は一緒に付いていくしかない。その為に、お前をいつか失いそうな気がして……」
 そう言って言葉を切って更に言った。
「怖いんだよ……トシ……」
「恭眞……」
「危険な仕事でないなら……安心できる。だから嬉しいのさ……私の気持ちも分かってくれるか?」
「うん……」
気持ちは嬉しいがなんだか釈然としないトシであった。
「で、住むところの話だが……あの地下のマンションは売ってしまった」
 いきなり話を切り替えるように幾浦は言った。
「えー……どうして?」
「もう使うとは思わなかったからだ……済まない」
「謝らなくてもいいよ。でも……うーん……当てにしてたから……」
 今のコーポの家賃は警視庁がいくらか負担してくれているのだ。だから今度はまるまる自分たちで払わなければならない。だから出来るだけ安いところが良かったのだ。
 そのあてが外れてトシはがっくりと肩を落とした。
「ここにいつまでだって居てくれていいんだ」
 嬉しそうに幾浦は言う。
「駄目駄目……それはリーチと話済み。どちらかに偏るのは僕たち望まないから……」
「では、今まで通り一週間交代で行き来すればいいのではないか?」
「僕たちは誰かのヒモじゃない。自立心が強いの」
いつもならそんなことをトシは言うことはない。だが、あまりにも色々ありすぎて珍しくイラついていたのだ。
「別に……ヒモなどとは考えていないぞ」
今度は幾浦がムッとしたようであった。
「ごめん……失言でした。ホントごめんね……」
 自分の言ったことに気がつきトシは慌てていった。しかし幾浦の機嫌は傾いたままであった。
「恭……」
急に唇を奪われたが、トシは逆らうことなく幾浦からもたらされる感触に酔った。
「ね……怒ってる?」
唇が離れるとトシは幾浦に言った。
「トシ……」
「あっ」
いきなり幾浦はトシを組み敷いた。だがトシは逆らわなかった。
「恭眞ぁ……」
トシは不安な自分の身体を抱きしめて貰いたくて手を伸ばしたが、幾浦は上からじっと見下ろすだけであった。
「どうした……」
 幾浦は意地悪くそう言った。
「……」
トシはムーッと膨れた顔を幾浦に向けた。
「恭眞って、やっぱり初めてあったときと同じ位、何考えてるのかよく分からないよ……」
 そう言うと、さっと差し出した手を引っ込め上体を起こした。
「初めてあったときから?」
 こちらの腹立ちなど何とも思っていない顔で幾浦は言った。
 何故か笑っている。
「そうだよ。いつも無口でさ、なんだか怖い人だなって……早く終わらせて帰ろうと思ってた。それが……なんでこんなに好きになっちゃったんだろう……」
うーんと唸って幾浦を見た。幾浦の方はただこちらを見て笑みを浮かべている。
「どうして笑ってるの?」
「あんまり可愛いから……」
 そう言って幾浦はトシを抱きしめ、頭を撫でさする。
「大の大人に可愛いなんて言わないでよ」
 とはいえ、頭を撫でられ気持ちがいいと思っているのも確かであった。
「大人に見えん」
 きっぱりと幾浦は言った。
「殺人犯だって怖くないよ」
「それはリーチだろう」
「……」
「どうした?」
「やっぱ恭眞っていじめっ子だ。僕帰るからね」
 リーチは明日で良いと言ったが、ムッとしたトシはそう言った。
「ああ」
 だが幾浦はあっさりとそう言う。
「あれ……」
「名執のことを考えると今晩中に話した方が良いと思ってな」
 ふうと息を吐いて幾浦は言った。
「やっぱり恭眞もそう思うでしょう。でもリーチが一日考えさせてくれって言うんだ」
「考えさせてくれ……とは?まさか話すか、どうか悩んでいるんではないだろうな」
「ううん。言うつもりらしいけど……どういえば一番雪久さんが傷つかないかって言うのが問題みたい……」
「どう言葉を飾っても、同じ事だろうが……それより時間が経つほど名執が傷つくと私は思うが……」
幾浦の方が名執のことを良く分かっていた。
「そうなんだけど……」
「もしかするとケインはもう名執に話したかもしれんぞ」
 うーんと唸りながら幾浦は言った。
 それはトシも想像していたことだった。
「……だよね」
「ケインとはどんな奴なんだ……」
「ケインについて僕らの意見は同じなんだ。ケインは悪い奴じゃないって事」
「そうなのか?」
 やや驚いたような表情に幾浦はなった。
「うん。ただ扱いを間違えると何するか分からない相手」
「間違えたのか?」
「みたい……」
