Angel Sugar

「心の問題、僕の苦痛」 第4章

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 トシはあの日以来ゆっくり眠ることが出来なかった。眠りは浅く、いつもうなされ冷や汗をびっしょりとかく。夢の中ではあの時のことが繰り返し出てくるからだった。
 だが、時間があれば北村が泊まり込んでいたので、トシがうなされると必ず北村は手を握って声を掛け、背中を撫でた。トシはその北村の好意がとてもありがたかった。
 北村だけが事実を知っているために気が緩むのだろう。もちろん全面的にトシも北村を頼りはしないが、辛いとき誰かが側にいて、優しく声を掛けてくれる事がどれだけトシの柔な精神を支えてくれたか分からない。
 北村は利一に好意を抱いているのをトシは知っていた。だから本来は世話をかけることが心苦しかった。分かっているのだがトシには北村を拒むことは出来なかった。今癒されているのは、北村の大らかな性格と人を楽しませようという明るさがトシに向けられているからだ。
 あの時何があったかを北村は二度とトシの前で口に出したりしなかった。それもトシにとってありがたいことであった。
 僕は立ち直れるよ……絶対……。
 身体に残された痕が少しずつ消え出すとトシの気持ちも落ち着きはじめた。
 済んだことだ。事故だったのだと言うことで何とか自分を納得させるられる方向に向かっていた。
 退院までの間に名執がやはり来たが、リーチと交替できなかったので又寂しそうに名執は帰っていく。そんな名執の背中にごめんなさいとトシは何度も心の中で謝ることしかできなかった。
 幾浦の方は、はほとんど毎日様子を見に来ていたが、大抵夜は北村がトシの側にいたため、利一としての普通の会話を交わすことしかできないでいた。そんなトシに幾浦がどう感じているかはトシも分からない。
 そうこうしているうちに一週間が経った。
「あーあ……もう退院だよな……寂しいな……俺……」
 北村が寂しげに言った。
「随分寝たっきりでしたので、身体が本当に鈍ってます。私もそろそろ仕事に戻らないと……」
 トシはベットに座ったまま笑みを返した。
「手首はどう?」
「まだ少し痛みますが、かさぶたも出来ましたし、もう暫くしたら治ると思います。それより私……お風呂に入りたいんです……」
 トシは身体を拭くことを自分でしてきたが、残された痕をざっと見たことはあるが、まじまじと身体を見たことは無かった。
「ずっと自分で拭いてたからな」
 ちょっぴり残念そうに北村は言い、トシは思わず笑みを漏らした。
「なんだか……北村さんには本当にお世話になって……ありがとうございました」
 本当に世話になった。自分がようやく気持ちを落ち着けられたのも北村が側にいたからだ。
「いや、正直言って俺は楽しかった」
 へへと笑って北村は笑う。北村は本当に表情の豊かな人間であった。
「そうだ、家には俺が送ってやるよ。今日は車で来ているし」
 胸を叩いて北村は言った。
「いえ……自分で帰ります。そのくらい出来ますよ」
 これ以上北村に甘えるわけにはいかないのだ。本当なら幾浦に迎えに来てもらうところだったのだが、本日退院することを伝えていなかった。
 昨日来るだろうと思っていた幾浦が来なかった事も話せなかった理由だ。
「駄目だよ。県をまたぐんだぞ。何かあったらどうするんだ?」
 まるで子供を一人でお使いに行かせる親の様な口調で北村は言った。
「え、あの……これでも私は刑事です」
 トシは苦笑するしかなかった。
「刑事だろうがなんだろうが……駄目なものは駄目だ。そりゃ電車の方が早いけど、人に揉まれるの嫌だろ。それに車でも昼には着くだろうし、今日一杯は隠岐もゆっくり出来るはずだよ」
 北村は一人でトシを帰す気は全くないようだ。
「……ですが……もし北村さんに呼び出しが入ったら……」
 刑事が忙しいことは同業であるためよく分かっていた。
「今日は非番なの。連絡なんか来ないよ。はいはい、駄々こねないの」
 そう言ってトシの鞄を持つと病室を先に出た。トシは仕方無しに北村の後を追う。それが意外に嫌な気にはならなかった。
