Angel Sugar

「心の問題、僕の苦痛」 第8章

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 ちらりとトシの視線が幾浦を見る。視線は顔から胸へと動き両腕に移り又こちらの瞳に視線が合った。
「どうした?」
「……何か運動でもしてたの?」
「あ、そうか。トシには言っていなかったな」
 トシに会えないもどかしさを何とかするために、幾浦はスポーツジムに通っていたのだ。元々運動をすることは好きであったので時間があればくたくたになるまで身体を動かしていた。その所為か、贅肉は元々無かった方であったが、筋肉質な身体になっていた。
「お前に会えなかった寂しさを紛らわせるためにスポーツジムに通っていたんだ。確かにトシとは友達になったとはいえ、女遊びをするわけにもいかなかったからな。寂しいというのもあったが、どちらかと言えば性欲を減退させるために通ったようなものだ」
 そう言って笑うと、トシは顔を顔を真っ赤にしていた。傾向としては良い傾向になるのだろう。
「もう……誰か出来ちゃったのかと思ってた……。だって……どんどん会えなくなるのに……恭眞はいつも普通に接してくれていたから……」
 視線を逸らしてトシは言った。
「誰か他の人を、という気は起こらなかったよ。全くな。ただ知らなかっただろうが、お前と会うたびに、隙がないものかと狙っていたのは確かだよ」
 会うたびにそんなことばかり考えていたことを幾浦は正直にトシに言った。
「ホントに?」
「ああ、転勤しようと思ったのもそれが原因だと言っただろう。紳士的に振る舞うにもかなりパワーがいるからな。何より目の前に食べてしまいたいトシがいるのに手を出せなかったんだ。あれは辛い……」
 苦笑混じりの中に本音を交える。
「……あの話を聞いても……そう思ってくれる?」
 言いにくそうにトシは言った。
「思っているから今お前を裸にしようとしてるんだ」
「……同情とか……可哀相とか……そんなんじゃ嫌だよ……」
 トシの視線はこちらを見たり床を見たりとせわしない。
「どちらかというと私は今回の件に関しては怒っているんだ」
 そう幾浦は怒っていたのだ。
「えっ」
「お前がすぐに話してくれなかったからな。その事について怒っている。いや……違うな……悲しいな……」
 隠されたことに腹を立てているわけではない。トシが一人で悩んでいたとき、すぐ側にいる恋人に頼ってくれなかったことが悲しかったのだ。
「……ごめんなさい……」
「謝らなくて良いから……早くズボンを脱がないか?」
「う……うん……」
 トシはそう言うとゆるゆるとズボンを脱いだ。脱いでしまうと急に怖くなったのか、身体を両手で抱いて、おどおどとした瞳をこちらに返した。そんなトシの肩を掴んで幾浦は自分の胸に引き寄せた。
「恭眞……」
 ガタガタと震えるトシの身体がどんなに辛い目に合わされたのかを物語っている。だからこそ幾浦はすぐに行動はせずに、じっと抱きしめてやった。すると抱きしめている身体の震えが少しずつ治まった。
「ちゃんと抱きしめてやるから……クロスしている手をどうにかしてくれないか?」
 そう言うとトシは組んだ両腕をほどき、幾浦の背中に廻した。その手も遠慮がちだ。
 幾浦は気持ち的には焦る部分があったが、感情に流されるとトシがついていけなくなって更に恐怖を煽ることになる。それが分かるだけに幾浦は細心を払ってトシの表情や身体の状態を見ながら自分の行動を決めていた。
「大丈夫……一人にはしないよ……私がついている」
 トシはまた涙を落とした。

「恭眞……」
 幾浦の肌から直接感じる温もりがトシの強ばった身体をゆっくり溶かしていくような気がした。ずっとこんな風に抱きしめて欲しいと願った事が現実となっているのだ。期待と恐怖が入り交じった何とも言えない感情がトシの心に巣くっている。
