「嘘かもしんない」 第7章
急いで仕事を切り上げたが、約束の時間を過ぎていた。博貴はタクシーをとばして真喜子のマンションへ急いだ。何があったのだろうという不安が博貴にあったのだ。銀座方面までふらふらと歩いていったのだろうか?
ようやく真喜子のマンションのベルを押すと真喜子がニッコリと迎えてくれた。その顔より先に博貴は後ろに見える大地を確認するとホッと胸を撫で下ろした。
「ああーもう……心配したんだからねえ……」
大地が眠っているソファーに近づいて膝を付くと博貴は言った。大地本人はぐっすりと寝込んでいる。
「ゴメンね真喜子さん。迷惑かけたでしょう?」
「そうねえ、楽しかったわ」
「で、どうしてここに来ることになったんだい?」
博貴が言うと、真喜子はどういう状況で大地がやってきたか、そこで何があったかを詳しく話し出した。博貴はそれを聞きながら、笑えるやら呆れるやら複雑な心境であった。
「それにしても光ちゃんの店は男も口説くわけ?びっくりしたわよ」
「はは……ちょっと悪ふざけしただけらしいんだけどね、うぶな大ちゃんには通じなかったんだろ」
どういう状況であったか、大地本人に聞いていないために本当にただの悪ふざけであったのかどうか分からないが、とりあえず博貴はそう言った。しかし、気にはなっていた。南が言ったことをまるまる信用などしていないのだ。
だが、南が一体何をしようとして、あんなに真っ青になるほど蹴られたのか?それを考えると、南に対して無性に腹が立つのだ。
「まあ、貴方の店の事はどうでも良いけどさ、この子飲ませない方が良いわよ……」
心配そうに真喜子が言った。弱い癖に飲もうとするからこうなるのだ。正気に戻ったらしっかり言い聞かせないとと、博貴は思った。いつでも誰かが助けてくれるとは限らないのだ。何か下心をもって飲まされたら、あとの祭りだ。そうならないためにもがつんと言わなければならない。博貴は真剣にそう考えた。
「一応、飲ませないようにいっといたんだけどね。オーナーの榊さんが、大ちゃんのお願い攻撃に懐柔されちゃってさあ……カクテル何杯かおごったらしいんだよ」
そういう甘さは自分にも当てはまるので、博貴は困ったように言った。
「確かに、大ちゃんにお願いされたら何でも聞いてあげたくなる気持ち分かるわ」
納得したように真喜子は言った。
「じゃあ、そろそろ連れて帰るよ。このままじゃあ風邪ひいてしまうしね」
そう言って、博貴は大地の頬を軽く叩いた。
「ううん……」
「帰るよ大ちゃん……」
「はああい……」
そう言って片手を上げた姿に博貴は驚いた。どういう反応なのだろうか?
