「嘘かもしんない」 第1章
あああん
「ざけやがって……」
澤村大地は小さくごちて、ふとんに潜ると出勤までの時間までもう一眠りしようとした。
大地は今年十八になるとさっさと上京し、就職口を探した。意外に簡単に就職も決まり、三ヶ月の研修を終え、昨日からこの2Kのコーポに落ち着くと、両親から持たされたおそばを近所に配った。だが今迷惑を被っている隣に住む住人は留守であったので、今日にでも挨拶と考えたのだが、今は隣を訪ねることの出来ない状況であった。薄い壁から聞こえてくる女の声が神経をさかなでする。
「こんな昼間から何考えてるんだ」
眠れない為に布団から顔を出すと、思いっきり壁を蹴り上げた。すると声はやんだ。少しは反省しやがれ、と、思いながら蹴った所をそっと見たが、壁は大丈夫なようであった。大地は空手の有段者であり、全国大会にも出た経験を持っていた。その為手加減しないとぶち破っていただろう。
秋田小町にも選ばれた母親から遺伝したちょっと色素の薄いサラリとした髪、大きな瞳と長いまつげ、東北独特の風土が培うきめが細い肌を大地は持っていた。手足は長いが、身長は百六十六センチしかなく、どちらかというと子供のように見える。幼い顔がそれに拍車をかけているのかもしれない。だが、父親は息子を自分の跡継ぎにしようと空手を教え、それに反抗した母親が「今時の男の子は料理くらい出来ないと駄目」といって家庭の雑事も仕込まれた。両親は嫌いではないが互いがそんなであったので、大地は小さい頃から早く一人暮らしがしたいと願っていた。やっとそれが叶い、これからは両親に縛られることなく自由に生きられるのだろう。
暫くするとごとごとと音がし、扉が開く音がした。そうして軽薄そうな男の声が「またね」と言った。どうも来ていた女性が帰っていったようであった。ようやく静かになると胸を撫で下ろしたところで、自分の部屋の扉が叩かれた。
まさか文句を言いに来たんじゃないだろうなあ……と、少し後悔しながら扉を開けると背の高い男がにこりと笑みを見せながら立っていた。百八十はあるだろう。こちらは上を見上げるような格好になった。
「済まないね。うるさくしてしまったようで。隣に越してきたの知らなかったんだ」
細身のパンツにシルクのシャツをさらっと着こなした男はそう言ってもう一度笑みを見せた。肩まで伸ばした茶色の髪は先の方が柔らかく、くるりと巻いており、形の良い眉に高すぎない鼻梁、一重の瞳と、やや大きな口元であったが、顔自体の造りがバランスよく、男前と言って良いだろう。
人懐っこそうな瞳で、男は「本当に申し訳ない」ともう一度言った。こう低姿勢に出られると大地の方も怒りを見せることなど出来なかった。何よりこれからここに住むのだから、問題は起こさない方が良いだろう。
「え、あ。昨日越してきたんです。澤村大地といいます。まだ片づけが全部済んでいなかったもので、段ボールを転がしてしまって……うるさくしたのはこっちの方ですから……。これから宜しくおねがいします」
と、下手な言い訳をした。
「ええっと……大ちゃんね。私は大良博貴。で、君いくつ?」
大ちゃん??だと?勝手にニックネームをつけられた大地は都会の人間はこういうものなのかと一瞬固まってしまった。それに大ちゃんっててめえもだろ!と、名前に同じ大をもつ大地はそう叫びたいのを押さえてどうにか笑顔を作った。
「十八です。その……大ちゃんは止めていただけますか?」
大ちゃんと言う呼ばれ方に良い思い出はないからだ。
「どうして?ピッタリだよ」
不思議そうに博貴は言った。このなれなれしさはなんだろう?相手にするとこのまま大ちゃんと呼ばれ続けるだろうと思った大地はさっさと切り上げることにした。
「済みません。夕方から仕事ですので失礼していいですか?」
そういうと博貴は目を輝かせて言った。
「私と同業者なのかい?確かに見ればそんな感じもしないでもないねえ」
同業者?同業者ってなんだ?この顔で?
