「唯我独尊な男5」 第10章
ゆっくりと高ぶっていた感情が収まり、呼吸の速さも戻る。目からこぼれ落ちていた涙も止まり、今度は羞恥が恭夜の身を包む。
「ましになったか?」
「……ま、まあな」
「理由は?」
「胡椒が目に入っただけ……」
ジャックの冷たい視線に、恭夜は肩をすくめながら続けた。
「……って言っても信じてくれないよな」
「当然だ」
恭夜が隠したところで、ジャックは携帯の着信履歴を調べ、誰と話していたのか突き止めるだろう。それまで知らぬ顔をしていたら、ジャックの怒りは今打ち明けるよりも激しいものになるに違いない。
相手がクーパーだからだ。
しかも世間話をしたわけではない。こういう情報は伝えておかなければならないのだ。
「ク……」
「……く?」
「クーパーから電話があって、あんたに伝言してくれってことだったんだけど……『今日から二週間、特に身辺に気をつけろと伝えてくれ。それで分かる』ってそれだけ言って、切りやがった」
ジャックの目がすっと細くなると、周囲の温度が下がったように感じて、背筋がぶるっと震えた。
「……携帯番号は変えたはずだが」
「どうにかして調べたんだろ」
「着信拒否しておけと言うのを忘れていたな。今からでも遅くない。そうしておけ」
ジャックは真顔でそう言ってが、恭夜が心配していることはそれではない。
「掛けようとすれば方法はいくらでもあるだろ。なあ、問題は電話をかけてきたことじゃねえよ」
「あたりまえだ。それよりまずはトイレから出ろ」
恭夜はジャックに促されるまま腰を上げて、なんとなく習慣で手を洗い、廊下に出た。ジャックは自分の研究室に戻らず、ジャックのオフィスに入って、柔らかいソファに座った。
ジャックは恭夜の隣に座り、何かにとらわれたようにじっと前を見つめている。
「なあ、それで……俺は……どうすればいいんだよ?」
「二週間……と言ったんだな」
チラリと視線が恭夜に流される。薄水色の瞳はどちらかというと穏やかな光を宿していて、恭夜の心に浮かんだ不安を溶かしてくれた。
「ああ」
「分かった」
「分かった……って?」
恭夜の問いにジャックは微笑む。
「二週間、安全な場所に籠もっていればいい」
「安全な場所って……」
「家だ」
マンションの一室から出るなとジャックは提案しているのだろうが、そんな息苦しい生活などできない。
「……ジャック」
「キョウを送る途中、車が突っ込んできたらどうする」
「映画じゃねえんだから……あるわけないだろ」
「言い切れるのか? 私はキョウほど楽観主義者ではないぞ」
どんなサスペンス劇場なんだと呆れたものの、よく考えるとそういう状況に恭夜は何度も逢っている。だから、ジャックの心配が現実にならないとは誰もいえない。
「まあ……ないとは……いいきれないけどさ」
「また拉致されたくはないだろう?」
「当たり前だろ!」
この世で拉致されるのを喜ぶ人間などいない。それなのに恭夜は数えるのも嫌になるほど、そういう目に遭っているのだ。
「そうか、寂しいか?」
「そんなんじゃねえよ」
「私も側にいてやる。退屈はしない」
「……げっ!」
ジャックを愛しているが、家でも仕事場でも行き帰りも四六時中一緒。仕事場は部署も違うし、別の階でたまに顔を合わせる位だが、それすらうんざりすることがある。
なのに二週間も一緒に家に閉じこもる生活などしたら、どれほどのストレスがかかるのか、想像したくない。これは愛があるとかないとかそういう問題ではないのだ。
「げっ、とはなんだ」
「いや……俺、別に一人でも……ぜんぜん退屈じゃねえから、あんたは仕事に行けって」
「そうだな……お兄様のところの犬畜生でも連れてくるか?」
「え、兄貴の犬畜生って……アルのことか?」
恭夜の兄はアフガンハウンドを飼っている。一度預かってジャックが酷い目に遭わせたのだ。恭夜の兄は激怒したし、アルはすっかりおびえてしまい、このマンションに近づくことすらいやがるようになったらしい。
が、ジャックは自分のしたことでアルに嫌われていることを、をすっかり忘れているようだ。
「ああ、あのモップのような毛のうっとうしい犬だ」
「アルはジャックのこと怖がって、あんたがいるときは部屋の隅っこに隠れちまうだろ」
「私は何もしていないが、何を怖がることがある」
お前のせいだろ……と追求したかったが、すべてを正当化するジャックに何を言おうと無駄なのだろう。
もっともアルは最初からジャックが苦手だったようだ。
「動物は自分より強い相手を本能で察知して服従するからなあ。それじゃないのか?」
「……それでは弾よけの盾にもならんな」
ペットは可愛がるもので、弾よけにするために飼うわけではない。けれどジャックにとってペットも防犯のための手段でしかないのだろう。
「どういう状況を心配してるんだよ」
「私は常に最悪を想定して危機管理をしているつもりだが」
聞こえるようなため息をジャックはつく。
恭夜は少し考えてから、口を開いた。
「なあ、ジャック……」
「なんだ?」
「いい加減、俺、うんざりなんだ。俺の記憶に何かがあるっていうなら、催眠術とか使って何とかできないのかよ」
「いずれ戻るまで記憶はそっとしておけ」
もともとジャックは恭夜が無理に記憶を取り戻すことに反対の立場を取っている。恭夜が無意識に記憶を封印しているのなら、心を守るための防衛本能だから、無理に戻してはならないのだと。
けれど自然に戻るのを待っていても断片は戻ることはあっても、全貌は見えない。いつまでも時限爆弾を抱えているような不安が恭夜を苦しめる。
「あんたはいつもそう言うけど……それが原因でこんなことになってるんだろ? いつ戻るか分からない記憶だぜ。俺……ずっと危険と隣り合わせの生活なんて嫌だ」
「……賛成できんな」
ジャックは静かにそう告げた。怒鳴られるより堪える口調だ。
「たとえば、あんたが催眠術で俺の記憶を探って、俺にはそのことを忘れさせてくれたらいいんじゃないのか? ほら、今話したことは目覚めたら忘れています……とかなんとか」
「……」
「俺の記憶の中身をあんたが知ってるのなら、そういうの必要ないんだろうけどさ」
「知っていたら手を打っている」
「……だよな」
恭夜は一呼吸をおいて、続けた。
「俺の記憶をほしがってる奴はやばい連中だから、都内の催眠術師に安易にやってもらうわけにはいかないことくらい、分かってる。だからあんたに頼んでるんだ」
もうずっと恭夜が考えていたことだ。
ジャックは記憶が戻ることで、恭夜が以前のように心を壊してしまうのではないかと恐れている。恭夜だって、そのときになれば自分がどうなるのか、自信など持てない。
けれどそれではいつまで経っても恭夜は危険なままだし、本当の意味で自由を取り戻すことができないのだ。
「ジャック……どうなんだよ? 俺、これでも覚悟して頼んでるんだぜ。だから簡単にだめだって切り捨てないでくれよ」
「キョウの覚悟は分かった。少し考えさせてくれ」
ジャックは珍しく恭夜に触れることなく立ち上がる。
「さあ、退屈な仕事に戻るといい。帰りはいつも通りの時間に迎えにいく」
「分かった」
ジャックのオフィスをあとにするとき、恭夜は振り返らなかった。もし、ジャックが思い悩んでいるような表情をしているのを知ったら、恭夜は仕事が手につかなくなることが分かっていたからだった。
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