Angel Sugar

「氷解する瞳」 第3章

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「リーチ、レイが喜んで電話をかけてきていましたよ」
 名執はソファーでくつろぐリーチにそう言った。
「大したことしてやった訳じゃ無いんだけどな……」
 ごろごろとしながらリーチは言った。
「でも、ちょっとむっとしたんですよ」
「なんで?」
 むくっと起きあがってリーチは不思議そうな顔をこちらに向けた。
「ミルクセーキが好きだったなんて……くやしいことに私は知りませんでした」
 言いながら名執は、どんな顔で注文したのかを想像し、思わず笑いが口元に浮かんだ。
「あっ……あいつよけいなことまでしゃべりやがったな」
「知りませんでしたよそんなこと……」
「言ったらお前、今みたいに笑うと絶対思ったから言えなかったんだよ。だから滅多に人前で飲まないんだけど、今日はほんとに甘いものが飲みたくてさ……」
 ばつの悪そうな顔をしてリーチは言った。
「本当に甘いものが好きですね……」
 くすくす笑いが止まらないまま名執は言った。
「悪かったな味覚が子供で……」
 プイッとリーチは顔を向こうに向け、またソファーに寝ころんだ。
「リーチ……」
 名執はリーチがふてくされているソファーに腰をかけた。
「……んだよ」
「他にも……聞きましたね……」
「あ?ああ。俺はユキちゃんと仲良しだから、あいつは俺が何でも知ってると思って言ったんだろ。大したことじゃないさ。それに、あの病院に来たてのお前を全然知らなかったわけじゃないしさ。何たってお前は目立つ存在だったからな」
 初耳であった。
「そうなんですか?」
「健のこともあって良く行ってたからな。小児科にいた話だろ。知ってよ。気に入らないか?」
 じっとリーチは名執を見つめていった。
「……そんな話……リーチは言いませんでしたよね」
「お前にとって嫌な自分を思い出すことを俺が言うと思うか?」
「……」
「あのときのお前は触れると壊れそうだったよ。冗談なんか言って近づける雰囲気じゃ無かった。遠くから想うしかなかったよ。で、暫くしたらいつの間にか外科にいてさ、すげー雰囲気変わってやがんの……ああ、恋人でも出来たかな……って落ち込んだ。でも冗談が言えるような雰囲気が出来たからやっと近づけたって訳だ。だからお前がバージンだった時にはもー嬉しくっ……てっ」
 聞いているこちらが恥ずかしくなった名執は、リーチの頭を軽く叩いた。
「恥ずかしいことを大きな声で言わないで下さい」
「ほんとにさ……」
「あっ」
 リーチは体勢をさっと変え、名執を自分の下に組み敷くと続けた。
「嬉しかったな……」
 言いながら、軽く唇を重ねてきた。
「リーチは、あのとき私が誰かとつきあっていると思っていたのですね。そんな私にあんなことしたんですか?」
 名執は意地悪くそう言った。
「へへ……ユキの裸見たら、俺もう犯罪者になってもいいって思っ……」
 バシィッっと名執は両手でリーチの頬をおもいっきり叩いた。
「なっ……なにすんだよ!」
「どうしてそう下品に言うんです……」
 とにかく名執は呆れていたのだ。しかしリーチは今の事で真剣に怒ってしまったようであった。
「お前、手加減ってのはないのか?」
 立ち上がってリーチは言った。
「リーチ……」
「やっとお前とゆっくり出来ると思って来たのに、それは無いだろ……」
 いきなり上着を引っかけそう言った。
「帰るっ!」
「……冗談……ですよね」
「お前が本気で殴ったのと同じくらい本気で帰る!」
 そう言って本当にリーチは帰ってしまった。名執は暫く閉まった扉から離れられなかった。

 警視庁に着くとリーチはトシを起こした。
『やっぱり戻ってきたんだ。賢い賢い』
 トシはそう言ってリーチを褒めた。
『うるせーんだよ。しかたねーだろ。事件は立て続けにおこるわ、報告書はたまってくるわ、上司は出せ出せって怒鳴るわ……。そんなのユキには言えなくて、喧嘩腰に出てきちゃったよ』
 ため息をつきつつリーチは言った。名執と本気で喧嘩をした分けでは無く、そうでもしなければ出てこれなかったのだ。
