Angel Sugar

「唯我独尊な男5」 第9章

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 だが、黙っていたところで、どうせばれる。ばれた後の方が面倒だ。ただ、ジャックはクーパーのことを毛嫌いしているため、面と向かって言うのは避けたい。
 恭夜は携帯メールで知らせようとしたが、クーパーの名前を打とうとした瞬間、急に吐き気が込み上げ、トイレに駆け込んだ。
 胃の中のものが空になるまで吐いてから恭夜は洗面台で口をすすぎ、個室に戻って便座に座った。
「……はあ……」
 すっかり過去のことだと自分に言い聞かせてきたし、今は普通に日常を過ごしている。
 クーパーのことも許したし、誰かを憎むことはない。
 なのに、クーパーと話したあと、当時の記憶がゆらりと過ぎっただけで、このありさまだ。
 見知らぬ者達に輪姦されたことより、知っている人間が回避できない状況だったとはいえ、恭夜を犯したことを思い出したとき、耐え難い苦痛に喘いだ。
 それでも、事実にはしっかり向き合えたはずなのに、鮮やかに刻まれた記憶がふとしたことで脳裏を過ぎると、耐え難い吐き気に襲われるのだ。
 いや、吐き気だけならいい。時々、うずくまって世界の全てを遮断したくなる。逆に、世界の果てまで行って、全てを振り払いたい気にもなる。
「……くそっ……」
 過去に囚われたくない。
 自分の人生を他の誰にも踏みにじられたくないのだ。
 だから必死に日常を取り戻そうとしているのに、邪魔ばかり入る。
 本当は怖くてたまらないのだ。
 利一がもっと危機感を持った方がいいとよく忠告してくれるが、そんなこと恭夜が一番分かっている。
 けれど、何も気づかないふりをしていないと、不安と恐怖で押し潰されそうになるのだ。
 ジャックが恭夜を過保護に守ろうとすればするほど、それほど世界は自分にとって危険なのだと感じ、たまらなく怖くなる。
 だからこそ、一人で外へ出たくなるのだ。
 利一と飲みに行って、兄弟とも会う。普通の日常を送ることで、もう危険はないのだと恭夜は思いこみたいのだ。
 だが現実は、今も恭夜は危険な立場にいる。それを認めたくない。
 相談できる相手はジャックしかいない。なのにできそうにないのだ。
 これ以上、ジャックが恭夜に対して過保護になれば、自分の足で立つことができなくなる。
 こんなに怖いのに、誰にも打ち明けられない。
 自分が生かされているのは、未だ明らかにならない、記憶のせいだ。それは記憶が戻れば用なしという意味でもある。
 事件に巻き込まれた当時は、死ぬことばかり考えていた。けれど今は違う。
 生きて日常を取り戻したいのだ。退屈だったはずの日常がいかに幸せだったのかを、思い知ったから。そして徐々に取り戻し始めている。
 仕事も楽しい。友人と飲みに行くのも同じだけ楽しい。兄ともとりあえずいい関係だ。
 なにより、ジャックと暮らす日々は、人がどう想像しようと、恭夜には心地いい。
 もう奪われたくないのだ。この平凡な日常を。友達や家族を。
「……っ」
 涙が急に溢れて止まらなくなった。
 自分でもどうしてこんなふうに感情が揺さぶられているのか分からない。いや、ようやく手に戻ってきたものが奪われてしまうことを想像し、恐怖を感じているのだ。
 こんな弱い自分を人に見られたくない。
 自分はもう大丈夫なのだ。過去の酷い体験を乗り越えたし、今はジャックがいる。ジャックがいるから、過去を過去にすることができた。
「……くそ……泣いてんじゃねえよ……」
 目を何度も擦って涙を拭うのだが、涙がとまらない。
 クーパーと話したことが問題ではない。内容が問題だったのだ。
 二週間……その言葉が、今以上に危険だと言われたような気がした。確かに何かがあるからクーパーは教えてくれたのだろう。そのことには感謝するが、ようやく自分を奮い立たせて危険から目を逸らそうとしていたのに、現実が突きつけられた。
 お前は危険なのだと。
「……大丈夫……大丈夫だ」
 昨日も無事に過ぎた。今日もいつも通り。明日も同じ日がやってくる。何も変わらない。何も奪われたりしない。ジャックが側にいて守ってくれるからだ。
 恭夜は深呼吸を繰り返し、荒れた呼吸を整えた。
「大丈夫……」
 呼吸が落ち着いてくると、胸を掴まれているような圧迫感が収まってきた。涙はまだ零れているが、すぐにとまるはず。
 もう少し落ち着いたら、ここを出て冷たい水で顔を洗うのだ。そうすれば日常に戻ることができる。自分の研究室に戻り、智宏とくだらない話をして、笑えばいい。
「……っ」
 不意にトイレの扉が開閉し、誰かが入ってきた。職員の誰かだろうと、気にも留めなかったのだが、靴音が自分の個室の前で止まる。
「キョウ、いつまでそこにいるつもりだ?」
 あり得ないジャックの声に、恭夜は驚愕で目だけでなく口まで開いたまま、絶句した。
「黙っていないで何か言え」
「……あっ、あんた……なんでこんなところに来るんだよっ! 俺はまだ……出る気はないんだからなっ!」
 聞こえるほど激しくトイレットペーパーを引っ張り、ガラガラと音を立てた。
 今はまだ出られない。泣いたことが分かるよう目は充血しているはずだし、何度も目を擦っているから顔もぐしゃぐしゃだろう。
「キョウ、開けろ」
「……あんたに会う用事もあったから、出たらオフィスの方へ行く。だから後にしてくれよ」
「お前が開けないのなら、実力行使だ」
「わっ、分かったから……やめろよ!」
 仕方なしに鍵を開けると、待ちかまえていたようにジャックがドアを開けた。
「普通、こんなところまで……」
「キョウ、泣いていたのか?」
 そっと伸ばされた手が顎を捉え、うつむき加減の顔が上がる。誤魔化せないほど目が充血しているようで、ジャックの表情が曇った。
「……なっ……泣いてなんか……」
「私が側にいるんだ。一人で泣くんじゃない」
 驚くほど優しくそう言われ、顎を捉えていた手が離れて恭夜の背へ移動する。引き寄せられるままにジャックの胸に抱きしめられて、恭夜はギュッと目を閉じた。
「だが、私は泣くなと言ってるわけじゃないぞ。辛いと感じたときは、私の腕の中で泣けばいい。そのために私はお前の側にいるんだからな」
「……っ」
 止まったはずの涙がまた頬を伝い、恭夜は奥歯を噛みしめた。
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