「なんか、ずうっとそんな感じなの。学校で授業してる夢でも見てるんじゃない?恥ずかしかったわよ。例の若頭もタクシーの運ちゃんもうけてたしね……」
くすくす笑いながら真喜子は言った。
「まあ、いいか。とにかく……大ちゃん。ほら立てるかい?」
肩を掴んで、身体を起こすと大地の身体はグニャグニャとしている。
「大良だああ……」
もたれかかるような体勢で、腕を博貴の首に廻して大地が嬉しそうに言った。
「そうだよ。ほら、立てないかい?」
「うー……眠い……」
そう言って大地は首に腕を廻したまま、腕の中に倒れ込む。この間は一応意志の疎通が出来たが、今日は全く駄目なようであった。その分、酔いは重症なのだろう。
「仕方ないから、抱えて行くよ……」
そう言って博貴はヒョイと大地を抱えて真喜子のマンションを後にした。下でタクシーに乗り込もうとした際、真喜子が一言「なんだか花嫁を抱いてるみたいね」と言って笑った。博貴は苦笑した。
フッと目を開けると、自分がベッドに寝かされているのに大地は気が付いた。薄ぼんやりとした照明が、博貴を浮かび上がらせていた。シャワーを浴びたのか、髪の先には玉のような滴が付いていた。そしていつも着ているシルクのバスローブをだらしなく羽織っていた。その姿も、大地にはかっこいいなあと思えるのだ。そんなことを大地が考えているなど知らない博貴はこちらが目を開けているのに気が付いた。
「大ちゃん……やっぱり君握力強いねえ。君が握っていたキャラメルの角が取れてるよ」
博貴はそう言って笑っていた。
「大良……俺……」
真喜子から貰った酔い覚ましのクスリが効きだしたのか、少しずつ自分がどうやってここまで来たかを思い出してきた。どうも自分は酔っていようが、そのときあったことは、大抵はっきりと後で思い出せるのだ。忘れようねと言った真喜子の事も覚えている。他にも酔いに任せて喧嘩をしたことなど、顔から火が出そうな程恥ずかしかった。
「……ん?ちょっとは正気に戻った?」
ベッドに腰を下ろした博貴からキャラメルの甘い香りがした。
「……それ、俺の……」
謝る事も出来ずに大地はそう言った。
「欲しいの?」
そういう意味ではなかったが、大地は頷いた。だが甘いものが欲しいなあと思ったのは事実だった。
「実はねえ……あんまり私は甘いものは食べないんだよ。でもキャラメルを見て妙に懐かしくてね、思わず一つ頂いたんだけど……もういらないよ」
どうして博貴はビールにしろキャラメルにしろ途中で飽きるのだろうと大地は呆れた。
「勿体ないこと言うなあ……」
「もう、口の中が甘ったるくて気持ち悪くなってきたんだよ」
うへえと言う顔を博貴はした。その顔がなんだか可笑しくて大地は笑った。
「で、キャラメル食べる?」
「うん……酔い覚ましに食う」
そう言った瞬間、博貴は大地の唇に触れた。博貴の舌は大地の閉じた歯をこじ開けて侵入してくる。同時に甘ったるいキャラメルの味が口内に広がった。
以前知った博貴のキスは酔っていたために、その時感じた刺激は真綿にくるんだような感覚としてしか残っていない。だが今は確かに酔ってはいるが、自分の意識ははっきりしていた。それなのに、拒否する気持ちがおこらない。不思議と気持ち悪いという気がしないのだ。困ったことに、その逆なのだ。
博貴の舌は暫く大地の舌とキャラメルを弄んでいた。どんどん甘くなる口内と、博貴の愛撫する舌で酔いに似た感覚が頭の中を占めた。
「あ……まい……」
口の中に残されたキャラメルはもう小さくなっていたが、確かにこれは先程まで博貴の口の中にあったものだ。
「だろ」
口元を離して博貴は言った。
「俺……まだ酔ってるんだなあ……」
大地はそう言って横になった。博貴のキスを拒まないのは、やはり酔ってるのだ。そう思うしか今の気持ちを説明出来ないからだ。
