Angel Sugar

「嘘かもしんない」 第3章

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「あ……あれ?」
 壁にどうも扉のようなものがつけられていた。飾りにしては変であった。混乱しながらノブを廻すと、向こうは博貴の部屋であった。その境界で大地は唖然と突っ立ったまま、暫く声が出なかった。
「あ、ああああ……あいつ……あいつの仕業か!」
 そう言えば昼間、壁が薄そうだとか、仕事は何時終わるのかと普段聞かないことを博貴は聞いてきた。その理由がこれであったのだ。確かにそろそろベランダから侵入するのが面倒そうな感じはしていた。だが住人の許可無しに扉を勝手につけるとは何を考えているのだろうか?何より管理人はこのこと知っているのだろうか?いや、管理人は博貴の言いなりであることは随分前に聞いていた。また、口上手く丸め込んだのだろう。しかし、いくら気安く行き来をしているとは言え、勝手に扉をつけられる覚えはないと大地は本棚をずらし扉の前に置いた。何よりむかつくのは、こちら側に扉が開くようになっていたことだった。
「へん。開けられるものなら開けてみろっての!」
 ふと、これで博貴の機嫌が傾いたら、まだ始まってもいないレッスンの約束を反故にしてしまうかもしれない。大地はちょっぴり残念であったが、それとこれとは違うのだ。扉をつけるのは行き過ぎだった。いくら仲良く近所付き合いをしているとは言え、いや、どちらかというと迷惑の方が大きいかもしれないが、それにしても知り合ってまだそれほど日は経っていない。血が繋がっているわけでもないし、親戚でもない。こんな風に勝手なことをされる覚えはないのだ。
 大地はそう思いながら、更に本棚の上にも荷物を置いた。これで完璧だろう。妙な位置に本棚があるのが少々目に付くが、それでも扉が見えることを思えばこの方がいい。
 手をぱんぱんと叩きながら、大地はシャワーでも浴びたら、借りてきたビデオでも見ようと上着を脱いだ。
 シャワーを浴びて出てくると、大地はまだ乾ききらない髪を無造作にかき上げてトランクス一枚姿で冷蔵庫を開けた。なんだか今日は疲れて何かを作ろうという気にならない。真新しくできた扉を見た瞬間どっと疲れが襲ってきたような気がしていた。
「なんか……食欲もねえなあ……」
 缶ビールを二本取り出して冷蔵庫を足で閉め、借りてきたビデオをデッキにセットした。悲恋ものらしいが、前に友達に薦められてまだ見ていないものであった。彼女もいない自分に悲恋ものなど似合わないなあ……と思いながらも、何となく借りてきてしまっていたのだ。
 話的にはよくある話であった。しかし、大地はお涙ちょうだいものにはものすごく弱いのだ。アニメだろうがドラマだろうが、悲しいシーンは思わず涙が出てしまう。それがいくら、架空のストーリーであると分かっていても、駄目なのだ。その上役者がとても上手で最後にやっぱりもらい泣きしてしまった。
 潤んだ目を擦りながら、あーよかったなあと考えていると、人の視線を感じた。その方向を見ると、作られた扉の前に置いた本棚が少しずれ、扉が開いていた。その僅かな隙間から博貴が恨めしげにこちらを見ていた。その姿が妙に可笑しい。
「だーーーいちゃん……」
「ん、だよ。勝手にんなもん作ってさ。ここは俺んちなんだぜ。それにこっちに許可も無くだよ!呆れてものが言えないよ」
 笑いを堪えながら大地は言った。
「扉の前のものどけてね、大ちゃん」
 にこやかな顔で博貴は言った。
「やだね。今度俺の休みの日にここを埋めてやるからな」
「大ちゃん。だってねえ、ベランダから入るのめんどくさいんだよ。それにベランダからだと何時下に落っこちちゃうかもしれないだろ?君が合い鍵くれるとは思わないし……じゃあ、扉をつけるのが一番お互いに良いと思ってさ……」 
「お互いに良いんじゃなくて、大良にとって都合がいいだけだろ。俺は別にそっちに行く用事なんてねーんだからさ」
「確かにそうだろうけど……へそ曲げないでここを通れるようにしてくれないか?」
「駄目。それにね、来たって今日はなんにも食べ物作ってないよ。俺、今日疲れてるから缶ビールで済ませたんだ」
 大地がそういうと博貴は酷く悲しそうな顔をした。こちらは何も悪くないのに罪悪感を感じてしまう。
