Angel Sugar

「氷解する瞳」 最終章

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「スノウ……僕たち今日夕方帰りますので、ご挨拶に伺いました」
 レイは玄関でそう言って頭を下げた。ケインの方は相変わらずこちらの視線を避けている。いくら誤解が解けたからといっても、いきなり態度が変えられるわけなど無いのだ。
 それは名執とて同じである。
「そうですか……気を付けてお帰り下さいね。プロフェッサーにも宜しく伝えて下さい」
 名執は平静を装ってそう言った。
「じゃ……」
 と、レイが言ったところでリーチが割って入ってきた。
「食事まだでしたら一緒にどうですか?なんだか沢山作りすぎてしまって……二人では食べきれないのですよ」
 にっこり笑ってリーチは言った。
 り、リーチ……
 ちょっと、ちょっと待ってください……
 等と内心慌てている名執をしっかり分かっていながらリーチが言ったのは歴然であった。
「え……はあ……」
 レイはケインに、どうする?という表情を向けた。
 このまま帰ってくれたらいいのに……
 と、名執が思っていると、リーチが肘でつついてきた。お前も何か言えと言うことなのだろう。名執は内心溜息ついた。
 仕方ありません……
「私も構いませんよ。良かったら上がって下さい」
 ケインとはやはり一緒には居たくはなかったが、リーチが誘った手前、名執が嫌だとは言えないのだ。
「ごちそうに……なって良いのですか?」
 ケインは名執を見ずにリーチに聞いた。
「もちろんですよ。先生の元同僚なんですから……気は使わないで下さい」
 リーチは自分の家に誘うように言った。
「じゃ……甘えます……」
 二人は何となく居心地悪そうな様子で、リーチに案内されるままキッチンへと向かった。
 そうして、たわいのない話をしながら食事し始めるとリーチが主導で話が提供されるので、話が気まずく途切れることは無かった。そんなリーチを見、かなり気を使っているのが名執には分かる。これはこれで珍しいことなのだ。
 リーチは何を考えてるんでしょうか……
 名執がちらりとリーチを見ると、目が合った。するとリーチはニコッと笑った。
 ……まあ……しばらくの我慢ですよね……
 仕方無しに名執はリーチに合わせることにした。
 暫くして四人が食事を終えると、リーチがお茶を入れると言い、後の三人を今度はリビングへ案内した。
「ちょっと三人で話してて下さいね」
 リーチはキッチンに戻る途中、そう言ってまたにこりと笑った。名執は気が進まなかったが、すぐにリーチは戻ってくるだろうと思い、ソファーに座った。
「……」
 三人共が視線を下に向け、暫く沈黙が続いた。やはりリーチが居ないとこうなってしまうのだ。
 だが何を話して良いか名執には分からなかった。
「その……な」
 ケインがいきなり言葉を発した。
「何ですか?」
「悪かった……それだけ言おうと思ってな……」
 視線は横を向いていたが、名執に対してだということが分かった。
「いえ……私こそ……その……」
 どう言えばいいのか分からずに名執は言葉を濁した。こんな風に面と向かって言われるとどう答えて良いか分からないのだ。
「ケイン……そんなつっけんどんに言わなくても……」
 レイはおろおろとケインにそう言った。
「うるさい」
 今まで通してきた態度を急に変えることなど出来ない。それは名執にも当てはまることであった為、ケインの気持ちも手に取るように分かった。その所為か不思議と腹も立たなくなっていた。
「レイ、いいのです。今までが今まででしたので……仕方ありませんよ……」
「スノウ……」
 困惑した顔でレイはこちらを向いた。
「私もケインに対して忘れていたとはいえ酷いことを……申し訳なく思っています……」
「いや……もういい」
「あの……僕……隠岐さんの手伝いに行って来ます」
 その名執とケインの雰囲気に居たたまれなくなったのかは分からないが、レイはそう言って立ち上がった。
 あ、それはちょと……と、言うより早く、レイはリーチの元へと走って行った。避けたかった状況になり、名執とケインは又沈黙してしまった。
「あの男に……いや、隠岐さんに色々聞いた」
 小さな声でケインは言った。
「……」
「何故、雪久があんな風だったか……」
「笑って下さって……結構ですよ……」
「笑うつもりはない。ただ、私にはその時のお前の心情は本当はどうであったかなど分からない。だが私を基本に人を見ても、お前を理解することはできないと、隠岐さんから言われたよ」
「……」
「だから……理解しようと思う。そう思うと少しだけ分かる」
 目を閉じ、ケインは両手を膝で組んで、何かを想像しているような表情でそう言った。
「ありがとうございます」
 本心からの笑みを浮かべて名執は言った。
「初めて聞いたな……」
「えっ……」
「雪久からの感謝の言葉……」
 ケインは名執が見たことのない笑顔を見せた。
 こんな風に笑うことの出来る男であっただろうか?
 いや、自分もケインをちゃんと見たことなど無かったのだ。分からなくて当然だと名執は思った。
「私も……ケインが笑う顔を初めてみました」
 そう言って二人は互いに苦笑した。
「いい男だな……あの隠岐と言う奴は……」
「ええ……」
「今、お前が笑えるのはあの男がいるからか?」
「そうです」
「だが、あの男は怖い男だぞ……人の心を見透かすような目を……いや見えているようだな。それが少し怖いな……」
 確かにリーチの目は、心の奥底まで見つめるような視線を放つときがある。
「私もそう思います。ただ怖いとは思いませんが……」
「大きくて可愛い瞳をしている。だが、私が人質に取られていたとき……あの男の目は凝視できないほど怖く見えたり、こちらが安心するような瞳にもなった」
 トシとリーチが入れ替わるとそういう現象がおこるのだが、普通は何故かは分からないだろう。
「隠岐さんは敏腕刑事ですよ……可愛いだけでは犯人を捕まえられません」
「そうだったな……」   
 納得したようにケインは頷いた。
「その事だが……その……隠岐さんは職に復帰できていないのか?」
 聞き難そうであったので、ケインはその事について後ろめたく思っているのだろう。
「大丈夫ですよ。彼の上司は辞表を受け取らないとおっしゃっていましたので……だから今はずる休みをしているんです」
「なんだ……ずる休みか……」
 ホッとしたようにケインは言った。
 こんな風に会話などケインとはしたことがなかった。しかし話してみるとそれほど苦痛ではないことを名執は知った。
 リーチが悪い奴ではないと言った意味をようやく名執は知った。
「うらやましいぞ……」
 ケインは突然そう言った。
「え?」
「あの隠岐という男は側にいて欲しくなる相手だな……安心できる」
「彼の友人は皆そうおっしゃいます……」
 幾浦を除いて……と一人で思い、思わず笑いそうになった。
「済みません遅くなって……」
 リーチがお盆にコーヒーを入れたカップをのせてやってきた。レイはその側にぴったりついている。
 そうしてリーチがカップを配り終わると名執の横に座った。
「いつか……二人で遊びに行きますね。皆さんがどんな立派な臨床研究をされているのか私にも教えて下さい」
 リーチはいきなりそんな事を言った。名執はその事に驚いて言葉が継げなかった。
「ね、先生」
 言ってリーチはこちらを向く。
「あ……はい……そうですね……」
 名執はようやく取り繕った顔でそう言ったが、血の気が引くのは避けられなかった。
「いつでもいらして下さい。歓迎します」
 名執の様子に気付かずレイは言った。嬉しそうであった。
「そろそろ出ないと……」
 ケインは時間を確認してそう言った。
「あ、そうでした。済みませんお邪魔して……」
 レイは慌てて立ち上がった。
「先生、下まで見送ってこられたらどうですか?」
 リーチはそう言うと名執は頷いた。
  
