Angel Sugar

「嘘かもしんない」 第9章

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「大丈夫かな……真喜子さん……」
 戸浪のマンションに戻ってすぐに真喜子から電話があった。原因は自分なのだから始末は自分で付けなければならないと思った。既に一つは始末がついた。いや、付けたのだ。あとはなんだって出来ると大地は思った。
 博貴の事を早く忘れようと、ここに戻る間ずっと考えていた。必死に考えた。だが、やはり好きだという気持ちがある。好きだと言う気持ちが心の中に一杯になっていた。あのまま嘘を受け入れても良かったのだ。いや、駄目だ。そんなことは出来ない。その二つの感情がせめぎ合って涙が零れるのだ。いつかこの痛みが癒えるのだろうか?
 ピンポーンとチャイムが鳴った。マンションの下にあるセキュリティが来客を知らせてきているのだ。部屋にある画面で確認すると真喜子がにっこりと笑っていた。
『あけてちょうだい』
「あ、いますぐ開けます。迎えに行きましょうか?」
『部屋まで行くわ。五〇九号室ね』
「はい。但し、名前のプレートが出てないので間違えないで下さい」
 兄の戸浪は名前を表に出すのが嫌いなのだ。
『ふうん。そう。じゃあ上がるわ』
 そう言って画面は消えた。
 暫くすると玄関の扉が叩かれた。
「はーい。すぐ開けます」
 そう言って玄関を開けるとそこに立っていたのは博貴だった。条件反射的に扉を閉めようとしたが、博貴は片足を挟んでそれを阻止した。
「痛っ……」
 その声に思わず戸を開けた。
「ごめ……ち、違うだろ!騙したな!なんだよ、話は終わっただろ!」
 その言葉も聞かずに博貴はどかどかと勝手に部屋へと入っていった。
「待てよ!勝手に入るなよ!おまえんちじゃねえんだぞ!」
「わかってるよ」
 博貴はそう言いながらキョロキョロと部屋を見回していた。
「大良!」
「女の家じゃないなあ……とすれば男のうちか……」
 訳の分からないことを言って、博貴はこちらを振り返った。以前見た怖いほどの表情であった。
「なんだよ……なんなんだよ……」
 思わず後ずさって大地は言った。
「さて、どんな奴に上手く言われてここにいるんだい?」
「と、突然やってきて、いきなりそんな事言うのか?てめえふざけんなよ!」
「そんなことを聞いているんじゃないだろう?誰のうちだい?」
じりっと歩を詰められて、大地は壁にぶつかった。後ろがもうない。
「うるせえ、俺が……俺が何処にいようとお前に関係ないだろう!」
 そういうと博貴は大地の腕を掴んだ。
「いっ……」
「さっさと吐くんだねえ……」
 壁に押しつけられて身動きがとれない。蹴り上げてやろうかと思ったが、博貴が弱っているのを知っていた大地にはそんな酷なことは出来なかった。こんな扱いを受けて腹が立っていても博貴の事を想っている自分の馬鹿さかげんが、いい加減情けなかった。
「結構な住まいだ……家賃だってかなりのものだねえ。そんな経済力のある人間を君が知っている訳ないだろう…では誰だ?どうせ君のことだから、またふらふらして、騙されているのに気がつかないまま、妙な男に引っかかったんじゃないのか?」
 口元を歪ませて博貴は言った。例えそうであってももうこの男には関係ないはずなのに何故こんな事を言うのだろうか?大地には訳が分からなかった。
「馬鹿野郎……そんな、そんな男がいる訳ないだろ、騙されたのはお前だけだ。俺はお前しかそんな男は知らない」
 そういうと博貴はいきなり唇を奪った。必死に口元を閉じて抵抗したが、胸元を撫で上げられて思わず開いてしまった。その瞬間を逃さずに博貴の肉厚な舌はこちらの舌をとらえて吸い上げた。
「う……うう……」
