Angel Sugar

「心の問題、僕の苦痛」 第3章

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 次の日は朝から面会に追われた。まず管理官の田原と金子がやってきたが、詳しい事は何も聞かずに「何も心配しなくていい」と言うことだけ言って帰った。次に篠原が来ると随分詮索したが、事故だと言うことをトシは通した。
 そうして昼には名執がやってきた。その頃北村は神奈川県警に戻っていたためトシはいつも通りに話した。
「事故だと伺いましたが大丈夫なのですか?」
 名執はベッドの脇に椅子を引き寄せ、そこに腰をかけるとこちらを向き、心配そうに言った。医者である名執に自分の状態から本当のことがばれるかもしれないと思ったトシは、傷が見えないように毛布を首もと一杯に引きよせて隠した。もちろん両手も毛布に隠した状態だ。
「大丈夫です」
 出来るだけトシは平静を装ってそう言った。
「……どうして……トシさんなのです?」
 普通、怪我などをするとリーチと主導権が代わる。リーチの方に任せた方が怪我などの治りが何故か早いからだ。そのことを知っている名執からすると、今トシが主導権を持っていることが不思議で仕方がないのだろう。
「僕が……鈍くさいことにはねられたんだ。だから責任を取って僕が身体の面倒をみているんです」
 トシはなんとが作った笑顔を名執に向けた。
「……あの……リーチは……」
 ちらりとトシの顔色を窺うように名執は言った。だが名執には悪いが当分トシはリーチと代わるつもりは無かった。リーチもそれを了承していたので何も言わなかった。
「なんだか眠いって言ってずっと寝てるみたいなんです」
 ごく普通にトシは名執に言う。
「そうですか……」
 残念そうに名執は言って笑みを浮かべた。
 暫く雑談し、名執が帰っていく後ろ姿にトシは心の中で何度も謝った。

 名執は腑に落ちなかった。例えトシが利一の主導権を持っているときでもリーチは名執の前ではトシと交替するからだ。
 変ですね……
 もう一つ疑問に思ったことは名執が病室を出るとき、二人の担当医を見たからだ。利一の担当医はこの病院の院長だった。
 ここは小さな病院ではない。たかだか数日で退院出来るような怪我に、更に一介の刑事の担当医にしては不似合いだ。警察病院の場合は、院長の巣鴨からの指示で名執が主治医とされているために、利一が簡単に治る怪我などで病院を訪れたとしても名執に報告が来る様になっていた。
 利一は以前、事故に巻き込まれた警察庁局長の孫を助けたことがあった。その局長が巣鴨と友人関係にあり、利一のことを頼んだという経緯があったのだ。
 だがそのような事情がここの病院では無い利一の担当医が院長であるのが腑に落ちない。
 何かがおかしいと感じた名執は、利一の病室から出ると足を院長室に向けた。
「初めまして、警察病院外科主任の名執と申します。急に来訪したことをお詫びいたします」
「いえいえ、お噂はかねがね。名執先生のご高名は常々お聞きしています」
 初老の院長は名を坂巻と言った。
「私は今こちらでお世話になっている隠岐利一さんの主治医であるのですが、このたびはどのような事故でこちらに入院したのかをお伺いしたいと思いまして……」
 坂巻に促されるまま椅子に腰をかけ、名執は早速そう言った。
「え、ああ、あの青年ですね。車と接触したようです。たいした怪我ではありませんので今週末には退院出来るでしょう」
 と、坂巻は言ったがどことなく浮いているように名執には聞こえた。
「車に接触……ですか?」
 トシであっても車に接触するようなドジを踏むとは思えなかった名執はそう聞いた。
「ええ、車に引きずられたのもあって、身体に多少傷を負っていますが、酷い怪我はありませんでした」
 坂巻は微笑した。
「ではカルテを見せていただけませんか?」
「患者さんの同意がありませんといくら名執先生が主治医であってもお見せすることは出来ません」
 当然のことだがきっぱりと坂巻は言った。
「車と……接触したとおっしゃりましたが……普通のカルテでは無いのですか?」
「いえ、普通のカルテです」
 どことなく居心地悪そうに坂巻は身体を動かした。