「そ、そんな顔するなよ。俺だってそういうときあるだろ」
 すると、薄く開いた扉がぱたんと閉まった。
「……俺が悪いみたいじゃないか……」
 布団に座り込んで大地は呟くようにそう言った。何となく後味が悪い。だからといって今から何かを作る元気など無かった。暫くすると、バンッという音がした。
「え?」
 バンバンと続けざまに鳴るその音は、はっきり言って近所迷惑であった。博貴が扉ごと蹴っているようであった。扉の前に鎮座する本棚が音と一緒にぐらぐらと揺れた。
「て、てめえ!何やってるんだよ!き、近所迷惑だろ!怒られるじゃねーか!止めろよ!大良って!」
 本棚を押さえながら大地はそう言った。それでも音は鳴りやまない。身体に衝撃を感じながらも必死に大地は本棚を押さえた。
「あーけーろーー」
「だ、大良!わ、分かったから、これどけるから蹴るの止めろよ!このばっかやろー!」
 そういうとピタリと音が止んだ。思わずキョロキョロとしながら大地はホッと胸を撫で下ろした。
「早く、あーけーろー」
「……全く、なんだよ!何で俺がこんな目に合わなきゃならないんだ!」
「食べ物無くても良いから、あーけーろー」
 ムカムカしながら大地はずるずると本棚を押して、もとあった位置に戻すと、博貴が扉からこちらを覗いていた。
「油断も隙もないなあ……」
 困ったように博貴はそう言った。
「それはこっちの台詞だろ!食うもんないのになんの用があるってんだ!」
 そういうと、博貴はニッコリと笑みを見せて手に持っている袋を差し出した。
「なんだよそれ」
「まあ、たまには私が作っても良いだろうと思ってね。で、お腹が空かないから大地は作らないのかい?それともお腹は空いているけど、疲れていて作らないのかい?」
「え、あ……ちょっと空いてるような気はするけど……」
「じゃあ、私が作ったら食べるかい?」
「うん。でも大良作れるんだったら、別に俺んちに来なくても良いんじゃねーの?」 
「あのねえ、作る事と腕がいいのとは比例しないんだよ。私は適当にしか作られないから、期待はしない方がいいよ。でもまあ、食べられるんだったら良いだろう?」
 そう言って博貴は袋を持って台所に歩き出した。いつものようにバスローブ一枚羽織った姿であった。風呂上がりなのか、髪にはまだ滴が付いている。男でも色っぽいという言葉はおかしくないんだなあと大地はぼんやり思った。
 見ていたビデオを巻き戻し、袋に戻し、大地は暫く布団の上でごろごろとしていた。そうこうしているうちに、博貴が呼んだ。
「大ちゃん出来たよ。運ぶの手伝ってくれるかい?」
「あ、うん」
 台所に行くと、トマトソースのパスタと、キッシュが二人分並んでいた。スープもあるのか、博貴はスープ皿が見あたらなかったのか、スープをみそ汁の椀に入れていた。
「へー大良も結構やるじゃない。俺んちに来なくても充分だよ」
 盆にパスタの皿を乗せながら大地は言った。
「こういうのは味もごまかせて作れるの。でも君の作る白和えや、みそ汁は味がごまかせないの。だから私は大ちゃんの作るご飯のファンなんだよ」
 博貴は当然だと言わんばかりの口調だった。褒められることは嬉しかったが、素直に嬉しいと言って良いのか分からなかった。自分が女性なら素直に喜べるのであろうが、男が男に褒められても嬉しくなどなかった。
「……作れるんだから、もう、うちに来るな!」
 テーブルに座って大地はそう言った。
「大ちゃんみたいに作られないって言っているだろう。褒めているのに、どうして機嫌が悪くなるんだろうねえ」
 困ったような顔で博貴はそう言った。
「当たり前だろ。男のくせに料理が上手いって褒められても嬉しくなんかないぞ」
「ちっちっ、分かってないね大ちゃん。料理人は男性が多いだろう。それより別に台所に立って料理をするのは女性の専売特許じゃないよ。なにより褒められるって事は良いことなんだからさ、素直に喜びなさい」
 なんだか良く分からないが、結局の所、喜べと言っているのだろう。言われて余計顔が引きつったが、とりあえず嬉しそうな顔をした。
「引きつってるよ大ちゃん……」
 ぷっと吹き出して博貴は言った。どんな顔をしていたのか自分では分からなかったが、きっと妙な顔をしていたに違いない。