「シャワーでも浴びたらどうだい?一応私がパジャマを着せてあげたんだけど、あ、君明日出勤はどうなってるの?」
そう言って博貴はくくくと笑った。
「え、明日は夕方からだけど……な、なんで笑ってるんだあ?」
言いながら自分の姿を確認すると、真ピンクのパジャマの上着だけを一枚着ていたが、色も恥ずかしいが、博貴のものであるからか、袖が長い為に指先すら出ていなかった。なんだか子供が大人服を着ているような格好であった。全体的に大きいためズボンははいていなかった。
「それでも色々着せてみたんだけどね。なかなか合わなくてさあ」
「あのさあ、別に大きさのことは仕方ないと思うけど……何だよこの色」
「いや、起きたとき大ちゃんの反応が楽しみでさ……」
真面目な顔で博貴が言った。
「も、いいよ。頭ははっきりしてきたから、自分とこ帰る……」
そう言って立ち上がったが、グラッと貧血に似た症状が襲い、倒れそうな身体を博貴が受け止めた。
「大ちゃん頭はしっかりしてきたみたいだけど、身体はまだアルコールが残ってるみたいだから、シャワーも諦めて、観念してここで寝なさい」
「こんなに足に来てるとは思わなかった……」
博貴に掴まって大地は溜息混じりに言った。
「カクテルを一体何杯飲んだんだい?榊さんは二、三杯と言ってたけど、その程度でそこまで酔わないでしょ。で、白状しなさい」
ベッドに座らされた大地は、ちらりと博貴を見て「覚えてないよ」と言った。
「覚えてない訳ないでしょ。君は酔っても記憶はしっかりしているタイプなんだから……ははぁん……言えないくらい飲んだね、君」
博貴は横目でこちらを見ながらそう言った。榊がちょっと席を外しているときに、隣に座っていたお姉さんからおごって貰ったのも含めるとかなり飲んだことになる。
「ろ……六杯くらいかなあ……へへ」
そういうと博貴は怖い顔でこちらを見た。見たと言うより凝視だ。こんな表情は初めてであったので、思わず後ずさった。
「自制のできない飲み方しか出来ないのなら、君はお酒を今後飲まない方が良い。君は気分が良いのかもしれないが、それに巻き込まれる周りが迷惑だ」
確かに迷惑をかけたと大地は思う。謝らないといけないだろう。それは充分分かっていた。だが、博貴に言われたことで、みんなが迷惑だと思っていることがはっきりと分かった。自分は気が付かないが、榊にしろ真喜子にしろだ。だが自分が好きで飲んだのだ。迷惑なら放って置いてくれて良い。博貴とて、迷惑だと言うならここから叩き出せば良いのだ。過剰に構われるのはごめんであった。
「悪かったな。迷惑かけてさ。やならほっとけよ。大良は俺の保護者じゃないんだからさ、俺が酔っぱらって暴れて警察の世話になろうと、迷子になって、朝起きたら知らない路上で目が覚めようと、俺の問題だろ、あんたは放っておけば良いんだよ」
大地はそう言って立ち上がると、又目眩を感じたが、自分の部屋へ戻ろうとよろよろと歩き出した。
「全く……」
その声を聞いて益々むかついて後ろなど振り返らずに階段を登ろうとした。だが見慣れた階段が妙に高く感じた。
「いい加減に強情張るのよしなさい」
「うるさああい!いっつもガキ扱いしやがって、すかしてんじゃねえよ」
と虚勢を張ったが自分の声の大きさに頭痛を覚えて、階段の踊り場で尻餅をついた。気分も悪い。
「お子さまの面倒はこりごりだよ。気に入らないのなら、さっさと帰るんだね」
いつもと違って博貴の言葉はいちいちグサリと来る。それがものすごく辛かった。すると急に大地は泣きたくなった。いつもは優しい口調で、こちらをあしらうのに今日は違うからだろう。放っておいてくれと啖呵を切ったが、本当はそんなこと望んではいない。あの時真喜子さんに会えて本当に助かったと思った。嬉しかった。博貴が迎えに来てくれてホッとして嬉しかった。それを先に言いたかったのに、何故かこんな結果になっていた。自分が思ったことと正反対のことしか言えなかった。その上、博貴は迷惑がっている。嫌われたのだ。
