Angel Sugar

「唯我独尊な男5」 第7章

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 自宅に戻ると、ジャックが襲いかかってくるだろうと構えていたが、意外なことにそうはならなかった。
「さっさと風呂に入って、もう寝るんだな」
 ジャックは上着を脱ぐこともせず、書斎に向かって歩いていく。
「え……ジャック?」
「なんだ?」
 ジャックは立ち止まり、恭夜の方を振り返る。
 じっくり身体に聞いてやるといった言葉を忘れてはいないのだろうが、それよりも先にしなければならないことができたようだ。
「え……あの……別に……なんでもないけど。あ、注射したのに風呂って入っていいのか?」
「ワクチンを打ったわけではないからな。気になるならテープを剥がさずに入れ。ああ、風呂はきちんと温まって、髪も乾かしてからベッドに入るんだぞ」
 恭夜を子供扱いしているわけではないのだろうが、ジャックはここにきてようやく微笑した。
 不機嫌なはずなのに、恐ろしいほど魅力的に笑っている。
 こういう時のジャックには逆らわない方がいい。
「……分かった。あのさ、ジャック」
「ん?」
「あんたは?」
「一緒に入りたいのか?」
「え……あ……じゃなくて……」
「急ぎの用事ができたからな。少し書斎に籠もる。待っていなくていいから、先に休め」
「分かった」
 恭夜は先にバスルームに行き、浴槽に湯を入れると、今度は寝室に向かい、クローゼットから着替えを用意した。
 湯が浴槽に溜まったことを知らせるベルが鳴ると、恭夜はリビングのソファから身体を起こして、バスルームに向かった。
「ジャックが急に仕事モードになったのは、あの電話のせいだろうな……。まあ……仕事の依頼っぽくはなかったみたいだけど……」
 湯船に浸かってボンヤリしながらも、恭夜は一人呟いた。
 交渉人としての依頼だと、ジャックを迎えにヘリが飛んでくる。ジャックも慌ただしく準備をして出かけてしまうため、仕事の時はすぐに分かるのだ。
 もっとも恭夜が知らない仕事もいろいろあるだろうから、別に深く考える必要はないのだろう。
 逆に、ベッドで何をされるのかと、ドキドキしていた分、一本の電話によって恭夜は助けられた。
「ま……ラッキーってことにしとけばいっか」
 恭夜は湯船に浸かって充分温もってからバスルームを出ると、言われたとおりに髪も乾かした。
 ちょぴり書斎に籠もるジャックが気になったが、扉の隙間から覗くわけにもいかず、恭夜はおとなしく寝室へ移動した。
 寝室は真っ暗にせず、小さなフットライトを二つほど残して他の明かりを消す。
 未だ暗闇に恐怖を感じてしまうため、恭夜には明かりが必要なのだ。
 恭夜は枕に頭を載せて天井を眺めた。
 こうして落ち着くと、また路上での事件を思い出し、答えのでない疑問に、頭がいっぱいになる。
 どうせならあのアラブ人が、こういう理由で拉致するんだと叫んでくれたらよかったのだ。そうすれば恭夜も事情が理解できるし、対策だって取れる。
 一体、恭夜のどういう記憶が必要だというのだろうか。
 これを思い出せと言われたら少しは考えることもできるのだろうが、誰も肝心なことを教えてくれない。
 それはジャックも同じ。
 ただ、いくらジャックでも恭夜の記憶のどの部分が問題なのか、知っているのかは分からない。
 ジャックのことだから、もし分かっていたら、解決する手だてを探すだろうから。
「……さっさと教えてくれよ……誰でもいいから……」
 今まで思い出した記憶はどれも傷つくばかりで、辛いものばかりだった。だから余計に、今も思い出せない部分を全て明らかにしたいとは思わない。
 記憶をそっとしておきたいのだ。
 封印されている記憶がなくても、恭夜は淡々とした日常を送ることができているし、なにより今の生活に満足している。
 このままずっと変わらない日を迎えたい。
 ジャックと一緒に。
 恭夜はほんのちょっぴり、ジャックが襲いかかってこないことに不満を感じながら、ようやくやってきた睡魔に身体を任せた。