「も、もういいよ。頂きます!」
 先程までそれほど空いていなかったお腹が、立ちこめるオリーブの香りによって食欲を誘った。キッシュも程良くこげ目が付いており、クリームからキノコと鶏肉がこちらを覗いていた。
「美味い!」
 一口食べた大地は言った。自分は和食は得意だが、洋風は苦手ではないが余り好んで作らない。その為久しぶりに食べたパスタは鮮烈であった。その為思わず顔に笑みが浮かんだ。
「大ちゃんに褒められると、私もまんざらではないと思えるね」
「お世辞じゃなくて、本当に美味いよ。へえー女騙す以外にも得意なことが合ったんだなあ」
「……あのねえ、それとこれを一緒にしないで欲しいんだけど……」
「だってさあ、大良が言ったじゃん。褒められたら素直に喜べってさ、そのままお前に返すよ」
 皮肉で言ったつもりは無かった。ただ大地はそう思ったからそう言っただけなのだ。そこに嫌みや悪気は全くない。
「お前仕事に誇りあるみたいに言ってたじゃん。騙すのも仕事なんだからいいだろ」
「そのねえ、騙すって言うのは褒め言葉になっていないだろう……夢を与えてるって私はいつも言ってるんだけどね」
「……自分で嘘つきだって豪語してたじゃない。そういうことだろ?」
 嘘をついて夢を与えてると言うのはしっくりこない。騙して夢を与えているという方が納得いくのだ。ただそれだけだ。
「やっぱり大ちゃんは私をすっごく悪い奴だと思ってるんだなあ……」
「そうじゃねーの?」
 きょとんとした顔で大地はそう言った。その顔を見た博貴は溜息をついた。
「はーああ……大ちゃんはさらりと人を傷つけることを言うんだから……参るね」
 ニンマリ口元に笑みを浮かべて胸の当たりに手を当てそう言った。
「……そうやって笑って言ってるうちは傷ついてなんかないってことだよ」
 この男は本当につかみ所のない奴であった。
 食事を終えると博貴は「さてと」といって大地に座るように言った。
「なんだよ……」
「あー忘れてるねえ……大ちゃんに女性の口説き方を教えてあげるって約束だろう?」
「あ、そっか」
 そうかと思い出したは良いが、何をどうして良いのか分からない。
「まずね、大ちゃんは気になる女の子ができると、どんな風に自分をアピールするの?」
「え、あ、えーと……何話して良いか分からないんだけど……」
「で、その女の子と偶然面と向かうような事になれば、言葉もはっきり言えない、何を言ってるか分からない。その上思い出せないという最悪の状況になるわけだ」
 まるで見たことのあるように博貴は言ったが、全くその通りであった。
「そう、当たってる」
「どうしてそうなるんだい?」
 何故か嬉しそうに博貴は言った。
「どうしてって……俺も分からないよ。分かったら何とか出来るんだけどさあ……」
「それはねえ、考え過ぎなんだよ。どうすればよく思われるだろうとか、どんな話をすれば相手に好印象を持って貰えるだろうとか、色々考えるから慣れない頭がパニックをおこすんだ」
「……そうなのかも……」
「まずねえ、普通から始めるんだよ。相手に自分は別に何とも思っていないという態度を取る。まあ、無視した方がこっちに惹かれるタイプと、特別扱いをしたほうが惹かれるタイプと二通りあるけど、大ちゃんにはその区別は出来ないだろうから、とにかく普通にすることだね。で、毎朝の挨拶とか帰りの挨拶を絶対それも気軽にすること。そうだなあ、友達に挨拶するような感じで良いんだ」
「普通に……普通ね」
 忘れないように頭に一生懸命大地は覚え込ませた。本当なら何かにメモを取っておきたいが、メモでもしようものなら、博貴に又からかわれるに違いないからだ。
「暫くそんな感じで、時々世間話でもすればいい。大したことでなくていいし、笑わせようと思わなくていい。ちょっと話をしたという感じで、話しかければいい。その代わり、重い話は厳禁だよ。相手がひいてしまうからね」
「例えばどんな話が良いんだよ……」
「今さっき見ていたビデオの話しでもいいし、前の日に見たドラマでもいい。気楽に話せるものがいいんだ。ああ、政治や観念的なものなんかも駄目。好きな女もいるが、そういう女性は君には扱いにくいよ。相手の方が賢すぎて君が付いていけない」
「……確かにそうだけど……何かむかつくぞそれ、俺馬鹿みたいじゃないか」
