Angel Sugar

「氷解する瞳」 第2章

前頁タイトル次頁
「レイさん……でしたよね。その事は本人の意志が一番大事では無いのでしょうか?」
 リーチは真面目な顔でそう言った。
「そうです。凡人ならそれで良かったでしょう。ですが非凡な人間はそう簡単にはいかない。それだけ彼を必要としている場所があるのです」
「必要……ですか?私には強制に見えますが……」
 リーチの口調は穏やかであったが、有無を言わせない響きを伴っていた。レイはそんなリーチに押され気味である。切れる犯罪者とも互角以上に渡り合うリーチである。レイなど赤子の手をひねるようなものであろう。
「強制なんて……していません」
「それに平凡とか非凡とか……なんだか人を差別しているように見受けられるんですが……。平凡だから必要ない。非凡だから必要だ。それでは先生の腕だけ必要であって、先生自身はどうでもいいと聞こえます。そんなところへ私は友人として、行った方が良いんじゃないですか……なんて言えませんよ」
「差別なんかしてません。ただ……戻ってきて欲しいから……」
 強気だったレイが、急に力が抜けたように項垂れた。
「レイ……貴方の気持ちはありがたいと思います。ですが私の気持ちも分かって下さい」
 名執はレイの様子を見て可哀想になった。
「分かれって言っても……スノウはちっとも心を開いてくれなかった……みんながいつもスノウを心配してたことも分かってない。プロフェッサーがスノウは何か悩んでるって言ってましたけど、相談だってしてくれたことないのに、スノウが何に悩んで日本に来たのかなんて分かりません」
 半分泣きそうなレイにどう答えていいか思案していると、リーチが立ち上がった。
「先生……ちょっと」
 リーチは話があるという表情で手招きをした。
「あ……はい」
 リーチは洗面所まで歩くと、誰もいないことを確認してこちらを向いた。
「レイって奴な、純粋にお前を尊敬して慕ってるみたいだから、少しばかり優しくしてやれって……」
「それは……分かっています。でも……」
「まぁ、お前にとっちゃ嫌な自分を思い出す人間とは関わりたくないって気持ちは分かるつもりだし、古巣に戻るって気をおこされても困るんだけどな。嫌な自分と向き合う機会もあっていいんじゃないか?今なら向き合うことも出来るだろう。何より、あっちはお前と友人だと信じてる。それを裏切るか裏切らないかはお前次第だよ」
 リーチは世間話のようにそう言ったが、名執は複雑であった。
「そんな不安な顔すんなって」
「リーチ……でも……」
 切り捨ててしまいたいと思っている過去の自分自身には触れたくは無かった。そんな自分を知っている人間には会いたくなかったのだ。だから本来なら自分で説明をしなければならないことを時が過ぎるまま無視していた。
「一度お前が医者として診察している姿でも見せてやれば納得するんじゃないか?奴も世間知らずなドクターみたいだからな。お前が感じた事をそれで理解できそうだろ?」
「そうでしょうか……」
 知らずに視線が俯くのを止めるようにリーチが顎を掴んだ。
「前だけ見てろ。俯くな。分かるな」
 リーチの目は優しく自分に注がれている。リーチが側にいる限り、今の自分を見失うことは無いだろう。そういう自信が胸に沸いた。
「はい」
「じゃ、戻るぞ。あんまり待たせると、あいつ泣いちまいそうだしな……」
 クスッと笑って黒目がちの瞳が細くなった。
 席に戻るとレイはこちらを見回して、視線を避けるように俯いた。
「せっかっく再会したのですから、ぱぁっといきましょうよ」
 リーチがそう言った矢先に携帯が鳴った。
「あ……ちょっと済みません」
 席を立ったリーチは店の外に出ていった。あの様子ではどうも事件が入ったようであった。レイの方はリーチの言葉に驚いたのか、こちらに救いを求めるような視線を送って来ている。
 暫く無言で見合っているとリーチが戻ってきた。
「先生、仕事が入ってしまって……この埋め合わせはまた今度させていただきます」
