Angel Sugar

「氷解する瞳」 後日談

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 名執には気になっていることがあった。聞けばいいのだが、何となく躊躇われ、気付いていながらもリーチに聞くことが出来ないことがある。
 リーチには過去愛した女性がいることは以前、トシの口から聞いた。その詳しいことをリーチからは聞いたことが無かったのだ。
 もう一つ気になることはリーチは何か危険なことがあると、いつも自分たちには天使がついていると言うのだ。その天使の事は問いかけたことはあるのだが、その都度リーチに誤魔化されていたような気がする。
 どうしてそんなことを今更気にしているかと言うと、今回のことで自分の過去は殆どリーチに知られてしまったにも関わらず、自分がリーチのことを考えたとき、彼について殆ど知らないことに気が付いたのだ。
 今回も、自分の過去が絡むことでリーチに助けて貰ったと言っても良いだろう。名執には人に言えない沢山の過去がある。それを一つずつ、リーチは解決し、一緒に背負ってくれている。それがとても嬉しいことであり、いつもリーチに感謝している。
 ただ、だから自分はどうなのかと考えると、殆どリーチのことを知らないのだ。トシのことは断片的にリーチからこんな事があったんだ……と言うのを聞いている。
 だが一番名執が知りたいリーチの過去は本人が口を開かないために、名執は全く知らなかった。
 日々穏やかに過ごしていると忘れてしまうそのことが、ふとしたきっかけで心の中に居座り、名執を不安にさせるのだ。
 だからといってリーチにいきなり、貴方の過去を教えて下さい……と、聞くのはあまりにも失礼なことだろう。それが分かっているから名執は時折胸をよぎるその不安を気にしないように自分自身に言い聞かせていた。
 いつか話してくれるだろう……
 リーチを守る天使……
 そしてリーチが愛したという春菜のこと……
 そうは思うのだがリーチに話す気が無いらしく、今までぽろりと出てきたときでも、ただはぐらかすだけであった。
 都合が悪いのだろうか?
 私に知られるのが嫌?
 それとも春菜という女性を今も尚、リーチは心の奥深くにしまい込み、愛しているのかもしれない。亡くなったからと言って、リーチが本気になった相手を忘れるわけなどないからだ。
 記憶を失ったときリーチは名執の事は忘れていた。だが春菜のことは何となく覚えていたのだから、その思いの強さは名執を思うよりも遙かに上なのだろう。
 本人は記憶を失っていたときの話だと思っているだろうが、名執にするととても重要なことなのだ。
 ほんの少しだけ名執はあの時、自分のことも覚えていて欲しいと思ったのだ。過去亡くなった女性を覚えているのなら、自分のことも覚えてくれているだろうと期待した。
 だがリーチが覚えていたのは春菜のことだけであった。
 悔しいが、亡くなった相手に嫉妬している自分はとても情けない。
 本当に名執はリーチを誰にも渡したくないと考えている。自分だけを見ていて欲しいと思う。
 だがそう思う、自分の心の奥にあるどろどろとした嫉妬心は表に出すことはない。口にすると、嫌な奴だと思われそうで恐いのだ。
 私は馬鹿ですね……
 名執はソファーに横になりながら目を閉じた。
 時折思い出すこのことにいつも頭を悩ますのだ。はっきりリーチに話して貰えていたら、こんな風に思い悩むことも無いのだろう。
 リーチが故意に隠しているとは思わないが、名執が気にしていることは分かっているはずなのだ。それでも話す気が無いと言うことは、名執と春菜を天秤に掛けた場合リーチがどちらを選ぶかが分かる。
 ……
 こんな事を考えたら駄目……
 決してリーチを疑っているのではない。だが気になっているのは確かだ。
 大抵こんな気持になるのは、トシのプライベートの週だった。会えない寂しさからそんなことを考えてしまうのかもしれない。
 トシさんに聞いてみるとか?