 ごめんユキ……とリーチは心の中で呟きながら、山積みになった報告書を片づけ始めた。すると篠原もまだ帰っていなかったのか声を掛けてきた。
「隠岐……どうしたんだよこんな時間にさ。さっさと帰ったんじゃなかったのか?」
「報告書……山ほどほったらかしにしてるんです……もう涙ものですって……」
 と言ったのはトシである。報告書作成はトシの役目であった。
「お前もか……で、何件残ってるんだ?」
 はははと笑って篠原は言った。
「十件です」
「うひゃ……お前それためすぎ……」
 笑いはすぐに止まり、哀れむような目を今度は向けてきた。
「やろうと思っても次の仕事でしょう……仕方ないですって……」
「で、朝までに出来るのか?」
「新しい事件でも無ければ……たぶん何とか……」
 小さく溜息を付いてトシが言った。
「俺なら無理だけど、お前なら何とかなるだろ……じゃ、俺も自分のしようかな……ご同類もいることだし……」
 そう言って篠原も自分の席について報告書を書き始めた。
 しかし悪いことは重なるのか、暫くすると館内放送が入った。
「嘘だろおい……」
 篠原はそう言って立ち上がった。
『勘弁してくれよ……』
 リーチは当分名執とは当分ゆっくり出来ないことを知って悪態をついた。

 名執はリーチが帰って暫くすると自宅の方に電話を掛けたが留守番電話になっていた。携帯の方はもしかしたら事件に出たかもしれないと言う事もあって出来なかった。
「リーチ……本気で怒ってた……」
 先ほどの事を思い出して名執は後悔していた。しかし、いつもならこの程度でリーチが怒るわけは無いのだ。
 何か理由があったのだろうか?
 名執は色々考えてみたが何も思いつかなかった。考えてみるとリーチはいくら言っても肝心なことを話してくれないのだ。後々になってこうだった、ああだったということは良くあることで、その度に名執は悲しくなり腹が立つのだ。
 なによりリーチの身体は今微熱が続いているのだ。身体が変調を来すほど多忙なのだ。自分には話さないが、何かあったのかもしれない。
 だが、名執の方もレイのことで手一杯であった。それで気を使ってくれていたのだろうか?
「リーチ……」
 ここ暫く一緒にベットで過ごすことが無かった。その事で身も心も寂しく感じていた。そうであるから今晩は、ゆっくり出来ると名執も期待していたのだ。それがリーチは些細なことで怒って帰ってしまった。何より明日からはトシのプライベートの週に入るのだ。
 ぐずぐず名執が後悔していると電話が入った。リーチだろうかと期待して受話器を取ったが、相手はレイであった。
「どうしたのですか……?」
「済みません夜遅く……でもどうしても伝えたいことがあって……」
 言いにくいのか言葉の調子に元気がなかった。
「何ですか?」
「あの……来るって……」
「来るって?誰かが来るんですか?」
「ケインが……明日こちらに着くって……スノウと直接話がしたいと言ってました」
「ケインが……ですか?」
 名執には鬼門にあたる人物であった。
「スノウは会いたくないですよね。僕も……会わせたくありません……」
「どうしてケインが来ることになったのです?」
「僕がスノウを連れ戻せません……と言ったら……もう速攻に決めてしまって……」
「……」
「明日はレイを観光に案内する約束をしていましたね……それに合わせたのですか?」
 そんな事は考えたくは無かったが、可能性はあった。
「そんな!誤解です」
 レイは泣きそうな声でそう言った。名執はそんなレイを信じることにした。
「会ってそれで済むなら会いましょう」
「済みません……済みません……」
 レイはただ謝るばかりであった。
「明日……会いましょう」
 名執はため息をつきながら受話器を置いた。
 今夜ほどリーチが側にいて欲しいと思ったことは無かった。

 翌日、名執はレイを乗せて成田へと向かった。
「何時の便で着くとケインは言っていました?」
「十一時三十分って言ってました」
「そうですか……」
 結局昨日はリーチから連絡はなく、名執の気分はすぐれなかった。その所為か、知らずに口調も沈む。
 何より会いたくはないケインと会うのだ。
「済みません」
 何度目か分からないレイの謝罪であった。
「ケインが来ると言ったのでしょう。貴方の所為じゃありませんよ……」