 リーチはそう言って一礼すると店から急いで出ていった。
「あの……隠岐さんの仕事ってやはりドクターなんですか?」
 問いかけるようにレイはそう言った。
「いえ、隠岐さんは刑事さんです」
 そう言うとレイは目を見開いた。
「ええっ……そんな風に見えないですよ」
「良く周りの人からそう言われるそうですが、とても優秀な刑事さんです。それに貴方よりも年上ですよ」
「えええっ……僕と変わらないと思ってました。なんだか失礼な事を言ったみたいです。謝って於いて下さい……」
「隠岐さんはそんなことで気を悪くするタイプの人ではありませんので気にしないでいいですよ」
「良かった。スノウの友達に嫌われたく無いですから……」
 ようやくレイは笑顔を見せた。
「隠岐さんは身体を大事にしない方ですので、私が良くオペを担当しまして……それから時折食事に行くようになったのです」
「そんなに危険な事をしてるんですか?」
「命が危うくなるような事は数えるほどしかありませんが、どれも大変なオペばかりだったので……普段は滅多に怪我などしない人ですよ」
「そうなんだ……」
 レイはそう言って暫く考え込むような仕草をし、何か思いついたようにこちらを見た。
「何ですか?」
「スノウ……隠岐さんってスノウにとって本当の意味で友人なんだ……」
 ドキリとしたが、レイには恋人だとは思わなかったようであった。確かにそんなそぶりは一切見せていなかったので当然ではあったが、一瞬ヒヤリとした。
「そんな風に見えますか?」
「……だって隠岐さんもスノウのこと、なんだか良く分かっているみたいだから……」
「隠岐さんは大切な友人です」
「少し悔しいです」
「悔しい……ですか?」
「だってスノウがこちらに来たときに出会ったって事は、僕たちより付き合いは短いって事ですよね。それって僕たちと過ごした時間の方が長かったのに、何も力になれなかったって事じゃないですか……」
 そのレイの言葉に名執は思わず笑みがこぼれた。
「確かに隠岐さんに色々相談に乗ってもらいましたが……私自身が変わったのは、それだけではありません。こちらの環境が私にあっていたのでしょうね……」
「…………」
「おなか空いたのではないですか?何でも注文して下さいね。そうそう、こんな話よりみなさん今、どうされているか教えて下さい。お元気にしておられますか?」
「はい。プロフェッサーは……」
 その夜はレイの方が気を使ったのか、最後まで戻る戻らないと言う問題に触れることはしなかった。

 ホテルに戻ると、夜は更けていたがレイは国際電話で研究所に連絡をした。
 すると出てきた人間はケインであった。レイにとっては少し苦手なタイプであったので、一瞬躊躇したが、連絡だけだと自分に言い聞かせた。
「レイです」
「遅い連絡だな。プロフェッサーが心配しておられたよ」
「済みません。色々とあったんです……」
「そんなことはいいさ、で、ユキヒサはいつ戻るんだ?」
 いきなり本題に切り込んでこなくても……と思いながらも仕方なく事情を説明した。
「もう暫くこちらでスノウの様子見て帰るつもりですけど、あれじゃ梃子でも動きませんよ。それに僕も変わったスノウを見て、こちらにいる方が良いって思いますし……」
 レイがそう言うと溜息が向こうから聞こえた。
「だからお前が行くことに反対したんだ。一度も音沙汰がないのは戻るつもりが無いってことだ。そんなことは最初から分かっている。お前の役目はそれを引きずり戻すってことだ。どうせ、うまく丸め込まれたんだろう。レイにリベートの才能は無いからな」
 見下すようにそう言ったケインが今、どんな態度で受話器を握っているかがレイには想像がついた。
「丸め込まれたなんて……」
「まあいいさ。どうしてお前にプロフェッサーが頼んだかは分からないが、ユキヒサがそんなに変わった理由はきっとあれだろ」
「何ですかあれって……」
「恋人でも出来たんだろうな……じゃ、そいつを丸め込め」
「恋人が誰かは知りませんよ」