 博貴は身体を大地に密着させ、足を絡めると、身体を抱きすくめ、何度も大地の口内を愛撫した。その刺激で膝がガクガクと震える。立っているのが辛くなり、徐々に膝が折り曲がり、とうとう床に座り込んでしまった。それでも博貴のキスは止まなかった。
「や……め……」
 息が出来なかった。苦しい……それでも博貴の熱が身体に伝わってくると、夢心地の気分に陥る。このまま……死んでもいいや……ふと大地が思うと、やっと博貴が口元から離れた。その時にはもう怒鳴る根性がしぼんでいた。
「誰のうちだ?まさか名前も知らない男だとでもいうのかい?」
 博貴の瞳は怒ったままこちらを凝視している。大地の方はもう降参していた。 
「言ったことがあっだろ……兄ちゃんが二人いるって……ここは二番の戸浪兄ちゃんのうちだよ……」
「連絡取れないと言っていただろう?私に嘘をつくのかい?」
 嘘つきの常習犯にそれは言われたくなどない。
「兄ちゃんから連絡があったんだよ!俺は……あそこにいるのが辛かったから……兄ちゃんに頼んで、間借りさせて貰ったんだ……」
「大地……」
「もう、良いだろ。帰ってくれよ……」
 逆らう根性はもうない。抵抗する元気もない。ただ、この男に出ていって貰いたかった。
「迎えに来たんだ……」
 急に優しい瞳になった博貴が言った。
「……お前馬鹿か?俺は戻らないって言っただろ」
「ねえ、ホストは……本気の恋をしちゃいけないのかい?誰かに本当の言葉で愛してるっていっちゃいけないのかい?」
「なに、言い出すんだよ……」
「そう、真喜子さんに言われて気がついたんだ。この恋は諦められない。心から愛していると言いたい相手が出来たのに……それを信じて貰えないのは辛いことだと……」
 博貴の目は真剣だった。信じたい。この目を……この男を信じたい……でも……。
「う……嘘だ……お前がそんな事を言う訳なんかない」
「何度愛してると言えば……大地は信じてくれる?どう言えば私を信じてくれるのかい?君が望む数だけ愛していると言うよ。信じてくれるまで……離さない……」
 そう言って博貴は大地を抱きしめた。胸が高鳴って、大地は言葉を失った。言葉は出ずに涙が零れる。
「愛している……。大地を誰にも渡したくない。他の誰にも君に触れて欲しくない。私だけのものであって欲しいんだ……。それを望んじゃ駄目かい?やっぱり私を信じられない?ねえ大地……どうすれば君は私に応えてくれる?」
 そう大地の耳元で博貴は囁くように言った。抱きしめられて博貴の温もりがじんわりと伝わってくる。本気なのだろうか?本当に愛していると心から言ってくれているのだろうか?まだ信じられない……。どうしたら良いんだろう……。
「この世で二つ大切なもののうち、一つを失った。もう一つを失うことなど耐えられないんだ。愛しているよ……大地……」
 もう限界だった。自分に嘘をつく事が。博貴を信じよう。例えこの先傷ついても、今の博貴を信じていこうと大地は思った。そう思ったら急に心が温もった。こちらも両腕を回して博貴を抱きしめた。
「うん……」
 やっとの事、大地はそう言った。
「愛してるよ……大地……」
「俺も……好きだ……」
 言ってしまえばこんなに楽になれる。疑うことより、信じる方が大地にとって容易いことなのだった。
「私だけの大地で居てくれるかい?」
「うん……」
 二人で抱き合って、温もりを分かち合いながら囁きあった。
「じゃあ、帰ろうか……」
 博貴は顔を上げ、こちらを見つめて言った。
「一緒に帰る……」
 住み慣れた安心できるあの場所へ帰るのだ。ずっと望んでいた場所へ、二人で……。

「ちょっと、待てよ」
 手を繋いで、玄関まで来ると大地が言った。
「なんだい?」
 さっさと連れ帰りたい博貴は大地を掴む手を離さずに言った。まだ安心できないのだ。