 はっきり言って苦手な内容だが全然興味がないわけではない。
「馬鹿だとは言わないが、そういう才能は大ちゃんにないよ。諦めなさい」
「むかつくなあ……」
「とりあえず今言ったことから始めるんだね。ちょっと仲良くなってきたら次をどうしたら良いか教えてあげる」
「えーそんだけ?そのくらいなら恋愛本に載ってるじゃないか」
「初めに頭に一杯詰め込んだって君が消化出来る訳ないでしょ。先走らないの。まず、気になる子を見つけてからだよ」
「……ま、それが一番難しいんだけど……」
「頑張りなさーい。さて、そろそろ戻って私も寝るとするかあ……」
 博貴は立ち上がって真新しくできた扉を開けて自分の部屋へと戻っていった。大地は先程博貴から聞いた言葉を一生懸命頭の中で反復しながら、いつの間にか眠りについた。

 仕事の時間は大体決まりつつあった。一週間が夜勤と日勤で半々であった。まあ、こんなものだと大地は納得した。そのころ大地は、ちょっと嬉しいことがあった。日勤の時に会う事務の女性の事であった。それとなく周りに聞くと、去年入社したらしい。その為年齢は一つ上であった。
 彼女の名前は結城佳奈といった。結城は何時もパソコンに入力作業をしていた。顔立ちはちょっと小作りで、美人ではないが愛嬌があった。目がそれほど大きくないために、笑うと線のようになる。それも大地は可愛いと感じた。一度、出社した大地と退社する結城とすれ違ったことがあったが、季節が夏というのもあり、身体の線の出るピッタリとしたシャツに膝までのパンツ姿であった。意外に胸もあった所為か、大地は目のやり場に困った。結城の事がいつの間にか、たまに気になっていた存在が、最近はよく気になる存在になっていた。もしかして好きになったのかなあとも考えたが、結城は誰にでも愛想がいいので、向こうがこちらをどう思っているかは分からなかった。
 とりあえず、博貴から聞いたとおりの行動を出来るだけするようにしたが、あちらの反応が分からない。結城は誰にでもにこやかに接するからであった。大地の方も、周りから気があるのではと勘ぐられるのは困るので、その辺りは距離を置いていた。見えないところで距離を縮めることは出来ないのだろうか?その事を博貴に話そうかどうか迷ったが、世間話のように話してみた。
「おお、ようやく気になる子が出来たんだねえ」
 博貴は嬉しそうにそう言った。
「うーん……でも、気になるだけで別に好きとかそういうんじゃないみたいなんだけど、自分でも良く分からないし……」
「すぐに好きとか、嫌いとか、つき合うとか、結婚とか考える必要ないよ。だってねえ、大ちゃんはまだ若いんだから、これから何人もつき合って別れてを繰り返すんだよ。一生の勝負するような気持ちは捨てなさい」
「そ、そういうもんなのかなあ」
「つき合う相手にいちいち結婚を考えてたら身が保たないだろう……全く根が単純というか思い詰めるというか……」
 くくくと笑いながら博貴はそう言った。
「……そうなんだろうけどさあ……」
「とりあえず、二人でお茶か遊びに行くことが出来れば良いんだけどねえ……そんな会話が出来そうかい?」
「……どうなんだろう。あっちが、うんって言ってくれるかどうか分からないし……」
 自信なく大地はそう言った。
「なら、軽くお茶が良いかなあ……。本当なら数人でわあーーってやるのが一番なんだけどねえ、大ちゃんに、そんな企画力やリーダーシップはなさそうだからなあ」
「悪かったな……」
 ムッとして大地はそう言った。
「その上、そんな風に大人数になれば君は負けちゃうからなあ……」
「余計なお世話だよ!」
 大地は更にムッとしてそう言った。
「回避策も頭に入れて置いて行動しないとねえ」
 そう言って博貴は腕組みした。
「なんだよ回避策って……」
「遊びに行ったり、食事したりすると互いの性格が分かってくるだろう?自然と向こうの家族構成とか分かってくるよね。で、自分と合わないなあとか、友達でいた方がいいと思った場合の回避策だよ。相手から回避してくれる場合は良いけど、もしあっちがのめり込んだら大変だからねえ。いつでも友達になれるように予防策取っておかないと……」