 世話になった看護婦と院長に挨拶し、トシ達は駐車場まで降りた。ひんやりした地下が気持ちよかった。
「これこれ、俺の車」  
 車体をぽんと叩いて北村は言った。
「……覆面パトカー……」
 プッと吹きだしてトシは言った。
「いやー妹が俺の車出しちゃって……仕方ないから署から借りてきたんだ。でもさ、変に渋滞に巻き込まれたら鳴らせばいいかなってさ」
 はははと北村は笑った。
「職権乱用……」
「そ、乱用するの」
 言って北村は車に乗り込んだ。何処までが冗談で何処までが本気なのか分からないが、少なくとも渋滞になれば本気でサイレンを鳴らすだろうとトシは思った。
 しかし、結局鳴らす機会もなく、車はトシ達のコーポに着いた。
「そうだ、お茶でも入れますよ。そのくらいしかお礼は出来ませんが……」
 コーポの階段にある手すりに手をかけてトシは言った。
「じゃ、ご馳走になろうっと」
 北村は嬉しそうにスキップして階段を駆け上がる。その北村を追いかけるようにトシも階段を上がった。
 部屋にはいると随分留守をしていた所為か、埃っぽく、こんな中に人を案内したことをトシは後悔した。
「なんだか……埃っぽくて済みません……」
「仕方ないよ。俺の部屋よりましまし……」
 北村は部屋を見回しながらそう言った。
「それにごちゃごちゃしてますし……人をあまり案内することがないので……」
 床に転がっていた本を机に載せてトシはキッチンに立った。
「でも俺はこういう部屋好きだよ。何処にいても欲しいものが取れる距離って好きなんだ。無精だから……俺も」 
「お茶入れますから、その辺に適当に座って下さい」
「悪いなぁ」
 トシは北村がクッションに座るのを見届けてから、キッチンに行き湯を沸かした。その間、風呂場に行って湯を張る準備をした。壁に掛かっている鏡が見えたのでじっとそこに写る自分を眺めたが、何があったかを示すような傷は顔には無かった。そっとシャツをはだけて首筋の方も見たが、よく見ると痣のような痕を見つけたがそれは薄くなっており、じっと見ないと分からないほどにまで治っていた。
 ホッとしたトシはシャツを元に戻すと台所に戻り、火を止めて急須に茶の葉を入れ、湯を注いだ。すると茶の香りがトシの周囲にふわりと漂い穏やかな気持ちになる。
 お盆を探したが何処にも見あたらなかったので、仕方なしに湯飲みだけを持って北村の所に戻った。すると北村は横になって眠っていた。
「北村さん……お茶入りましたけど……」
 小さなテーブルに湯飲みを置いて、クッションを抱え込んで寝ている北村に声を掛けたが起きそうになかった。
 よく見れば目の下にクマがうっすらと出来ている。刑事という仕事を持ちながらも時間があれば利一の面倒を見ていたのだ。もしかすると睡眠をほとんど取っていなかったのかもしれない。
 今まで北村から、仕事上で根を上げたり不満を漏らしたりするのを聞いたことがなかった。それは余程でないと出来ないことである。
 いい人なんだよな……トシは呟くように言った。
 するとぐーっと自分のお腹が鳴った。お昼がまだだったことに気がついたトシは冷蔵庫をあけて中を確認したが、肉類は冷凍庫に豚肉と干物しかなかった。野菜室は全滅をま逃れた野菜が少しと、ジャガイモがあった。他にはパスタとソーメンが引き出しに入っているはずだ。
 なにか作ろうかな……お腹空いたし。
 トシは何を作ろうか悩みながら、包丁を持った。
 30分ほどで作り終え、北村の様子を伺うとまだ眠っていた。起こすのも悪いと思ったトシは先に風呂に入る事にした。
 服を全部脱ぎ目を閉じたまま鏡の前に立つ。次にそっと瞼を上げると自分の姿が映し出された。これほどはっきり自分の身体を眺めたことはあの日以来無かった。しかし思ったほど痣は残っておらず、トシはホッとして湯船に浸る。
 暫く浸かってから湯から上がり、トシはスポンジにボディソープをたっぷりつけて身体を洗い始めた。泡がブクブクと全身を覆い、頭の方もシャンプーをつけて何度も洗う。
 泡だらけになると一旦シャワーで流してから、又ソープをつけて身体を泡だらけにするということを繰り返しを続ける。何度洗ったとしても今の身体は変わらない事は分かっていたが、何度も洗うことでトシ自身の気が落ち着くのだ。
