「唯我独尊な男5」 第6章
「い……息が……息ができねえ……っ!」
身体を支えてくれる利一の腕を掴んだまま、恭夜は涙目で叫んだ。利一は集まってきた野次馬に、何故かビニール袋を求め、それを手にすると恭夜の口にあてがった。
「恭夜さん、私を見て。私に集中して。いいですか、これは過呼吸です。ゆっくり深呼吸をするように呼吸を整えてください。大丈夫。危険は去りました。救急車もすぐにやって来ますよ」
利一の力強い声がようやく耳に伝わり、恭夜は何度も頷きながら呼吸を整えた。
ジャックは利一から連絡を受け、警察病院にやってきた。
恭夜はガラスに隔てられた治療室にあるベッドに横たわり、看護師に注射を打たれている。
ジャックが来たことを恭夜はガラス越しに気付くと、ばつの悪そうな顔をして視線を逸らせ、聞き取れない声でなにやらブツブツと文句を口にしていた。
どうせジャックが来て嬉しいくせに、照れ隠しに悪態をついているのだろう。
いつものことだが、たまには可愛く喜んでいる姿を見せて欲しいものだ。
全く……。
恭夜が元気に悪態をついている姿を見て、ジャックはようやく安堵することができた。
本当なら今すぐにでも恭夜の側に駆け寄っていたが、まずは利一と話をしなければならない。
「後で担当医から説明があるかと思いますが、襲われたことでパニックに陥り、過呼吸を起こしたようです。できればひと晩は病院で心電図などの経過をみたいそうですが……」
利一はこちらの機嫌をうかがうような顔でそう言った。
この男は人当たりもいいし、頭もいい。小柄なくせに腕っ節もたつ。ただ、この誰もが懐柔されるという、にこやかな笑顔がジャックには嘘くさく見えてしまうのが難点だ。
もっとも根底は悪人ではないことは分かっているし、このくらいしたたかな人間でないと、ジャックも恭夜のそばにおける友人として認められないだろう。
「ああ、キョウのことは誰よりも私が分かっている。病院で経過を見る必要などない」
恭夜の身体が何処も悪くないことは分かっている。
なのに無駄な時間を病院で使う必要もなければ、余計な検査も必要ない。
今の恭夜に必要なのは、住み慣れた家に早く戻して、やることだ。
「……分かりました。そう担当医に伝えますが、必要な書類にサインは求められると思います。よろしいですか?」
「ああ、ではさっさと用意しろ。……いや、それより、電話ではアラブ人らしい四名に襲われたと聞いたが、一人も捕まえておけなかったのか」
腹立たしげにそう言うと、利一は肩を竦めた。
「申し訳ありません。恭夜さんを一人にしておけなかったものですから……。一応、ワゴンのナンバーを警視庁の方へ照会してあります。ですが……そこから犯人を特定するのは無理なように思えます」
「だろうな」
FBI特別捜査官のエリートであり、イギリス空軍特殊部隊と並ぶ人質救出班のチーフ、ブライアン・テイラーもアラブ人の事を言っていた。
恭夜と買い物に出かけたときに、アラブ人に尾行されたと。
「……心当たりでもあるのでしょうか?」
「ないから困っている」
何故、アラブ人が日本でも現れるのだ。
どういう理由がそこにあるというのだ。
それが分からなければジャックも手を打つことができない。
「ジャック先生が理由に思い当たる節がないとおっしゃるのでしたら、よほど複雑な何かがあるんでしょうね」
「憶測などやめておけ。無意味だ」
分からないことをあれこれと思い悩むだけ労力の無駄だ。放っておいても、いずれ答えは向こうからやってくる。
いまいましいことだが。
「……そうですね。あ、入っていいようですよ」
看護師が空になった注射針を載せたトレーを持って出てきた。
「どうぞ、お入りになっても結構ですよ。後ほど担当医の方からお話がありますので、中で暫くお待ちください」
看護師は視線を合わせることなくそう言い、出て行った。入れ替わりに入ると、恭夜は面白くなさそうに唇を尖らせていた。
「ハニー……よからぬ色気を振りまいたんじゃないのか?」
「……俺が色気を振りまいても誰もついてこねえよ」
今回のことは色気とは遠いところに原因があるのだろうが、そんなことはジャックも分かっている。
ただ、自分はタチだと言い張る恭夜だが、ある種の人間を引き寄せるのだ。何度危険な目に遭おうと、恭夜はまるで理解しようとしない。