 それを聞いて大地は腹が立ってしまった。こいつは誰か好きな相手が出来ても何時だってそんな風に考えているのだろうか?いや、考えているのだろう。深入りなど絶対しないのだ。女性は金づるとしか考えていない。博貴が誰かを大事にしているという話は聞いたことがなかったからだ。
「なあ、大良って……つき合ってる人いないのか?」
「いないねえ……女性は間に合ってるし」
「そういう間に合うじゃなくてさあ、好きで大事にしたい人のことを言ってるんだよ!」
 考えるような間もなく、博貴は「思いつかないね」と言った。
「……お前って……絶対地獄に行くと思うぞ」
「君ねえ、私が大ちゃんのこと、こーんなに考えてあげてるのに、そういう言い方するわけ?」
「それとこれとは違うだろ。大良の言うこと分かるけど、そんな狡い恋はしたくない」
「もし君が上手くいけば社内恋愛だよ、で、壊れちゃったら、彼女はどうなる?男はいいさ、やりっ放しでもはくがつくからね。でも彼女は居づらくなって辞めなくちゃいけないところまでいったら、君はどう責任取るの?」
「だ、大良が言ったんだぞ!先まで考える付き合いはするなって!」
 ムッとした大地はそう言った。
「不器用で単純な大ちゃんには上手く伝わらなかったのだろうと思うけど……私が言いたいのは、別の会社や、自分の会社に関連のないところの女性は良いけど、近すぎる場合は気をつけなさいと言ってるんだよ」
 確かに博貴の言っている事は分かる。でも何故か釈然としないものが残るのだ。
「……もう、いいよ。大良に相談した俺が間違ってた。お前と俺とは立場も仕事も性格も全然違うんだから……」
「気に入らないね」
 急に表情を曇らせた博貴が言った。
「なんだよ。俺の方が腹が立ってるんだぞ」
 大地がそういうと、博貴は無言で立ち上がった。どうも怒らせたようであった。だがこちらが謝るような事は言っていない。だから謝るつもりも引き留めるつもりも無かった。博貴が自分の部屋へと向かう扉のノブを掴み、こちらをちらりと振り返った。
「今度、相談に乗って欲しいと言われても、土下座しないとしてやんないからね」
 その一言をニーッとした顔で言うと自分の部屋へと戻っていった。頭に来た大地は思わず近くにあった枕を投げつけたが、既に閉められた扉にぶつかり床へ落ちた。

 暫く日勤が続いたために博貴と会話することが無かった。何となく気にはなったが、こちらから声をかけるのも躊躇われた。日勤だからといって全く向こうと生活習慣が逆ではなかった。定時に会社が終わったときなど、コーポに戻るとまだ博貴が部屋にいる気配がするときもあるのだ。それでも何となく声をかけづらいのだ。
 考えてみると博貴の事はほとんど知らなかった。その反面、博貴は大地のことをよく知っている。というより、大地が話したのだ。別に意識して話したわけではない。博貴が聞き上手なのだ。それも商売柄と言うのだろう。博貴は、どうしてホストになったのだろうか?そんな理由も知らなかった。確かに彼を見ているとホストという職業が天職に思える。家族はどうなのだろう?母親は何も言わないというが、それは放任主義と言うことだろうか?色々聞きたいことがあったが、面と向かって言えなかった。
 最近博貴が気になって仕方ないのはきっと誰とも会話していないからだった。会社では年齢がバラバラなので、同期といっても同じ年の人間がいない。その為、色々話す相手がいないのだ。仕事上はあっても、友達のように話せる相手はいなかった。秋田なら友達もいるが、そうそう電話を出来る距離ではなかった。今までは博貴がちょっかいを出してきたのと、一緒に食事をしたりしていたので、寂しいという感覚は無かったが、博貴と話すこともない今が無性に寂しかった。本来なら、もっと早くにこういう孤独感を感じていたに違いない。
 大地は末っ子で生まれた所為か、いつも二人の兄が側にいた。父も母も煩わしくなるほど大地に構った。それが嫌で早く大人になりたい、一人で暮らしたいと思ってきた。いま、その願いがかなった。実際思ったほど寂しくなかったが、それは博貴がいたためだと思い知った。だがその博貴はこの間のことでへそを曲げているはずであった。大地は自分が言ったことを撤回する気はない。だが、こう毎日一人で食べる食事もそろそろ限界であることも確かであった。博貴のことだから、数日でいつものように扉を開けてずかずかと入ってくるだろうと軽く考えていたが、そんな様子は無かった。
