「心の問題、僕の苦痛」 第7章
トシが後ろで身じろぎするのが幾浦には分かったが振り返る気持ちにはなれなかった。今振り返ってしまうと、自分が言ったことをすべて反古にしかねないからだ。
このまま行ってしまった方がいいんだ……
気持ちでは断固としてそう思いながら、幾浦の足は動かなかった。いつの間にかアルが大きな体を横に向けて幾浦を歩かせないように通せんぼしていたからだ。もちろん、無理矢理アルを押しのけてここから離れることはいとも簡単に出来たのだろうが、幾浦にとってもアルの行動はここから去りたくないと本当は思っている自分に良い理由が付けられた。
だがどうする?
するとトシが口を開くのが分かった。
「恭眞……一つだけ聞いてくれる?もう、会わないんだから……聞いてくれるよね」
何とか言った。そんな感じに聞き取れる言葉であった。
「なんでも聞いてあげるよ」
いつだって幾浦はトシが望むなら何でも聞いてあげるのだ。ただトシが滅多に自分の望みを口に出さないだけだった。
「向こう向いてて……こっちは向かないで聞いて……」
幾浦はその言葉の意味がよく分からなかったが、トシに背を向けたまま胸ポケットから煙草をとりだすと口にくわえた。
「あの……以前に……僕……車に引っかけられたって理由で入院してたよね」
小さい声でトシは言う。だがはっきりと幾浦には聞こえた。
「ああ」
「あれ……違うんだ……」
トシの枯れた声の理由が分からず振り向こうかと考えたが、一呼吸おいて幾浦は今はこの状態がいいのだと何故だか思い夕暮れの空を眺めた。
幾浦が振り返ったことでトシが話すのをやめてしまうのが怖かったのだ。
「何が違う?」
問いかけると少し間をおいてトシは話を続けた。
「あの日……恭眞のマンションに行こうとして……僕、公園を抜けようとしたんだ。そうしたら……声を掛けられて……道を尋ねられた。だから僕……それに答えてたら……いきなり殴られて……意識無くしてしまって……。僕は自分が刑事だからそんな目にあうなんて考えたこと無かったんだ。だから警戒心とかかけらもなくて……。相手の顔も暗くて良く分からなかったし……ただ道を聞かれただけだって……。でも相手は僕たちが昔、警官だった頃捕まえた男だった。それで……気がついたら……場所の分からないところに連れて行かれて……手足を縛られて……動けなかった。リーチが逃げようとしたけどリーチでも駄目だった。だから僕が相手を説得しようとしたけどそれも全く聞き入れてくれなかった。その男は……殺人容疑で神奈川県警に追われてた。でも犯人が言うには自分は違うって……自分はやってないって言うんだ……。だから僕、自首してきちんと話したら分かってくれるって話したんだけど、聞き入れてくれなかった。自暴自棄になってたんだ。問題は僕らを拉致した目的だったんだけど……」
一気にトシはそこまで話し、次にまた暫く間が空いたが幾浦は何も言わずにじっと待った。
「僕を……ううん、利一を…自分のものに……したかったから犯人は僕らを拉致したんだ」
え?
それはどういう事だ?
幾浦は口にくわえていたタバコがいつの間にかアルの背中に落ちていたことなど気が付かなかった。それほどトシの話しに驚いたのだ。
「……僕が鈍くさくて、簡単に拉致されたんだから……僕はリーチに主導権を渡さなかった。自分の責任を取ったんだ。それで僕……体中あちこち触られて……僕は……もう今更言ってもどうにもならないんだけど、実はこういう事情だったんだ。恭眞にはもう二度と会えないんだし……全部話してしまおうって思った。このことずっと隠してきて苦しかったよ……。でも……ようやく話せた……」
そこで幾浦は振り返った。トシはベンチで小さくなって座っている。もちろんうなだれたまま地面に涙をぽとぽとと落としているのが見えた。
そうか……
そんなことがあったのか……
「トシ……」