 夢を見ていると理解していながら、目が覚めることなく、とうてい現実では叶えられない物語を楽しめることがある。
 楽しめるかどうか分からないが、恭夜はそういう夢を見ていた。
 霧が立ちこめていて、自分が立っている場所は分からない。
 なのに、人の形を取った影がユラユラと近づいてきては、離れていく。
「何だよ……これ……」
 怖くはないが、気味が悪い。
 目を覚ましたいのだが、夢は続く。
 とにかく歩いていけばどこかに出るだろうと、恭夜は霧をかき分けて前に進んだ。
「あ~もう……なんだよこれ」
 どこまで行こうと霧は晴れず、まるでミルクの中を泳いでいるような気分になってくる。
 ユラユラと蠢く影は姿が見えるほど近づいてくることなく、恭夜が手を伸ばせば消えた。
 そんな中、一つ影が近づいてきて、目の前までやってきた。
「だ……誰だ?」
 影から霧が晴れ、男の姿が露わになった。
 恭夜は男に見覚えがあった。
「トーマス・グラント?」
 男は頷いた。
 何故、この男が夢に出てきたのか、恭夜にはまるで分からない。
 もしかして、パブロが自殺したことを責めにきたのだろうか。
「パブロさんのことは……俺のせいじゃねえよ」
 トーマスは顔を左右に振った。
 そしてどういうわけか、中指と人差し指を立ててこちらに向けた。
「Vサインか? それとも二本? 二個? なんだよ。ちゃんと言葉にしろよ」
 恭夜がトーマスに近寄ると、同じだけトーマスは下がる。
「俺に……なにかして欲しいのか? だったら分かるように言ってくれよ」
 ――忘れるな。
 トーマスは口を開かずに恭夜の心にその言葉を響かせて、霧の中に溶け、姿を消した。
「ま……待ってくれよっ! 意味が分からないって。戻ってこいよっ!」
 恭夜は一人取り残された霧の中で、もう一度トーマスに会おうと、必死に探した。
「待ってくれっ……待って……」
 伸ばした手が誰かに掴まれ、その温もりの確かさに、恭夜は目を覚ました。
 恭夜を覗き込んでいるたのはジャックだった。
 その事実に恭夜は安堵する。
「どうした? 魘されていたぞ。嫌な夢でも見たのか?」
「あ……やっぱり夢だった……」
 ふ~っと息を吐いて、やや起こした身体を戻す。
 ジャックは恭夜の見ていた夢に興味があるのか、ずっとこちらを見下ろしている。
「どんな夢だ?」
「え……なんだかよく分からない夢だった。夢だと分かっていて夢を見てる感じ。あんたに分かる?」
「そうだな」
「しかも……なんで出てきたのか分からない奴」
「誰だ?」
「……トーマス・グラント」
 一瞬、ジャックの眉間に皺が寄る。
 ここで突然トーマスの名前が出るとはジャックも予想しなかったのだろう。
 恭夜だってそうだ。
「それで?」
「俺にVサインを見せてくれた」
「真夜中に私をからかうつもりか?」
「違うよ。本当にVサインをしたんだ。もしかすると数字の二っていう意味かもしれないけど」
 呆れた顔のジャックに恭夜は説明をした。
 あのときのトーマスは別にからかっているようには見えなかった。
 それより、真顔でVサインをするトーマスに、何か意味があるのだと恭夜は感じたのだ。
「他には?」
「Vサインの後、忘れるなって言って消えた」
「……今夜は隠岐とよほど安い酒を飲んだんだようだ」
 ジャックはこちらに聞こえるほどのため息をついて、恭夜の額にかかる髪を撫で上げた。
 確かにジャックの言い分も理解できる。
 夢に見る相手にすると、あまりにも唐突な相手だ。
 本当に単なる夢だったのかもしれない。
「あ……それでかな」
「夢はもういい。それよりもう一眠りするんだな。まだ四時だ。あと少し眠ることができる」
「分かった」
「……ジャック」
「なんだ?」
「別に……なんでもねえよ」
 目が覚めたとき、ジャックが側にいてくれて嬉しかったと言いたかったのだが、やっぱり言葉にはできなかった。
 こういうとき、素直になれない自分が嫌になる。
「ああ、そうだったな。お仕置きは明日の晩に延期だ。楽しみにしておけ」
「……げっ!」
 恭夜は毛布を口元まで引き寄せると、ジャックに背を向けるように横に丸くなった。
 けれどそんな恭夜の背からジャックは手を回して身体を密着させてくる。
 後ろから触ってくるかもしれないとドキドキしながらも、ジャックの温かい抱擁に、恭夜はいつの間にか眠りに落ちていた。



 翌日、いつもどおりに仕事に出た恭夜は、頭の痛くなるような検査に没頭していた。
「恭夜さん、携帯鳴ってますよ」
「え……あ、ほんとだ」
 機械の数値から目を離さず、恭夜はテーブルに置いていた携帯を取る。だが画面には非通知の文字が浮かんでいた。
「……もしもし」
『キョウ、久しぶりだな』
 電話を掛けてきたのは、クーパーだった。
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