「大良さんも警備保障に勤めてるんですか?」
「え?あ、わはははははっ。そっか、夜の仕事はホストだけじゃないからね。私は歌舞伎町でホストをしているんだよ。良かったら見に……ああ、男だけじゃ入れないから彼女でもつれてきてね。安くしとくよ。それにしても……警備保障と言われても大ちゃんに似合わないなア……」
わははと口を開けて笑うタイプに見えない博貴を呆然と大地は眺めた。あちらのテンションが高すぎて押され気味なのだ。
「……ホスト……さんですか?」
確かにそれ以上の似合いの仕事はこの男にはないだろうと大地には思われた。
「……さんってねえ。ホストにさん付けしなくて良いよ。あ、と、こっちも出勤時間だった。じゃあ、大ちゃんこれからも宜しくね」
博貴はそう言ってウインクをすると、帰っていった。あまりの個性の強さに大地は呆気にとられてそれを見送った。
自分が警備保障のそれも一流会社に入社出来るとは思わなかった。内定を貰ったときは本当に驚いた。背も小さくて身体も大きい方でない。研修で講師に来た人間にそんなことをふと漏らすと、空手の有段者でしょう?それが心強いんですよ。いくら強面でも何も出来ない人も多いですからね。うちの社員は大抵がなにがしの段を持っています。元警官か自衛官がほとんどでしてね。だから新人も若い人から年のいった方まで色々いるんですが、見せかけだけの警備員はいざというときに役に立ちませんから。それに今年から試験的に若い人も入れようということになってね。場所によったら若い警備員を頼んでくる企業も増えてるんです。でも何もできない若造はいくら何でもこちらも取りませんよ。そう言って笑った。それがとても大地は嬉しかった。
出社すると周りの人に紹介されることでほとんど時間を費やして、本格的な仕事は明日からであった。日によって出勤時間が午前と午後に代わるのはちょっと辛いかと思ったが、いずれ慣れるだろう。内容によってはギリギリまで仕事内容を教えて貰えない場合もあるからだ。特に現金を運ぶ仕事の時はそのルートなど本当に時間が来るまで教えて貰えない事になっていた。
ようやく仕事を終えて帰ってきたのは朝方であった。あくびをしながら階段を上がると博貴も帰ってきたところなのか鍵を持って扉を開けようと立っていた。
「大ちゃん。御苦労さん」
「……だから、その大ちゃんは……」
「堅いこといわない」
そう言って白い歯を見せて博貴は微笑んだ。
「あの、気になってるんですが……大良さんの隣の角部屋はどなたが住んでいらっしゃるのでしょうか?挨拶に行ったのですがどなたもいらっしゃらなくて……」
「ああ、隣も私のうちだよ。二部屋壁をぶち抜いてあるんだ」
「はあ?」
「これでも店でトップなんだよ。収入もそこそこ貰えるようになって、本当はもっと豪華なマンションでも買うか借りるかすればいいんだけど。昔からここに住んでいて愛着がわいてさ、ずっと居座っていたんだが、やっぱり部屋が狭くなってきてね。大家さんにちょっと色目を使ってお願いして壁をぶちぬいたのさ。そうそう、真下の部屋も同じく上からぶち抜いて私の部屋になってるよ。こっちは入り口を塞いであるから分からないと思うけどね」
色目……そう言えば大家は中年のおばさんであった。確かにこの男に色目を使われたらいちころなのかもしれない……大地はそう考えて、げんなりした。
「そうですか。じゃあ……」
そう言って大地は自分の部屋へと入った。なんだか会社に行くより、あの男と話したことの方が疲れた。だが洗濯は今のうちに干しておかないといけないと考えた大地はベランダに出た。夜のうちに洗って置いた洗濯物を叩きながら一つずつ広げて干し始めた。
