「心の問題、僕の苦痛」 第6章
トシは喫茶店でぼんやりと硝子向こうを眺めていた。今日は幾浦との待ち合わせなのだがなかなか幾浦が現れなかったのだ。
小さなため息をついて冷めたコーヒーを一口飲む。
口からは溜息しか漏れない。
幾浦と会う回数が減った。
元々二週間のうち一週間しかないプライベートなのだが、それが二週間に一度会うか会わないかになっていた。以前は二週間のうち、トシはプライベート時には出来るだけ幾浦と時間がとれるようにしていたのだから、トシ自身も辛かった。
だが自分から友達だと認めたので仕方ない。何よりトシは幾浦と二人きりになるとどう振る舞っていいか分からなくなってしまうため、マンションからも足が遠のきアルとも会えなくなってしまった。
嫌いになってこんな結果になったわけではない。だから時間がトシ自身を癒してくれるのをじっと待っていた。しかし希望はただの希望であり心と体の遊離は全く治らなかった。
あれ程幾浦と頻繁にかわしていたメールすらトシは余り出さなくなった。と言うより幾浦から来たら返すという流れに最近はなっていたからだ。
以前なら自分からも暇があれば会えない時間を埋めるかのようにメールを書いては出していたのだが、今はそれすらトシは出来ない状態になっていたのだ。
何か書こうとパソコンに向かっても時間だけが流れていく。そのうちトシはあきらめてしまうのだった。
こんな時に限ってトシ達の仕事の都合と幾浦の仕事がバッティングする。その度にじゃあ今度と言って、日にちを決めずに電話を切る。だから次に会う日が遠くなる。
このままいけば一ヶ月に一度、酷いときには何ヶ月かに一度にしか会えなくなるのだ。そんな状態になりつつある現状がトシには堪らなかった。
それでもトシから何も言い出せない。
幾浦の方はどれほど間が開いても、会えばいつも通りの振る舞いをしてくれていた。トシはそんな幾浦に対し、ぎくしゃくしている自分に気がついていたがどうにも出来なかった。
今の関係を幾浦は良しとしているのだろう。つき合っていたときなら、会えないことで不機嫌になるはずなのだ。だがどれだけ会えない時間が増えても幾浦が機嫌を悪くすることはなかった。
そう、友達だからである。
もしかすると幾浦に誰か相手が出来たのだろうか?
だから割り切れるのだろうか?
一人トシはそんなことを考え憂鬱になるのだが、何も聞くことが出来なかった。
手の中にあるカップは既に冷たくなっており、トシの心まで寒くさせる。ため息を薄くはき出しながらトシはゆれる真っ黒の液体をじっと見ることしか出来ないでいた。
そこに携帯が鳴った。
「もしもし……」
「済まないトシ、そこの喫茶店を出たところで車を止めているから来てくれないか?喫茶店に入れない状況なんだ」
いつもの口調で幾浦が言った。
「あ、うん。いいよ」
トシは携帯を切るとすぐに精算をして飛び出した。気持ちは幾浦と会えることに高揚している。
恭眞に会える……
久しぶりだ……
久しぶりに会える……
走りながら通りを渡ると新しい幾浦のベンツが止まっていた。以前の事件で大破した為、新しく購入したのだ。
その後部座席にアルが座っているのが見えた。アルは前足を窓枠に引っかけて「ワンワン」と、こちらに向かって吠えている。当然、尾はぐるぐると振り回していた。
そっか……
アルを連れてきてくれたから喫茶店に入られなかったんだ。
「アル!」
後部座席の半分開いた窓からアルは嬉しそうにトシに向かって手を伸ばし目を細めて更に吠えた。トシは思わず後部座席を開けてアルの隣に座るとなめ回す舌の歓迎を受けた。
「久しぶりだね。アル……元気に……ちょっと舐めないでって……」
アルは嬉しさの余りトシの顔に何度も長い舌をのばしている。それを押しのけながらもトシは笑顔で言った。
「アルも寂しがっていてな。今日は連れてきたんだ」
幾浦はそう言って車を出した。
アルも……
じゃあ恭眞も寂しく思ってくれてた?