 チラリと時計を確認し、今十時であることを名執は知った。この時間だと多分トシがプライベートを取っているはずなのだ。ただ、捜査に入っているとリーチがバックで起きている場合もある。そうなると聞きたいことは聞けないだろう。
 その上、下手をするとトシがリーチに、名執が聞いたことを話すかもしれないのだ。そうなるとなんだかこそこそしているように思われて、名執の印象は悪くなるはずだった。
 ……
 リーチが話してくれたらこんなに悩まなくても良いのに……
 いつか……
 きっと話してくれると思っているのだが、そんな機会に恵まれそうに無いだろう……と、いう気がして仕方がない。
 リーチ達を守る天使……
 そしてリーチが心から愛した過去の女性……
 どちらも名執がいくら思い悩んでもどうしようもないことだった。
 話して下さい……
 たったその一言が名執には言えなかった。
 


 翌週、リーチは名執が思い悩んでいる事など全く知らない顔でやってきた。
「ただいま~」
 靴を脱ぎながらリーチはそう言った。その表情は晴れやかだ。
「お帰りなさい……」
 名執は笑顔でリーチにスリッパを差し出した。
「あ、これおみやげ~いま関わっている被害者のうちが、和菓子屋さんででさ。色々作ってるらしくて、うちの課に大量に持ってきてくれたんだよ……で、一つもらってきた」
 それは饅頭が入っているような折り詰めであった。表書きには老舗柳堂、餅三種と書かれている。
 餅三種って……甘そう……
 名執は思わずそう思った。
「あ、お前……俺が好きだから貰ってきたとか思ってるだろう?違うぞ。向こうが持って来て、是非隠岐さんにもって言って押しつけられたんだからな」
 だが、リーチはとても嬉しそうだった。
「それは構わないのですが……。お願いですから、これを全部食べるとは言わないで下さいね。和菓子はもちろん洋菓子よりはカロリーも低いですし、油分がありませんから身体に優しいでしょうけど、リーチはすぐに食べきってしまうでしょう?あまり一度に沢山食べると、糖尿になりますよ」 
 名執はそう言ってリーチに釘をさした。そうでもしないと、リーチは本当に、もしゃもしゃといつの間にか一箱食べきってしまうのだ。
 もちろん、それでリーチの体重が増えるかといえば、そうでもない。何度か入院したときの検査に混ぜて調べてみたが、糖尿の兆候もなく、体脂肪も少ない方だ。
 だからといって油断しては駄目なことを名執は医者の立場で知っていた。
「俺が糖尿?やめてくれよ~」
 ぞっとしたような顔でリーチは言ったが、本気で名執がそのことを気にしているとは思わないのだろう。
「これは私が管理します。いいですね?一日一個です」
 取り返そうと手を伸ばしてきたリーチから、菓子折を後ろに隠し、名執は言った。
「一日一個?おいおい、それは無しだって~。ただでさえ利一の時は、人前で食べないようにしてるんだからな。甘い物好きの刑事って変だしさあ……。それをうちのなかでも駄目って言われたら俺は何処で食ったら良いんだよ……」
 不服そうにリーチは言った。
「食べては駄目とは言っていません。一度に沢山は駄目ですと言ってるんです。いいですか?一日一個です」
 そう言うと、リーチは渋々頷いた。
「……でも……時々は二個食うぞ。ほら、放って置いたらカビが生えるじゃないか……な?」
 こちらの顔色を窺うようにリーチは言った。
「……それなら……」
「何で俺、餅の食い方で悩まなきゃならないんだ……」
 頭をかいてリーチは言った。
 もう……
 私が深刻に悩んでいるというのに、どうしてリーチは和菓子で悩んでるんですか……。
 名執は珍しく先週から悩んでいることをまだ引きずっていたのだ。
「……おまえさあ……なんか考えてるだろう?」
 リーチはぴくぴくと鼻を動かしてそう言った。その姿はまるで動物だ。臭いでも嗅いでいるのだろうか?……と、名執が思うほどだった。
「……別に何でも……。それよりリーチ。お疲れでしょう?リビングでくつろいでください。夕食を温めてきますから……」
 ニッコリと笑って、名執はキッチンに歩き出した。その後ろをリーチがついてくる。
「どうしてついてくるんですか?」
 チラリと後ろを振り返り、名執は後ろをぴったり張り付いているリーチに言った。
「……え?あ……いや……別に……」
 そのリーチの視線は名執の持っている菓子箱に注がれていた。リーチは夕食前にその餅を食べたいのだろう。
 全く……
「夕食前は駄目です。もう……リーチ……。子供じゃないんですから……」
「一個だけ。俺、今日、ずっとこれ食うの楽しみにしていたんだから……食わせろよ~」
 子供がだだをこねるようにリーチは言った。
「……駄目です」
 ぴしゃりと名執は言って、キッチンに入った。その後ろをやっぱりリーチはついてくる。
 ……
 もう……
 どうしたらいいんですか……
 菓子箱を机に置いて、料理を温め直したいのだが、隙を狙っているリーチが側に居ることでそれが出来ないのだ。
「リーチっ!」
「一個だけだって~食わせろよ」
 リーチは椅子に座って机を叩いていた。
「……」
「ユキちゃ~ん……お願い。ね?」
 猫なで声でリーチは言って手を合わせた。
「……一つだけですよ」
 名執は溜息を付きながら言うと、リーチは足をぶらぶらさせて喜んでいた。
「やっぱユキちゃんは話が分かるなあ~えへへへへ」
 ……
 だって食べないとずっと机を叩いているでしょう?