彼女でも出来たらこういうことして貰えるんだろうなあ……と思いながらふと隣のベランダを見ると思わず顔から火が出そうになった。口をぱくぱくしていると、博貴がひょいと顔を出した。シャワーでも浴びたのか、バスローブ一枚の出で立ちである。
「なに?大ちゃんどうしたんだ?」
「おお……男のくせにそのパンツはなんだよ!」
まるで紐だけで作られたようなパンツであった。大事なところを隠す部分だけが袋になっている。
「え?あ、これ?」
干していたパンツを指さして博貴は言った。
「そ…そんなの……はくな!」
大地は真っ赤な顔でそう言った。
「そう?これ、はくとお尻の形が綺麗に出るから結構気に入ってるんだ。こんな感じ」
そう言って博貴はバスローブをはだけてみせると、色違いのパンツがそこにあった。
「……て……てめ……そそそ……それでも男か!」
頭から湯気が出そうなほど赤くなった顔で大地は言った。頭がクラクラとする。
「私に惚れるなよ」
そう一言言うと博貴は部屋へと入っていった。大地は失神しそうになった。
気を取り直して全て洗濯物を干すと、食事の準備をする事にした。両親が送ってくれた野菜が沢山有ったので、煮物でも作ろうと考えた。小さい頃から母親と一緒に食事の用意を手伝っていた所為か、料理を作るという事に大地は抵抗を感じたことはなかった。それに作るのも好きであった。
大根の煮物とみそ汁、それと魚を焼いて準備をしていると突然後ろから声を掛けられた。
「大ちゃんて、料理上手いんだ」
後ろから博貴に覗き込まれて、大地はびっくりした。
「うわーーっ!どどど、どうやって入ってきたんだ!」
「玄関は鍵が閉まってたから、ベランダ乗り越えてきたんだ。あんまりいい匂いがするからご馳走して貰おうと思ってね」
バスローブを着たままの博貴がそう言った。この格好でベランダを乗り越えたのだろうか?
「かかか……勝手に決めるな!あ、あんた何考えてるんだよ!」
「年上の私にその言い方はないだろう?」
急に真顔になって博貴は言った。その有無を言わせない雰囲気が大地を降参させた。普段ふざけてはいるが、こういう男ほど怒ると怖いのかもしれない。顔立ちが整っているだけに、すごみが増すのだ。
「……いいですよ……。たいしたものはないけど……ご馳走します」
「そうこなくちゃ。大ちゃんっていい子だね」
急に破顔した顔で博貴にいい子だと言われ、またもやムッとしたが、こういう手合いは逆らわない方がいいと大地は考えた。
一人分増えたために魚をもう一匹焼きながら、勝手に奥で座り込んでいる博貴を見るといくつもの新聞を広げていた。その視線に気がついた博貴が「?」という表情でこちらを見た。
「そんなに沢山の新聞どうしたんですか?」
「顔だけでもてるホストの時代じゃないんだよ。色々な知識がいるんだ。お客さんも色々いるからね。賢い女も居れば馬鹿な女もいる。嫌だろうが指名を受けたら相手を楽しませてあげないといけないんだ。だからこうやって毎日色んな新聞に目を通して、知識を蓄えているわけ。ああ、色んな本もあるよ。良かったら貸してあげる」
少し博貴を見直しながら、丁重に断った。本など漫画くらいしか大地は読まないからだ。貸して貰ったところで、埃を被るのは目に見えていた。
食事の用意が出来、机に皿を並べた。その姿をずっと博貴は目で追っているようであった。
「なんか……顔についてるんですか?」
気味悪く思った大地がそう言った。
「いや、大ちゃんってエプロンが似合うなあと思ってさあ……冗談で言ってるわけじゃないから気を悪くしないで欲しいんだけど」
冗談だと言われた方がよっぽど良かった、と大地は思った。何処の世界にエプロンが似合うねと言われて喜ぶ男がいるのだ?