視線を前に向け、ふとトシはそう思ったが、小さく首を振ってアルの方に向き直った。
そんな訳ないよね……
僕……
最近全然恭眞に連絡してなかったし……
ようやく落ち着いたアルの額を撫でながらトシはそう思った。
以前は必ず助手席に座っていたのだ。それがいつの間にか後部座席に乗るようになった。いつからか思い出せない。
それだけ時間が経っているのがトシには悲しかった。
このまま……
本当に友達関係になってしまうんだ……
涙がにじみそうになったが、心配そうにこちらを見上げるアルの顔を見たトシは、作った笑顔を向けた。
自分が選んだのだ。
自分がこんな結果を招いたのだ。
どれだけ納得できなくても、何も話すことが出来ないトシが悪かったのだから仕方がない。
「暫く管理人さんが旅行に行ってたから、アルをずっとペットホテルに預けていたんだ。それで、ちょっと運動をさせようと思ってな。この先にある公園に行ってもいいか?」
アルはこのところ幾浦が出勤すると同時にマンションの管理人に預けられるのだ。管理人は老夫婦でアルを子供のように可愛がってくれる。そして幾浦が帰ってくるとアルを引き取って部屋へと帰るそうだ。
「うん。久しぶりにアルの相手になるよ」
そうトシが言うとアルは行儀良く隣に座った。
公園に着くとアルは一人でまず散々走り回った後、トシ達の元に戻ってきた。そしてトシは、幾浦が持ってきたフリスビーでアルの遊び相手になった。その間幾浦はベンチに座って煙草を吸っている。
公園に来たときはいつもこうして時間をつぶすのだ。
今まではそれがトシの楽しみであったが、幾浦からの視線が後ろから痛いほど感じる事で苦痛になっていた。
視線を合わすことが怖い……
だが無言の視線もトシには辛かった。
「これでどうだ」
トシがどだけ遠くにフリスビーを投げても、アルは足に翼が生えているような早さでそれをキャッチしてトシの元に持ち帰る。
「すごいなあ……アルって!」
トシはアルに繰り返し褒めた。アルもそれが嬉しいのか、こちらの期待に応えるように放り投げられるフリスビーを何度も取りに走る。
「うー……もう駄目、疲れちゃったよ。……アルもう終わり」
トシが言って、幾浦が座っている隣に腰を下ろすとアルはトシ達のベンチまで戻り、次に口にくわえていたフリスビーを下に置くと幾浦の足下に寝そべった。そのアルの背を幾浦は撫でた。
「アルはやっぱり賢いね」
息を整えながらトシは言った。
「主人に似てるんだ」
幾浦は言って笑みを見せた。その笑みがまだ自分に向けられていることにトシには身体が震えるほど嬉しかった。
久しぶりに見る幾浦は以前より魅力的になったような気がするのがトシには不思議であった。
「どうした?」
じっと見つめるトシの視線に幾浦は尋ねた。
「あ、何でもないよ。それより夕ご飯食べに行こうよ。僕、お腹空いた」
幾浦から視線を逸らせ、アルの方を見ながらトシは言った。本当はこのまま暫く一緒に座っていたいのだが、そろそろ日が暮れる。いつまでもここに座っていることは出来ないだろうとトシは考えたのだ。
「いや、今日はやめておこう。アルが一緒だからな」
トシの方を向いていた顔を前に向け、何処か遠くを見ながら幾浦は言った。
「え、あ、そうだよね。うん。いいよ。じゃ又今度ご飯食べに行こうね」
残念な気持ちを隠しながらトシが言うと幾浦が僅かに困った顔をした。
「恭眞?」
「トシ……。私はずっと以前から転勤の話があった。それを断わり続けてきたんだが、今回は断らないつもりでいるよ」
淡々と幾浦は言った。視線は前に固定されたままこちらを向かない。
「転……勤?何処に?」
声が震えるのをトシは隠すことが出来なかった。
「海を隔てた所だ。まあ、友達の距離として適切な距離だと思ってな」
相変わらず表情は変わらない。
「……アメリカに行くんだ……」
ショックで頭がクラクラしながらもなんとかトシは平静になろうと努力した。
「ああ。こっちのマンションは引き払っていく。向こうでの生活が期間的にどの位になるのか分からないんだが……。まあ、行ったり来たりになると思うよ。正式に決まれば数時間こちらにいて又戻るという生活になるのだろうな」