 このまま幾浦に応える事が出来るのかという不安の方が大きかった。
 暫くすると幾浦はトシの身体をベットに倒した。じっとこちらを見つめる幾浦の瞳は優しい。それでもトシは上に乗られているという感覚に恐怖を感じていた。心の中でいくら相手は幾浦なのだと言い聞かせても身体は素直にそれを聞いてくれないのだ。そんな自分を悟られたくなかった。
 幾浦には素直に身を任せたい。心ではそう願っても身体は本音ほど素直に反応してくれない。
 もう一度幾浦はそっとトシを抱きしめた。抱きしめながら幾浦の足はトシの足にからみついてくる。同時に背筋に冷たいものが走り身体が更に硬直した。こんな身体のことをこれほど密着している幾浦が気付かないわけはないだろう。
 嫌だった。こんな自分が嫌であった。身体を切り裂いてしまいたいとトシは思った。
「……う……あ……」
 思わず漏れる呻きに幾浦はそっと唇を重ねてきた。ゆっくりと進入してくる幾浦の舌がトシの舌を捉えた。あくまで優しく絡められる肉厚の舌がトシには心地よく感じる。
 いつも幾浦は優しかったが、今日は又違った。優しさに輪をかけたような優しさがあるのだ。そんな幾浦にトシは心から感謝をしていた。
 あくまでゆっくりと幾浦は事を進めてきた。それがトシにも分かる。身体が硬直したり震え出すと、それが治まるまで何度も声を掛けて優しく愛撫をしてくれるのだ。
「恭眞……ゴメンね……。こんな……こんな身体でゴメンね……」
 ぎくしゃくとした己の反応に自己嫌悪を感じながらトシは言った。
「何故謝るんだ?お前がこんな身体というなら、その身体を欲しくて堪らない私は一体何だというんだ?」
 含んだ笑いがこもった幾浦の言葉にトシは乾かない頬に涙が零れる。幾浦の一言一言にこちらを気遣う優しさがこめられているからだ。
 だがあくまでゆっくりと身体を愛撫する幾浦の舌が下半身に移動するとトシはギクリと身体が強ばった。
「嫌だ……恭眞……そこは嫌だ……」
 手で幾浦の頭を掴んでそう言ったが、幾浦の方はやめようとしなかった。やめるどころか触れて欲しくない部分に舌が絡むとものすごい拒否反応が起こった。
「嫌だ!やめろ……もう嫌だ……っ!嫌だーっ!」
 トシは何度もそう言い、手足をバタ尽かせた為、幾浦は身体を起こしてトシの両手にしっかりと自分の手を絡ませて強く言った。
「トシ。大丈夫だ……何も怖がることはない。私はお前を傷つけたりしないよ。そうだろう?怖い?怖いか?でもトシ、何を怖がることがあるんだ?今この部屋には私とお前しかいない。誰も見ていないし、私はお前を愛してやろうとしているんだ。お前を傷つけようとは思っていない。お前も私を受け入れてくれるのだろう?」
「触れて欲しい……僕を……愛して欲しい……でもそこは嫌なんだ……嫌なんだ……」
 執拗にあの男に愛撫されたことをトシは今でも鮮明に覚えているのだ、吐き気と嫌悪感で頭が割れそうだった。それなのにあの男に触れられたという罪悪感が今も鉛のように心に沈んでいるのだ。
「あの男に……触れられて……感じたのか?」
 いきなり幾浦に確信に触れられトシは心臓が止まるかと思った。
「違う……違うよ……違う違う!」
「仕方ないことだ、トシ……私たちは男だからな。心とは別の動きをするものなんだ。ここは……」
 といって幾浦の手はトシのまだ力無いモノをそっと手で包んだ。
「あ……う……離して……」
 幾浦の指は緩やかにトシのモノを弄ぶ。
「いや……だ……」
 抗議の声を上げても幾浦は止めようとしなかった。止めるどころか指の動きは緩慢に動く。次に幾浦の唇はトシの首筋や胸を這った。それがトシの身体に悪寒を走らせた。