 レイの所為とは思ってはいないが、それだけでは済まない事情もあった。
 研究所で、ケインは事あるごとに名執に絡んできた。相手はものすごいライバル視をしていたのだが、こちらは全く相手にしなかった。しないと言うより、あのときの自分は誰も彼も自分の視界には入らなかったのだ。
 他人の存在というものは全て無視であった。だからよけいにケインは馬鹿にされたとでも感じたのか、ずっと敵対視していたようであった。
 そんなケインが本心で、名執に戻ってきてもらいたいとなどとは思っていないだろう。そうであるから何か企んでいるのでは無いかと思うのだ。
 何よりケインの話など聞きたくは無かった。ましてまた会うことになるなど思いもしなかった。
 だが、問題の空港に着くと警官であふれていた。
「何かあったんでしょうか……」
 レイは、不安げに辺りを見回しながらそう言った。
「降りて聞いてみましょう……」
 しかし聞くまでもなく、二人は状況を把握した。待合室で、四十代位の男性が人質を取り、ナイフを振り回していたのだ。
「レイ……あれは……」
 名執は人混みの向こうに犯人と人質を見た。
「はい、遠目ですが……ケインだと思います」
 レイは真っ青な顔で答えた。
 いくら遠目であっても、濃いブロンドの髪に、細いフレームの眼鏡をかけた男はどう見てもケインであった。
 あの時と全く変わっていない……
 そうではなくて、人質に取られているのだ。
 どうしようかと思案していると、見知った顔の刑事がやってきた。
「篠原さん」
「あ、名執先生どうしたんですか?誰か迎えにこられたんです?」
 こんな状況に関わらず、日常会話口調の篠原に驚きながらも名執は言った。
「あの、迎えに来たのですが、その相手がちょっと大変なことに巻き込まれてるようで……」
「巻き込まれてる?」
「人質になってるようです……」
「はぁ?あの外人さん……先生のご友人ですか……」
 びっくりした顔で篠原は言った。
「友人……というほどでも無いのですが……」
 否定したいのだが、この状況では出来なかった。
「隠岐!」
 篠原がそう呼ぶと名執は一瞬ドキリとした。
「なに叫んでるんですか……うーどうしてこんなに人が……」
 野次馬をかき分けて利一がやってきた。その利一はトシであった。
「あ、名執先生。奇遇ですね、レイさんを見送りにですか?」
 事件など無いようにトシは言った。このくらいでは動じないのであろう。
「なんか先生の友達が人質にとられてるってさ」
「え?名執先生の?」
 トシの黒目がちの瞳が大きくなった。
「そうなのです……迎えに来たのですが」
「それは大変ですね……」
 それしか言葉が思いつかないのか、トシはそう言った。同時に篠原の持っていたトランシーバーが鳴った。
「三係です。はぁ……隠岐はここにいますよ。並木さんが?」
 といってトシに向かって言った。
「隠岐、並木さんが一緒に入ってこいって」
「え?ってことは特殊犯一係に混ざれってことですか?勘弁して下さいよ……」
 トシは困ったというような表情であった。
「勘弁して下さいよ……って隠岐は言ってますけど……あはは、そうなんです。俺達昨日の晩二人で報告書に埋まっているところかり出されて……。あ、報告書ですか?はは、隠岐なんか十件もためて……いてっ」
 そこまで言ってトシに篠原は叩かれた。
「よけいなこと言わないで下さい恥ずかしいなぁ。全くこんな状況なのに……」
 名執は二人の会話から、リーチがどうして帰ったのかを知った。
 帰った理由はためていた報告書を作成する為だったのだ。
 それが分かると名執は、心に引っかかった重みが急速に薄れた。
 きっとリーチはどうあっても帰らなければならなかったのだろう。報告書の為と恥ずかしくて言えず、怒るという格好をとったのかもしれない。
 名執は深読みしていたのだが、本当の事はそうだったのだ。要するにあれ程考える事など無かったのだ。
 名執は、昨日どんな気持ちでリーチはマンションを後にしたのだろうと考え、思わず笑みが口元に浮かびそうになった。そんな自分の口元を慌てて引き締めた。
「何でもいいから来いってさ」
 篠原はトシにそう言った。
「困ったなぁ……自信ないですって……」