それを思い知って急に大地は涙がボロボロと零れだした。
「大ちゃん?」
「俺……」
気がつくと博貴は大地の側で膝を付いてこちらを覗き込んでいた。その博貴に大地は抱きついた。
「ごめん……ごめんなさい……やだよ……そんな風に嫌わないでくれよ……俺……」
色々謝る言葉を探すのに、ただそれだけしか大地は言えなかった。言いたいことの半分も言えずにただ泣くことしか出来なかった。まともに歩けない無力さもあって、辛くて仕方ないのだ。
「あらら、きつく言い過ぎたかなあ……そんなつもりは無かったんだけど……」
髪を優しく撫でてくれる博貴の手が心地よかった。
「……う……えっ……えっ……えっ……」
「私が心配しているのは別の事なんだよ……」
博貴はそう言った。
「君が警察に連れて行かれようが、路上で目を覚まそうが、そんなことは良いんだ。君は自分で自覚をしていないけど、本当に可愛い……こうやって腕の中で抱きしめて……キスしてあげたいと思わせるんだよ……。侮辱してるわけじゃないんだ。私がそう思うんだから、他の人だってそう思う人がいるはずだよ。だから、心配なんだ。君がべろべろに酔うか、酔わされて不本意な事になってしまったらってね……」
「え……」
思わず顔が上がった。博貴の顔は真剣である。
「げんに、うちの南って言うホストになんかされそうになったでしょ」
意地悪く博貴は言った。
「……南?」
「君がうちの店の控え室で蹴り上げた男だよ……」
そう言えば誰かを蹴り上げた。だがそれは向こうが悪い。
「……なんか、色々言ってきて……。大良じゃないのには気がついたけど、どんな顔してるか分からなかったし、眠かったから無視してたんだけど……顔が近づいてきてさ……なんか急にやばいって思ったけど、相手がどうも上にまたがってて……立ち上がれなかったから身体の方が先に反応して……蹴り上げちゃったんだ」
そういうと、博貴は溜息をついた。呆れているのだろう。
「それが心配だって言うんだよ。全く……」
それは考えたことが無かった。
「……ごめん……大良の同僚にそんな事して……」
彼は大丈夫だったのだろうか?
「あのねえ、私は君が蹴り上げたから怒ってるんじゃないんだよ。それは南の自業自得なんだから、あれで入院しようがどうなろうと構わないんだよ。私が言いたいのはね、今回は上手く蹴り上げて逃げられたかもしれないけれど、逃げられない場合があったらどうするつもりだったんだと言いたいんだよ」
確かにそんな状況になったら、自分がどうなっていたのか全く想像できない。だが、酔って博貴とは抱き合ったのだ。あの程度で笑って忘れられるような気もする。女性がレイプされるのとはちょっと違うのだ。
「……でもさあ、俺、思うんだけど……もしも、だよ。仮にさ、俺、逃げられなくって、知らない奴にやられてもさ、ばかばかしくって笑って終わるような気がするなあ……。お前ともそうだったし、何より俺、女じゃねえもん」
そう考えると大地は可笑しかったが、博貴は更に怖い顔をしていた。何か問題発言をしたのだろうか?全く分からなかった。
「大ちゃん……」
「な、何でそんな怒ってるんだよ……俺……何か怒るような事言ったか?」
オロオロと大地がそういうと、博貴は大地の腕を引っ張り、床に引きずられた。
「痛い……痛いって大良……離せよ!」
そう大地が言っても無言で博貴は大地をベッドに放り投げた。思いっきりベッドに叩きつけられた大地はやや身体を起こしてから怒鳴った。
「んだよ!なにすんだよ、痛いじゃないか!」
「大ちゃん……君は全然分かってないねえ……そんな目に合わなきゃ分からないのなら、教えてあげるよ……」
そう言って博貴は大地の両腕を押さえ込んで上になった。
「じょ……冗談きついよ……大良……」