「……」
複雑な気持ちで大地も座った。
「頂……あ、お茶忘れてた。大良さん先にどうぞ。お茶入れてきますから……」
大地がそう言って、お茶を準備して戻ってくると、博貴は料理に手をつけずに待っていた。こういう心遣いが女性を虜にしているのだろう。そう思いながら大地とて何となく嬉しかった。
「頂きます」
と、大地が言って手を合わせると、博貴もそうやっているのが見えた。育ちは悪くはないのかもしれない。
「大ちゃん……これ……」
大根の煮物を口に入れた博貴が眉間にしわを寄せて言った。
「あ、口に合いませんでした?」
「いや……すごく美味しいよ。母親が作ってくれた味に似ていて驚いているんだ」
今度は満面の笑みで博貴は言った。気に入ってくれたようであった。
「小さい頃から台所を手伝わされて……母親がこれからの時代は男も家事が出来ないと駄目だという方針だったもので、料理は自分で言うのもなんですけど、ちょっと上手いと思いますよ」
「父親は反対しなかったのかい?」
「父親は反対で、男は男らしく台所なんか手伝うもんじゃないって人で……父親からは空手を習っていました」
「え?空手?」
驚いた顔で博貴は言った。確かにどちらかというと線の細い大地をみて想像つかないだろう。
「全国大会も出場したことあるんですけど……」
「ああ、それで保障会社に入社できたんだ。昨日聞いたとき冗談だと思ったからね」
「……そんなに似合いませんか?」
「人間、似合うとか似合わないと言うのは高々外見だけの判断だからね。本人が似合うと思えばそれで良いことだから、いいんじゃないのかな。馬鹿にしたように聞こえたとしたら申し訳ない。謝るよ」
その事よりエプロンが似合うと言ったことを撤回して欲しかったが、「気にしていません」と大地は言った。
博貴は話し上手で聞き上手であった。最初は面食らったが今はそれほど気にならなくなっていた。商売柄なのか人を引きつけるのが上手いのだろうか?
「そう言えば……大良さんだったら、このくらいの料理を作ってくれる女性がいるんじゃないですか?」
「大ちゃん。あのね。その敬語は止めてくれないかな。君が本当はてめえとかいうのを知ってしまうとどうも気持ち悪い」
「……あ、あれは……その」
「まあ、会ったばっかりだし、今は良いけどね。そうそう、料理ねえ、そんなの作ってもらったりしないよ。それで居着かれたら困る」
「困るんですか?」
「ホストは客と恋愛しないの。来る客はお金を出して私たちはそれに応える。それ以上のものは望まないし、望んで貰っても迷惑だね」
「ドライ……なんですね」
「ドライ?何故そう思うんだい?いちいち面倒見てたらこっちの身が保たないよ」
「……でも好きになっちゃったりしたら違うんでしょ?」
「だからねえ……好きとか愛してるとか言う言葉も料金のうちに入ってるわけ。あっちだってそのつもりできているんだよ」
「軽々しく言って良い言葉じゃない」
なんだか腹が立った大地はそう言った。
「これが私の仕事。君は君の仕事をすればいいんだ。私は君の仕事に口は出さないだろう。大ちゃんも私の仕事にいちゃもんつけてほしくないねえ」
怒っているわけでなく博貴は優しい瞳をこちらに向けてそう言った。
「……そうだけど……」
これは自分の仕事ではなくてこの男の仕事なのだ。だがこの男の所為で何人もの女性が泣いたのだろう。そう思うとやりきれない。自分の事でないのに、なんだか悲しい。
「おーい……大丈夫?大ちゃん」
向こうから覗き込むように博貴がそう言った。
「大丈夫です」
急に無口になった大地に心配するような顔を博貴は見せたが、大地は何も言わなかった。
仕事の配分は一週間の半分を日勤、後は夜勤になった。休みは交替でとるため、曜日は決まっていない。それにしても低血圧な為、夜勤の方が大地にはありがたいのだが、夜勤だと生活の周期が博貴とバッティングしてしまう。それも嫌であった。バッティングすると、こちらが睡眠を取ろうとする時間帯に女を連れ込むので眠れない。その上、食事の用意をしていると必ずベランダから侵入してくる。鍵を閉めていると外でわめくので仕方なく鍵を開ける。そんな毎日は耐えられないのだ。悪い男ではなかったが、女性をどことなく冷たく見つめるところがあるのが怖いのだ。それに博貴の話は何処までが本当のことで何処までが嘘なのか全く分からない。
ずっと日勤になれば会わずに済むのだろうと思いながら、今の職場を替わらなければそれは望めないし、今以上の就職先を望むことは出来ないだろう。
博貴と出会って一ヶ月経つ頃、初めて女性が怒鳴っているのが外から聞こえた。あまりの声の大きさに言葉もはっきりと聞こえる。博貴を訪ねてきた女性はかなり腹を立てているようであった。
「私を騙したのね?」
「騙してなんかないよ。私は君に何か約束をしたかい?」
「……それは……」
「君はお客。私は仕事」
その博貴の声は今まで聞いたことのない冷たい声であった。
「好きだと言ってくれたわ」
「それも仕事のうち」
どんな表情で言っているのだろうか?