 そう言ったのはリーチであった。役割分担がリーチに回ってきた為トシとチェンジしたのだろう。その瞳の違いは名執にしか分別できない色であった。
 だが今、自分の側にいるのがリーチだということが名執を安心させた。
「なんかやってほしいことあるんだってよ…」
 そこまで篠原が言うと、リーチが言った。
「あ、私、おとりですか?ひどいこと考えますね……」
「さすが、あ、隠岐は了解してますよ。すぐにそっちに向かいます。ああ、大丈夫。死にはしませんよ。悪運強いから……」
「もう……信じられないですよ。酷いことみんな考えてるんですから……でも、ここにお医者さん達がいらっしゃるから……何かあっても大丈夫ですよね」
 こちらを向いてリーチはにこりと笑った。名執はそんなリーチに頷いたが、心配であった。
「無茶は……されませんように……」
 不安げな名執を察したのかリーチは言った。
「大丈夫です。日常茶飯事ですから……ところで篠原さん。野次馬をもっと後退させてくれるように上司に言って下さい。私は並木さんの所に行きますが、なんだか気になるんですよ……ほら……おなかの辺りが膨れてる……」
「太ってるんじゃないのか?」
「なんか持ってますって……」
 笑いながらリーチは言った。しかしその言葉が名執を益々不安にさせた。
「分かった」
 篠原はそう言って野次馬をかき分けて行った。
「じゃ、私も失礼します。危ないですから先生方は空港から出て下さい。分かりました?」
 リーチは真剣な目で名執の方を向いて言った。名執は頷いたが、出るつもりはなかった。そんな名執に気が付いたのか、「出てけよ」という目を一瞬こちらに向けてリーチは篠原と逆の方へと向かった。
「スノウ……出ましょう……」
 レイはそう言って名執の上着を引っ張った。
「いえ……私はここに……」
「スノウ……」
「私は隠岐さんの主治医ですからね。何かあったらすぐに駆けつけることが出来る所に待機していたいのです。私の事は構いませんから、レイは外で待っていて下さい」
 名執はきっぱりとそう言った。
「僕一人だけそんなこと……出来ません……」
 レイはそう言って名執の側で立っていた。だが名執は今レイのことなど頭には無かった。もちろんケインのこともだ。
 リーチ……
 空気が張りつめている。野次馬は既にかなり後退させられていた。こちらからはリーチ達のいる方向は見えないほどである。
 リーチが一人犯人と話をしているようであった。犯人は興奮してナイフを振り回していた。暫くして野次馬達が外へと競って出始めた。
「な、何があったんでしょうか……」
 レイはおろおろとそう言った。
「……」
「外へ避難して下さい。犯人は爆弾を持っています」
 野次馬を規制している警官があちこちでそう怒鳴っていた。
「スノウ!」
 もうレイは涙目だ。
「いいえ、私は……」
「そんなこと言ってる場合じゃ……」
「隠岐さんが逃げないのです。大丈夫です。危険ではないから逃げないのですよ」
「そんなの解らないでしょう!」
 もしもの時は一緒でありたかった。ただ名執はそれだけの気持ちでそこに居続けた。
 すると警官がやってきて外に出るように言ったが、微動だにしなかった。そんな二人に気がついた篠原がやってきた。
「出た方がいいですよ」
 篠原の顔はそれほど緊張していなかった。
「篠原さん……顔に緊張感ありませんね」
「ん……分かります?ま、隠岐と付き合い長い先生なら分かるみたいですね」
 口元に笑みを浮かべた篠原はそう言って鼻の頭をかいた。
「何となくですが……ここにいても大丈夫だという気がするのです」
「爆弾だと言ったのは犯人で、隠岐自身が爆弾だ逃げろって言った訳じゃないですからね」
 ということは爆弾では無いのだろう。しかしレイには何の事か分からず、やはりおろおろしていた。
「もう暫くしたら終わるはずですよ」
 犯人とリーチの方を向いて篠原が言った。この距離ではどちらが犯人と話しているかは分からなかったが、説得にたけているのはトシだと聞いたことがあったので、きっとトシが話をしているのだろう。
 時折犯人が興奮して怒鳴り散らしていたが、暫くすると落ち着き、次にナイフを床に落とした。その瞬間、周りの警官がどっと犯人を取り押さえに走り出した。
「機動隊来るまでも無かったな……」