「……こうお願いするには理由があるのです。隠岐さんは過去に心臓のあたりを手術しております。そのどれもが、かなり大きな手術でした。中には細部にわたって心臓の周りの血管を補合しております。事故の際、そのあたりに支障が出ていないかを知りたいのです。現在は心配するほどのことも無いかと思いますが、肋骨もそのとき折っていますので、今回の事故で見えないところが切れている可能性があるかもしれません。一度補合したり骨折した部分は時間が経とうとやはり弱いからです。それが主治医として心配ですのでカルテを見せて欲しいとお願いしているのですが……いかがなものでしょうか?」
 ここまで理由を出し、頼まれたとすると断る理由など無いはずであった。逆に名執の方が利一の膨大なカルテを持っている。なにより、主治医だ。
 この場合、普通なら向こうからこちらに問い合わせがあっても良いはずが、それがないのは何かがおかしい。
「……そうですね……」
 困惑したように院長の坂巻は言った。
「実は……事故ではないのでは?」
 名執が心配していたのはリーチのことであったのだ。リーチに何かあった為トシが主導権を持っている。名執はそう考えたのだ。
「名執先生はそちらの病院で隠岐さんのメンタルケアもされているのですか?」
 突然坂巻はそう言った。
「ええ、私は免許も持っておりますが、隠岐さんの仕事内容を考えますと、必要なときにはメンタルな部分もケアするつもりでいます。それが何か?」
 突然想像もしなかった言葉を聞かされ名執は驚いた。
「……もしかすると必要になるかもしれません……」
 小さな瞳を瞬きさせて坂巻は言った。
「え?」
「ですがここでの治療を受け入れるとは思えないのですよ」
 そう言って坂巻は机の引き出しからカルテを取り出した。
「こちらがカルテです。見ていただいて分かるかと思いますが、別段変わった事は書いておりません。車に引きずらて怪我をした。そのようにかかれているのが分かると思います」
 渡されたカルテを見ながら、怪我をしている部分を確認した名執は表情を強ばらせた。
「……これは……」
 怪我の箇所を確認し、どう見ても車で引きずられ、出来た傷ではないことを名執は知った。
 カルテから顔を上げ、坂巻を見ると小さいため息をついていた。
「……。色々ありましてね」
 といって口を開いた坂巻から名執は本当は何があったのかを聞かされた。

「……分かりました。今聞かされたことを念頭に置いて今後の事を考えることにします」
 カルテを閉じて坂巻に返しながら名執は言った。
「分かっておられると思いますがこのことは……」
 普通はそんなことなど口にしてはならないのだろうが、坂巻にも色々事情があることを名執は薄々気が付いていた。
「ええ、この話は私が隠岐さんの担当医であることで坂巻先生が知らせてくれたことです。医者として当然のことをなさったと私は思っています。隠岐さんになにか問題が生じた場合、もし今のことを知らされてなかったとしたら私は診察を誤ったかもしれません。それを考えると今回お話いただけたことに感謝をしております。当然の事ながら他言は致しません」
 名執は坂巻に淡々と言った。
「ありがとうございます」
 坂巻はそう言ってカルテを引き出しに戻した。
「ところで、問題になっている相手の男ですが……」
 トシを襲った相手の事が名執は気になった。
「犯人は自殺したそうです……」
「そうなのですか……」
 名執はホッとした。
 犯人は自殺したのだ。このことで裁判になることもないだろう。それが一番気になっていたことだったからだ。
 だが、どちらが主導権を持っていたときにその事件は起こったのだろう?今、主導権はトシが持ってる。もし、リーチがそんな目に合ったとしたら、トシが主導権を持つことなど無いはずだ。と言うことはトシが被害者なのだ。
「ありがとうございました。坂巻先生、私に話して下さったことを隠岐さんに知らせないでいただけますか?その方が彼の為になるでしょう。ケアを誤ることはありませんが、私が知っていた事で隠岐さんが心を開いてくれなくなると困ります」
 特にトシはとてもデリケートなのだ。名執が知っていることを知ると態度を硬化させる恐れがあった。
「分かりました」
 名執は礼を述べて院長室を出た。
 廊下に出ると名執は急に心に痛みを感じた。
 トシが犠牲になったのだ。その理由は分からないが、今リーチと交替していないところをみると、それがすべての原因なのだろう。
 当分リーチには会えない。しかし名執は原因を知って納得できた。