恭夜の中に、男性に好かれる男はこういうものだという姿があって、それに当てはまらない自分は、タチでしかあり得ないと信じているのだ。
ジャックからするとどれほど恭夜が男っぽく見えても、こんなに可愛い男はいないのだが。
「恭夜さん、よかったですね。大したことなくて」
「ていうか、過呼吸ってなんか……男らしくねえよな。つうか、俺、こんなの初めてなんだけど」
「まあ……柔道の百キロ級の選手で、どこから見ても怖いものなんてない男がいるんです。でも彼、実は大の犬嫌いで、チワワに驚いて悲鳴を上げたことがあるんですよ」
「……だからなんだよ。過呼吸とどう関係があるんだ?」
「男らしいって言葉自体、結構いい加減だってことですよ」
「……うん。そうだよな」
ジャックには意味の通らない会話にしか聞こえないのだが、利一の笑顔に恭夜は丸め込まれて、頷いている。同じ会話をジャックとすればこうはいかないだろう。
何故、利一の言葉は素直に聞いて、誰よりも恭夜を大切にしている恋人の言うことは、一度ではなかなか聞かないのだ。
本当に腹立たしい。
「くだらん話はもういい。キョウ……帰るぞ」
「あ……う……ん……じゃあ、隠岐。またな!」
手を振る恭夜を腕を掴み、ジャックはエレベーターに向かった。
「ジャック、引っ張るな。一人で歩けるって」
「ああそうだな」
腕から手を離し、上手い具合にやってきたエレベーターに乗り込む。遅れて乗り込んだ恭夜は、一階のボタンを押すジャックの顔を見上げた。
「もしかして……怒ってるのか?」
「……」
この状況でどうして『もしかして』と問えるのか、ジャックの方が分からない。
ジャックは本気で怒っているのだ。
「ジャッ……っ!」
扉が閉まるのと同時に、ジャックは恭夜をエレベーターの壁に押しつける。そこで両足の間にこちらの身体を押し込み逃げられないようにしてから、顎を掴んで上を向かせた。
驚きとともに目を見開いている恭夜にジャックはさらにエレベーターを停止させて言った。
「……当たり前だろう。恋人を誘拐されかけて、平静でいられる男がいるとでも思っているのか?」
「……わ……悪かったよ」
「本当は反省などしていないのだろう?」
「して……っ!」
親指で下唇を押し下げ、ジャックは唇を重ねた。舌を絡めるジャックに抵抗しようとする恭夜の手も、壁に押しつける。
何度味わっても足りない恭夜の口内をたっぷり愛撫し、ジャックは唇を離した。
「……あんた……ここ……監視カメラが……」
恭夜は顔を少し赤らめつつも、また文句を言おうとする。
「今、必要なのは謝罪だ」
「ごめん……悪かったよ。でも俺だって……」
「なんだ、この期に及んで言い訳をするつもりか?」
「……いや、俺が全面的に悪いよな。マジで反省してる。ごめん、悪かった」
ようやく素直になった恭夜にため息をつきつつジャックは拘束を解くと、エレベーターのスイッチを押した。エレベーターはすんなりと一階まで下りて、扉を開けた。
「本当に反省しているのか、家でじっくり身体にきいてやるか」
「ジャック……って」
「行くぞ」
逃げないよう恭夜の手を掴み、照れなど感じさせる暇もあたえず、ジャックは駐車場まで引っ張っていった。恭夜もそんなジャックの手を振り払うこともなく、とりあえずおとなしく従っている。
車のところまで来ると携帯が鳴った。
ジャックは先に恭夜を助手席に乗せてから、車外で携帯を取った。
「……私だ」
『ジャック、頼まれていた例の件だがメールでさっき送ったよ。だがこっちの資料はもう削除したからな』
小声でそう話すのはテイラーだ。
図太いように見えて、意外に繊細な面がある。
「そうか」
『もうこんな恐ろしいことは頼まないでくれ。こっちには家族がいるんだからな。ジャックにもいるだろう? こういうことはやめた方がいい』
家族ならジャックにもいる。
恭夜という最愛の恋人が。
「私に対する借りはまだいくつもあったはずだ。全て返してもらう」
ジャックがそう言うと、テイラーはため息だけを残して、通話を切った。
もう少し反論してくると思っていたから、拍子抜けだ。
ジャックは携帯をポケットに戻して車に乗り込むと、恭夜が聞いてきた。
「もういいのか?」
「ああ」
すぐさま車のエンジンを掛け、ジャックは家に向かって走らせた。