 と、言えなかったが、名執は本気でそう思ったのだ。
 名執はリーチの斜め横の椅子に座ると、菓子箱を開けた。すると、柏餅に、草餅、桜餅が入っていた。
 うわ……
 随分沢山ありますね……
 チラリとリーチの方を向くと目を輝かせていた。余程和菓子を食べたかったのだろう。
 名執はやはり菓子箱を持ち、一旦席を立つと皿とフォークを出した。それをリーチの前に置く。
「お前って意地悪だな……」
 片時も菓子箱を手から離さない名執にリーチは言った。だが開けたまま置いているとリーチは手で掴んで口に放り込むに違いないのだ。分かっていて大量に和菓子が入っている箱を放置する事など名執にはとても出来なかった。
「そうですか?」
 くすくすと笑いながら名執は椅子に再度腰をかけた。
「……うーー……迷うなあ……」
 リーチは箱の中に入った和菓子をじっと見つめながら一人呟いた。
「一つですよ……」
 名執の方は逆にリーチをじっと見つめて言った。
「分かってるって……ん~桜餅にしようかなあ……」
 言いながらリーチはフォークで桜餅を突き刺した。だがそのまま突き刺しながらフォークの先を出し、隣接する柏餅まで突き刺そうとしたため、名執はジロリと睨んだ。
「一つです」
 すると、するするとフォークを引き、桜餅だけを皿に移した。
「……お前って根性悪いぞ~!!」
 うううと唸りながらリーチは言ったが、大体しそうなことは分かっているのだ。
「約束でしょう?」
 溜息を付きながら名執は、菓子箱に蓋を閉めた。
「ああ……俺の和菓子が……」
 まだ一つ目も食べていないリーチは、その言葉を聞く限り明らかに一つで済ませるつもりが無かったようだ。
「……あとはまた明日です……」
 そう言うと、リーチはちぇっと口をならし、それでも嬉しそうな顔で、桜餅を食べようとした。
 桜餅……
 桜……
 名執はまた春菜のことを思いだしてしまった。だが聞くことが出来ない。ただ、天使のことは聞いてみたいと思った。
「リーチ……聞いて良いですか?」
「え、旨いよ」
 もごもごと口を動かしながらリーチは言った。
「いえ……桜餅の話ではなくて……少し聞きたいことがあるんです」
 名執が言いにくそうに言うと、リーチは半分食べた桜餅を皿に置いた。
「なんだ?」
「リーチがよく、危険な時はベルが鳴るって言ってますよね?それは、俺達には天使がついているんだって話して下さったことがありますけど、天使ってなんでしょう?」
 言うとリーチは、苦笑した。
「……う~ん……。そうだなあ……天使っていうより……。その……なんだ、昔に亡くなった友人が守ってくれているみたいなんだよ。大学の時の友達。死にかけたときに夢かなんだか分からないけど、そいつに会って聞かされたんだ。そこで初めて誰がベルを鳴らしているのかを知った」
 リーチは淡々と言った。だが名執はその亡くなった友人が誰かということにすぐに気がついた。
 春菜さん?
 リーチ達を守ってる人って……
 じゃあ……
 ずっと春菜さんはリーチの側に居るって事ですか?
 亡くなった人なのに?
「……亡くなった人が……そんな事出来るんですか?」
 名執は平静を保ってそう言った。まさかここでも春菜の存在を知らされるとは思わなかったのだ。
「知らないけどな……。あれは夢だったのかもしれないし……。ただ、いままでも何度か夢で会ってる。あいつとは昔そういう約束をしたから……義理堅く俺達の側にいてくれるんだろう……」
 俺達じゃなくて……
 リーチの側にでしょう?
 それも名執は言えなかった。
「約束?」
 どんな約束をしたのだろう……
 名執はそれが酷く気になった。
「……大したことじゃないよ……」
 言ってリーチは残りの桜餅を口に入れた。
 ……
 また、リーチは誤魔化そうとしているのがありありと名執には分かった。リーチは春菜のことに関してかなり敏感なのだ。そして一度もリーチの口から話されたことはない。
 聞いてはいけないことだったのだろう。 
「そうですか……じゃあ、私は夕食を温めますね」
 言いながら名執は立ち上がり、菓子箱を持った。それを、キッチンの前にある出窓部分に置いてから、鍋のシチューを温め直すためにコンロを捻った。
 すると、リーチが背後で椅子から腰を上げるのが分かった。
「ユキ……春菜のことは……またゆっくり話すから……。いいか?」
 その言葉に何故か瞳が涙で滲んだが、見られたくなかった名執はリーチの方を振り返ることなく、頷いた。すると、リーチがキッチンから出ていく足音が聞こえた。
 時はまだ満ちていないのだ。
 いつかきっと話してくれる。
 名執はそう思いながら、目に滲んだ涙を拭った。

―完―
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