「……何だかなあ……やっぱ、俺が悪いのかよ……」
 呟くようにそう言ったが、いくら壁が薄いとはいえ、向こうには聞こえないだろう。何をする気にもなれずに、本屋にでも雑誌を買いに行こうと思い立った大地は、ポケットに財布を入れると、外に出た。まだ博貴の方は部屋にいるようであったが、ちらりと視線を向けただけで大地はコーポの階段をおり、本屋へと向かった。
 本屋に着くと、雑誌コーナーをうろうろし、何を買おうかとキョロキョロしていると、何故か結城が料理本のコーナーに立っていた。声をかけた方が良いのかどうか分からずに、ぼんやりと立っていると向こうも気が付いた。
「澤村さんもこの近くに住んでるの?」
 笑顔で結城がそう言った。
「え、そうだけど。結城さんも近いの?」
 照れくさいのを必死で堪えながら平静を装い大地はそう言った。
「それほど近くないんだけど、欲しい本が無くて、本屋を転々と見て廻ってたの。でも、ここで見つけたのでホッとしてるところ」
 ニコリと笑顔でそう言われた。大地はお茶にでも誘いたいと考えたが言葉が出てこない。こういう場合どう言って誘えば良いのか思いつかないのだ。
「よかったね見つかって」
「ええ、ところで澤村さんは何を買ったの?」
 手に持っている袋を覗き込むように結城が身体を斜めにした。
「あ、たいしたものじゃないよ。ただの雑誌……」
 漫画だと言うのが恥ずかしくてそう言った。
「もしかして、聞いたら駄目な本だった?」
 からかうように結城はそう言って、悪戯っぽい目を向けた。
「え、そ、そんなんじゃないよ。ただの漫画。漫画だって」
 大地は慌ててそう言った。確かにそれっぽいのも見ていたが、買わなくて良かったと思った。そんなものを買っているのを見つかったら、明日会社でどんな噂が流れるかを考えると恐ろしいものがある。結城がおしゃべりだとは思わないが、噂になるような事は避けた方が無難だからだ。
「ま、いいっか。あ、そうだ、時間があるんだったらお茶でも飲まない?」
「あ、いいよ。結城さんはいいの?」
「時間あるし……それに一度聞いてみたいと思ってたの。ほら、あの、この間強盗犯やっつけたでしょ。その武勇伝を聞きたかったの」
 嬉しそうな顔で結城は言った。大地はどちらかというとあの話は余りしたくなかったが、きっかけになるなら構わなかった。
「いいよ。たいした話じゃないけど……」
「とりあえず出ましょうか?」
「そうだね」
 といって、入り口方向に振り返ったとき、博貴が立っていた。
「やあ、偶然だねえ大ちゃん」
 にこやかに博貴はそう言った。何故ここにいるんだろうとパニックになりながら言葉が出ない。
「あれ、そちらの可愛らしい女性は大ちゃんの彼女?」
「ち、違います」
 と言ったのは結城だった。それほど強く言われたくは無かったが、そうなのだから仕方ない。
「なんだよ……大良……」
「澤村さん、友達?」
「え、同じコーポに住んでいる大良さん」
 ややぶっきらぼうにそう言った。
「初めまして。大良博貴と申します。大ちゃんとは隣同士なんですよ」
 そう言って白い歯を見せる博貴は、淡い感じのブルーのシャツを羽織っていた。前ボタンを二つくらいしか留めておらず、胸元にひかる細い金のチェーンのネックレスがのぞいている。下はごく普通のストレートのジーパンをはいていた。だが袖は肘まで折られ、手首にはピアジェの時計が光っていた。どうせ貢ぎ物なのだろうが、見事にその手首を飾っていた。結城がその時計に気付かない訳はないだろう。
「お前……何やってるんだよ……」
「私も本を買いに来てね。色々買って出ようと思ったら君に会ったわけだよ」
 さっさとここから退散しろよという目つきでジロリと博貴を睨むと、それを察したのか、博貴は言った。
「邪魔しちゃ悪いからねえ。じゃ、ここで」
 といった博貴を止めたのは結城だった。
「あの、今からお茶に行こうって言ってたのですけど、良かったら一緒にどうですか?」
「え?あ、そうだねえ……」
 ちらりと博貴は大地を見た。帰れよという目をもう一度向けると、苦笑したような顔で博貴は言った。
「いや、遠慮しますよ」