「勤めてる病院の看護婦あたりだろ?日本人は、恋人が一緒についてこれないからという理由で海外転勤を断る事も多いらしい」
 馬鹿にしたような口調でケインは言った。
「そんな理由じゃないと思いますけど」
「色恋に疎いレイには分からなくて当然だ」
 ふんと鼻を鳴らしてケインが言った。このまま受話器を叩き切ってやろうと思ったが、レイにはとても出来なかった。
「済みません」
「まぁいい。とにかく必ずユキヒサを連れ戻せ。分かったな」
「努力してみます……」
そう言うと同時にレイは受話器を置いた。そうしないとまた腹が立つことをケインは言うだろうからだ。
 深いため息をつき、先ほどまで一緒であった名執のことを思い出した。
 本当に変わったと驚きがやはりまだ抜け切れていない。確かに昔より今の名執の方が好感が持てる。その上、身近に感じた。
 確かに一線を引かれているのは昔と変わらないが、それでも自分の知っている名執とはあんな気軽に話を出来なかった。
 ということは、昔抱えていた悩みは今は解決したのだ。
 だからあんな笑顔を浮かべることが出来るのだ。
 名執の笑顔があれ程綺麗だとは想像できなかった。ただでさえ元の顔立ちも人より抜きん出て綺麗なのだ。笑顔は言いようのない美しさを醸し出す。女性と見間違う人もいるかと思われた。
 明日は名執の取り計らいで病院を見学させてもらうことになっていた。院長の巣鴨はプロフェッサーのことを知っているらしく、大丈夫だろうとのことである。
 レイは名執がどんな風に患者と接触しているのかとても興味があった為、その事は楽しみであったのだが、先程のケインの言葉を思いだし、げんなりとなった。しかしそれでも、それとなく名執の恋人らしき人物をチェックしてみるつもりであった。
 真剣にはチェックする気はない。だがケインに逆らうこともレイには出来ないことであったのだ。

 翌日、院長の巣鴨は名執の申し出を快諾してくれた。名執は礼を簡単に述べると院長室を後にした。
 レイとは一時の約束である。午前中の診察を終えた頃にやってくるだろう。
 昨晩の話から、レイは何となく名執が戻らないということを納得し始めているようであった。レイ自身は連れ戻したいと、今も思っているに違いない。それでも名執の強い意志と、利一という名執を理解している人物に出会ったことで、その気持ちが揺らいでいるようだ。
 最初、リーチと同席した時はどうしようかと思ったが、結果的には良かったと名執は思った。やはり自分が何故ここにこだわるのかを理解して欲しいのだ。リーチのことも大きな理由であるが、自分がこの病院で変わったのも事実である。その理由は今医者を続ける為に必要なものであった。それをレイも知ればきっと分かってくれるはずであった。
 レイだから理解できるような気がしたのだ。
 果たしてレイは約束の一時にやってきた。名執はレイに白衣を貸し、形だけの研修生の名札を胸に付けるようにと渡した。見学とはいえ、私服の人間を連れ廻すことは出来ないからだった。
 実際彼はここの外科医と同等、もしくは以上の腕を持っていた為、気を悪くするのではないかと気になったが、本人は日本語が分からないことが幸いして不思議そうな顔をして名札を付けるにとどまった。そして同行する看護婦を紹介し、回診に出た。
 担当患者の各病室を周り、様態を診察し、彼らと言葉を交わす。そんな光景をレイは興味深そうにじっと見つめていた。名執は患者と日本語で会話していたので、レイには何を話しているかはわからないだろう。ただ看護婦は英語が出来る人間を選んだので、時折レイは質問していた。だがその内容を名執は聞き取れなかった。
「先生、その外人さんはお弟子さんですかの」
 ガンで入院している三室が聞いた。三室は八十を越えているが、歳のせいでガンの進行が遅かったことと、早期発見であったことが手術を成功へと導いた。
 後十日ほどで退院の予定の患者であった。
「弟子ではありませんよ。研修生です」