「またな……雪久……」
 ケインがややこちらを見ながらそう言った。
「ええ」
「絶対遊びに来て下さいね」
 レイはことのほか嬉しそうな顔でそう言った。
「え……ええ」
「そうだ……」
 ケインが真顔になって耳打ちしてきた。

 首元にキスマークが見えてるぞ……

「えええっ……」
 言われて、真っ赤になった名執をケインは意地悪そうに笑った。
「はは……冗談だ」
「ケ……ケイン」
 レイは狼狽えていた。
「今なら……いいライバルになれたのにな……」
 ケインはしみじみとそう言った。
「そうですね。残念です」
「だがお前はここで生きる道を選んだんだな……お前らしく生きることができるのなら、それもいいだろう……元気でな……」
「ケイン……」
 名執は急に胸に何かがこみ上げてきた。
「元気で……スノウ……職場は違うけど……ずっと僕たち同僚だからね……。そうだ今度来た時には観光連れてってね。ケインが邪魔していけなかったから残念だよ」
「……はい」
 瞳が涙で潤む。
「お元気で……」
 そう名執が言うと、二人は去っていった。
 時間はいつの間にかあれから随分経っていたのだ。
 思い出したくない過去ばかりの自分の人生の中で、たった一カ所だけが、鮮やかに思い出せる記憶となった。
 あの頃、確かに回りを見ることはなかった。誰も彼もが自分の視界に入っていなかった。だが今回思い出し、周囲の人達がどれだけ自分に優しかったかをようやく知ったのだ。
 頑なだったのは自分だけであり、周囲はいつでも手を広げていてくれたのだ。
 あと一歩、あと少し、自分がその人々に目を向けていたら……そんな風に名執は考えた。
 辛い過去も見方を変えると、そこで優しい思い出になることを名執は知った。
 あの時……
 確かに私は彼らと競い合っていたのだ……
 同僚として……
 友人として……
 見えていなかったのは私だけだったのだ……
 全ての過去を封印してしまう必要は無い。その事を彼らが……そしてリーチが教えてくれたのだ。
 名執は彼らが見えなくなるまでその場に立っていた。