「ちょっとだけだけど、荷物も持って出たいし、それに明日兄貴帰って来るんだ。俺、出来たら兄ちゃん迎えてあげたいからさ。明日じゃ駄目かな?」
「駄目」
 今夜中に連れ戻さないと、大地のことだ、色々考えてやっぱり帰らないと言い出すかもしれないのだ。そんな余裕を与える事など出来ない。
「……兄ちゃん可哀相じゃないか……俺がここに来るのすごく喜んでたし」
「今晩は特に大ちゃんを離したくないの。可哀相だけど、兄さんには我慢して貰おう」
 それは博貴の本音だった。ただでさえずっと大地の温もりを味わっていないのだ。もう少しの余裕も無かった。
「……じゃあさあ、荷物まとめるからちょっと待ってくれない?兄ちゃんには手紙書いて置いておくからさ、その位の時間も駄目か?」
「……仕方ないねえ……早くしなさい」
 その位の時間は仕方ないだろうと博貴は思った。
「良かった。ちょっと待ってろな」
 大地はそう言って部屋へと入っていった。博貴は仕方なく、リビングのソファーに腰掛けて大地を待った。周りを見回すと、本棚が置かれており、その本の種類を見るとかなりのエリートだと博貴は思った。その棚に家族写真が置かれていた。そっと、扉を開けて写真を見ると、家族勢揃いのスナップで、真ん中に学生服を着た大地が笑っていた。
 可愛い……
 博貴は思わずそう口に出してしまいそうであった。今よりもっと幼い顔立ちの大地は天真爛漫の極上の笑みを浮かべていた。確かに母親似であった。父親はどちらかというとごつごつした顔立ちで、父親に似なくて良かったなあと博貴は思った。その中で一番背の高いのがここの主の戸浪という兄であろうと博貴は考えた。確かに母親に似ているが、もっと印象はきつい感じである。もう一人の兄は身体が一回り大きく、父親に似てごつっとした顔立ちだ。
 写真だけの印象であるが、どうも家族全員が大地を猫かわいがりしているような印象を受けた。二人の兄は年齢の離れた末っ子の大地が可愛くて仕方なかったはずだ。何より自分がそうであるのだから、兄たちからすると、目が離せない大地にいつも心配しながら可愛がっていただろう。
 とすると、ここに帰ってきた時、大地が居なくなっていたら問題が出そうだなあと博貴は苦笑した。何より大地が言ったのだ。戸浪は喜んでいたと。この顔から喜ぶというのが想像できない。戸浪はどちらかというと冷たい印象なのだ。その兄が喜ぶのだから、大地が居なかったときの落胆は想像に難くない。
 私が奪ったと知ったら殺されてしまうかもしれないなあ……と、博貴は考えて笑みが漏れた。やはり今日連れ戻した方が良いと余計に思った。
「ごめん、待たせた?」
「いや、さあー帰ろう帰ろう」
 大地に見つかる前に写真を戸棚に戻し、鞄を持っている大地の手を掴んで玄関へ急いだ。もうこれ以上待たされたくはなかった。まだごねるようなら、抱き上げて駆け出していただろう。
 マンションの下まで降りてくると、真喜子が手を振っていた。
「遅いぞう!」
「ごめんごめん」
「……騙したんだ。真喜子さん」
 大地は小さな声でそう言った。
「ん?何かなあ?そんな幸せそうな顔してるくせに私を責められると思ってるの?違うでしょ。有り難う真喜子さん。でしょ?」
 真喜子がそういうと、大地は顔を真っ赤にした。
「何でも良いけどさあ、さっさと帰ってご飯にしましょうよ」
「え、お前まだ食ってなかったのか?」
 大地が驚いた顔で博貴に言った。
「ああ、君が出ていったショックで、余計に食べられなかったよ」
 本音だ。
「やっぱお前って口が上手いよ……」
 やや、呆れながらそれでも嬉しそうに大地が言った。
「さっさと二人っきりになりたいと思うけどね。食事くらい一緒にさせてよ。その位のご褒美があっても良いわよね」
 思わず二人は頷いた。



 遅い夕食を三人で摂り、暫く雑談してから真喜子は帰っていった。