「ごめんね……黙っていようと思ったんだ。恭眞に言えなかったから……隠して……嘘付いて……。身体に残った痕が消えたら、いつも通りに振る舞おうと思った。僕はこのことで恭眞を失いたくなかったんだ。でも……神様は嘘つきには優しくないんだね。あれ以来僕は……挨拶程度に触れられる事も恐くなったんだ。誰であっても恐かった。恭眞ですら……僕は拒否してしまった……。心は……恭眞に抱きしめて欲しいと思っても身体が硬直して言うことを聞いてくれないんだ。そんな自分を……恭眞に知られるのなんか絶対嫌だった……だから……時間が解決してくれるって自分に言い聞かせた。時間が経って身体がちゃんと元通りになったら……その時まだ恭眞が側にいてくれたら、抱きしめて貰おうって……ずっとそればかり考えてた。でも駄目だった。きっと嘘を付いていたことで罰が当たったんだ。だから……たぶん僕はもう誰からも愛されないんだ。一番大切な恭眞ですら……失っちゃったんだから……」
涙が止めどなく流れながらも何とか笑顔を作っているトシを見ているのも辛いほど幾浦は胸が締め付けられた。そんなトシの前に立ち、次に跪いて膝で握りしめている拳を幾浦は、トシが怯えないようにそっと手の中に包み込んだ。
「恭眞……これからも仕事頑張ってね……。僕みたいな奴は忘れて良いよ。恭眞を騙そうとしたんだから、仕方ないって思ってるから……。だからもう会わない。会ったら辛いもん。でも許してくれる……僕が……恭眞を裏切ったことだけは……許して……」
後は言葉が続かなかった。ただ涙だけがぼろぼろと流れ落ち、幾浦の手に落ちてくる。
「トシ……いいんだ……」
何かトシの気持ちが楽になるような言葉があれば良かったのだが、幾浦には使い古された言葉しか出なかった。そんな自分に幾浦は歯がみしそうになった。
「同情はしないで……情けなくなるから……。ただ許してくれるだけで僕はこれからも生きていける……」
頭を左右に振ってトシは言う。相変わらず泣き笑いの表情をしているトシを見ているのが辛かった。
私はトシの恋人だ。
幾浦は強くそう思い、今にも壊れそうなトシを抱きしめた。
「きょ……ま……」
一瞬怯えた身体であったが幾浦の回した手でトシの逃げごしの身体をしっかりと抱きしめてくれていたお陰で不思議に怯えが止まった。
「トシ……どうして話さなかったんだ。何故隠していた……。そんな理不尽なことでお前がこれほど何故苦しまなければならない?トシにこれっぽっちも反省する必要など無いだろう。嘘?そんなものは嘘とは言わない。裏切ったことにもならない……。頼むからそんな風に苦しまないでくれ……。私がお前の身に起こったことを責めたりするとでも思ったのか?許す許さないという言葉がどうして出てくるんだ……。それよりもトシは私に助けを求めるだけで良かったんだ。違うか?何故あの時そうしてくれなかった?」
幾浦に淡々と言われ、トシはただ泣きながら謝るしかなかった。
「違うんだ……謝らないでくれ……。トシが謝る事じゃないんだ。いいんだ。トシ……もう、いいんだ」
まるで子供をあやすように頭を撫でられたトシはひとしきり泣いて、暫くすると落ち着き涙も止まった。その間中幾浦はただ無言でトシを抱きしめてくれた。
本当ならこのまま幾浦に抱きしめてもらいたいのだが、やはり両足ががくがくと震えている自分に気が付いていた。
身体だけは拒否反応を起こすことに相手を選ばないのだ。そんな自分の反応にトシは更に涙が出そうになった。
「有り難う……大丈夫だよ……」
幾浦をそっと押しやるようにしてトシは言った。すると今度は幾浦の方がどことなく泣き出しそうな顔をしていた。
「送って……帰るよ。もう大丈夫だから……。今の話はここだけの話だって忘れて……」
トシがそう言うと幾浦は小さく頷き無言で歩き出した。トシはその後ろからとぼとぼと歩いた。アルは二人の間をうろうろ歩く。心配そうなアルの表情はトシにとって嬉しいような辛いような複雑な気持ちにさせる。
そうして車に乗り込んだ後も幾浦は何か考え込んでいるのか、何も話して来なかった。何かを期待していたわけではないが、幾浦の声を聞きたかっただけなのだ。
終わっちゃったんだ……
仕方ないよね……
僕が悪いんだから……
トシは、ただ窓の外をぼんやりと眺めながら、これで終わりなんだとふと自分に言い聞かせていた。辛くないと言えば嘘になる。今はただ胸の内を全部話せたことだけがトシにとって救いになっていた。
楽しかった。
ただ楽しかった。
流れていく景色がもう戻れない自分たちのようだと思いながら、一緒にいた平凡な日々を思い出して懐かしかった。渦中にあるときは漠然としか分からなかったが、あれが幸せだったのだ。小さい頃から幸せを感じたことなど無かった。自分たちは人とは違うことを知ってからは、幸せなど来ないとあきらめていたからだ。