小さなため息をトシはついた。
「っていうより……僕たちに対してどうとか言うのは無いみたい……ケインにとっては雪久さんが一番問題だから……」
「何故そんなにこだわるのだ?」
「さぁ……リーチは何となく分かった……とか言ってたけど、僕には良く分からない。ただケインが雪久さんを実は好きだったとか言い出す事はないっていうのは確かだね」
「そうか……」
「でも……」
 幾浦にもたれかかりトシは言った。
「やっぱり……辛いなぁ……身内が尾行してたのが……。僕もリーチも全く未練がないって言えば嘘になるし……。でもさ、大事なものを二つ並べてどっちを取るんだって聞かれたら……ホントに大事なものを取るに決まってるじゃない……」
「言いたいことは分かる。で、聞きたいのだが……お前がその立場になっても私を選んでくれるのか?」
 くすくすと笑いながら幾浦は言った。
「うん……僕にとって一番大切なのは恭眞だから……」
「今みたいに少し後悔しながら私を選んでくれるのか……」
そう言って幾浦は笑みを見せた。
「後悔しない大切なものは大切じゃないんだと僕は思うよ。大切なものの中で選ぶから価値があるし、後悔もあるんだと思うけど……」
何でそんなことを聞くの?という表情でトシは言った。
「大切なものの中から選ぶから価値がある……か、そうだな……お前の言う通りだ……」
 満足した顔で幾浦は頷いた。
「僕は恭眞の中で何番目の存在なんだろ……」
 問いかけるような眼差しを幾浦に向け、トシはそう言った。
「さぁな……」 
 ふふと笑って幾浦は言った。
「狡い!」
「言葉にしないと分からないのか?」
 そう言って幾浦の唇はトシのうなじに当てられた。
「う……ん……恭眞……」
「今夜の私はひどいぞ……」
その一言でトシは首元まで赤くなった。しかし期待をしている自分もいる。
「恭眞……優しく……して……」
そう言って幾浦に身を委ねた。

名執が仕事を終え、夜遅く戻るとリーチの姿は無かった。その代わりにメモがキッチンテーブルに置いてあった。

ごめんユキ、幾浦の方も説明しなきゃならないからそっち先に済ませるよ。明日にはき ちんと話しするから、許してくれる?
リーチ

メモを読み終え、リーチが食事をきちんとしてから出たのを確認した。その事が分かると少しだけ気が楽になった。
 手紙もなく、食事も摂っていなかったらきっと幾浦の家に電話を掛けていただろう。しかし、今はトシであるに違いないのだ。電話を掛けることは幾浦との協定違反であったので、それは避けた。
 それにしても……辞表だなんて……
 名執は苦しかった。リーチやトシにとって刑事という職業は生き甲斐といってもいいほどのものであった。でなければ崎斗の事件で辞めているはずである。あれ程の怪我を負い、それでも刑事でありたいと願うのだ。それを切り捨てることの辛さを考えると、名執は苦しいのだ。
 この結果は自分の所為なのだ。それが辛い。
 身内から尾行され、さぞかし二人はショックを受けているだろう。それもこれも自分の所為なのだ。
リーチはきっと何事もなかったかのように名執の前で振る舞うだろう。そのとき自分はどういう態度をとればいいのか分からなかった。
 明日、とにかく明日にはリーチは説明してくれる。なにより希望がある。
 田原は辞表を受け取るつもりはないと言ったのだ。それを二人がすんなり受け入れるかどうかは分からなかったが、辞めて欲しくは無かった。
 この事でケインに対して益々怒りを覚え、名執はその晩一睡も出来きなかった。何度もベットで寝返りをうち、以前患者から取り上げた睡眠薬を鞄に入れたままであったことを思い出した。明日は大事なオペが昼からあったのだ。睡眠は絶対とらなければならない。
 仕方無しに鞄から睡眠薬取り出すと、名執はそれを飲んだ。久しぶりに飲んだ為、睡魔は直ぐにやってきた。

急に揺すられ目を覚ますとリーチが酷く怒った顔でこちらを覗き込んでいた。
「え……」
「何でこんなもん飲んでるんだ!」
 直し忘れた薬の瓶をリーチは持っていた。
「あ……それは……余り眠れなかったもので……つい……」
リーチとはずっと以前に睡眠薬は飲まないと約束していたので、それを飲んだことに腹を立てているのだろう。
「俺、以前捨てたよな……なのに何でまだあるんだ。お前隠してたのか?それとも又持って帰ってきたのか?」
「いえ……済みません」