「身体は……心とは別に行動することもある……今みたいにな。だが私が欲しいのは心も身体も私に感じてくれることだよ……。どちらだけ片方だけでは満足できない……。それにトシは私にだけ、どちらもくれるのだろ?心も身体も私にくれるんだろう?本当の裏切りは……それを二つ……もしくは心だけ誰かにトシが与えたときだ……。生理的な身体の構造に文句を言っても仕方が無いからな……」
 言い聞かせるような口調で幾浦は言う。
「違う……僕は……やっぱり恭眞を裏切ったことになるんだ……僕は……」
 自分を組み敷いている幾浦から必死に身体を離そうとしながらトシは言った。どんな理由があってもやはりあれは裏切りなのだとトシは思ったのだ。
「心が欲しいんだよトシ……身体は二の次だ。心はこちらを向いてくれているのだろう?違うのか?」
「全部……僕の持っているもの……恭眞の望む物は全部恭眞のものだよ……」
 泣きながらトシは本心を吐きだした。
「だろう?ま、今の状態は心はこっちを向いてくれているのに身体にそっぽを向かれているから、私は自分の物として取り戻そうとしているんだ。駄目か?」
 トシの頬を伝う涙に、触れるような愛撫を幾浦はする。その優しい仕草にトシは胸が一杯になった。
「ううん……駄目なことなんか無い……でも……」
「でも?」
「僕は……恭眞に言えないことをされたんだよ……もう僕は以前みたいに綺麗な身体じゃないんだ……それなのに……僕なんか抱いたら……恭眞まで……汚れちゃうよ……」
 途切れ途切れトシはなんとか言葉を紡いだ。
「自分をそんな風に言うな。お前は望んでそうなった訳じゃないだろう。終わったことで自分を責めても仕方ない。そうやって自分自身を追いつめて、抜けられない泥沼にはまりこんで……どうやって自力で這い上れるんだ?終わったことにあれやこれや考えてもどうにもならないだろう」
 宥めるように幾浦は言った。
「恭眞……」
 トシはおずおずと瞳を幾浦に向けた。真摯な瞳はまっすぐこちらに向けられている。
 僕のこと……
 許してくれてるんだ……
 好きだってまだ……
 思ってくれている……
「トシ……何も怖くない……もう怖い事もない。安心して良いんだ。大丈夫だ……」
 小刻みに震える身体を包むように抱きしめられ、トシも自分の手を幾浦の首に巻き付け抱きついた。そうして何度も何度も自分自身にトシは怖くないと言い聞かせた。
 事実を全て話しても幾浦は側にいてくれる。それを拒否できるほどトシも強くなかった。
 心の中ではいつでも幾浦に許して欲しいと願っていたのだ。それが今叶えられている。
 夜毎夢にまで見た幾浦の温かい胸に抱かれているのだ。それは何度も望んで悪夢に切り裂かれてきた。もう戻れないと何度も思いながら、心の奥で微かな希望として幾浦が許してくれるのでは……とも考えて枕を濡らしてきた。
「トシ……愛している……」
 耳元で囁くように幾浦は言いながら、先ほどから掴んでいるトシのモノに力を込めてくる。トシはキュッと身がすくむような快感が下から背へと伝わった。
「あ……っ」
「トシ……」
 幾浦に口づけをされてトシはその甘いキスに酔った。あの時感じた嫌悪感ではなく、心に染み渡るような心地よい痺れがあった。その間も幾浦の手は休まずトシのモノを何度も指先でつま弾いた。心の中でもっと触れて欲しいと願った。もっともっと幾浦を感じたい……そんなことを考えている自分に恥じる気持ちと、求められている嬉しさがトシの中でせめぎ合っていた。
 幾浦の方はゆっくりトシの胸を愛撫し、少しずつ身体を下へずらしていった。トシはそれが分かったが、幾浦を全身で受け入れたいと思っている自分を強く思うことで恐怖心を克服しようとした。
 嫌な記憶を全て過去へと追いやろうと必死になった。自分を愛してくれようとしている幾浦を拒否したくないのだ。今幾浦は一生懸命トシを愛そうとしてくれている。それなのにこれ以上拒否反応を起こしてうんざりされたくなかった。