「そりゃ、明里さんの指名を優先するのは分かるけど……」
女性の声は涙声であった。一体何があってそんな風にもめているのか大地には分からなかった。その所為で先程までうとうとしていた瞳が完全に開いてしまった。
「別に優先しているわけじゃないですよ。上の指示で私はそちらに行くんです。文句があるのでしたらそちらに言ってくれませんか?私は雇われ人で、客を選べる立場じゃないんだから」
「知ってるのよ。私みたいなお金もない女にはつき合えないって事でしょう?」
「確かにないよりある方がいいですねえ。こちらも商売ですから……」
極悪人だ!あいつは、ほんっとうに極悪人だ!
「酷い!あんた最低だわ!好きだった自分が馬鹿だった!」
そういう声が聞こえると階段を下りていく音が聞こえた。女性は帰っていったのだ。玄関の扉にピッタリと身体を寄せて聞いていたが、急に扉を開けられて外に大地は転がった。
「うわっ!」
「壁に耳あり障子に目あり……大丈夫かい?」
困ったような笑みを口元に浮かべた博貴はそう言って手を伸ばした。
「極悪人!お前って本当に極悪人だ!可哀……うっ……」
口元を手で押さえられて大地は博貴のうちに引きずり込まれた。
「あのねえ、でっかい声で人に罵声を浴びせないでくれるかい?近所から何を言われるかたまったんもんじゃない。まあ、ここに住んでる人の大半が昼間の仕事で聞かれるとしても君しかいないから安心だけど……」
「たまったもんじゃないのは、騙された女性だろう!この極悪人!女たらし!」
「さっきの子はね高校生だよ。うちの店は金さえ出せば高校生だって入れるんだよ。で、噂を聞いた。どうせ親の金で遊んでると思ってたら、店に来るために怪しげな店でアルバイトしてるそうだ。最初は優しく追い返そうとしたんだけど、反対に同情してくれてると勘違いして、益々のめりこんじゃって……。こういうの冷たく突き放すしかないだろ?」
そう言われると大地は何も言えなくなった。
「最近増えてるんだよ。高校生がね。こっちは商売で話を聞いてあげるんだけど、向こうは真剣に聞いてくれていると思ってるんだなあ。全く寂しい子が増えたよ」
「そんな子最初から追いだせば良いじゃないか!」
「来ても高校生に見えないんだよ……学生服で来ない限りね。話す内容とかであれ?って思うんだよ。そのときにはもう遅いって」
「……分かったよ。さっきの子の事は……でも、あんたいい加減にしろよ!随分我慢したけど、こっちはあんたが女を連れ込むたびに寝られないんだぞ!」
「大地が急に引っ越してきたからね。知っていたら予定を何とか出来たんだけど。悪かったと思ってるよ。でも大丈夫。もう当分連れ込みはしないよ」
「……そう、なら良いんだけど」
小さく溜息をついて大地は言った。
「大地って……私の仕事を、すごーーーく誤解していないかい?」
博貴は困ったような顔でそう言った。
「女を手玉に取る仕事だろ?別に誤解なんてないじゃないか」
「それが誤解のように私には思えるんだけどねえ」
怒るかと思ったが意外に博貴はにこにことした表情で大地にそう言った。
「じゃあ、どう思われたいわけ?」
「女性に夢を与えている仕事だと思って欲しいねえ」
博貴は当然のようにそう言った。
「悪夢の間違いだろ……」
「馬鹿にしたな」
「馬鹿にはしてないよ。ただあんたの言うことは嘘しかないから信じられないだけさ」
「それは否定出来ないね。でも聞いていて気持ちの良くなる嘘はいいんじゃないか」
大地はそれを聞いてげんなりした。罪の意識などこれっぽっちもないのだ。
「そんなことはどうでもいいか。で、大地、今日のメニューはなんだい?」
「大良は俺の顔を見たらそれしか言わないんだから……。まあ、いいけど……。ぶりの照り焼きに、大根のみそ汁、オクラの和え物だよ」
そういうと博貴は満面の笑みを浮かべた。本当にこの男のこの笑顔は魅力的だ。こんな笑顔で迫られたら誰も抵抗できないだろう。
「じゃ、早速……」