 ぽつりと篠原が言った。名執はホッと胸を撫で下ろした。
「で、先生はお友達を迎えに来たんですよね……でも人質になってましたので、ちょっと事情聴取しないといけないんですよ。待ち合わせ室で待っててもらえませんか?」
「ええ」
 リーチが来てくれるかと思ったが、忙しいのかこちらには来なかった。遠目で見る愛しい恋人は利一の顔で関係者と話していた。
 ここに居ても仕方が無いので二人は、おとなしく待ち合わせ室に行くことにした。
 一時間ほどして、ケインがやってきた。顔は憮然としている。
「ケイン!大丈夫でした?」
 レイはケインにそう言って駆け寄ったが、ケインの方はふんと鼻を鳴らして見下したような視線を送ってきた。
 そんなケインを見て名執は気づかれないようにため息をついた。
 相変わらずですね……。
「事情聴取は終わったのですか?」
 とりあえず名執はそう言った。
「生意気なデカに散々馬鹿にされた」
 憮然とした表情を崩さずにケインはそう言った。
「生意気なデカって?」
 レイが不思議そうに聞いた。
「ああ、あんまりむかついたから、ドイツ語で話してやったんだ。そしたら出来るデカがいてな。流ちょうに話すから余計むかついた」
 この性格の歪みようは一体なんだろうと名執は密かに思った。
「それって隠岐さんじゃないですか?」
 名執に同意を求めるようにレイがこちらを向いて言った。
「たぶん……。それが生意気になるのですか?」
「ちびの日本人は嫌いなものでね」
 ジロリと名執を睨んでケインは言った。
「そんなことはどうでもいい。雪久さっさと帰る準備をしろよ」
「いきなりですね……」
「そのために来たんだ。タイムロスはしたくない性分だ」
「既にお断りしています。ご存じなはずですよ」
 名執はあっさりとそう言った。
「うるさい!黙れ!」
 いきなりケインは怒鳴り声を上げた為、まだいる警官が不審げにこちらを振り返る。
「ケイン……怒鳴らなくても聞こえております」
「お前に選択肢なんかない」
「勝手に決めつけないで下さい。貴方こそ一体何様のつもりです?」
 レイは聞いたことのない名執のきつい口調におろおろしていた。
「何様だって?はっ!そんな口を利けるようになったか。少しは成長したんだな」
「成長?」
「以前なら私が何を言っても無視していたはずさ」
「では無視させていただきましょうか」
「貴様!」
 頭に来たのか、ケインはいきなり名執の胸ぐらを掴んだ、それを何処かで見ていたのかリーチが走り寄ってきた。
「何をしているのですか?」
 笑みを見せてはいるが、瞳の奥は怒っていた。
「用事は済んだはずだが?」
 どういう相手か分からないケインはジロリと睨みながらリーチに言った。
 煽らない方がいいんですけどね……
 と、名執が考えていることなどケインは当然分からない。
「その手を離しましょうね」
 リーチはぐいっとケインの手首を掴み、名執から引き離した。
「赤の他人には関係ないことだ」
「他人じゃありません。私の友人です」
 そう言うとケインは一瞬驚いた顔を見せ、次に口元を歪ませて笑った。
「はははは、友人だってな……」
「何が可笑しいのですか?」
 ケインに腹を立てながら名執は言った。
「刑事さん、こいつに騙されてるぞ。こいつは人のことなど、どうとも思わない奴だぞ。視線の中に入らないんだよ。昔ッからそうだ」
「そうですか……まぁ……どう貴方が考えられても構いませんが、落ち着いて話をして下さい。この辺りはまだ警官と刑事がぴりぴりしていますので……よろしいでしょうか?」
 そう言い、にっこりとリーチは笑った。黒目がちの瞳が幼気な子犬のように見える。利一の同期である北村が惚れた瞳であった。
 そんなリーチにケインは毒気を抜かれたのか、「あ、ああ」といって急に大人しくなった。
「では、失礼します」
 そう言ってリーチはまた行ってしまった。
「な、何なんだ奴は……」
「ケイン、場所をわきまえて下さいよ。それに失礼じゃないですか……ケインはあの隠岐さんに助けてもらったんですよ。お礼くらい言わないと……」
 レイはそう言った。
「……」
「とにかく……ここでは何ですから……話せるところに場所を変えましょう」