 トシの内股を丁寧に愛撫しながら、幾浦の舌は先ほど指で弄んだ先端を捉えた。湿った弾力性のある舌が上下に動くとトシは又自分の身体が強ばるのを感じた。シーツを掴む手にも力が入り、足先の血流が止まったかのように冷たく感じた。
「……っ」
 トシのモノが幾浦の口内に含まれると、トシは歯を食いしばった。沸々と思い出す嫌悪感が身体全体を支配しそうであった。幾浦を止めようとする手をシーツを握ることで、耐えた。足には力が入りすぎて腓返りを起こしそうだ。幾浦は組み敷いた下にいるトシのそれらの行動に気付いているのであろうが、自分の行為を止めようとはしなかった。
 暫くして口元が上下に動かされると、痺れが断続的に襲ってきた。
「あ……ああ……」
 息が荒くなり、視界が霞んだ。自分の出す声が遠くの方から聞こえる。あの時、手足を縛られていた部分が酷く痛みだした。まるでナイフで切り刻まれているような痛みだ。
 身体の自由が利かない恐怖が視界を真っ暗にさせる。
 あの時、何度叫んでも、逃げだそうとしても何もかもが無力であった。自分は無力だと常々思っていたがこれほどの無力感を感じたことは無かった。抵抗することも出来ずに相手の言いなりになるしか無いという屈辱感が自分のわずかに残ったプライドまで砕いてしまったのだ。最後までいかなかったとはいえ、快感を感じたことは否定できなかった。
 否定できないことであるのに、必死にそれを否定しようとしている自分が馬鹿らしかった。あのときいっそこのまま舌を噛みきって死のうとも考えたが、自分一人の身体でないことがそれを躊躇わせたのだ。
 そんな自分が恨めしかった。死んでしまいたかった。気が変わって自分も道連れにしてくれないかと本気で望んだ。
 だが男は銃で自分の頭を撃ち抜いて死んだ。

 踏ん張っていたトシが小さく叫んで達った。触れているトシの身体が急に弛緩したように力を失った。
「トシ……」
 幾浦にはトシのゼイゼイという息だけが聞こえる。心配になった幾浦は身体を起こして様子を窺うと、天井を向いたトシの目は焦点が合っていなかった。
「トシ?」
 満足したと言うより、何か一本切れてしまったような表情に幾浦は驚いた。
「おい、トシ……」
 頬をピタピタと指で叩くと瞳から急に涙が溢れた。
「……嫌だ……止めろ……」
 トシの両手は目の前の物を払いのけるかのように振り回された。
「……トシ…」
「うわあああああっ……嫌だっ……触るなっ……僕はもう大切な人がいるんだっ……だから……触るなっ……嫌だ……助けて……誰か……助けて……恭眞……っ……助けて……恭眞ぁ……助けて……っ!」
 暴れながら叫ぶのを幾浦はギュッと抱きしめてトシがおさまるまで待った。
 こんな風に叫んだのだろうか。逃げることも出来ずに拘束され、無理矢理犯されたのだ。その恐怖からトシは利一ではなくトシとして助けを求めたのだろう。何度も幾浦の名を呼び、来ない助けを呼んだのだ。声が涸れ、手足から血を流しながらも必死に逃げようと、抵抗しようとした。それも無駄なことだと分かると、今のように叫んだのだろう。もうそれしか出来なかったのだ。どんなときでも利一であることを忘れたことのないトシである。そのトシが利一を忘れ、幾浦を呼んだのだ。そこまで追いつめられたのだ。
 まだ幾浦の名を呼び助けを呼んでいるトシは、未だあの時の悪夢から逃れられないのだろう。だから今幾浦が側にいることも分からないでいる。
 トシを抱きしめながら幾浦は心が締め付けられた。トシには言わなかったが、トシの両手首にはまだ新しい傷が残っていた。足首にも同じ様な傷があった。手足を縛られていたのだろう。そんな状態で抵抗したのであるから、皮膚が切れ血が流れ出た痕なのだ。
 幾浦も苦しかった。トシのことを思うと苦しいのだ。トシは死にたいと思ったに違いない。一人の身体であれば死んでいたかもしれない。そう言う考えにぞっとしながら、今生きているトシをもう一度抱きしめられることとに幾浦は感謝した。