 もう無理なのはトシ自身も十分知っている。が、とにかく身体の隅々まで綺麗にしたくて仕方がなかった。
 湯の熱さが肌にヒリヒリと感じる頃、北村が飛び込んできた。
「お前さ、いい加減にしろよ。どれだけ長く入ってるつもりだよ、って……身体真っ赤じゃないか。折角治ってきてるのに、そんなに身体を擦ったら稲葉のウサギみたいに肌がめくれるからやめろって」
 トシがスポンジを持っている腕を掴んで北村は言った。確かに北村の言うとおり、本当に身体がヒリヒリとしている。そんなになるまで自分が身体をこすっていたことにトシは気が付かなかった。
「これは取り上げるから……もう風呂から出るんだよ」
 スポンジを取り上げた北村は風呂場から出ていった。そんな北村を恨めしそうに眺めながらトシは自分の身体をもう一度見た。すると本当に真っ赤になっている。
 自分の馬鹿さかげんにトシは思わず涙ぐんでしまった。
 のろのろと風呂を出、服を着替えると台所に向かった。そして先ほど作ったものを暖めて食事の用意を整えた。その音で気がついたのか北村が台所に様子を見にやってきた。
「あ、ご飯作ってくれたんだ」
 嬉しそうに北村は言って、椅子に座った。
「たいしたものはありませんけど、良いですか?」
 トマトスープを皿に取り分けながらトシは言った。
「良いに決まってるって、だってさ隠岐にご飯を作って貰えるなんて絶対に無いと思ってたからさ。嬉しいな」
 これでもかというほどの笑顔で北村は言った。
「そんなに喜んで貰えるほどのものは作ってませんけど……」
 メインは豚肉とパスタをオリーブオイルで炒めたシンプルなものと、スープはトマトの薄切りの入ったコンソメスープ。あとは卵と粉ふきいもを和えたものを並べた。
「パンが無いのでちょっと寂しいかもしれませんが……」
 言いながらトシも自分の席に座った。デスクトップのパソコンが同じキッチンテーブルの半分を占めているので狭いのは仕方ないが、北村がそれを気にしている様子は無かった。
「全然寂しくないよ。豪勢だって、じゃ食べて良い?」
「どうぞ」
「頂きます」
 北村はそう言って箸を取るとパスタを頬ばった。大丈夫かなとトシはその様子を伺いながら自分も食べ始めた。
「実はさ、俺パスタとか大好きなんだ。でも家はどちらかというと日本食が多くて……俺も嫌いじゃないんだけど、味が淡泊だからお腹一杯食べても何となく満足出来ないんだ。だから一度家族に和風スパゲッティを作ってあげたんだ。妹は喜んで食べてくれたけど、親父がどうしても受け付けてくれなくて……結局今も日本食中心。日本食と言うより、精進料理だよあれは。そんなのばっか。俺、焼き肉好きだし、ピザだって好き。なのに家はいつも焼きなすのショウガ付けとかさ、働き盛りの男の子なのに……」
 北村がそう言って笑った。
「一人は気楽ですけど、健康管理出来るから羨ましいですよ。私は家に帰っても簡単に出来るものしか作らないので、時々胃が痛みます」
 実際はそうではないのだが、当たり障りのない事をトシは話した。
「そうだ、今度うちに招待するよ。たまには家庭料理も良いだろうし……」
 北村は笑顔をこちらに向けて期待を持った瞳を向けてきた。
「え……あ、ご遠慮します。そういうのは可愛い恋人を誘うものでしょう」
 小さく笑ってトシは言った。
「うーん…いたら誘うけど……別にいないからさ。だから隠岐にって訳じゃないんだ。家庭料理を食べられる所無いだろうから……食べさせてあげたいなって……」
 照れくさそうに北村は鼻の頭をかいた。
「お気持ちだけ頂きます」
 これ以上北村の好意に甘えるわけにはいかない。その上北村は利一に好意以上のものを持ち合わせているのだ。思わせぶりな態度を絶対取ってはいけないとトシは考えていた。
「隠岐って……ガード堅い……」
 ちぇっと小さく舌打ちして北村は残念そうに言う。その表情が可笑しくてトシは思わず笑ってしまった。
「北村さんって本当にいい人ですね。きっと可愛い彼女が出来ますよ。私が保証します」
 その言葉に北村は嫌な顔をしてみせた。
「隠岐に保証されてもなぁ……」