 さっさと帰ってくれよと思ったが、結城がどうも博貴を気に入ったのか、しつこく誘った。それも仕方ないなあと思いながらとうとう、大地は「一緒にいこう」と言ってしまった。博貴の方はちょっと困ったような顔をしたが、営業スマイルを絶やさなかった。
 どうしてこんなところで会うかなあ……むかつきながらも三人で近くのファミリーレストランへ入った。
 結果は散々であった。こちらのことを聞きたいと言っていた結城の質問の先はほとんど博貴に向かってであった。最初の話と違うぞと思いながらも、会話に合わせるしかない自分がなんだか情けなかった。最後には結城が博貴の店に今度行くとまで言い出し、もう、こちらが話すことなど何も無かった。好きにしろよと半ば投げやりなところまで行った。
 二時間ばかり話し、結城は嬉しそうに帰っていったが、こっちは納得できなかった。
「お前……仕事は?」
 ムッとした口調で大地は言った。
「本日はお休みだよ」
「なあ、大良。俺になんか恨みでもあるの?」
「……悪かったよ。でもねえ、私は自分の職業を彼女にちゃんと話しただろう?それでも彼女が君になびかないんだったら、最初から上手くいく恋じゃなかったってことだよ」
 しっかり、現状を把握してるじゃないかと余計にむかついた。
「そんなこと言ってるんじゃねーよ!何で本屋なんかにいたんだよ!それに何で付いて来たんだよ!」
 怒りが爆発した大地はそう怒鳴った。
「なんでって……断ったのに強引に連れて行かれたんじゃないか……あの子に……」
 最後のあの子にという言葉は小さかった。
「仕事だから帰るとか何とか言えば良かったじゃないか!お前が側にいると俺すっげー引き立て役じゃないか!」
 博貴と並ぶと、どちらがいい男か誰だって分かる。
「だから言ってるでしょ。並べてこっちが良いって思うような浮気な女性なら最初から上手くいかないって」
「まだ、つき合うとか、恋人とかそんな関係じゃない人なら、選んじゃうだろ……お前と俺を並べてさ……。そうなったら俺の負けじゃん……」
「負けってねえ……私の仕事はホスト。顔がどうこう身長がどうこう良いもの持ってる等々、そんなのを引合に出せば、君が勝てる訳ないでしょ。こっちはプロなんだから……」
 そういう問題じゃない。だがどういう問題なのかも大地にはよく説明できない。
「それに彼女に私がどういう仕事をしているのか隠さず話しただろ。それでも、あっちが店に来たら納得済みだとこちらは理解して、お客さんとして接させて貰うよ。仕事だからね。その事について大地が文句を言っても私は聞けないよ」
 落ち着いた口調で博貴はそう言った。
「勝手にすればいいよ。別に彼女とつき合ってるわけでもないし、彼女でもない……今日ちょっと偶然会って話が弾んだだけなんだから……。後半はお前と話が弾んでたみたいだけどさ……どうせ俺は口べただし……話術なんて上手くないし……」
 考えるとどんどん落ち込んできた大地は知らずに顔が下を向いた。確かに博貴が悪い訳じゃない。それは分かっているのだが、気が滅入った。
「大ちゃん……ごめん!」
 後ろから付いてくる博貴がそう言った。
「お前って謝ってばっかじゃないか……それって卑怯だ……」
「うん。だね。でもねえ、大ちゃんが悪くっても、君は強情だから絶対謝ってくれないだろ?だからこっちが大人になって謝るしか仲直りできないからね」
「それってむかつくぞ!それって俺が悪いときもあるって言ってんのか!」
「違うの?」
 くすくすと笑いながら博貴は言った。
「違う!お前がみんな悪いんだ!だからお前が謝らなくちゃならないの!」
「そういう事にしておきましょうかね。まあ、喧嘩はもう止めて、ご飯作ってよ」
「はあ?」
「随分大ちゃんの手料理食べてないから、もう外で食べるの限界なんだよ……」
「……何だかなあ……」
 思わず溜息が出た。喧嘩が長続きせず、先に博貴が謝る理由はその辺りにあるのだ。それが分かっていても憎めないのは博貴の性格なのだ。全く羨ましい性格だ。
「実はね……絶対私から謝るものかと頑張っていたんだけど……外食が続いて嫌になってね。謝るきっかけをずっと待ってたんだよ。大ちゃんと話せないのも寂しかったしね。だから、今日はこっちは休みだから謝ろうと思って、君が帰ってきたのに合わせて隣に行ったら、もう君がいなくてね、追いかけていったら君が本屋に入るだろ。これはラッキーと思ってさ、偶然を装って本屋で君と出会おうと思ったんだ。まあ、結局、邪魔者になってしまったのは悪かったけど、謝りたかったという私の気持ちも少しは考慮してくれないかい?」