 しばらくは会えないだろうが、名執はいつも通りに振る舞うことにした。知っているそぶりなど絶対に見せてはならない。
 今度トシに会った時にはリーチを出して欲しいと頼むのだ。多分返ってくる答えは、先程トシから聞いたものと同じ様なものしか返って来ないだろうが、それでも良い。とにかく名執が知っていることをトシに決して知られてはならないのだ。
 トシが自分から話してくれるなら良いが、この場合、哀れに思われたり、同情されたりするのが一番堪えるだろう。だからトシから話してくれることはまず無いはずだ。
 そのことは名執が一番よく分かる。
 トシには言えないが、名執にも経験があるからだ。身体もずたずたになるが、心が一番傷つくのだ。それは長い時間が経っても癒えない傷となる。
 今、名執がこうやってまともに地上に立っていることが出来るのはリーチがいたからだ。彼がいたから自分はどんなことにでも耐え、生きることが出来た。
 私は聞かなかった……心の中でそう呟いて名執は病院を後にした。

 窓から夕日が入ってきた。オレンジ色の太陽が雲を染めて真っ赤になっている。何故か懐かしいと思いながらトシはその自然が染め上げた雲のカーテンを目を細めて見つめた。
『トシ……何か……懐かしいよな……』
 リーチもトシと同じ思いだったようだった。
『僕もそう思ったよ。なんだか懐かしいね……』
 ぼんやり眺めていると又面会がやってきた。
「大丈夫か?」
 一番会いたいと思い、会いたくないとも思った幾浦だった。
『俺はスリープしてるよ……トシ』
 リーチは気を利かせてくれているのだろう。
『うん。後で起こすよリーチ』
 そう心の中で言うと、トシは幾浦の方を向いた。
「……はい。大丈夫です」
 顔が引きつっていないだろうかと考えながらトシは幾浦に笑みを向けて言った。
「どっちだ?」
 ベット脇に置いてある椅子に座って幾浦は言った。
「僕……」
 小さな声でトシは言った。
「そうか……珍しいな。そうだ、あの晩に事故を起こしたのか?」
 何も知らない幾浦はそう言って微笑んだ。その笑みがトシには眩しい。
「うん……恭眞に会いに行こうと思って……ぼんやりあるいてたら、車に引っかけられたんだ……僕の責任だから身体の主導権は僕が持ってるの」
 必死に平静を装いながらトシは言う。だが手足が冷たくなってきたのを感じていた。
「全く……お前は本当にドジだな」 
 困ったような表情で幾浦は言った。
「心配かけてゴメンね」
 もし、ここで本当の事を話したら幾浦はどういう態度を取るのだろうか?トシはそう考えた。
 幾浦は許してくれるだろう。きっと許してくれる。だが、本当に許してくれるのだろうか?言葉だけの許しなどいらないのだ。だからといってずっと黙っていることが自分に出来るのかどうか分からなかった。
 だまし通すことになるのだ。だからといって話すことも出来ない。
 苦しかった。幾浦が何も知らずに笑顔で話してくれることが辛かった。そんな価値のある人間ではもうないのだ。ののしられて捨てられても仕方なかった。今はただトシは自分の事だけを考えているのだ。幾浦の手を離したくない。嫌われたくない。軽蔑など死んでもされたくない。
 同情などもってのほかであった。
「それにしてもどうしてこんな都心から離れた病院なんだ?」
 病室を見回して幾浦は言った。
「え……あの……救急車であっちこっちたらい回しにされたから……僕も分からないんだ……」
 ここが何処の病院かトシも知らなかったのだ。
「そうか……酷いことをするんだな……」
 腹立たしそうに幾浦は言う。
「そんなに重傷じゃなかったからだと思うよ」
「そう言う問題じゃない」
 不機嫌そうに幾浦は腕を組む。トシは自分のことで不機嫌になる幾浦が好きであった。自分のことを心配してそうなるからだ。
「恭眞がそう言ってくれるの……とても嬉しい……」
 本心からトシはそう言った。
「トシが来るとアルに言ってあったんだ。それなのにいつまで経っても来ないものだから、夜遅く切れて暴れ回っていたよ。あれはあれで見物だったぞ」
 くくくと笑いを堪えながら幾浦は言った。そんな幾浦をみてトシは胸がギュッと縮んだような痛みを覚えた。
「どうした?」
「ちょっと……疲れてて……。面会のお許しが今日出たから朝から色んな人が来たんだ。それで……」
 本当の理由は違うのだがトシには話せなかった。
「そうか……悪かった。じゃ……」