「同意の上でやるのと、不本意でやられる事の違いが分からないんだろう?言って分からないのなら、身体に直接覚えて貰った方が簡単だ」
博貴の瞳は異様に光って見えた。博貴を自分の上からどかせたいのだが、両足の間に博貴が身体を入れ込んでいるので身動きがとれない。何より意識は、はっきりしているが、身体は自由にならないのだ。
「だ……大良……」
「君は軽く考えているようだけどね。襲う側は君の気持ちなんてこれっぽっちも考えてないよ。君が痛がろうが、傷つこうがどうでも良いんだ。こっちが気持ちよけりゃそれで良いんだから……」
そう言って博貴は大地を掴む手に力を入れた。腕がぎりっと締まり痛みが走った。
「く……」
「そうそう、相手は一人じゃないかもしれないよ。数人で滅茶苦茶にされることだってあるんだよ。手足縛られて……口だって塞がれてね……それでも君は笑って忘れることができるのかい?」
「大良……もう……やめろよ……」
「分からないみたいだね……」
そう言って博貴は、今まで見せた事のない荒々しさでパジャマをはぎ取ると、のしかかってきた。その重みでベッドが沈んだ。
「うあっ……だ、大良……」
博貴は何も言わなかった。無言で首筋に舌を這わせている。こんなの嫌だった。だが何を言っても博貴は止めてくれないのだ。そうして博貴の手は大地のモノを手荒く握りしめた。身体が痛みで丸くなった。
「いっ……!」
息が止まりそうだった。痛みが身体を走るのだ。必死に抵抗するが全く博貴の方は我関せずである。その上何も言葉をかけてなどくれないのだ。心底怖かった。以前感じたものとは別の感情が頭の中を一杯にするのだ。
恐怖だった。博貴の扱いはまるでこちらを意志のない人形でも扱うようにぞんざいで、手荒であった。指は敏感な部分に容赦なく入り込んでくる。そこには痛みと恐怖しか感じない。薄暗い部屋で覆い被さる男が博貴に思えないのだ。愛撫する舌が指が身体に触れるたびに嫌悪感が走った。吐き気もし、目が回った。
「嫌だ……止めろ……止めてくれよ!」
とうとう、我慢できなくなって、そう叫ぶと博貴の動きは止まった。
「ほら、嫌だろう?」
しれっと博貴はそう言ってこちらの顔を覗き込んでいたが、耳にその言葉は聞こえず大地はベッドに沈み込んだまま動けなかった。身体が恐怖で硬直し、痺れて動かないのだ。
「……あ……うあああっ……」
痺れるからだを必死に動かして、大地は這って逃げようとした。とにかくここから逃げ出したかったのだ。だが、博貴に掴まって引き戻された。怖い…とにかく、自分を掴む腕が怖かった。ここから逃げなければ、恐怖からは逃れられない。
「嫌だああ……離せ……離せえっ……」
手足をばたつかせて、必死に自分を拘束する腕から逃れようとするのだが、しっかり掴んでいる腕は緩まなかった。
「大ちゃん……ほら、もうしないから……」
「うわ……うわああ……」
逃げられないのだ。
「大地!」
怒鳴るように自分の名を呼ばれて、視線が博貴の瞳を捉えた。だがそれも涙で霞んで曇っていた。
「……あ……」
「怖いだろ。襲われるって事はこういうことだよ。いや、実際こんなものじゃないねえ……普通は君が泣こうがわめこうが途中で止めないものだし……。もっと怖くて、惨めで情けなくてさ、気がおかしくなっちゃう事だってあるんだよ。ねえ大ちゃん。序盤を味わっただけだと思うけど、これでも脳天気に笑って忘れられると思うかい?」
これでも序盤だと言うのか?大地は必死に首を横に振った。
「あーあー……すごく怖かったみたいだなあ……」
いつも通りの博貴がそこにいた。先程の怖さなどみじんもなかった。こちらはまだ言葉が出ない。身体の震えも止まらないのだ。
「離……せ……離してくれよ……」
一応にこやかに笑っているが博貴が、何時豹変するか分からない。大地はとにかくここから逃れたかった。
「だってねえ……今離したら……大ちゃん私を恨むだろう?」