 弟子という響きが何となくおかしく、名執は笑みを浮かべてそう答えた。レイは自分の事が話題に上っていると雰囲気で分かったのか、こちらへ?の目線を送ってきた。看護婦はそんなレイに通訳をすると、レイは驚いた顔をしながらも照れた笑いを見せた。
「じゃが先生の下で勉強できるんじゃからあんた幸せもんじゃ」
 三室はレイに向かってそう言った。
「そんな事はありませんよ。彼もとても優秀な外科医です。私よりも腕前は良いはずですよ」
 そう言うと暫くしてレイがその事を通訳され、びっくりした顔で手を左右に振った。
「いや、先生。わしは感謝しとるんじゃ……八十にもなってまだやりたいことがある。ガンと聞いてこりゃ年貢の納め時かと思った。何、わしの友達はガンで随分亡くなりよったからな……。ガンも最近は助かる病気だと聞いとったが、そんなことは無い。友達がばたばた死ねばそんな話は幻想だと信じとった。だからガンと分かってわしは死ぬんだと思った。前の担当医が大丈夫だと言ってくれたが最初は信じられんかった。それが先生の噂を聞いてやっとの事で転院して、先生と出会ってわしはようやく助かると思えたんじゃ……」
 感慨深げに川田は言った。
「早期発見がなによりです。私の力はさほど必要ではありませんでした。三室さんの以前入院されていた病院でも十分だったのですよ」
「いや、先生じゃったからわしはこうやって生きとるんじゃ」
「困りましたね……。ですがそうおっしゃっていただくと医者冥利に尽きますよ……」
 苦笑しながらも名執は嬉しかった。
「まぁ、先生だって万能じゃないのは分かっとる。じゃが、五十の確率が七十になるんなら、どうあっても先生に頼みたくなる気持ちは分かるじゃろ?なぁ看護婦さん」
 レイに通訳していた看護婦は、いきなり三室に話しかけられたことで、おたおたしながら「そうです」と答えた。
「で、先生。後どのくらいで退院できるんじゃろ?」
「このまま良好なら十日ほどで退院出来ますよ。ですが三室さんの快復力が早いので、もう少し早くしても私はいいと思っています」
 そう言うと三室は顔全体をくしゃくしゃにして喜んだ。
「孫の誕生日に間に合いそうじゃ……嬉しいの」
 暫く雑談し、三室の病室を後にした。
 後、数部屋周り回診を終え自室へ戻るとレイが言った。
「なんだか……別世界を見てるようです」
 夢心地にも似た表情でレイは言った。
「別世界ですか?」
「はい。患者と話すことなんか僕には無いですよね……それが普通だと思ってました。それに僕たちが患者として扱うのは、どこの病院でも駄目だと言われた人達じゃないですか……。新しい試みを同意の上でするのが研究所での仕事だからどうしても亡くなる人の方が多い……。それも医学の上では必要なんだと思いながら、なんだか実験してるみたいで自己嫌悪に陥ることがあるんです。ケインなんかはそんなことを僕が言うと、患者に失礼だと言うんですが……。失礼なのは分かっているし、患者さんも一縷の望みを僕たちに託してくれているので本当に重大な責任をおわされているのは分かっているんです。でもそれが時に酷く辛い……。だから患者と話すのは御法度というのも分かるんです。情が移ると亡くなられたとき、やっぱりきついじゃないですか……」
 外の景色を見ながら淡々とレイは話した。
「そうですね。ここでも死は身近ですよ。情も移りますし、それが辛い事もあります。ですが情が移るのが怖いのも分かりますが、患者さんはもっと恐怖を感じているはずです。担当医にしか頼れない切実なものがあるんです。それを知ってあげませんと……。ただ私は研究所にはそぐいませんでしたが、必要だと思います。意義のある事だと今でも思っています」
「そう思っていても戻るつもり無いんですよね……」
 振り向いたレイは悲しげに言った。
「ええ」
「……スノウ……楽しそうだった……」
 レイはぽつりと言った。
「初めてこの病院に来たとき……院長先生は私を小児科に廻したのですよ」
「小児科?畑違いじゃないですか……」