と言ってベランダに出る博貴に「今日は玄関開いてるだろ」と言った。博貴はもう一度笑みを見せた。
自分のうちに戻ると大地は早速食事の用意をし始めた。博貴の方はと言えば既にこの部屋の住人の様に居座り、いつものように新聞を読んでいた。一枚一枚丁寧に新聞を読む博貴の目は真剣そのものである。その位の集中力の向けられる先が何故女性なのかと不思議にも思う。もっと他の職業でもやっていけるのではないかと大地は思うのだ。確かにホストの収入は良いだろうが、一生出来る職業ではないはずだ。賢い博貴がそれに気づかないと言うのが分からない。それとも、今のうちに稼ぐだけ稼いで何か別の商売でもしたいと考えているのだろうか?それに今の職業について両親は何も言わないのだろうか?もし自分がそんな職業に就くと言えば両親に息の根を止められているだろう。
「大良……大良の両親はホストのことなんにも言わないのか?」
そう聞くと博貴は箸の手を止めた。
「両親ねえ……」
そう言ってもう一度箸を動かす。
「俺だったらなりたいと言っただけでも殺されちゃうよ」
「父親は死んだし、母親はなんにも言わないよ」
さばけてる母親だなあと大地は思った。
「ふうん。放任主義とかいう?」
「確かに放任主義なのかもねえ」
言葉とは裏腹に博貴の様子は妙だった。もしかして何か悪いことを聞いたのかもしれない。家庭事情に立ち入ることがはばかれるような環境で育ったのかもしれないのだ。
「ごめん……なんか言いたくないこと言わせてしまったみたい。やめよ。家族の話はさ」
「私がホストになったのは収入が良いからで、死にそうな母親の病院代を稼ぐためだよ」
「……ご、ごめん……」
やはりそういう事情だったのだ。聞かなければ良かったと大地は思った。
「なあーーんて言ったら大地同情してくれるかなあ」
にやにやと笑みを浮かべながら博貴は言った。お得意の嘘だった。
「て、てめー!またそんな嘘つきやがって!そうやって女性も騙すんだろ!」
大地は頭に血が上った。こいつはやっぱりとんでもない奴なのだ。
「まあねえ、なかなか女性達は同情してくれるよ。こういう手もいいよ」
「わ、笑い事で済む嘘じゃないだろう!ああーーもう、なんて極悪人なんだお前は!人の気持ちってのを考えろよ!」
「大地は本当に環境のいいところで育ったんだ。いやあ、羨ましい」
こっちが真剣に怒っているのに博貴はのほほんとそう言ってお茶を飲んだ。
「……なんだってこんな奴と俺は飯を食ってるんだろう……」
溜息混じりに大地はそう言った。
「こんなに上手に料理が出来るのに一人で食べるのは罪だと思わない?」
こんな褒め方があるのだろうか?
「食べたら帰れ。俺は寝るんだから」
「はいはい。そうだ、いつもごちそうになってるから今度材料の差し入れをするよ」
そう言って博貴は自分の食べた皿を持って立ち上がった。
「え、あ。助かる」
博貴は皿を台所に運ぶと自分の分をさっと洗って横にかけてあるタオルで手を拭くと「じゃあね」と言って去っていった。博貴は最初からそうである。自分の食べたものの皿はきちんと洗うのだ。
「やっぱり良く分からない奴だ……」
溜息とともに大地はそう言った。
「最近機嫌がいいね」
オーナーの榊が言った。四十半ばの榊は昔はかなり女性を泣かせてきた口だ。今も多少衰えたとはいえ、常連のマダムには人気がある。大人の魅力と、笑うと目尻や口元に出来るしわすら彼の魅力となるのだ。その上休みともなると海に出かけてセーリングする。最初彼は海の関係の仕事に就きたかったそうだ。その為、身体は日焼けし、浅黒い身体には筋肉がついていた。そんな体つきだが意外にタキシードが似合う。現在は結婚し、二児の父親でありこの店のオーナーでもあった。
「そうですか?いつもと同じですけどね」
何となく笑みを浮かべて博貴は言った。
「やっと彼女出来た?」
「いえ、そうじゃないんです。隣に越してきた男の子がおもしろくて……素直で一本気で、からかうと真剣に怒ってくるところが、思い出しても可笑しい……」