当然の事だ。
「う……恨んだりしない……。帰る……俺……帰る……」
出口に向かって必死に手をばたばたさせるのだが、博貴にその気がないのか全く離そうとしない。
「するよ。今の君の状態見てたら、私は明日絶対報復されるね」
「しない……だから……帰らせて……」
涙で顔をくしゃくしゃにしながら大地は言った。
「私は好意で大ちゃんに教えただけなのに……私が恨まれるのは逆恨みってもんだ」
きっぱりと博貴は言った。だがそんなことは信じられない。
「帰るんだ……俺……お前の顔見たくない……お前に触られたくない!ここはもう嫌だ!嫌なんだ!」
「大地……」
優しく抱きしめられて大地は混乱した。手荒に扱われたと思ったら、今度は優しくされている。一体これは何だというのだ。
「……帰る……帰るんだ……」
「こんな状態で君を帰せないよ……」
博貴の方に向けさせられて、思わず身を竦めた。身体が先程より震えた。目線を合わすことも出来ずにただ下を向いて、必死に帰らせてくれと懇願したが、博貴にそのつもりはないようであった。
「頼むよ……帰りたいんだ……」
ポトポトと涙が零れた。先程から泣いてばかりであった。
「ねえ、大地……私はね……他の誰かの手で、こんな風に君がされるのが絶対嫌なんだよ。だから飲むなと言った。こうなってからじゃ遅いから……」
博貴が何を言おうとしているのか分からない。
「限度を超えて飲まないと約束できるのなら、少しくらいの付き合い酒は許せる。だけど、引きずられて飲み過ぎるのなら最初から飲むな。分かったね」
「……うん……」
とりあえずそう言わなければ、この男は次に何をするか分かったもんじゃない。
「いい子だ……」
博貴の瞳が優しくなっていた。今なら帰らせてくれるかもしれない。
「……帰っていい?」
「駄目」
そう言って博貴はもう一度大地をベッドに倒した。今度は先程の扱いとは雲泥の優しさを博貴が見せていた。
「……嫌……だっ……」
「大地……私は君を傷つけたりしないよ」
博貴は耳元でそう囁いた。そんなの信じられなかった。では先ほどのあれはなんだったのだ。こいつは危険だと大地は思った。
「嘘だ……」
抱き込まれた身体を必死に動かして大地は言った。
「君に嘘は言わないよ……」
違う。こいつは信用できない。以前自分で言ったのだ。自分の言うことは嘘だと。だから信用してはいけないのだ。
「嫌だ……離してくれよ……大良……」
「違うだろ。ちゃんと教えただろ……博貴……だよ」
甘くそう囁かれて、以前感じた説明できない感情がふわりと心を覆った。
「博貴……俺……帰りたい……」
「君があんまり可愛いから……こっちは戻れないところまで来てるんだ……だから帰さないよ」
この男は自分が興奮したからと言って俺を抱こうとしてる!大地はそれに気がついた。それはないだろう。そんな理由で抱き合うなんて理解できなかった。こういうのは……愛し合わなければしちゃいけないんだ。だが博貴は誰も愛さない。何か得るものが無ければ愛する振りをしない。そういう男だと知っていた。そういう男だと自分で言っていた。振りでこれ以上、かき乱されたくなかった。
「嫌……だ……」
「大丈夫……」
そう言って博貴は頬を両手で挟んで軽くキスを繰り返し、暫くすると舌を口内に侵入させてきた。先ほどとは違い、キャラメルは無かったが、そのキスは甘く頭の芯を痺れさせた。心の中に、もういいやという諦めの気持ちが沸いてくる。この男に逆らえない。一度知ってしまった快感をもう一度感じたいと身体は正直に思っているのだ。ただ、わずかに残った理性が必死に抵抗していた。気持ちが伴わない、こんな事をして何が残るのかと。
「あっ……」
博貴は慣れた手つきで、身体をまさぐり愛撫していく。その淀みない動きが、大地の理性を砕いていく。もういい。このまま身を任せた方が自分も苦しくない。
大地は観念した。