 パスタを箸に絡ませながら北村はため息をつく。
「私の保証じゃ駄目ですか?」
「そう言う訳じゃないけど……隠岐の保証より、隠岐の愛が欲しいよー」
 ちょっとふざけ気味に北村は言った。だがそれが北村の本音であることをトシは気が付いている。
「北村さん……あの……つき合ってる人がいるのは話していましたっけ?」
 誰とつきあっているかは話せないが、相手がいることくらいなら話しても良いだろうとトシは考えた。このことで北村とは同僚であり友人であるというラインを引いておきたかったのだ。
「え?」
 目を大きく見開いて北村は身を乗り出した。
「いるんです……実は……済みません」
 謝ることではないのだろうが、何故かトシはそう言っていた。
「……いや……そっか、んーそうだよね。お前ほどの奴に恋人がいないなんておかしいもんな……。でも……俺の気持ちは変わらないよ。それを負担には思わないで欲しいんだけど、ちょっとだけでいいから、いつも俺はお前のことを考えてるってことは念頭に置いていてよ」
 残念そうに北村はそう言った。だが笑顔は絶やさない。
「はい……」
「……でも、見舞いにそんな女の子が来たかな?」
 う~ん……とうなるように言って、北村は思い出すように視線を彷徨わせていた。
「知らせていませんでしたので……」
 女の子じゃないし……
 気付かれないかな……と、トシはどきどきしていたが、北村には分からないようであった。
「ふーん……そっか。でも悔しいな。やっぱり女の子がいい?」
 彷徨わせていた視線をこちらに戻して北村は真剣な表情になる。
「いえ、別に相手を尊敬できる人なら性別は……」
 嘘でも男性は認められないとは言えなかったのだ。
「隠岐って……結構リベラルだな」
 へえっと驚いたように北村は言う。
「と、思っていたのですが……今回のことで少し考えが変わりましたけど……」
 何とかトシはそのことを出した。
「うん……そうだな……やっぱりショックだったよな。男なんか、ヤになるよな……」
 俯き、パスタをくるくると箸に巻き付けて北村はそれを口に入れた。
「そう言う訳じゃないんですが……」
「俺は優しいと思うぞ」
 突然、真剣に北村が言ったのでトシは又笑いが漏れた。
「何で笑うの?」
 トシの笑いに北村は問いかけてきた。
「北村さんは似合わないなあって思ったんです」
 くすくす笑いながらもトシはそう言った。
「酷いな……俺ってなんだか馬鹿みたいじゃないか」
 肩を落としたようにすくめて北村はチラリとこちらを見る。
「いえ、そんなことは思ってませんよ」
 顔を見合わせて二人は笑った。
 北村と話をするととても気持ちが軽くなる。トシは時間を忘れて北村と夕方まで話し込んだ。

 いつものように病院に向かうとトシ達は今朝早くに退院していた。仕方なく幾浦はトシ達のコーポに向かい、道路に車を止めようとしたが、トシの姿を道路脇に見つけた。そのトシは笑顔で車に乗った人物と話し込んでいた。
 誰だろうとじっと様子を伺っているとあの北村という男だった。
 ではトシは北村に自宅に送ってもらったのだろうか?
 多分そうなのだろう。今頃帰ると言うことはずっと部屋にいたのだろう。
 複雑な気持ちを持ちながら様子を見ていると北村が車を出し、それを見送った後トシがコーポの階段を上って自分の部屋に戻った。そこで幾浦は自分も車を降り、先程トシが上がった階段を上った。
 玄関の扉を叩くとトシが驚いた顔で出てきた。手は洗い物をしていたのか泡が付いている。
「恭眞……」
「今日退院だと知らなかった」
 不機嫌に幾浦は言った。
「ご、ゴメン……昨日言おうと思ったんだけど、恭眞来なかったから……」
 何故かトシの視線が俯きがちであることに幾浦は気が付いていた。
「ま、良いが……入って良いか?」
「いいよ」
 部屋に入るとトシが「ちょっと洗い物済ませてくる」と言って台所に行った。その後ろをついていくと、洗い棚に皿やコップがどう見ても二人分置かれていた。
「……誰か来ていたのか?」
 相手が誰かを知っていながら幾浦はそう聞いた。
「え、あ、うん」
 トシはそれだけ言って沈黙した。隠さなければならないような後ろめたいことがあるのだろうか?