 名執には話にならないのは分かっていたが、これ以上ここで騒ぎを起こしたくは無かったのだ。そうして二人を連れて駐車場まで来たところで携帯が鳴った。
「はい、名執ですが……」
「答えなくていいから聞いとけ」
 相手はリーチだった。
「分かりました。どうしました?」
「今晩行くから、奴らとつき合う用事は入れるなよ。もちろん分かってると思うけど家になんか絶対入れるな。分かったな」
 まくし立てるようにリーチはそう言った。
「ですが、今週はお忙しいとお聞きしていますが……」
 暗にトシの週だろうということを名執は仄めかすように言った。
「幾浦の奴はアメリカ出張中だ、明日帰ってくるってよ。ま、あいつがいても今日はトシに譲らせてた。とにかく今晩会いたいんだ俺は。それともお前、奴らともう約束かなんかしちまったのか?」
「まさか」
「じゃ、ユキ……今晩……」
 そこまで言ってリーチの声が急に小さくなった。
「……え、と……愛してるからな……」
 それだけ言うとリーチは電話を切った。名執はギスギスしていた自分がホッと暖かいものに包まれたような気がした。
 リーチは本当に自分のことを気遣ってくれている。名執はそれが分かると萎えていた気持ちが奮い立った。
「誰からだ……」
 ケインが不審げに聞いた。
「私の交友関係をすべて貴方に話さなければならないのですか?」
 そう言うとケインはまた怒鳴りそうな雰囲気になったが、レイが止めた。
「スノウ……ケインも……やめて下さい」
 レイは泣きそうな顔をして言った。
「とにかく……車を出しましょう……」
 もう一言と、名執は思ったが思い止まった。
 
 道路沿いの喫茶店に入り、三人は席に座った。とりあえず飲み物でも飲んで一息ついてからと名執は思ったが、ケインの方にそんなつもりがないのか、いきなり本題に入った。
「雪久、言っておくが私はお前を連れ戻すために来たんだ」
「何度申し上げればいいのです。私はここを離れるつもりはありません。それにケイン、貴方は私のことを快く思っていないでしょう。それなのに何故こだわるのです?私がいない方が貴方にとって居心地のいい環境になるのでは無いのですか?」
「確かに雪久がいない方が良いんだがな、まだ勝負はついていないだろう……」
 名執にはそんな覚えは無かった。
「勝負?」
「そうだ。忘れたとは言わせないぞ」
 完全に忘れていた。と、言うより名執にはどういう勝負をケインとしたのか一向に思い出せなかった。
「忘れた顔をしているな」
 ケインは腹立たしげにそう言った。
「した覚えはありませんが……」
「まぁいいさ。お前が忘れていても私はしっかり覚えている。だから戻れ」
 戻れの一点張りのケインには何を言っても通じなさそうであった。
「勝負など……もうどうでもいいではありませんか……私の負けで貴方の勝ちで構いませんから……」
「うるさい!それでは私の気が済まない」
 急に怒鳴るように言われ、名執もムッとした。
「貴方の気が済むか済まないか、私には関係ないでしょう」
「お前はそうやって都合の悪いことからすぐ逃げ出す。狡いんだよお前は……はっ、今度はいつ日本から逃げ出すか楽しみだよ」
 痛いところをつかれて胸が締め付けられたが、名執は何とか平静を装った。
「なんとでも言ってくださって結構です。……ではこの話はこれで終わりですね。ケイン、用が無くなったのでしたら、さっさと帰って下さい。私は今日、レイを観光に連れていく約束をしているのです」
「か……観光だと?そんなことをするためにお前は日本に来たわけでは無いだろう」
 今度はレイの方を向いて睨む。レイは下を向いたまま固まっていた。
「ケイン……」
 堂々巡りであった。
「レイ……行きましょう……」
 レイの方を向いて名執は言ったが、レイは動かなかった。レイの立場も微妙なのだろう。レイはケインと共に働いているのであった。ここで逆らうことは出来ないのかもしれない。
「分かりました。では私だけ帰らせてもらいますよ。ああ、空港まで送りましょうか?」
「結構だ!」
「そうですか、ではさようなら」
 名執は伝票を掴むと席を立ち、振り向かずに店を出た。
 無性にリーチに会いたかった。
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