「そうですね……それに私は子供は苦手で……。ですが院長先生はこうおっしゃいました。貴方が優秀なのは充分わかっていますが、笑顔の作れない医者は失格です。子供たちを見て好かれるように努力して下さい……そうおっしゃったのですよ。子供は敏感で最初は苦労しました。こちらは普通に接しているのに怖がられましてね……。それでも子供の中には無条件に慕ってくれる子もいて……なんだか優しい気持ちになれました。子供は大人のように計算したりしないでしょう。無邪気で……死などほど遠く思える。でもここに来る子の半分は重病なのです。それでも死が理解できないから無邪気に笑うんです。生は永遠だと信じるその真剣さに胸が痛かった……。そんな子供たちの瞳の奥に移る自分を見て、私は変われたのです。癒されたのですよ……自分より歳の離れた子供に……」
 リーチにも話したことのない事であった。
「スノウ……」
「私は人間不信だったのです。誰も信じたことが無かった。信じる気も起こらなかった。こちらに来るまで私の中の時間は止まっていたのです。誰も彼もどうでもいい存在でした。研究室にいたのも死が側に渦巻いているからいたのかもしれません。私は死にたかったのです」
「…………」
「何故そんな私だったのかは聞かないで下さい。もう過去の事と今の私は切り捨てています。死を望む私が命を救う職業を選んだことは滑稽なことでしょう。自分自身何となく流されるまま医者になったのだと思っていました。ですがこちらに来てやっと自分が何故医者を選んだのか分かりました。人間不振なはずなのに……誰かの力になりたかったのです。誰かの中に自分の存在を認めてもらいたかった……。その事を知って私はやっと今の自分になれました。その変化は急激でした。基本的な性格は何ら変わっていませんが、人生に対する態度は変わりましたよ。だからそれを分からせてくれたここを離れたくないのです。離れることが怖いのでしょうね……きっと……」
「僕は……」
 レイはじっとこちらを見て言った。
「僕はもう何も言えません」
 それは連れ戻すと、もう言えないということだろう。
「ありがとうございます」
 そう言うと今度レイは、首を横に振った。
「夕飯……食べに出ましょうか?この時間から行くことが出来る場所なら案内しますよ。折角ですから少し観光しても罰は当たりませんよ。ところで……いつまでこちらに滞在する予定なのですか?」
「予定では一週間です」
「そうですか……明日は無理ですが明後日なら何とか時間を作りますよ」
「え……そんな、いいです。大丈夫です」
「明後日は観光しましょうね。で、明日はどうするつもりですか?」
「プロフェッサーからのリクエストされたおみやげを買いに行くつもりです」
「土産?」
「漬け物が欲しいって言ってました」
 レイはやっと笑顔でそう答えた。つられて名執も笑顔になった。

 翌日レイは土産を買うために街をうろついた。うろつきながら名執と昨晩楽しく食事をしたことを思い出した。
 久しぶりに笑ったような気がする……レイはつぶやくようにそう言い、知らずに笑顔になっていた。会話の中で思い出したように彼女がいるかを名執に聞いたが、曖昧に答えるだけで結局分からなかった。しかしケインの言うように彼女の為に戻れないと名執が言っているわけでは無いので、居るのか居ないのかと言う事はもうどうでもいい話題であった。
 ただ名執の彼女はどんなタイプかはとても気になったが、名執の方から話題を変えてしまったので、結局その話は一瞬で終わってしまった。
 つきあい始めたところかもしれない。そう考えただけで深くは考えなかった。戻る戻らないと言う話しに関係がないと分かった時点で、レイにはどうでもいいことになったのだ。
 そんなことを考えながら歩いていた為、前方から来た人とぶつかった。
「ソーリー」
 日本語が出来なかったため、レイはそう言ったが相手は三人連れで、どう見ても一般人でない事が見て取れた。
 三人のうち一人はひょろりと高く、きちんとスーツを着ていたが、後の二人は岩のようにでかく、どう見ても映画で見たようなやくざであった。
 岩の一人がなにか言った。