だが幸せを確かに感じた。トシはそれが分かったことだけでも良かったのだと思った。
車が停車するとトシはすかさず扉を開けて外に出た。ぐずぐずとして、別れを惜しむのは嫌だったのだ。どんなに引き延ばしても結果は変わらない。だからすっきり別れるのが一番なのだと考えていたのだ。
だが、外に出て驚いた。
「あの……」
そこは幾浦の住むマンションの地下駐車場であった。
「いいから……」
幾浦はそれだけ言ってトシの手を掴むと、半分引きずりながらトシをエレベーターに押し込んだ。
「なに……僕……帰るんだけど……」
トシの表情は真っ青だ。こちらから距離をとりエレベーターの隅に身体を押しつけているトシは明らかに逃げているのだ。理由を知らなければこんなトシを見た日には落ち込んで当分幾浦は復活できなかっただろうが、今は違った。
「せっかくだからお茶くらい……どうだ?」
お茶など悠長に飲むつもりなど幾浦には最初から無かった。
「……お茶……いいよ……もう……」
アルの方に視線を固定させたままトシは言った。だが幾浦はその言葉に返事を返さなかった。
幾浦のうちのある階に到着すると、トシはエレベーターから出ようとせず、一階を押そうとしたのでその手を掴んで引きずり出した。
「……恭眞っ……僕……」
「いいから……」
何が良いのか自分でも分からなかったのだが、幾浦はこのままトシを帰すことなど今は考えていなかった。
「嫌だ……嫌だっ……離してよっ!」
手を必死にふりほどこうとするのだが、もちろん幾浦は離す気など無い。トシを掴んだ手は多分痛いほど力が入っているはずなのだ。だがここで力を緩めたとすると、トシは簡単に幾浦から逃げ出して二度と捕まえることなど出来ないはずだ。
珍しくアルはそんな幾浦に飛びかかってくることはなかった。状況をよくわきまえているのだろう。
ようやく自分のうちの前まで来ると、幾浦はやはりトシを掴んだまま扉を開けて、半ば無理矢理トシをうちに引き入れた。
もちろん玄関は閉めて鍵をかける。
「恭眞……」
怯えた瞳でトシは幾浦に視線を寄越した。
「さあ、トシ。最初からやり直しだ。お前は今日退院してきた。そして私にお前が何故入院していたかの本当の事を話してくれた。後は私の役目だろう?」
言いながらも幾浦はトシの手を離さずに寝室に向かった。トシの方は靴も脱げずに土足のままだ。だがそんなことも幾浦にはどうでも良かった。だがトシは寝室方向に向かって歩いていることに気が付いたのか幾浦が何をしようとしているかようやく分かったようだった。
「離せっ!」
寝室の前でトシは捕まれている手を離そうとした。しかし幾浦は抵抗するトシを力ずくでベットに倒した。
「嫌だ……駄目だよ……僕は駄目なんだ……もう駄目なんだ……」
自分の下で悲壮な表情でトシが両手を振り上げて抵抗していたが、幾浦にはやめるつもりはなかった。
「何が駄目だ?私はお前の恋人で権利はあるんだぞ」
トシの両手を押さえつけて幾浦は言った。
「違う……友達だよ……ううん、もうそんな関係でもないじゃないか!」
泣きすぎて赤くなった瞳がまた涙で曇る。
「トシ……やり直しだと言っただろう。だから今はまだお前は私の恋人だ。いや、違う。これからもずっとトシは私のものだ」
はっきりと幾浦はトシに言った。
「恭眞……駄目だよ。僕……絶対恭眞を拒否してしまう……身体が言うこと聞いてくれないんだ。言ってるだろ、もう僕の身体は……」
組み敷いた下でトシが涙を零しながら言うのを、幾浦は自分の唇で黙らせた。口内で逃げ回る舌に幾浦は無理矢理己の舌を絡ませた。
「……ん……ううう……う……」
両手が押さえつけられているためにトシは両足をばたつかせていたが、暫くするとそれも収まった。
「トシ……このままずっとそんな調子でいいのか?」
口元を離し、幾浦がそう言ってトシの顔をじっと見つめた。そこには可哀相なほど顔色が青ざめているトシがいたが、幾浦は押さえつけている手をゆるめることはしなかった。
「……嫌だ……」
瞳を涙で濡らしながらトシは絞り出すように言った。
「お前がはっきりしないのであれば、私は転勤を承諾して二度とお前とこうやって会えなくなるぞ。他に誰か見つけるかもしれない。……それでトシは本当にいいのか?」