「あ……ああ……」
少しずつ高まる快感が、大地の身体に浸透していく。以前は自覚していなかった想いが一気に加速するのだ。
俺は博貴が好きなんだ……。はっきり自覚したのは今だ。他の男には触れられたくなどないのに、博貴は別なのだ。何をされても許してしまう。この男が喜ぶから食事だって作る。何より笑顔が好きだ。大ちゃんと呼ぶその声も何もかもが好きだ。なのに告白など出来ない。博貴が他の女性にするように、深みにはまると態度を変えるだろう。
「大地……」
そう囁かれて泣きたくなった。何故この男を好きになってしまったんだろう。恥ずかしい程身体を開かされて、触られたくないところを口に含まれ快感を与えられる。その考えると身悶えするような行為を、この男とは出来るのだ。
「ひろ……き……そこ、やだ……」
羞恥心が言わせる言葉も博貴の行為を止める言葉にはならない。分かっていても口にしてしまうのだ。本心は止めて欲しくないのにだった。
「感じてるんだろ……私も、感じてるよ……大地に……大地のこの素直な身体にね」
高まった部分に触れられて大地は思わず身体を仰け反らせた。声を上げるのも恥ずかしい大地は指をくわえて必死に耐えた。それに気がついた博貴がその手を、そっと外し指を舐めあげる。一本一本丁寧に。咬んで傷ついた指が博貴の唾液にしみるが、それも快感を煽るだけでしかない。
どうなってしまうのだろう。このままずっと、こんな感じで付き合うのだろうか?博貴はそれで良いのだろうか?良いのかもしれない。後腐れのない関係。彼にとってこれほど好都合な相手はいないだろう。分かっていながら博貴を受け入れている自分が馬鹿だと大地は思った。
「うっ……あーーーーっ!」
博貴の尖ったモノが狭い中に入ってきた。その現実的な痛みと快感が、下から上へと一気に駆け上がった。息が出来ずに必死に博貴の背中に腕を回してそれに耐えようとした。抱えられた両足の先に力が入って腓返りをおこしそうな程である。
「あっ……あっ……あああ」
博貴が動く度に繋がっているところから淫猥な音が聞こえてくる。快感で麻痺した頭で、ああ、博貴のが入ってるんだとぼんやりと考えた。動かれる度に身体は正直に快感を伝えてくる。それがどんどん身体に蓄積し、大地には、何がなんだか分からなくなってきた。
「大地……いいかい?」
「……え?あっ……あっ……」
どういう意味か分からないが、博貴が導いてくれるだろう。そう大地が思った瞬間、頭の中が真っ白になった。
目が覚めると、博貴の腕の中で大地は丸くなっていた。人の温もりがこんなに気持ち良いとは知らなかった。だが、それは只の感覚でしかないのだ。心はここにない。
「大ちゃん……起きたの?」
いつもの笑顔で博貴が言った。何も変わらないいつもの日常の笑顔。それがこれほど苦しく感じる日が来るとはまさか思わなかった。
「……うん」
そう言って大地は目を伏せた。怒鳴る元気も無かった。何故か酷く投げやりな自分がそこにいた。
「ご飯……作る元気なんかないか……」
ふふっと笑って博貴は大地の頭を撫でた。
「まあね。お前の所為でね」
精一杯の根性で大地はそう言った。そうでも言わなければ泣いていただろう。
「やだなあ……君だって楽しんだんだろう?」
博貴はそう言って目を細める。楽しんだのはお前だけだと大地は言ってやりたかった。それだけの根性は無かった。
「……俺……眠い」
今は会話などしたくなかった。博貴がいつも通りであればあるほど苦しいのだ。
「そうだね、暫くこうしてようか……あ、でも……大地に話が……」
そう博貴が言うと同時に携帯が鳴った。
「ちょっと待ってね」
大地は丸くなった。眠くなどないのだが、顔を見たくないのだ。
「もしもし……あ、はいはい。ええ、良いですよ。じゃあそうですねえ……」
そう言って博貴は時計を確認した。貢ぎ物のピアジェの時計を。