「ちょっとは元気出たか?お前あんまり食べてなかったぞ」
 しっかりチェックしていたのか、大地はそう言った。
「そんなに急にたくさん食べられる訳ないでしょ。でも久しぶりに美味しい食事にありつけて、お腹一杯だよ」
 博貴はそう言って笑った。
「なら良いんだけど……やっぱりお前痩せた。しっかり食わないと病気になるぞ」
「もう恋の病ならなったよ」
「……ばっかじゃねえのか?良くまあそんな恥ずかしい台詞がポンポンでてくんなあ」
 呆れた顔で大地は言った。
「口だけは達者なんだよ」
「言ってろよ。ちょっと片づけるから、横になってろよ。でも今日だけだぞ。俺一人で片づけるの……」
 そう言って大地はキッチンへと戻っていった。
 誰かが側にいるというのは良いなあと博貴は思った。大地が洗い物をしている音が心地良いのだ。案外頼っているのはこちらの方かもしれない。大地がいなかった間、この部屋にいるのも息苦しかったのだ。それが今は大地がいると言うだけで、暖かい。
 ベッドに横になって、暫くその幸福を博貴は味わった。やはり自分には大地が必要なのだ。一瞬諦めたが、結局は追いかけていたのだと思う。それが早いか遅いかの違いだけなのだ。それほど大地が必要なのだ。
「なあ、お前さあ、上のベッドに寝るの嫌だったんじゃないのか?狭いって言ってただろ」
 洗い物を終えた大地がそう言ってこちらに来た。
「ここならね、君がいつ戻ってきても分かるだろう?戻ってきたらすぐに君を抱きしめようと思ってたんだよ。君を抱きしめて……こっちに引きずり込もうと企んでいたんだ」
 そう言って博貴は笑った。
「……さかってるんじゃねえよ……」
 照れくさそうに大地はそう言った。
「でも君は……いつまで待っても戻ってこなかった。毎日毎日……ずっと耳を澄ませて君が戻ってきた音を逃さないようにって……ここで寝てたんだ。あんまり戻ってこないから何かあったんじゃないかって会社まで電話して君がちゃんと出勤しているかどうか確認した位なんだからね。でも君はちゃんとどこからか、出勤していた。ショックだったね」
 そう、毎日ここで寝ていたのはその為だった。一日一日が長かった。待ち続けることの辛さが今も思い出せる。
「大良……」
「今日来てくれたときも、最初は何も言わずに……手も出さずに君を帰そうと思ったんだ。君がいなくなってから、ずっと大ちゃんの事を考えていた。新しい生活をどこかではじめたのなら……もしかしてそれは私から逃げるためだったのなら……そっとしておこうって、でもね、君を見たら、どうしても帰したくなくなったんだ。どうにかして……君を引き留めたいと思った。せめて、私の本当の気持ちを知って貰いたかった。但し、君に怒鳴られて振られちゃったけどね」
 そう言って自嘲気味に博貴は笑った。
「……俺……今でも半信半疑だよ」
「何が?」
 分かっていて博貴は大地に聞いた。
「……いや、何でもないよ。はは。じゃあ、俺、帰るよ」
「大地!」
 急に不安になって博貴は大地の腕を掴んだ。
「痛いよ。あのなあ、隣は俺の部屋だろ。荷物だってしまわないといけないしさ。帰るったって隣だよ。もう兄ちゃんの家には行かないって」
「今晩は駄目だ。一緒にいよう」
 その意味を大地は分かってくれるだろうか?
「え……」
「大地……。今日は駄目だよ。帰したりしない……」
 そう言って博貴は大地を抱き上げた。
「お、おいって。まてって。俺はっ……心の準備ってのが……」
 ばたばたと身体を揺らしたが、そんなことでは下ろしたりしない。
「酔っていない大地が抱きたいなあってねえ」
 鼻歌混じりに博貴は階段を下りた。一階にあるベッドルームへ。
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