幾浦は持っていた煙草をもみ消しながらそう言った。
頬に当たる風が少し冷たくなったのをトシは感じ取っていたが、それよりも心が冷えていくのが分かる。
幾浦は今よりも遠い存在になるのだ。
それがトシを苦しめていた。
「……やだよ……そんなの……」
トシは絞り出すように本音を言った。
「トシが私にこだわるのは、きっとお前の今つき合っている男に、お前達の秘密を話せないからだと私は考えた。私がトシ達の事情を知っているから私にこだわっているだけだろう?でもな、話しても大丈夫だ。この私が理解できたんだ。誰だって出来る。だから心配しなくて良い」
口元に笑みを浮かべながら幾浦は言った。その言葉が本心から出ているものなのか、トシには想像も付かない。
何より幾浦は相変わらず普通に話している。
多分、トシが引きずっていただけで、幾浦は既に割り切ってしまったのかもしれない。
「そ、そんなんじゃないよ……」
「……私はね……自分を押さえきれなくなるのが怖いんだ。はっきり言ってトシと友達だと割り切ろうと思っても割り切れない部分がある。いくら理性的にお前と会っていても、時々お前にとって不本意な行為に及びそうになる自分が怖い。私は……そのことでトシを完全に失ってしまうのだけは耐えられないんだ。だから……例え暴走したくなったとしても、どうにもならない距離が私には必要だ。仮に年に数回しか会えない関係になったとしても、トシを完全に失うことを思えば離れた方が良い。それを分かって欲しい……」
幾浦は感情のない声で言った。それとは逆にトシの方は混乱していた。
このままでは幾浦を失ってしまう……
年に数回ですら会えなくなるかもしれない。
トシは幾浦とそんな関係にこれからはなるのだ。
嘘ではなく本当に幾浦が決心したことをトシは知った。
止めなきゃ……
僕……
でも……
なんて言えば良いんだろう……
言葉を色々探すのだが、トシは適当な言葉が見つけられなかった。なにより幾浦の顔を見ていると完全に割り切ってしまったことが窺えたのだ。
そんな幾浦にトシが言える言葉はなかった。
「もう……会えないんだ……」
涙が知らずにトシのほおを伝った。
「……会えるさ……。電話一本で会える距離では無くなるだろうが……」
優しげに幾浦は言った。だがその優しさすらトシには今煩わしいものでしかなかった。
「ううん……。恭眞は絶対会ってくれないよ……。きっと向こうで綺麗な人を見つけて……」
言葉が続かないトシに幾浦は言った。
「まあ……その可能性が無いとは言えないが……お互い様でいいだろう?逆に友達としてもっとやっていけるだろう……」
「嫌だ!そんなの嫌だ……僕は……」
堪えていた苦しみが一気に襲ってきたかのような胸の痛みがトシの身体を走った。このまま死んでしまうかもしれないとさえトシは感じた。
「トシ……」
幾浦はようやくこちらを向いた。だがその表情は困惑している。
「分かって欲しい……。お前もその方が良かったときっと思う。暫く寂しいと思うが、今の恋人が慰めてくれるさ……」
何故か言いにくそうに幾浦が言ったような気がしたが、それはトシの気のせいだった。
「……もう……駄目なんだね……僕達……」
もう幾浦の顔を見ることができずにトシは俯いた。
「友達としてはやっていける……だろ?」
すねた子供を宥めるような口調が、トシの苦しみに拍車をかけている。これで終わったんだと認めることがどうしてもトシには出来ない。
「……」
暫くお互い無言でベンチに座っていた。アルは心配そうに二人を見比べて眠ったふりをした。
「そんなの……出来ない」
やっとの事でトシは言葉を絞り出した。
「トシ……済まない。私がいけないのだな……。出来ることなら側にいてやりたい。だがこのままではお前との約束を破ってしまいそうな私の事も分かってくれないか?」
「もう……会わないよ。絶対……会うもんか」
「お前がそうしたいのなら……仕方ない。でも会いたくなったらいつでもメールをくれるといいよ……」
相変わらず幾浦だけは冷静だった。
「メールなんかしない……」
「帰ろうか……トシ。送っていくよ」
これ以上話し合っても無駄だと思ったのか、幾浦は先に立ち上がった。が、トシは動かなかった。いや、動けなかった。