 と、幾浦が立ち上がろうとすると、トシが幾浦の手を掴んだ。
「ゴメン……少しだけ握っていて……」
「いいよ……」 
 浮かせた腰を下ろして、幾浦はそっとトシの手を握り返した。
「……わがまま言ってごめん……」
「こんなかわいいわがままながいくらでも言ってくれ。……だがトシ……手首にも包帯が巻いてあるのか?」
 その一言で思わず手を引っ込めそうになったトシであったが、何とか衝動に耐えた。
「そうなんだ……手も怪我をして……」
 冷や汗が出そうであった。
「意外に酷そうだな……」
 本当に心配そうな表情で幾浦は言う。
「大丈夫……それより恭眞の手……暖かい……」
 ギュッと幾浦の手を握り返し、トシは目を細めた。
「そうか……良かった……」
 暫く幾浦の手の温もりを感じながらトシは目を瞑った。胸一杯に安堵感が広がるのがトシには分かる。この手がトシには必要なのだ。誰にも甘えられない自分が唯一頼れる手が、今自分の手を握ってくれているこの大きな手だ。
 この手を失うことなど絶対に出来なかった。
 トシはそのまま眠りについた。

「トシ?」
 眠ってしまったトシを見て、疲れたのだろうと幾浦は思った。仕方がないので、そっと手を毛布に戻して幾浦は立ち上がった。
 すると入り口から見知らぬ男が入ってきた。
「あ、と。隠岐のご友人ですか?」
 パッと見ただけで随分明るい感じの男性であった。顔の彫りが意外と深い。
「ええ、幾浦恭眞と申しますが……そちらは?」
 自分より若いな……と幾浦は思った。
「神奈川県警の北村琢磨と申します。隠岐と同期なんです。あ、隠岐寝てるんですね。廊下で話しましょうか?」
 二人は病室を出て廊下で立ち話することになった。
「北村さんはどういう事情で?」
 北村の口調から何故か利一と仲が良いように見えたのだ。それが分かると幾浦は複雑な気持ちになった。
「いろいろあって私が面倒見ているんです」
 からりと晴れた空のような笑みを北村は浮かべた。
「そうですか……ですが刑事さんのお仕事は忙しいのでは?」
 やや皮肉を込めたつもりなのだが北村には通じなかったようだ。
「忙しいことは確かですが、今大きな事件も起こっていませんし、隠岐には家族や親戚がいませんので……。それで私が面倒を見ているんです」
「……良ければお手伝いしますが?」
 というより、北村にあまり関わって欲しくないのだ。
「いえ、多分隠岐の方が気を使うのでそれはご遠慮します。時々顔を見せてあげて下さるだけでもきっと喜ぶと思いますのでそうしていただけますか?」
 その言い方がどことなく自分をのけ者にしているような気がして幾浦はムッとしたが、平静を装った。
 ただの同期なのだろうが、それ以外の何かを幾浦は感じ取っていたからに違いない。
「北村ー!隠岐はどうだ?」
 向こうから北村の同僚らしき男が二人やってきた。
「あ、あの人達うちの課の人間です」
 幾浦にそう言って「隠岐は寝てるんだから静かにして下さいよ」と、同僚に言った。
「お前襲ってないだろうな」
 ニヤニヤしながら背の一番高い男が言った。
「襲いませんよ……変なこと言わないで下さいよ」
 苦笑した顔で何故か幾浦の方を見る。それが何を意味しているかこの時点では幾浦には分からなかった。だが次の瞬間、理由が分かった。
「お前って隠岐が好きだからな。ま、北村なら許してやるけどさ」
 少し背の低い男が言った。
「ちょっと、隠岐さんの友達の前でそんなこと言わないで下さいって」
 慌てて北村はそう言って二人の同僚に口を閉じるように言っていた。
「あ、こんにちわ」
 幾浦にようやく気が付いた二人が同時に言った。
「初めまして……では私はこれで……」
 軽く頭を下げて幾浦はその場から歩き出した。不愉快で仕方がなかったのだ。
「あ、今日はありがとうございました」
 北村は去ろうとしている幾浦にそう声をかけた。だが幾浦の方は、お前に礼など言われる覚えはないと心底むかついていた。
 彼らの元から離れると益々幾浦は腹が立ってきた。同僚はあの北村という男が利一を好きであることを公認のように話していた。
 警察はどういう人間を雇っているのだ。幾浦は本気でむかついたのだ。トシもトシである。何故そんな奴が側にいることを嫌だと言わないのだろう。
 考えれば考えるほど幾浦は納得いかなかった。
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