「トシ……私だよ。お前が呼んでいる恭眞だ……ちゃんと見えるか?」
 両手でトシの頬を持ち目線をこちらに向かせた。喉をひくつかせ、まだ唸っているトシであったが、もう一度呼びかけると視線が揺れた。
「恭……眞……」
「そうだ。トシ……私だよ……」
「恭眞……恭眞……恭眞ぁ」
 そう言ってトシは初めて幾浦に気がついた様にしがみついてきた。こんなに涙が何処に溜められているのだろうと思うほどトシは泣く。しがみつく手はまるで木から落ちないようにと力が込められており、幾浦はその激しさに痛みを感じたが、止めさせようとは思わなかった。
「トシ……私はここにいる。安心して良いんだ……」
「恭眞……怖いよ……。怖かったんだ……怖かった……助けて……恭眞……助けて……」
 嗚咽と共に吐き出された言葉はずっとトシが言いたかった言葉に違いないと幾浦は思った。そう、会うたびに何とも言えない表情をいつもこちらに向けていた。きっと今の言葉を吐き出してしまいたかったのだろう。
 トシはずっと助けて欲しいと叫んでいたのだ。言葉に出したくても出せず、何度も飲み込んだ言葉であったのだろう。そんなことも分からずに幾浦は誤解したままそれを納得していた。こちらが先に勘違いしたため、トシは本当の事を言えず頷くことしか出来なかったのだ。
 何故最初に問いつめなかったのだろうか?だが、問いつめて白状するほどトシは素直でないのだ。もしかすると墓場まで持っていく気でいたのかもしれない。
「助けてやる。もう泣くんじゃない。大丈夫だ……」
 ポンポンと背中を叩きながら幾浦はあやすようにそう言った。言いたいことは全て吐き出させたはずである。これでトシも落ち着くだろうと幾浦は安堵しながら背中を叩いた。
 暫くすると落ち着いた声でトシは言った。
「本当?本当に助けてくれるの?ずっと僕の側にいてくれるの?」
「だから私がここにいるんだろう?」
 そう言うと幾浦に巻き付けていた手を緩め、じっと幾浦の顔を見つめた。涙でトシの顔はくしゃくしゃになっている。しかも泣きすぎて鼻の頭や目の周りが妙に赤くなっていた。その顔に思わず幾浦は吹き出した。
「何で……笑うんだよ……」
 それを嘲笑とでも受け取ったのか、トシは辛そうな表情になった。
「いや、お前が泣きすぎて猿みたいな顔をしてるからな……。いや、だが真面目に話してはいるんだぞ……」  
「……猿……?」
 キョトとした顔でトシは言った。
「ああ……猿そっくりだ……」
 トシの髪をかき上げて幾浦はそう言った。
「……」
「トシ!」
 いきなりトシがベットから降り走り出し、突然の行動に幾浦はトシを捕まえられなかった。何処かの部屋に閉じこもるつもりかもしれないと幾浦は後を追いかけた。
 だがトシは洗面所の鏡の前でじっと自分の顔を見て「うわぁ」と声を上げていた。そんなトシを微笑ましく思った幾浦は鏡に張り付いているトシの後ろから腕を廻して抱きしめた。
「……ふふ……猿だろう」
「……なにこれ……酷い顔……」
 じっと鏡に映る自分の顔を手で引っ張ったり擦ったりしながらトシは複雑な表情をしていた。
「だが可愛いぞ……」
 後ろから頬を愛撫しながら幾浦は言った。自分が素っ裸なのを忘れて、鏡に見入っているトシの姿が可愛く、幾浦は嬉しかった。いつも通りのトシがそこにいたからだ。
「……恭眞は……絶対目が悪いと思うよ……」
「私は視力が良い方なんだがね……」
 トシに廻した指先で愛撫しながら幾浦は言った。
「そう言う事じゃなくて……あ、……あ……あーーーっ!」
 鏡を指さしてトシは絶叫した。
「突然何を叫んでいるんだ?」
「きょ、きょ、恭眞!何て事するんだよ!」
 トシは自分の身体につけられた愛撫のあとを、鏡に映った姿を見たことで、やっと見つけたのだ。
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