こういう駆け引きはしたくはなかったが、トシの本心を幾浦は知りたかった。
「嫌だ……嫌だよ……嫌だ……」
その言葉で反抗しようとしたトシの手は力が抜けた。それが分かった幾浦は拘束していたトシの手を自由にして体を起こした。
「トシ……では自分からその意志を見せてくれないか?」
幾浦は今まで引き締めていた表情を和らげてトシを見下ろした。
「……意志……?」
「ああ、自分で服を脱いで私に見せてくれ」
そう言うと又不安な瞳を幾浦に向けてきたが、逃げ出す気配は無かった。
「……そんなの……出来ない」
また身体を震わせてトシは言った。
「私が無理矢理トシの服を脱がせたら……お前が一番嫌な事を思い出すだろう?。トシは言ってくれたね。身体は恐怖を覚えていて、触れられるのは怖いが、私にずっと抱きしめて欲しかったと……。だから私にお前の心を見せて欲しいんだ。本当に私に触れて欲しいと思っていることを知りたい。分かれば……お前に触れて身体が拒否することは仕方ないことと納得で出来る」
「……」
トシはゆるゆると身体を起こすとベットに座り込み、じっと自分の服を見つめていた。
「時間はいくらでもある。ゆっくりで良いんだ。だが自分の意志で脱いでくれ」
そう言うとトシは視線を幾浦に移し、次に自分の手元を見た。今度は暫く逡巡するように目線が部屋を彷徨ったが、幾浦はじっとトシの行動を見つめていた。
無理強いは出来ない……
幾浦は本気でそう考えていた。
するとゆっくりではあったが最初の上着をトシは簡単に脱いだ。ネクタイも動作はまるで亀のような動きではあったがなんとか首から外した。しかしシャツのボタンまで手が移動するとそこから動きが止まった。
幾浦はそんなトシを急がせる事をせずに、トシの脱いだスーツの上着をハンガーに掛け、ネクタイを吊った。
シャツがなかなか脱げないトシは一番上のボタンを掴んだまま硬直したように微動だにしない。幾浦はそんなトシを見かねて自分が先に上着とシャツを脱ぎ捨てた。
「恭眞……」
訴えるような目でトシは幾浦を見た。
「どうした?まだシャツとズボンが残ってるぞ」
そう言うとトシは又目を伏せた。
「……出来ないよ……」
ギュッとシャツを掴んで震えるトシを幾浦は早く何とかしてやりたかった。
「私は脱がせないよ」
「……シャワー……浴びて良い?」
伏せた顔を上げてトシは問いかけてきたがもちろんそんな時間を与えるわけにはいかない。
「駄目だ」
「だって……僕……僕の身体……きっと汚れてる……」
唸るようにトシは言って、また涙が頬を伝う。
「そんなことはない。お前がそう思っているだけだ」
きっぱりと幾浦は言う。
「きっと……恭眞も僕を見たら嫌になるよ……」
また顔を左右に振ってトシは自分を追い込むことばかりしていた。
「ならない」
「……」
「トシ……今私はものすごくお前が欲しいんだ。焦らされてかなり辛い……」
苦笑しながら幾浦が軽い口調で言った。
「こんな……僕を本当に抱きたいと思う?だって僕は……恭眞以外の人に……」
「それがなんだ?お前の意志を無視して力ずくでものにした奴の事など私は殺してやりたいとは思うが、その事でお前が汚れたとは思わないぞ」
もちろんはらわたが煮えくりかえっているのだが、それはトシに対してではない。
「……本当にそう思ってくれる?」
「ああ」
トシはそれを聞くとホッとしたのか、少しするとシャツのボタンを外し始めた。その間歯を食いしばりながらも、震える指が一つ、また一つとボタンを外していく姿は幾浦も見ていて痛々しかった。
ようやくシャツのボタンを外し終わると、ゆっくりとシャツを脱ぐ。だが脱いだシャツをトシは両手で握りしめて離さなかった。
「これは邪魔になるだろう?」
トシの膝でくしゃくしゃになっているシャツを幾浦は握りしめている手から奪った。そうしてハンガーに掛けてトシの手の届くところから離した。
「……あ」
名残惜しそうにトシはシャツの行方を目で追っていた。
「ズボンは?」
「……う……ん」
ベルトに手をかけて又トシは考え込むように無言になった。幾浦はそんなトシの横に腰をかけた。肌と肌が触れ合うと、トシの身体がビクッと震え、幾浦から距離を取るように少し横に移動した。そんなトシを早く何とかしてやりたいと思いながら幾浦はじっと待った。