 弁解の余地が無かった。
「謝ることなんか何度だって出来るんだ。だけどこんなものに頼りだしたら癖になるだろうが!あれ程俺は言ったよな。飲むなって……お前は飲まないと言った。そんな簡単な約束なのに守れないのか?」
 本気でリーチは怒っていた。瓶を掴んでいる手が震える。よほど頭に来ているのだ。
「ご……ごめんなさい……」
ものすごい剣幕のリーチを見ることが出来ずに名執は視線を逸らした。
「嘘はつくな……いいな」
 逸らせていた瞳を無理矢理リーチによって引き戻された。
「毎日こんな調子で、俺に隠れて飲んでたのか?」
名執は必死に首を振った。何よりリーチの瞳が怖くて目に涙が盛り上がったのだ。
「じゃ、久しぶりか?それとも約束してからも時々飲んでたのか?」
「リー……チ……」
「嘘つくんじゃねーぞ……お前の嘘なんかすぐ分かるんだからな。こればっかりは泣いたって俺はお前が本当のことを言うまで許さないからな。まさか……俺が寝込んでから飲んでたってことは無いだろうな……」
リーチは自分の言ったことで青くなった。
「見張ってないと……お前……」
 そんなことは絶対なかった。飲んだのは約束してから昨日が初めてであった。それを言おうとするのに、喉が詰まって声が出ないのだ。それはこんな風に怒鳴られたことが無かったからかもしれない。
「……あ……あっ……」
首を振ることしか出来ない名執を見て、リーチは急に表情を和らげた。
「ごめん……俺の所為か……」
リーチは名執を抱きしめてそう言った。
「なんか……最近……雑音多かったからな……お前も俺も……。でもお前は、生死を左右するようなオペをするんだから、睡眠不足でミスしたって理由は通じないもんな……。仕方がない時もあるって認めないと駄目なのか……」
名執にではなく、自分を納得させようとしてリーチは話しているようであった。
「言い過ぎた……済まない……ただ俺は薬という名のものを余り飲んで欲しくないんだ……ただでさえ最初の頃は安定剤だの睡眠薬だの色々飲んでただろ……身体に良いわけが無いんだ。俺はそれが怖くて……。お前にとって俺は、薬の役目は出来なかったって事だよな」
以前リーチは薬を直していた引き出しから、風邪薬以外をすべて捨てたのだ。
「そんな……ごめんなさい……ずっと飲んでません。それだけは信じて下さい。貴方が側にいて隠れて服用なんてしたことはありません。ちゃんと……約束守っていました。ただ……昨日はどうしても……眠れなくて……私……どうかしていたのです」
「ユキ……じゃ、この薬はどうして家にあったんだ?飲むためにお前が持って帰ってきたんだろう?そういう誘惑に負けたんじゃないのか?」
「以前、患者から取り上げた薬を鞄に入れたまま忘れていたのです。それを昨日思い出して……」
 リーチの黒目がちの瞳がこちらの瞳を射抜くように見つめていた。自分の言ったことが嘘か本当かを確かめているのだろう。
 暫くするとリーチは目を逸らせた。
「俺の感が鈍ってないのなら、お前は本当の事を言ってる」
「リーチ……リーチ……許して下さい……こんなに怒るなんて思ってなかったのです」
名執は本当にそう思った。睡眠薬一つでここまで怒るとは思わなかったのだ。
「俺が怖いのは……いつでも死ねるような薬が手に届く所にあることが怖いんだよ……」 リーチはそう言って名執をギュウッと抱きしめた。
「お前が……何かの弾みで又死を渇望したらどうしようって……。死にたがってたの知ってたから……怖かった。だから直ぐ実行できるものを遠ざけておきたかったんだ……。怖いんだ……もうお前はそんなことを考えたりしない。分かっていてもそんな薬が手の届く所にあると気が落ちつかない」
リーチがそう言うと名執は涙が止まった。
「リーチは……私のことをそんな風に思っているのですか?」
「え……」
「私がそんなに簡単に死にたいと考えるような人間に見えるのですか?」
 じっとリーチの瞳を見つめた。それは困惑したような瞳に見えた。
「ユキ……」
「確かに……昔は……そうだったかもしれません。その事は否定しません。ですが……今の私はそんな簡単に死のうなどと考えません。リーチ……リーチは私の保護者のつもりですか?」 
「……」
「どう……なんですか?」
 名執は無性に悲しかった。
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