 日本語で何かを話している様だが、いかんせん言葉が分からなかった。どうしようと思っていると、突然胸ぐらを捕まれた。
 レイがそんな行動に出られたことでパニックになっていると、誰かが後ろから声をかけてきた。すると先ほどまで厳つい顔をしていた三人が急に笑顔になった。こちらの胸ぐらを掴んだ手も、いつの間にか離されていた。
 どうなっているのか分からず、レイが振り返ると、この間名執から紹介された利一が立っていた。その利一がニコニコとまた何かを言うと、三人のやくざは逃げるように走り去った。
「大丈夫ですか?」
「す……済みません。助かりました。言葉が通じなくて……」
「それよりどうしてこんな所をうろついているんですか?」
「?」
 見回すとちょっと道をそれ、先ほどとは違う景色の場所であった。
「あれ??」
「その様子では迷い込んだみたいですね。新宿はそういう場所なのですよ。ちょっと道を入り込むとやばい」
 言って利一は笑顔を見せた。それでやっとレイは緊張が解けた。
「隠岐さんはどうしてここに?」
「聞き込みに来たのですが、パートナーとはぐれてしまって……」
 照れたように利一は笑った。その顔はどう見ても自分より年下に見えた。
「そう言えば隠岐さんは刑事さんなんですよね。名執さんから聞いてびっくりしたんですよ……」 
「見えないからでしょう。それより地図……もってますか?」
「あ、はい。でもなんだか見にくくて……」
 カラフルなのは良かったが、間違って日本語の地図を買ったせいか、ほとんど見ない状態であった。
「ちょっとつきあって下さい」
 そう言って利一はレイの手を取って歩き出した。暫くすると交番へ着いた。
「あ……あのぉ……」
 どういうことか分からずにレイは言った。
「済みません。榊原巡査、外国人専用の地図ありましたよね」
「隠岐さん。お久しぶりです。地図ですか?ありますよ」
「一部いただけませんか?」
「ええ、あ、そちらお友達ですか?」
「そうなんです。それで地図を頂きたくて」
「構いませんよ。ちょっと待って下さい」
 そう言って榊原巡査は机の引き出しをあけてノートを開いたくらいの用紙を取り出し、利一に渡した。
「ありがとうございます」
 利一はそう言ってその用紙をこちらに差し出した。
「詳細の地図は新宿だけの地図ですが、下に交通網の略図もわかりやすく載っています。良かったらお持ち下さい」
 パッと見た瞬間から、わかりやすいのが分かったレイは「助かります」と言って受け取った。本当にありがたかった。
「そうだ……時間あります?」
 利一はレイにそう言った。
「え、あります。なんですか?」
「お茶につきあって下さいよ。パートナーとはぐれたら、いつも待ち合わせしている喫茶店があるんですよ。一人で時間を潰すのも退屈ですし……良かったらつきあってくれませんか?」
「いいのですか?」
「ええ、お願いします」
 利一の人懐っこい笑顔にレイは嬉しくなった。

 喫茶店はそこからすぐのところであった。こぢんまりとしていたが、道に面した窓が上から下まで開いており、利一の言うパートナーと待ち合わせをするには打ってつけの所であった。
 そこに入るとレイはアイスコーヒーを頼んだ。利一の方は照れながらミルクセーキを頼んでいた。それがあまりにも似合いすぎて思わずレイは笑みが漏れた。
「好きなんですけど……一人で頼むのは恥ずかしくて……大の大人がって思われるでしょ」
「そんなことありません。誰だって、甘いものを突然飲みたくなることってありますし、僕もそうですから……」
 隠岐さんならおかしくないです。とはレイもさすがに言えなかった。
「そうですよね」
 利一は嬉しそうにそう言った。
 暫く雑談を交わし、レイは利一がFBIで研修を受けたことや、三カ国語話せることを知って驚いた。それに話術も巧みで、珍事件等を面白おかしく利一は話してくれた。最初会話をしたとき、かわいい顔をして厳しい事を言う利一に恐れを抱いていたが、今はもうそんなことは無かった。