そう言って博貴は大地を思い出して思わず笑いが漏れた。とにかく大地をからかうと反応が面白い。
「へえ、どんな子だい?」
榊は興味津々な顔つきで博貴に聞いた。
「背が低くて一見女の子に見間違えるくらい可愛い感じの子なんですけど、意外に性格は空手もやってる所為か、骨太でねえ。最初、私のうちのベランダに干してあるパンツを見て怒鳴られましたよ」
そう言って博貴はくくくと声を殺しながら笑った。そうしないと爆笑してしまうからだ。
「どうして怒るんだい?」
不思議そうにそう榊は言った。
「男のはくパンツじゃないって……ほら、あの、お客さんから全員貰ったあの紐袋パンツ」
「あ、ああ、俺も貰った奴だ。かみさんに見つかって殺されそうになった」
「あれを干してるのを見て、顔を真っ赤にしちゃって……怒るんですよ。それがもう可笑しくて可笑しくて……頭から湯気が出そうでしたよ。いや、出てたかも」
「その男の子は恥ずかしかったんだろうなあ。気持ちは分からないでもないな」
榊はちょっと同情した顔でそう言った。
「それに料理が無茶苦茶上手いんですよ。最近よくご馳走になってるんです。大根の煮付けは一度食べたら、他で食べられない位の味なんですよ。だからなんのかんのと言って食事時に侵入するんです」
「ふうん。それだけからかうと嫌われてそうなのによく侵入できるね」
「二度目のとき鍵をかけられてしまったので、入れろと叫んだら慌てて入れてくれましたよ。それ以来、鍵を開けてくれてますよ」
「お前が叫ぶのか?信じられないなあ」
驚いた顔で榊は言った。
「酷いねえオーナー……私だって叫んだりしますよ」
「というより……久しぶりに本当に嬉しそうな顔を見たね。隣の男の子がよっぽど気に入ったらしいね。そんなに可愛いのかい?」
「え、気に入ったというわけじゃないんですが……面白いですね。可愛い……うーん……どうかな……。駄目ですよオーナー彼はこんな業界では使い物にならないですよ。おだてたり媚びたり出来ないタイプですから」
「そんなに面白くて可愛い子ならスカウトしてみようかと……。ほら、最近は素人っぽい子もなかなかお客さんに人気がある。何より君は相手に本気で可愛いとか言わないからね。だから君がそう言っている彼を見てみたいんだよ」
思わず榊の言葉に博貴は目をぱちくりとさせた。
「可愛いと私は本気でいつも言ってるつもりですけど……」
「ああ、違うね。別にそれはいいんだ。業務用の顔と言葉は別にかまやしない。だけど、随分君とは付き合いが長いが、プライベートでのそういう人との付き合いは聞かなかっただろ。だから気になるんだ。さぞかしお綺麗な子なんだろう」
意味ありげに榊はニヤリと口元を歪ませて笑みを作った。
「……ふう。オーナーにかかると、とんでもない想像を披露されそうだ……」
やれやれという風に博貴は手を振った。
「ところで話は変わるが……」
「はいはい。なんですか?」
「お母さんの容態はどうなんだ?」
「……悪くはなっても良くならないですからね」
「お医者さんは何て言ってる?」
その話はしたくないという風に博貴は首を振った。
「そうか……。悪かった。収入は足りてるか?もう少しならアップしてやれるぞ」
「いえ、今でも充分……貰いすぎている位です。いつも気にかけて下さってありがとうございます」
「なあに気にするな。お前がペーペーの頃からの知り合いだよ。俺はお前を育て上げたと自負してる。感謝してるのは俺の方だ、この店を立ち上げたとき、すぐにこっちに移ってきてくれた。あっちでもトップだったお前を引き抜いたんだからそれなりの報酬はあって当然だろう?」
白い歯を見せて榊は言った。榊には右も左も分からない頃から随分と世話になっている。その上この職場では彼だけだが、博貴の事情を知っているのだ。
「さあて、そろそろ開店時間だな。今日もしっかり頼むよ」
榊はウインクしてそう言った。博貴はニッコリと笑みを浮かべた。