 戻るとリーチはソファーに横になっていた。
「奴ら機嫌良く帰ったか?」
「ええ」
 うーんとのびをしてリーチは身体を起こした。
「いつか……行こうな」
「そう……ですね」
「だが、お前がもっと癒えてから……だ」
 何に癒えるかは聞かずとも分かっていた。
「はい」
「そしたら、きっとあいつら以外の人達も良く見えるはずだから……」
「ええ」
 リーチの言わんとしていることがヒシヒシと伝わってくる。一番感謝しなければいけないのはリーチに対してだろう。
「さあーって……今度は俺の番か……管理官に挨拶してこようかな……さっきトシと相談してな、今日行くことにしたよ」
「一緒に行きましょう……私は外で待っていますが……良いですか?」
「え?子供じゃないよ……俺……」
 そこまで言って今度は
「じゃ、待ってて貰おうかな。そうしよう」
 と、リーチは言った。名執は笑顔で応えた。

 警視庁の近くに車を止め、リーチが帰ってくるのを待ったが、なかなか出てきそうに無かった。仕方無しに名執は、シートを少し後ろに倒し、身体を伸ばした。
 田原は名執が利一と随分親交があると言っていた。それは主治医、もしくは友人としての名執であって、その他の意味ではないはずである。それにケインの手紙からは、二人の関係を仄めかすような内容ではなかった。
 それとも田原は何か気付いているのだろうか?
 リーチが車から降りて一時間経つ頃、リーチは帰ってきた。
「ごめん……遅くなった……」
 助手席に座りながらリーチは言った。
「どうでした?」
「復帰決まりって言うより病欠扱いになってた」
「良かったですね。あのそれで、田原さんは……」
「なんてこと無かった……利一の一番仲がいい友人は名執先生だってことかな……。俺が自宅にも戻っていないんで、じゃ、一番仲のいい友人の家にでも行ったのだろうと、お前ん家に行ったそうだ。嘘ついているようには見えなかったから、たぶんそうなんだろ……ほら、つき合ってる俺達から聞けば含みがあるように聞こえただけで、知らない田原管理官は普通に言っただけなんじゃないかな」
「それもそうですね……男同士の親友だって別に変なことではありませんし……私達が少し神経質になっていただけなんですね」
 名執はホッと胸を撫で下ろした。
「それに手紙を見たのは田原さんじゃなくて、もっと上層部の方らしくてさ、田原さんがそれを知って、上に中止させるように頼んだ矢先に俺が切れたって訳だ」
「そうだったのですか……」
「右翼かなんかと接触があるんじゃないかと考えたそうだよ。この俺が右翼……だって。普通に考えてもそんなことあるわけないじゃないか。でも利一がもしそうなら大変だって事だったみたい。普通のデカなら四人も付けないと言ってたよ。まず直接呼んで聞くってさ、でも利一にそんなことをしたらやっぱり辞めるとか言いそうだったんで、こっそり調べてたそうだ。でも俺がそれに気付かないわけないだろって言いたかったよ。喜んで良いのか怒って良いのか分からないだろ」
 ははっと笑ってリーチは言った。すると、突然サイドガラスを叩く音がした。
「こんにちは名執先生、又隠岐がご迷惑掛けたみたいですね」
 篠原がそう言った。
「ええ、隠岐さんが身体を大事にされませんので困ります」
「まいったなぁ……」
 リーチが利一モードでそう言った。
「ま、この間からこいつ体調絶不調だったみたいなんで、心配してたんですよ。隠岐は刑事辞めたとか行って出て行くし……ええっと思っていたらそのまま突然来なくなるでしょう……。驚いて上司に聞けば病欠だって係長が言ってたから、それならそう言えば良いんだ、普通に休めば良いのに、辞めると言い出すなんて馬鹿だなって、みんなで笑い者にしてましたよ」
「笑い者……酷いです。私は本当に身体の調子が悪くて、これは刑事という職業のせいだって真剣に辞めるつもりだったのに……」
 篠原に併せてリーチはそう言った。
「無理無理、お前にとって刑事は天職だって。あ、俺そんなこと言いに来たんじゃないんだ。事件だってよ行くぜ」
 言いながら篠原はリーチを車から引きずり出した。
「あ、私まだ体調が……」
「憑き物落ちたみたいな顔してるお前のどこが悪いんだよ。ってことでドクターの意見はどうですか?」
「ええ、もう全快ですよ。隠岐さん、怠け癖がついたのではないですか?」
 名執はそう言って笑みを浮かべた。
「それは無いですよ……じゃ、色々お世話になりました」
「気を付けて……」
 リーチは篠原に引きずられるように警視庁に入っていった。名執はそれを微笑ましく見送った。
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