「その、恭眞……何か用があったの?」
 相変わらずトシは話しにくそうだ。
「自分の恋人が退院したという理由ではおかしいのか?」
 北村のことが気になっている幾浦には聞きたいことが山のようにあったのだ。だがトシの態度が気にかかり口に出せない。そのことが余計に口調に苛立ちを見せていた。
「……え、別におかしくないけど……ほら、あんまりここには来ないから、何かあったのかなって……」
 歯切れの悪いトシの言いように幾浦は不安を感じる。
「トシ……」
 そっとトシを引き寄せて幾浦は腕の中にトシを抱いた。
「……」
「トシ……なんだかお前が妙……」
 だ、と言おうとしたが抱きしめたトシの身体から、石鹸の香りがした。思わず首元に目がいくと、なんだか肌が擦れたように赤くなっていた。
「恭眞?」
 言葉を失っている幾浦にトシはどうしたの?と言う顔を向ける。
「トシ……石鹸の香りがする……」
「帰ってきて真っ先にお風呂に入ったんだ。病院でずっと身体を拭くだけしか出来なかったから気持ち悪かったんだ」
 何故か慌てたようにトシは早口でそう言った。
「……そうか。確かにそうだな……」
 引きつった笑いで幾浦はトシを離した。だが掴んだトシの手は離さない。そんな幾浦の手をトシは何故かちらちらと何度も見ていることに気が付いた。
「恭眞……あの……」
 手を離したくて仕方が無いという風にトシの手はブラブラと左右に振られている。
「そういえば随分お預け食らっている」
 言ってトシを見ると一瞬瞳が動揺したのを幾浦は見逃さなかった。
 どういうことなんだ?
 幾浦は自分に問いかけたが、トシの動揺した瞳の訳が分からないのだ。決してそれは望んでいることではなく、拒否に近いものがあった。
「……そ、そうだよね……うん」
 目を逸らせてトシが幾浦の手を払い距離を取った。益々態度がおかしい。
「トシ……キスもさせないつもりか?」
 トシをもう一度自分に引き寄せて幾浦は言った。
「……恭眞……」
 何となくトシの瞳の奥が不安気だ。
 何に不安を感じているのだろうか?
 そっと唇を重ねると、トシの身体が怯えるように震えた。
「あの、恭眞、ね……ゴメン、今日は駄目だよ……」
 顔を逸らして、トシの手は幾浦の身体を押しのけようとしていた。
「……」
「まださ、身体……痛いんだ。ちょっと暫くそういうの無理……」
 やはり視線はこちらから逸らされている。
「そうか……悪かった」
 幾浦はそう言って、トシを離した。
「ゴメン。早く元気になるから……少し待っててくれる?」
 チラリとこちらを見たトシは、必死に笑顔を作っているように幾浦には見える。その理由が幾浦には全く分からない。ただ一つだけ考えられるのはあの北村が関わっていることだということだった。
「ああ、お前がそう言うなら……」
 平静を装いながら幾浦は言った。心の中では何故だ?と言う疑問が大きく膨らんでいた。今までにない、妙な緊張感が部屋に漂っているのが幾浦にも分かる。それをトシが感じていないとは思えない。
「あ、そうだ、夕ご飯どうしようか?」
 無理に明るく振る舞うトシが幾浦には奇妙に思えたが、それを聞くのが怖かった。
「いや、私はいい。トシはまだ空いていないのだろう?」
「え、あ、うん。お昼が遅かったから……」
 暫くすると又お互いの間に沈黙が落ちた。
 今日はなんという最悪の日なのだろう。幾浦にはこの明らかに自分を拒否している状況を変える良い方法が思いつかない。
「今日は……帰る」
 仕方なしに幾浦はそう言った。これ以上苦しい空気の中にいることが出来なかった。その上幾浦の言葉にトシがホッとしたような顔をしたのを見てしまい余計に辛かった。
「そう、じゃ、下まで送るよ」
 トシは幾浦が車に乗り込むとじっとこちらを見つめていた。何か言いたげなそれでいて聞いたとしても何も答えないだろうという意志も見えた。
 車を出し、家路に向かいながら幾浦は何かを失ったような気がして仕方が無かった。
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