 歩きながら博貴は淡々とそう言った。
「……お前が謝りたい理由は俺の作る飯の為だろ」
 ムッとして大地はそう言った。それが無ければこっちのことなどどうでも良いはずだった。それもなんだか腹が立つのだ。
「それもあるけど……違うよ。大ちゃんと話すことも私は好きだよ」
 そんなことを言われたのは初めてであった。
「え?」
「君と話すと楽しいんだ。だから仲良くしていたいんだ。だって大ちゃん、私たちは友達だろう?」
「……まあ、そうなるのかなあ……」
 こちらで友達などできないだろうなあと思っていた所為か、何となく大地は嬉しかった。だが考えてみると博貴にはたいがい色々相談していた。喧嘩というか小競り合いもしていた。だがそれが決定的に仲違いするまで発展したことはない。これはやっぱりただの隣人ではなく友達なのだろう。
「ところで大ちゃん。今日は何か作ってくれるの?」
 コーポの階段の上から、期待を込めた目で博貴は言った。
「仕方ないだろ……何かつくってやるよ」
 大地はぶっきらぼうに言った。だが既に何を作ろうか考えていた。
 コーポの互いの部屋に戻ると、博貴が「ビール貰ったから持って行くね」といって自分の部屋へと戻った。大地は早速冷蔵庫をあけて、品定めし、ほっけを取り出してまず魚を焼いた。その間に里芋と鶏肉の煮物を作り、ホウレンソウをさっとゆでた。
 暫くすると博貴が例の扉からひょこりと顔を出して、ビールの入った袋を持って冷蔵庫のそばに来ると袋から取り出して冷蔵庫にいくつか入れた。
「小さい冷蔵庫だからあんまり入らないねえ……」
 不満そうに博貴が言った。
「一人暮らしで、でかい冷蔵庫なんかいらねーよ」
「まあ、そうだろうけどね……」
 言いながら博貴は余ったビールの缶を既に開けて飲んでいた。
「なんだよ……先に飲むなよ……俺だってビール飲みたい」
 そう言って床に座ってビールを飲んでいる博貴に大地が抗議した。
「弱いくせに……」
 笑いを堪えたような顔で博貴がそう言った。確かに大地はそれほどアルコール類は強くない。だが、仕事の後のビールは言葉に言い表せないほどの旨さがあるのだ。それなのに缶ビール二本も飲めば、身体まで真っ赤になる。
「否定しないけど……俺にもくれよ」
 大地が言うと博貴は今飲んでいた自分のビール缶を大地に差し出し、自分はやはり持ってきたワインを開けた。
「私はどっちかというとワインの方が好きなんだよ。今日は白」
「あのなあ、自分がいらないからって、飲みさしを俺に渡すか?」
「もったいないだろ、大ちゃんにあげるよ」
「……全く……お前って、わがままだよな」
 そう言って大地は博貴が今まで飲んでいたビールを仕方なく飲んだ。
 料理が出来上がり、机に並べる頃博貴は既にワインを半分開けていた。それなのに顔色一つ変わっていなかった。
「お前……アルコール強いんだ……」
 前からそうかなと大地は思っていたが、口に出して言ったことは無かった。
「まあねえ……好きということもあるけど、仕事柄飲むことが多いだろ。自然に強くなったんだろうね」
「でもさ、あんまり飲み過ぎると肝臓壊しちゃうぞ。程々にしとけよ」
「大ちゃん心配してくれるんだ。嬉しいねえ」
「そんなんじゃねえよ。いいからさ、せっかく作ったんだから、飲み過ぎで残したなんて許さないからな」
「残したりしないよ。大ちゃんの手料理だからね」
 博貴は満面の笑みで箸を持つと、手を合わせて早速ほっけをつつきだした。
「お前を見てるとつられて飲んじゃうよ……」
 二本目の缶を開けて大地は言った。今日はなんだか飲みたい気分だったのもあった。結城のことがこたえているのだろう。もちろん、こたえると言うほど、仲が良かった訳ではない。つき合っていて振られた訳でもないのだ。それでも何かモヤモヤとしたものが大地の胸の中にあった。
 酔って忘れてやる!そんな風にも考えながら大地はごくごくと二本目も空けた。
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