 考えてみると名執の事を第一に思っての言葉だったと分かるからだ。
 この人は信用できる……レイは利一にそんな感情をいつの間にか抱いていた。その所為か、話題は先日名執に病院内を案内してもらったこと、名執の自室で何を話したかをいつの間にか話していた。
 利一は聞き終わるとにっこりと笑い、
「きっと、そう言うことを話したのはレイさんをとても信頼しているからだと思います」
「そ、そんなこと……」
「そうでなければ、そんな個人的なことを先生は話したりしませんよ。だから私には構いませんが、他の方にその話はしないで下さいね。レイさんだから話されたのだと私は思いますので……」
 笑っていた利一が急に真剣な目を向けてそう言った。レイは何となく厳粛にそれを受け止めた。
「はい」
 そう言うと利一は「良かった」と自分のことのように言い、明らかに安堵したようであった。
「隠岐!なーにくっちゃべってんだよ!」
「わっ。し……篠原さん。驚かさないで下さいよ」
「あれ、金髪の外人さんじゃないか……」
「あ、紹介します。ほら、警察病院の名執先生のご友人ですよ。さっきそこで会ったんです。篠原さんが消えてしまったので、一人で待ってるのもなんですから、私が無理を言ってつきあってもらったんです」
 そうして利一から篠原をレイは紹介された。
「始めまして……レイ・バルハートともうします」
「えーイングリッシュかぁ……」
 苦手な風に言いながらも篠原は自己紹介をレイにした。
「で、なごんでるとこ悪いんだけど、隠岐、そろそろ行くぜ」
「あ、ちょっと待って下さい。あの人、少し気になるので……」
 そう言って利一は席を立ち、先ほど店に入ってきた人物に近寄っていった。
「あの、あの人はお知り合いなのでしょうか?」
 そうレイが聞くと篠原は手を横に振った。
「良くあることなんだけどさ、隠岐が今近づいていった相手、なんかやばいことたくらんでるんじゃないかな……あいつ、そういうのすごく敏感なんだ。特技って言うより、一種の超能力みたいなもんだね」
 うんうんと頷きながら篠原は言った。だがレイは利一の事が気にかかり、そちらの方ばかりを見ていると、利一とその人物は外へと出ていった。
「だ……大丈夫でしょうか……」
 おろおろとレイはそう言った。
「あいつ、可愛い顔してるけど、自分よりでかい犯人でもあっという間に取り押さえるような奴だから心配しなくても、すぐもどってくるって」
 レイは本当に心配であったが、篠原の言う通り利一はすぐに戻ってきた。
「済みません」
 言って利一は席にもう一度座った。
「で、奴は何だったんだ?」
「なんか……強盗しようとしてたみたいでした。だから例え百円盗っても五年はくらいますよって説明して……。そしたらリストラされたらしくて、明日食べるものも無いって言うんです。子供もいるらしくて……仕方ないのでどんな仕事でもいいって言うなら……って事で仕事を紹介してあげました」
「ほっときゃいいんだよ」
 篠原は呆れたように言った。
「あの……隠岐さん。その人、今会った人ですよね。そんな強盗を企んでいる人に仕事紹介して、紹介された方が迷惑かかるんじゃ……」
 レイはそちらの方が気になった。
「あ、やばそうな人とか信用できない人には紹介しませんよ」
 当たり前のように利一は言った。
「隠岐は人を見る目もあるんだよ。怖い奴……」
「篠原さんはいい加減な人ですけど……」
「おーまーえー……」
 その二人の様子が可笑しくてレイは思わず笑ってしまった。
「レイさん、済みませんが私は行きますね。今度ゆっくり食事でもしましょう。そうだ、先生にも伝えておいて下さい。三人で行きましょうよ」
 ニコニコと利一は人なつっこい笑みでそう言った。
「はい。地図……ありがとうございました」
「あー俺だけのけもんか?」
 何故か篠原はそう言った。
「篠原さん。行きますよ」
 利一はぶつぶつ言っている篠原を引きずるように店を出ていった。
「あ……」
 ふと気がつくと、伝票は机から消えていた。
前頁タイトル次頁

↑ PAGE TOP