「今八時ですから、十時には会えますよ。好きですって。嫌だなあ、疑うんですか、愛してますよ。じゃあいつものところで……」
忘れていたが博貴はホストだった。
「ごめん大ちゃん。どうしてもはずせないお客さんから同伴の約束が入ったから、すぐ準備しなきゃならなくなったよ。話はまた……そうだな、大ちゃん明日何時頃帰るの?」
丸くなっているこっちを向いて博貴は言った。
「朝方……」
寝ぼけている振りをして大地はそう言った。
「あのさあ、大地、今の愛してるは仕事上の愛してるだからね。本気じゃないよ」
知ってる。お前が言う中で一番の嘘はそれだ。
「……」
「大ちゃあん……眠いの?聞いてる?」
相変わらずの博貴だった。
「うん」
大地には言葉がそれ以上でないのだ。
「じゃあ、君が帰ってきたら訪ねていくよ。もう暫くそうして眠っていて良いからね」
博貴はそう言ってベッドから下りた。博貴が階段を上がる音を聞いてから、大地は顔をシーツに押しつけて泣いた。
ひとしきり泣いてから、精一杯の気力で大地は自分の部屋に戻った。疲れがどっと襲ってくる。精神的な打撃の方が大きいのだろう。身体は痛く、心も痛かった。
「俺……どうしたら良いんだろう……」
呟くように言って、うなだれた。
こちらが好きで向こうは何とも思っていない状態をいつまで続けることが出来るのだろうか?それより自分の好きという感情すら当てにならない。本当に好きなのか?抱かれているとき確かに好きと確信した。だが、流されてしまった身体がそう誤解したのかもしれないのだ。
ふと真喜子が言った言葉を思い出した。
「まだね、本当に好きかどうか分からないの。そういうときは一緒に暮らしてみるか、離れてみるかを選ぶのよ」
「なんで?」
「一緒に暮らしたら相手の性格が分かるでしょ、合うか合わないかね、離れて暮らすとものすごく寂しかったり、やっぱり近くに居たいと思ったら好きな証拠でしょ。だから私はある程度相手の性格分かってるから、離れてみて判断してるのよ」
真喜子はそう言った。分からなければ離れてみると。大地もそれが良いと思った。離れて初めて気持ちが分かるだろう。自分がこれから側にいて、自分が傷ついても、泣きたくなっても……いや、泣いたとしても、博貴の側にいたいと思うならもう、どうにもならないくらい好きなのだ。例え向こうが同じ想いを持っていなくても。
だが、引っ越しを出来る資金など無かった。今は生活をするので精一杯なのだ。離れたいと思ってもどうにもならない。
そこへ電話が鳴った。
「はい……あ、戸浪兄ちゃん!」
『大、お前東京に出てきてるんだって?母さんから連絡あったよ。私は来月帰るから食事でもしよう。どうだい?少しは慣れたのか?』
懐かしい兄の声を聞いて大地は泣きそうになった。
『なんだ?どうした?何かあったのか?』
戸浪は心配そうにそう聞いた。
「兄ちゃん……俺……すごく淋しいよ……やっぱり一人暮らしは淋しい……」
涙を落としながら大地はそう言った。
『大、そうか、うん。分かったよ。良かったら私のマンションに越しておいで。それほど広くはないが、お前一人くらいなら住めるから。管理人さんには私から連絡して置くから、身一つで来てくれていいんだよ。私もお前が一緒に暮らしてくれると嬉しいよ』
戸浪は優しくそう言った。
「兄ちゃん……ごめん……有り難う……」
『馬鹿だな、兄弟だろ。早樹兄とは連絡取れたのか?』
「ううん。早樹兄は演習中で連絡取れなかったんだ」
『そうか、じゃあ、住所を控えてくれ』
大地は言われた住所を書き留めた。
「兄ちゃん……ごめん」
『来月には帰るから、暫く淋しいと思うが待っていてくれよ。土産を買って帰るから楽しみにして置いてくれ』
そう言って電話は切れた。大地は戸浪に感謝した。
距離を置こう……でないと俺は……どうにかなってしまう……大地はそう思い、身の回りの物を鞄に詰め始めた。